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エルリーク暗殺指令-25

 
 
 そんな彼の思いを見透かしたように、ふとアイードは悪戯っぽく笑って聞いた。
「殿下は、俺がセジェシス陛下をそんな風にいうのが意外ですか?」
 そういう彼はどこかしら爽やかで、いつも通りの穏やかなアイードだ。だが、それだけに不気味だった。
 優しく穏やかなのに、空気が冷え切っている。そして、妙な威圧感。それは、彼が父王を恐れないことに起因しているかもしれない。
 父王を恐れない、それは父の息子である自分も恐れていないのと同義だ。
「そりゃあそうだろう」
 シャーは戸惑いを隠すようにしつつ言った。
「親父のことをそんな風に言ってるのきいたのは、アンタが初めてだよ。よりによって、あの”親父”のことをね」
 アイードは明るく笑う。
「はっはっは、まあ、そうでしょうね。こんなことうっかり他の将軍にきかれでもしたら、俺は不敬罪でどうなるやら。まあ、殿下を信用しての、戯言だと思って許してくださいな」
 平然とそんなことをいいつつ、アイードは続ける。
「まあ、先王のことはいいとして、その代わりに皆を助けたのが、殿下《アナタ》なんだ。彼がいなくなって壊れかけた穴埋めを、殿下がすべてしていった。そうでなきゃあ、カッファさんはともあれ、七部将なんてどうなっていたか。みーんな、バラバラでしたよ」
「バラバラって程の事はないんじゃない?」
「いえ、内乱の時のことを思い出してください。貴方が立位するまで、彼らはバラバラでした。国を憂っても、お互い協力することはなかった。内乱をおさめられたのは、殿下が即位を決意したからだ。思い出してごらんなさい。どうしようもない劣等感を抱えて歪んでいたハダート将軍、巨大な軍閥の棟梁という重圧に負けそうになっていたうちの叔父のジェアバード、絶対的な忠誠を誓う相手を探していたラダーナ将軍、消えたセジェシス王の代わりを求めていたゼハーヴ将軍、老境に至って顕著になった、精神的な甘さにつけこまれていたデューアン将軍、しっくりこない親子関係で悩んでいたカンビュナタス将軍親子。七部将の連中はすべてあなたに根本的なところで救われている。だからこそ、殿下の呼びかけだからこそ、七部将は応じた。それで、結局、この国は今平和なわけですよ。で、そのおかげで、俺は平和を謳歌できるという次第。俺はそれには感謝しているんです」
 アイードは簡単にそんなことを言ったが、ふと眉根をひそめた。
「けれど、自分を削りながら人を救っちゃダメですよ」
 そういう時だけ、ひどく優しい口調になって、逆に戸惑う。アイードは苦笑する。
「殿下、おごってもらうのは平気だけど、助けてもらうの嫌いでしょう? 昔から、そういう性質なの知ってましたけども、それはやっぱりオススメしないんで。貴方が壊れると、皆も結局不幸になる。だから、たまには頼らなきゃね」
 不意に沈黙が訪れて、アイードはその気まずさに慌てて付け加えた。
「いやね、……本当はずーっと前にこういうお話をお伝えしたかったんですが……。ま、俺もちょっと覚悟が決まってませんでしてね。いい機会なんで、お伝えさせてもらったんです。まー、カワウソの戯言だとでも思って……」
「違う」
 シャーはふと彼の言葉を止める。
 彼らしくもなく、真面目な表情だ。アイードは、黙ってシャーの言葉を待つ。
「……確かに。七部将の連中は、いろんな悩みを抱えていた。向き合っている内に、オレはあいつらのうちの、何人か助けたことになるのかもしれない。そういう記憶はあるよ。……でも、オレは」
 シャーは思わず歯噛みした。
「オレは、肝心のお前を助けた覚えなんかないぜ?」
 そうなのだ。
 シャーは初めて、この違和感の出どころに気づいていた。
 かつて、戦場や会議場などで七部将の一人一人と、彼は丁寧に向き合ってきた。彼らの支持が欲しかったわけではないが、共に戦う仲間。バラバラのままで勝利は得られない。彼らの抱える傷を理解し、そして受容する。
