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シャルル=ダ・フールの暗殺

6.昔話-2

屋敷の中はあわただしかった。あちらこちらに走るラゲイラの雇った兵士たちの様子は真夜中と思えなかった。
 気絶していただけだったので、運良くそれほどの怪我もなかったのか、ベガードはすでに意識を取り戻していた。
 彼が、先ほどの侵入者の追跡に呼ばれ、外に出ようとしていたころには、シャー=ルギィズが暴れたあとはほとんど片付けられていた。しかし、一人だけ、先ほどの襲撃から立ち直れないままに、そこに座り込んでいる男がいた。
 ベガードは、思わずにやりとした。そこで、ぼんやりしているのは、宿敵といっても差し支えないジャッキールであったからだ。しかも、そんな彼が見たこともない様子で座っているのをみて、彼の心の中には、なんともいえない愉快さがこみ上げてきた。
「どうした。見事に逃がしたそうじゃねえか! おまけに相手に情けまでかけられたってな?」
 それをいうと、ベガードもかなり情けない負け方をしているのを発見されたのだが、ジャッキールはそれを知らないのかもしれない。ここぞとばかりに、ベガードの口調は強かった。
ジャッキールは返事をしなかった。心ここにあらずといった様子で、虚空を見つめているように見える。
「とうとう、本格的にイっちまったか? まぁ、お前は元からイカレてるんだがよ」
 ベガードがそういっても仕方がなかったかもしれない。ジャッキールは、先ほどからずっと放心して、そこに座っているだけなのだった。誰が話しかけても返事をしないのである。
「どうやらその様子じゃ、追跡の部隊にも入れてもらえなかったんだな。うわさで聞いたぞ。貴様には、この計画の重要な役割を与えないんじゃないかってな。お前みたいなイカレた野郎じゃそれも仕方がないか」
 嘲笑うベガードの声にまじって、数人が同調して笑っているのが聞こえた。日ごろ彼をよく思わないものは、一人二人ではないのだろう。ジャッキールも、それはうすうす感じていたことだった。
「ほら、どけよ。こんなところにいたら邪魔だろうが」
 ベガードが、突き飛ばしてやろうと、ジャッキールの肩にふれようとしたとき、いきなりジャッキールの手が鋭く彼の手を弾いた。
「気安く触るな!」
 ジャッキールは、弾かれたように立ち上がり、前髪の間から、殺気に輝く瞳をベガードに向けた。 
「殺すぞ……!」
「な、何だ……」
 ジャッキールは、長剣をもっていなかったが、それでも凄まれてベガードは、ざっと後ずさった。
「何とでも言え……!」
 ジャッキールはそういうと、ふらふらと歩きだした。いつものようにきびきびとした動作でないそれは、彼の様子が尋常でないのを表している。
「チッ、とうとう本気で壊れちまいやがった……」
 ベガードはそう毒づいて、冷や汗をぬぐった。
「でも、アレじゃあまるで幽霊だな。……死にぞこないが、死ねずにさまよってるみたいだぜ」
 そういって、ベガードは聞こえよがしに笑い声を上げた。その声に送られながら、ジャッキールは、灯火のない屋敷の奥へとふらふらと歩いていった。
(なぜだ……)
 アズラーッド・カルバーン、あの男は、どうして自分を殺さなかったのか。
(あそこで殺してくれれば、俺も楽になれたのに……)
 いっそのこと、そのまま殺してくれたほうがよかった。どうせ死んだ身が、死に場所を探してふらふら歩き回っているだけだ。生き延びたことで、こんな無様なさまを見せ付けられるなど、ひどい拷問だった。
 ジャッキールは、足を引きずるようにして歩いていった。そして、ラゲイラの屋敷のいくつかある客間のひとつに倒れこむように入り込む。 
 この部屋は鏡の間だ。高価な大きな姿見がある。この時代最新の技術で、もっともすばらしい映りの鏡だ。
 闇の中から現れた自分の姿は、さながら死人か幽霊のようだった。これでは、先ほどのベガードの言葉を笑えない。ジャッキールは、自嘲を含んだ苦笑を力なく浮かべた。
 負けたことが無様といっているのではない。ジャッキールは、負けた原因になんとなく気づいていたのである。それが自分の心の中にあるらしいことを。それに気づいたとき、ジャッキールは、その場で自決したくなったほどだった。
