シャルル=ダ・フールの暗殺
7.レビ=ダミアス-2
この水は、どうやら街を流れるサーフェスという川から流れ込んできているようだった。水量は浅いところではくるぶし程度だが、深いところでは、ひざまであった。流れは激しくない。王都には地下水脈が豊富である。砂漠地方のこの街を支えているのは、ひとえにその水のおかげとも言えた。
さらさらと流れる水を激しく蹴り飛ばして進むことはできない。まさか、こんなところに見張りもいるまいが、それでも細心の注意が必要だ。
ざぶざぶと流れてくる水をかきわけながら、進んでいるのはラゲイラの私兵である。彼らは、ハダートとともに行動を起こす部隊と、そして、ジャッキールとともにシャルルの寝室へと忍び込む部隊のふたつに分かれていた。特に、こちらはジャッキールが指揮していることからもわかるように、どちらかというと隠密行動にすぐれた方の傭兵達が構成メンバーとなっていた。
いくつか通り道らしい、水を被っていない地面があったが、三十人はいるこの集団で一時にそこを歩くと、遅くなるため、彼らは水の中を歩いていた。
これは先発部隊である。彼らの後、十五人ほど残しておいた後続部隊が、続いてくる手はずになっていた。が、その成功如何は、すべて先発隊の仕事が成功するか否かにかかっている。
「しかし、現れないな。あいつ」
「大方逃げたんじゃねえのか?」
あいつというのは、例のシャーのことだ。今のところ、彼が姿を現したという情報はなかった。朝があけてから、彼の姿はまったく見えなくなってしまったのである。
シャーの言ったとおり、カタスレニアのある空家の枯れ井戸を降りていくと、水路に繋がっていた。なかなか大きな水路で、おまけにあちらこちらにわずかに意匠をこらした飾り物がある気配がする。手持ちの灯りの明るさからでは、その形跡をわずかに認められるだけだった。
「なんだか、気味が悪ぃな」
前を行く男がポツリとつぶやいた。
「お偉方の趣味なんて、大方こんなもんだろうさ」
他のものが言う。
「悪趣味なんだよ、大体」
「こらっ! 静かにしろ!」
後ろにいた男が鋭く、しかし小声で制した。
「後ろに、ジャッキールさんがいるんだ。……無駄口叩いているのがわかってみろ、何をされるやら……」
ざあざあ水が流れている。男達がごくりとのどを鳴らした音も、その水音にかき消されていった。
「うわあっ!」
一番前のほうから悲鳴が上がった。壁を反響して悪夢の中のように聞こえる悲鳴の後、水の中に重いものが倒れたような音がする。
「どうした!」
前に向かって叫んだとき、ぱちゃ、と足元で水が鳴った。
「ここを通すわけにはいかねえな」
寒気のするような声が、地下水路に響き渡る。
「誰だ!」
「誰だっていいじゃないか。地獄の使いだぜ」
声はそう続けた。徐々に近寄ってくる足音が聞こえる。心細い灯りに、青い布切れがふわりとゆれた。
「き、貴様はッ!」
誰かが叫んだ。
「もう遅いぜ!」
ちら、と青い鉄の輝きが、一瞬暗い道の中に光った。ビシイッっと何かをひっぱたく音がし、横にいた男が足元をすくわれるように倒れた。わずかな光で、そこにいる男の冷たく光る青い目が、一瞬だけ彼の目を捉える。
「シャー=ルギィズ!」
そう叫んだ男も、足を蹴られて水の中に転んだ。その間に、彼は他の獲物に襲い掛かっている。暗い地下に、彼の刀の光だけが青白く光って見えた。
逃げる男達を追いながら、シャーはざばざばと水をかきわけてすすむ。一人の男を射程に捉え、シャーは彼に向けて刀を振るおうとした。
その時、ふいに自分の胴を狙って飛び込んでくる、銀の光の流れが目の端にちらついた。
「ジャッキール!」
シャーは、その剣の流れ方で相手の正体を見破ったらしい。避けたとき、体を反転した為、水がばっと飛び散った。猫のような機敏さで、着地したときにはすでに体勢ができている。