 それは上官として彼にとっても必要な作業だった。
 その結果、彼らを救ったと言われればそうなのかもしれないと思う。
 そして彼らは、シャルル=ダ・フール、青兜将軍《アズラーッド・カルバーン》に絶対的忠誠を誓うようになったといっても過言ではない。
 だが。
「お前は、ジェアバード=ジートリューが味方になった時からオレの味方をしてくれていた。けれど、お前とこんな風に話したことも、ほとんどなかったろ? お前を助けたことなんてない」
「助けられてますよ、俺も。言ったでしょ? 平和を謳歌できるのは、殿下のおかげって。俺が殿下に従うのに、その理由じゃ不満ですか?」
 こともなげにそんなことを言うアイードに、シャーは少し沈黙し、睨むようにして吐き出した。
「お前は……、いつも本音で喋ってねえよ。建前なく、本音で話せ!」
「本音、ねえ」
 アイードは困ったように笑う。
「いいんです? 俺はね、本当はハダート将軍より不遜ですんで、かなり失礼なことを申し上げます。でも、それがご命令なら、話します。しかし、それは主従の度を超えますよ」
 アイードはいっそのこと挑戦的な表情で言う。シャーは頷いて先を促した。アイードは、参ったな、と小声で呟いたが。
「それならわかりました。しかし、ちょっと刺激強いんで。あと、これは殿下のお心にだけしまってください。そうじゃなきゃ、俺、叔父上に殺されますんでね」
 シャーが無言でうなずくと、アイードは再び苦く笑う。
 そして、ふと一息ついてから顔を上げた。
「ったく、ムカつくんだよな」
 突然な直接的な言葉に、思わず心臓を捕まれたような気分になる。アイードは、ほとんど表情を変えていない。ただ、言葉だけが変わっているのだ。
「これだけ言っても、まだわからねえんだからよ。存外に鈍感なんだよ」
 向けられる笑顔もほとんどそのまま。穏やかなアイード=ファザナー。
 ――コイツ。
 シャーは喉を鳴らす。
 彼は、やはり、他の将軍や文官と違う。
 ハダートやジェアバードですら、セジェシスの息子としての、王シャルル=ダ・フールとしての自分には畏怖を抱いている。
 シャーとて、自分のことはわかっていた。自分には多少の魅力は実際あるのだろうが、そこには強烈な崇拝を集めていた父の影響は必ずあるのだ。自分に流れる王家の血、それは決して無価値でない。だからこそ、普段どれほど軽口を叩いていても、彼等は恐れてもいる。
 だが、多分この男は違うのだろう。
 先ほど、彼は対等の関係になりたいかどうかなどと尋ねてきた。よく考えるとそれも恐ろしい話だ。
 ”今まで、私は殿下の部下でした”
 それは、彼が敢えて”部下”を演じていたということだ。彼は自分と対等の立場になろうと思えばなれたということの裏返しでもある。
 ――コイツ、やはり。
 静かな目。しかし、そこに彼は恐れを抱いていない。
「アンタ、俺があの男の息子だからって仕えてるとでも思ってたのかい?」
 うっすら笑いながら、かすかに目を細める。口調が豹変しているのに、彼はそのままで、それがかえって――。
 そんなシャーの気持ちを知ってか知らずか、傷が入っている方の左目をかすかにひきつらせるように細めて、彼は続ける。
「俺はさ、アンタのオヤジ、苦手だったんだよな。人の心に入って来るくせに、本質的にはすげえ冷たい男。気づかれていない。気づいてても許される。そういう偉大な男。どうしても好きになれねえんだよな。安定したいい就職先だから、そりゃあ居心地はわるくなかったが。有り体に言うとよ、アンタのオヤジ、クソ野郎だぜ」
 ため息をつくように言い、彼は欄干に背をつけた。
「でも、偉大。アンタにとっちゃ、すげえ重荷だろうし、みんなアンタにその陰を重ねる。アンタも周りもみんな考えている。あの男の血を引くから、アンタ自身も偉大だとね」
 シャーは無言。それを肯定としつつ、彼は続けた。
「だがな、俺は、あの男の息子のアンタになんか、大した価値はないんだよ」