「今度は名前を覚えていただけたようだな」
ジャッキールは、楽しそうな口ぶりで言った。
「またあんたか」
ジャッキールは、薄ら笑いを浮かべたまま、闇の中に立っていた。黒い服が暗い中に溶け込んだまま、その青白い顔だけがはっきりと見えた。
しかし、以前とは違い、鋭い刃物を思わせる冷たい顔立ちと、光の加減で赤くみえる鋭く光る瞳が、はっきりと見えていた。そのせいで、ずいぶん雰囲気が違うので、一瞬シャーは面食らった。
「なんだい、アンタ。責任とってってことかよ?」
シャーは、若干茶化すように言ったが、ジャッキールのほうは思ったほど食いついてこなかった。
「責任をとるというほど、俺は重要な立場にいるわけではないからな。……俺は俺なりに整理をつけただけだ。だが、貴様には感謝している。俺は貴様のおかげで戦士としての本分を失わずに済んだのだからな!」
余裕すら感じさせる笑みを浮かべ、ジャッキールは目を細めた。
「ふ、ふ、ふ、貴様がここに来るのはわかっていた。直接ザミルが兵士をひきいて王の間にいったとしても、それほど連れて行けるわけではない。ここを突破されることのほうが、事情を知っている貴様には恐ろしかった。そうだろう」
「へえ、いい線いってるじゃん、あんた。……イカレてる割には、頭が切れるでないの」
シャーは、内心したうちしながら、皮肉ぽくいった。
「ほめ言葉と受け取っておくぞ。だが、安心しろ。俺の目当ては王の暗殺などでないのだ」
ジャッキールは、まだ冷静らしい瞳を翻してにやりとした。
「俺は貴様さえ殺せればどうでもいい。……今日は、文字通り死ぬまで付き合ってやるから、安心しろ」
シャーは、うっとうしそうにいった。
「オレは忙しいんだ。あんたの相手してる暇はないの」
「ところが、俺の方はそうはいかん事情があってな」
抜いた剣を構えなおしながら、ジャッキールは陰鬱な微笑を浮かべる。
「俺は貴様に借りがある…………」
「じゃあ、あとで利子つけて返してよ」
シャーは、剣をひきつけながら後ろに下がる。ジャッキールなどをまともに相手していたら、本当に時間がなくなる。雑魚をたたきに来たのに、思わぬところに竜が現れたといったところだった。
(くそっ! コイツはてっきりラゲイラかザミルに同行すると思っていたのに!)
それか、もっとしんがりでくるかと思っていた。まさか、こんな使い捨てみたいなポジションにいるとは。ジャッキールは、ラゲイラからの信頼を失墜させたのだろうか。
「何を考えている!」
いきなり、ジャッキールの剣が、きらりと閃いた。
ぴっとシャーの足元の水が切れた。いや、シャーがそこにあった足を浮かせて一撃を避けたのである。そのまま二、三歩後退し、シャーは刀を口の近くに持っていった。
「チッ! 性懲りのねえ」
唾を飛ばして目釘を湿すと、シャーはおどけたように笑った。
「しっつけえおっさん。……あんた、絶対に女の子にもてないぜ」
「ぬかせ!」
ジャッキールが、そのまま刃を横にないだ。が、今度はシャーは避けなかった。青い火花がパッと暗い水路にはじけとんだ。
「手短に頼むぜ。……オレは忙しいんだ!」
シャーはそれを返すと、そのままジャッキールの喉めがけて突き上げる。だが、ジャッキールの剣が戻ってくるほうが早かった。それを払い、そのままシャーの首に返って来る。
「さっさと行け!」
ジャッキールが叫んだ。シャーはハッとする。ジャッキールが襲ってきたのは、彼がこの前の屈辱を雪ぐためだけでない。彼のつれてきた部下を先に行かせることも考えていたのだ。
「てめえ!」
シャーが後ろを向こうとしたが、ジャッキールは許さなかった。すぐに耳の横を掠める一撃が来る。後ろを向けないシャーの耳に、慌てて部下達が水音をさせながら逃げるのが聞こえてくる。