 アイードははっきりといいながら、うっすら笑う。
 アイードの態度は不遜そのものだが、彼の身辺の気配と相まって傲慢さを感じない。妙な威圧感を纏いつつ、アイードは続けた。
「で、そこで問題だ。どうして、俺はそれじゃここにいるのか、だ?」
 逆に質問されて、シャーは詰まる。
「そ、……それは、……親父の時と一緒だろう? いい、就職先だからさ……」
 アイードはふっと笑う。
「本気でそう思ってるのか?」
 無言のシャーにアイードは、ふと言った。
「アンタ、今、俺が気持ち悪いと思っているだろう?」
 唇をかすかに歪め、アイードは続ける。
「それも当然。それはな、俺が冷めきった気持ちで話しているからだ。あのセジェシス王を前に燃え上がらないやつも、そりゃあ珍しいだろう。あの男に冷え切った気持ちでいるように、”あの男の息子”であるだけのアンタにも俺は同じ気持ちなんだよ。アンタの親父が俺を気持ち悪がったのも、今のアンタの気持ちも、当然のものだろう。でもな、いい就職先ってだけなら、俺はここにはとどまっていないんだぜ。世界は、とても広いからさ。俺は実のところそこまで世間知らずじゃねえんだよ」
 意外なことをいいつつ、アイードは続ける。
「俺はその気になればどこにだって行ける。そこにある船に飛び乗れば、あとは海まで流れていける。俺にはその方が気が楽なのさ。それでも、俺が我慢してでも、何故狭くて不自由なここにいるんだと思う? それがわからねえのだとしたら……」
 アイードは口元だけ微笑みながら告げる。
「そろそろ、なんで自分《テメエ》が守られているのか、理解するべきだぜ、ボウヤ」
 ――怖い。
 何故、ここまで彼は違和感だらけなのか。心も表情も言葉もちぐはぐで、しかし、圧倒的に冷たい威圧感がその空気を支配する。
 これは、この男は本当にあのアイードなのだろうか。
「ははは、やっぱりこういうの、居心地悪いな」
 アイードがその気まずさに思わず笑いだす。
「だから本音でしゃべるのはイヤなんだよ。別にドン引きさせるつもりねえのに、こういう空気になっちまうだろ。だが安心しなよ。俺は、当分はアンタを裏切ったりしねえ予定だからな。しかし、一旦こういうの聞いちまうと、アンタの方は居心地は多分悪いままだろう。しかし、居心地よくする方法が、ないわけでもないんだ。一つ教えてやるよ」
 アイードはふと悪戯っぽく笑って、自分の胸に親指を立てた。
「テメエが俺に火をつけてみな」
 挑発するように目を輝かせつつ、彼は言う。
「嫌なんだろう、こういう空気。だったら、自分にも理解できる形でどうにかしてみせろよ。俺の冷え切ったこの心に、アンタが火をつけるんだ。三白眼のボーヤ」
 静かにアイードは、剣呑な口調とは裏腹にいっそ穏やかな瞳を彼に向ける。穏やか? いや違う。この目はもはや獣と同じだ。そこから、感情を読み取ることができない。いっそのこと、恐ろしくなるほど。
「わかるだろう? 何をすればいいのか」
 一陣の風が通り過ぎる。
 シャーは無言でアイードを睨むようにして立っていたが、ようやく意を決して口を開く。
「お前、一体何者なんだ?」
 それは正直な気持ちだった。シャーには、いよいよ彼が自分の知る男と同一とは思えない。
「何者って?」
 アイードは苦笑した
「ただの、アイード=ファザナーだよ。知っているだろう? 七部将の一人だけど、使えなくて、ぼんくらで、ヘタレで、中間管理職で……」
 アイードはにやっと笑う。
「自分でも飽き飽きするくらい、平凡で退屈な男さあ」
 と、不意にアイードが目を細めて路地を見た。
「っと、おやおや、ネズミにとうとう見つけられちまったかあ」
 つられて視線を向けると、確かに向こうにゼダの姿が見えている。自分たちがいなくなったことに気づいて、慌てて探していたようだ。あ、と声をあげてこちらに向かってくる。
「さーて、今日はここまでにしましょうね、殿下」
 そういうアイードは、先程とはがらりと気配を変わっていた。恐ろしいほどの違和感が急激になくなって重い空気が消えていく。
「ちょいと戯言がすぎましたね。さっきのは、どうぞ殿下の胸にだけしまっておいてください。そうでなきゃ、俺、マジで殺されますんで。主に叔父上に」
 平然とそんなことをいいつつ、ぺこっと軽く会釈をする。
 どういう神経なのかますますわからなくなるが、彼の中ではすでに終わった話なのか、すっかり気配が切り替わっていた。
「なんだよ、途中で逃げちまってさ!」
 追いついてきたゼダが、当然そう文句を言う。アイードは苦笑いしつつ、
「いや、まあ、色々事情があってねえ。俺、本当に忙しいんだよ」
 何を話していたのか、といぶかしげなゼダだが、アイードは先回りしてシャーの方をみていった。
「そういや、で……じゃなかった、君たち、ジャキさんのお見舞いいくんでしょう?」
「え、っ、……あ、ああ、そ、そのつもりだけど」
 いきなりいつもの調子に戻ったアイードに、シャーはややついていけていない。慌ててそう答えると、アイードは持っていた籠の大きい方をシャーに手渡した。
「ちょうどよかった。んじゃ、これ持ってってくれません? 後で行くつもりだったんですケド、あったかい方がいいと思いましてね」
「え? なにこれ?」
 シャーが籠を開けたころには、ゼダが追い付いてきていた。二人して籠の中を覗き込むと、ふと甘い香りが鼻を突く。
 中には、焼き立ての菓子が入っている。
「いやね、ジャキさん、薬の影響で二日酔いみたいになってましてね。頭がぐらぐらして気持ち悪くて食欲がないとかいっていたんで……。これなら大丈夫かなって」
「え? そういや、ジャッキールの旦那、見ないとおもってたけど、寝込んでるの?」
 ゼダがきょとんとして、急に心配そうな顔になる。
「えっ、と、ま、まあいろいろあって、ちょっとな」
 シャーがそういいつつ、アイードに尋ねる。
「でもさ、これ、すっげえ甘そうだけど、逆に大丈夫なの? オレなら余計に気持ち悪くて食えないと思うよ」
「蛇王さんにきいたら、なんか果物の砂糖漬けだけは食べてるらしいので、大丈夫だと思います」
「マジで? 前から思ってたけど、あのダンナ、味覚おかしいんじゃね?」
「そんじゃ、まあそういうことでお願いしますね」
「あ、待てよ。どこ行くんだよ」
 籠を渡してそそくさと去ってしまいそうなアイードに、思わずシャーは呼び止める。
「いや、ワタクシ、ちょっと野暮用がございましてね……。寄るところが〜」
 アイードはもう一つ籠を抱えている。ということは、多分中には同じようなものが入っているのだろう。
「また”野暮用”かよ。なに、大きな猫でも飼ってるわけ?」
「人聞きが悪いですね。いるとしたら、子猫くらいなもんです」
「どーだか」
 シャーがそう吐き捨ててちらりと睨むが、アイードはすでにいつものカワウソで、すっとぼけたように肩をすくめた。
「ままー、そういうことで。それでは、後ほどに」
 そういって去っていく彼に、先ほどまでのあの妙な気配は消え去っている。
 本音だといって王家の血など恐れずに対峙する。曲者の多い七部将でも、そんな男はいやしない。それなのに、今ひょろっと歩いていく彼の背中に、その片鱗すら感じない。
 まるで白昼夢のように、あの時いた恐ろしい獣はどこかに行ってしまっていた。
(一体、アレ、何だったんだ……)
 シャーには、まだ彼が理解できない。
 ――そろそろ、なんで自分《テメエ》が守られているのか、理解するべきだぜ、ボウヤ。
 あれが一体何を意味するのかすら。
 さっきのは、本当に昼の気怠い空気が見せた幻なのではないかと思うほど。
「どうしたんだよ、ぼんやりして……」
 ゼダに尋ねられて、シャーは我に返る。
「いや、なんでもねえよ。……って、アレ?」
 シャーはふとゼダがまだそばにいるのに気付いて、きょとんとした。
「お前、なんでここにいんの?」
「なんでって、オレもダンナのお見舞い行こうとおもって……」
 ゼダはちょっと心配そうになる。