「くそっ!」
シャーが足を進めかけると、その前を阻むようにジャッキールが立ちはだかった。
「貴様の相手は俺だ。行きたければ、俺の息の根を止めてから行け!」
ジャッキールの暗い笑みが、わずかな光を縫ってシャーの目に届いた。シャーは、笑い返す。普段の彼にはない、ある種凶暴な、それを抑える様な、複雑な笑みだ。
「折角、助けてやったのによお!」
シャーはわざとらしく大声で言った。
「……今度は、間違いなく地獄に送り届けてやるぜ!」
薄く反った長刀を引き付け、そのままそろっと足を出す。独特の構え方だが、これは彼の師が彼に教えたものだ。
ジャッキールは、剣を横に振って水気を払って構えなおした。
「いいだろう。そのつもりで来い! 俺も手を抜かん。覚悟しろ!」
ジャッキールの靴がすばやく水を蹴った。闇の中できらめく刃に、シャーの体は自然と反応する。
上からたたき上げるようにして、振りかざされた剣を止める。金属の衝撃が、握っている両手にびりびりと伝わった。
(コイツ……)
シャーは無理やり剣を返して、横に逃れた。
(やっぱり、コイツ、強い……)
痺れる手に、シャーはそう確信した。
しかも、以前と、動きが違っている。前よりさらに切れのある動きをしているし、前に遊びだといった剣の甘い片鱗はまるでない。殺剣というのがぴったりな、冴えたものだ。
(この野郎、……けじめつけたってそういうことかよ?)
つまり、心の整理がついたということだろう。良くも悪くも、自分が彼に火をつけたらしいのだ。
(マズイことしちまったぜ。……あのまましょぼくれてくれればいいものを!)
とにかく、今日は時間がない。できれば、うまくジャッキールを巻いて、そして、彼らを止めなければ。
「予定が狂ったようだな、アズラーッド」
ジャッキールが笑いかけてきた。
「ふん、多少の狂いなんざあ、アンタを手っ取り早く倒せば済むだけのことだぜ」
わざと強気で言い捨てるシャーに、ジャッキールは肩をすくめた。
「だといいが……。ずいぶんあせっているようだが、何を気にしているのだ?」
「俺はアンタとちがって、気にすることが多いのさ。あのコのこととかね」
そうか、と、ジャッキールは薄ら笑いを浮かべながら続けてきいた。
「気にしているのは、あの娘だけか? 病弱でろくな役にも立たない非力な王も気にしているのではないのか? アズラーッド!」
「それは、オレを挑発しているつもりかよ?」
シャーは不機嫌そうに言った。
「そうおもうならそうかもしれん」
「ふーん、それじゃ失敗だな」
シャーは、足を引きつけ、静かに水の中を歩く。
「オレはシャルルって奴が嫌いなんだ。……あいつを気にかける暇はないね」
「なるほど、そうだろうな」
ジャッキールは軽く肩をすくめた。
「だが、貴様はシャルルを助けている。必死になって助けているではないか? なぜだ?」
「なぜ? そりゃ、シャルルの周りの連中が大切だからだろうよ」
「それだけかな?」
「ああ、そうさ。……それにもう一つ理由があるとしても……そうだな」
シャーは、かみしめるようにして笑った。
「言ってみりゃ、ただの気まぐれさ。あんただってなるんじゃねえの。一度や二度」
彼の仄かに青い目が、暗い地下水道でなぜか燃えるように輝いて見えた
「馬鹿なことをと思いながら、それに命を賭けちまいたくなるようなそういう酔狂な瞬間がさ」
「なるほど……いい答えだ! 気に入ったぞ!」
満足げに唇をゆがめながら、だん、とジャッキールが一歩踏み込んできた。
「ならば、酔狂なままに死ぬがいい!」
ジャッキールの唇にのっているのは、暗い歓喜の笑みだ。真っ黒なマントを広げている、ジャッキールの姿は死神のように見えた。