「いや、俺、ダンナが寝込んでるって知らなかったけど、なんかあったのか? 風邪とかじゃないんだろ?」
「え、あ、ああ、まあ……」
 そう尋ねられて、どこまで彼に話をするべきか考えつつ、ふとアイードの方に目を向けようとしたが、既に彼の姿は見えなくなっていた。
「ま、いっか。……後で考えよう」
 シャーはそうつぶやくと、とりあえず、ゼダを連れてアイードの別荘まで歩くことにした。 

 アイードの別荘までは、そこからさほど遠くない。
 昼下がりの川べりは、悠然と流れる水の流れと同じようにゆったりとした時間が流れているようだ。
 そこをのんびりと歩きつつ、彼らはアイードの別荘に向かっていた。
「いや、ちょっと錯乱がひどくてな。一瞬元に戻るかなって思って……」
 シャーは、道すがら今までのことを簡単にかいつまんで説明をした。
「いや、それ、やばいんじゃね?」
 ゼダがやや青ざめた顔になる。意地の悪いところもあるゼダだが、意外にも根はやさしいところがあるらしい。彼はまじめに心配しているようだった。
「まあ、リーフィちゃんは大丈夫だっていうんだけどな……」
 そう言いつつ、シャーも少し心配だった。なにせ、シャーが見舞いに行ったときは、まだ元の彼とはいいがたい状況だったのだ。
「でも、お前、ちょっと色々見舞いの品もっていきすぎじゃない?」
 道すがら、ゼダは食べ物やら飲み物、花まで買い足していたので、いつの間にか荷物が多くなっている。それにちょっと呆れつつ、シャーは苦笑する。
「そりゃ、見舞いにいくんだから、これぐらいはさあ。ダンナ、甘い物とか好きだし、花とかもあったら喜びそうだろう?」
 ゼダは大真面目にそう答える。
 実のところ、一人で別荘に向かうより、本当はいくらか気が楽だ。それを認めるのは癪だが、今日は色々ありすぎて、シャーもそこまで反発する気にはなれない。
(まあいいか。たまには……こういうのも……)
 シャーはそんなことを思いつつ、ため息を一つつく。
 いつの間にか、白壁の屋敷が目の前に現れていた。
「あ、ここかあ」
 ゼダが目を瞬かせる。
「思ったよりオシャレだよなあ。コレ、あのカワウソの兄さんのトコだろ」
「まあなあ」
 ゼダがそういうのをみると、どうもゼダも彼がアイード=ファザナーであることを突き止めているような気配だった。アイードもそれほど積極的に正体を隠しているわけではないのだから、ゼダが河岸を探っているのなら、きっとその答えにすぐにたどり着くのは予想ができている。
 彼と自分の関係を探られると面倒ではあるのだが、とりあえず、シャーはそれを否定しなかった。
「結構、太内海のあたりってこういう家あるんだ。俺が昔宿泊してたところもこういうのでさ。あの兄さん、本当に西の方で船乗りしてたみたいだよなあ」
「へえ。そうなのか」
 ゼダは、どうやら屋敷についての方が興味があるらしく、あまり詮索してこない。それはそれでありがたく思いつつ、シャーは答えた。
「オレは、西方はあんまり詳しくないんだよな。東の方はそこそこ知ってるんだけど、西の方には旅したことなくて」
「これ、でも、本格的なそっち側の作りだぜ。経歴謎だなあ、あのカワウソ兄さん。中庭とかもあるみたいだし。でも、なんだろ、カワウソ兄さんには勿体ない感じだよな。ちょっとシャレすぎてないか」
 そういってゼダは笑う。
「あと、ジャッキールのダンナと蛇王さんにも似合わない感じ……」
 そこまで言った時だ。ふと家の中からガッシャアという大きな物音が聞こえた。
 シャーとゼダは顔を見合わせ、慌てて中に入ろうとしたとき、扉の方が勝手に内側からあいた。わあっと声をあげて飛びのくと、中から慌てた様子でザハークが飛び出してくる。
「あ、あれっ、蛇王さん?」
「おう、なんだ、お前達か。来てたのか?」
 一応ザハークは足を止めて、にやりとした。
「いや、今来たばかりなんだけど……」
「なんか物音したけど、なんかあったの?」
「いや、まあ、少し暇つぶしに将棋《シャトランジ》をだな……」
 そう尋ねると、ザハークは苦笑してちらりと背後を見やる。向こうでかすかに物音が聞こえると、ザハークはちっと舌打ちする。
「おっとマズイ! すまんな。俺は忙しくてな。またあとでな!」
 そういうと、ザハークはそのまま門の外に走り去っていった。
「え、何? 何なの、今の?」
 そう言いつつ、シャーは開いた扉の中にとりあえず入ってみるが、すぐにバン! という大きな音でびくりとした。
 何故か、玄関先に将棋盤が転がっており、駒があちらこちらに散らばっている。どうも今のはそれを投げた音らしいのだが、そんな中、ぎぎぎぎ、と重い扉を開ける音がする。
「蛇王《へびお》おおおおおお!」
 聞き覚えがある声が低く床を這うように響き、白銀の光が天窓の陽光を受けて二人の前にぎらりと輝く。そこにふらりと現れたのは、重たい殺気を全身から放った寝間着姿の男だ。頭に包帯を巻いて右目が隠れていたが、出ている左目の方は血走っていた。
「貴ッ様ああああああ! 今日という今日は絶対に八つ裂きに……!!!」
 そこまでいって、はっと彼の方が何かに気づいた。
「あ、あれ? いや、お、お前達、いつの間にここに? へ、蛇王は?」
 彼は二人の顔を見やり、我に返ったように剣を見やる。
「ま、待て、いや、これには訳がっ!」
 目の前で二人が固まってしまっているのをみて、彼は余計に慌ててしまう。
「違うぞ、俺はもう正気に戻っているのだが、蛇王がだな、俺をあまりイカサマでたばかるものだからつい興奮して、ガチの勝負で決着をつけようかと思わず思ってしまったのだ! わかるだろう、これは日常風景なのだ! いつもそういう風に喧嘩しているのをお前たちも知っているはずだ! だから、やめろ! そんなコイツもう終わりだみたいな顔をするのではない! だから、正気なのだ! 信じろ! いや、本当に! 悪かった、俺が悪かった!」
 寝間着の男、ジャッキールはそう慌てて弁明する。
 思わず硬直していたシャーは、彼が剣をしまったのを見てようやく胸をなでおろす。
「もう、どっちにしろ、心臓に悪いんだよ」
 平謝りするジャッキールに、シャーは思わずつぶやいた。


 *

 ジャッキールがザハークに向かって将棋盤を投げていたころ、アイード=ファザナーはそのまま別荘とは反対側の通りを歩き、小さな宿屋に向かっていた。
「あら、ファザナーの若旦那」
 外を掃除していた宿屋のおかみが彼に気づいて笑顔を向ける。
「やあ、子猫ちゃんは元気にしてる?」
「ええ、大丈夫ですよ。まだちょっと元気はないんですけどねえ」
 おかみはそうこたえつつ、ため息をついた。
「まったく、子猫ちゃんだなんて言うから、今度こそ若旦那がコッソリ意中の女の子を連れ込んだのかと思いきや……。どうもそうでもないみたいだし、まあ残念だわ」
「は、ははは、手厳しいね。ま、まあ、俺にはそういうの、あんま期待しないでほしいなあ」
 アイードが苦笑すると、おかみの娘らしい少女がひょいと窓から顔を出した。
「だめだよ、お母さん。若旦那は、副官さん一途なんだからっ!」
「ちょ、何言って……」
「みんなそういってるもん。副官さん狙いなんだけど、副官さんは男前すぎて付け入るスキがなくて泣き寝入りしているって」
「な、何なの、その噂。どこで出回ってるの……」
 アイードはやや顔を赤らめつつ困惑気味に呟く。
「副官さんは、河岸の女の子の中でも評判だもの。それぐらい知ってるわ!」
 娘が得意げにいうと、アイードは困惑気味に苦笑する。
「そりゃ困ったな。……ちょっと、お手柔らかにたのんますよ、本当」
 アイードは気弱にそういうと、どうにか二人をやりすごして宿の中に入った。
 小さな宿のその一室、目的の”子猫”は、果たして大人しく待っていた。扉をたたくと、はい、と声がして、目当ての彼女が姿を現す。
「あ、アイードさん。来てくれたんだ!」
 彼の名前を呼んで現れたのは、目の大きな少女だった。
「メイシアちゃん、大人しくしててくれたみたいでよかったよ」
 そういわれてメイシア=ローゼマリーは、少しだけ微笑んだ。
 あの夜。
 近くの路地に隠れていたメイシアを見つけたのは、アイード本人だった。彼はそれから彼女をここに匿って、リリエス=フォミカ達からの接触を断っていた。
「はい、これお菓子」
 アイードは籠をメイシアに渡しつつ、優しく微笑んだ。
「ここのさ、俺のオススメ。すっげーおいしくてさ。俺が思わず作り方教えてもらったくらい」
「本当に? ありがとう!」
 メイシアは目を輝かせてそれを受け取る。
「後で食べてくれよ。本当は一緒にゆっくりお茶でもしたいんだけどさ、俺もちょっと忙しくてね。今日は顔見にきただけなんだ」
「ううん、アイードさんには本当にご迷惑ばっかりかけてて……。でも、嬉しいわ。ありがとう」
 そういって微笑むメイシアに、アイードは優しく言った。
「良かった。ちょっと元気になったみたいだな」
「うん……。でも……」
 そういうとメイシアは俯く。メイシアは近くの寝台に座りつつ、ため息をついた。
「でもね、アイードさん、やっぱり、あたし、色々反省してるんだ」
「何を?」
 そう促すと、メイシアはつづけた。
「あたし、ワガママだったなって。だって、あたし、勝手に賞金稼ぎみたいな仕事してたの。本当は隊長、そういうの嫌いなのわかってたんだ。それなのに、勝手に会いに来ちゃって、リリエスなんかと組んで、それで隊長だってあんなことに……」
「それは違うなあ」
 アイードは部屋の中央の椅子に座りつつ、片頬杖をつく。
「実際のところ、君を探してたのは、ジャキさんの方だったからね。そんなこと言ったら、多分、彼は彼で気に病んじゃうと思うよ」
「そうかな……」
 ああ、とアイードはつづけた。
「ジャキさんは、君さえよければ、いつでも会いに来てほしいって言ってた」
 メイシアはぴんと顔を上げる。
「隊長、大丈夫なの? もう正気に戻った?」
「ああ。ほら、彼、なんていうか丈夫だし」
「良かった……。もう戻らないのかなって思った」
 メイシアが安堵した表情に、アイードは穏やかに続ける。
「君のことも気遣ってたよ。でも、こういうことになって、君が傷ついてるのもわかってた。ローゼの気持ちが整理できてからでいい。自分はいつまでも待っている、ってさ」
 そういうと、アイードは立ちあがる。
「俺は、今日はそれを言いに来たの。だから、もっと元気出していいんだよ」
「うん」
 少し涙声になりつつメイシアが頷く。
「気持ちの整理がついたら、いつでも声かけて。ちょっとここんとこ忙しいけど、できるだけ早く会わせてあげるから」
「うん、ありがとう、アイードさん」
「へへ、礼を言われるほどじゃあないさ。それじゃ、短い時間でごめんだけど、俺、ちょっと急ぎの用事があるんで失礼するね」
 アイードはそういうと背中を向けて、扉に手をかけたが思い出したように立ち止まった。
「あとね」
 きょとんとするメイシアに彼はそのまま言った。
「うちの副官みたいにあんまりじゃじゃ馬じゃ困るけど、女の子はちょっとワガママな方がカワイイぜ? ジャッキールさんが君のこと可愛がるの、よくわかるよ」
 アイードはちらりと顔だけ向けると、にやりとした。
「あの人、そんな柔な男じゃないからさあ。そんなこと気にせず、散々わがまま言ってきいてもらうんだぜ」
 じゃあ。そういうと、アイードは手を上げつつ扉から出て行った。
 足音が遠ざかるのを聞きながら、しばらくメイシアはその扉を見つめていたが、ふと思い出したようにくすりと笑う。
「アイードさん、やっぱりキザだなあ」
 ぽつりといって笑ってから籠の中身を見る。見るからに甘そうな焼き菓子の香りに、彼女はふと思った。
(隊長も、こういうの好きそうだなあ……)
 そう思うと、少しだけ気分が明るくなった気がした。メイシア=ローゼマリーは、焼き菓子を一つまみ口に運ぶ。
 痺れるような甘さは、確かに幸せの味がする。
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