 だが、そんなに容易に死ぬわけにはいかなかった。自分の心の堕落が敗因なのは間違いない。だが、堕落の原因を探らねばならなかった。
 ジャッキールは、鏡を覗き込んだ。そうすれば、鏡に映った自分の瞳の奥に、自分の心が映りこむような気がしたのだ。
 久しぶりにみた顔は、以前とずいぶん変わっているようだった。特別老け込んだ印象もないが、長い髪の毛を束ねた姿は、以前とはずいぶん違って見えた。鬱蒼とした暗い雰囲気は相変わらずかもしれないが、髪の毛を伸ばしてゆるく括った様は、まるでごろつきのようでもあった。別にそれは事実であるのだからまだいい。しかし、どことなく退廃的で、まるで武官が身をおちるところまで落としたような感じだった。
 髪を伸ばしたのは、ジャッキールなりに、風貌を変えなければならない事情があったからである。ラゲイラに雇われる前、ジャッキールは隣国の揉め事に巻き込まれ、ある人物の逆恨みを受けたのだった。そのせいで、刺客を送り込まれ、死ぬ目を見たことがある。ラゲイラにはそこを助けてもらっていた。いや、厳密には、ラゲイラは、ジャッキールの力を利用しようとしたのだから、一方的に助けてもらった、というのはおかしいのかもしれないのだが。
 それでも、彼はそれがあったからこそ、今までラゲイラの護衛もつとめたのである。
 しかし、ラゲイラのやり方に承服できない気分があるのは、確かかもしれない。雇われたときには、まさか、内乱にまで話が膨らむとは思っていなかった。
 権力闘争に巻き込まれるのは、もう嫌だと思ったからこそラゲイラという個人に仕えることにしたのに、結局は同じようなことになった。そのことに対して、ここのところ、どこかで不満を感じているのは確かである。ラゲイラ本人に、というわけでなく、この状況に。
 だが、それでも、ラゲイラには恩と義理があったし、彼自身、ジェイブ=ラゲイラの人柄は嫌いではなかった。
 だから、あの時、自分は、シャー=ルギィズを相手に手を抜いたりしたのではない。気に入らないからといって手を抜くはずがない。
(いや、気に入らなかったから、ではなく、あの時、俺は……自分の意思で手を抜いていた)
 ジャッキールは首を振った。
(俺は、確かに……遊んでいた……な)
 シャーに言われたとおりだった。あの時の自分の剣は遊びの剣だ。本気でやっていたわけではない。剣を折った理由は、遊んでいたからだ。そうでなければ、あんな防御の仕方はしない。中途半端に自分を守ろうとしたから、剣を折ったのである。
 いや、それよりも。
 ジャッキールは、目を伏せた。
 ジャッキールは、今までの戦闘も遊んでいたといえば遊んでいたかもしれない。しかし、あの時は、命をかけて遊んでいた。勝ち負けは関係なく、ただあの戦慄を味わいたかっただけだった。
 だが、ジャッキールは、あの時、恐怖した。死を、というのは、厳密には違う。あの時、自分は確かに恐怖して、そして保身に走ったのである。だから剣を折ったのだ。
 ――一体何を?
 ジャッキールは、鏡の自分を見やる。冷たい空気の奥底で、長髪の男が愕然とこちらを見ていた。
(…………俺は、ここで、安心してしまっていたのか?)
 あのときに、自分は一体何を恐怖したのか。ジャッキールはようやくその答えを見つけた。
(俺は、……負けてラゲイラの信任を失うことが怖かったのか……?)
 ジャッキールは、手袋を嵌めた両手を広げた。指先が引きつるように痙攣していた。 
 この両手は、かつて自分の血を無駄に浴びた。自分は組織のために自ら覚悟して身を捨てたつもりが、結局裏切られたのだ。幸か不幸か生き延びた彼に、その代償として残ったのは、傷跡と蹂躙された心だけだった。その後、ジャッキールは、組織というものを信用するのをやめた。
 だというのに、一体この「体たらく」はどういうことだ。ここにいついて、彼らの信頼を得て、部下から畏怖されることに、ジャッキールは満足していたのだ。そして、徐々に、当初、どうしてラゲイラに雇われてもいいような気分になったのか、それを忘れていたのである。
 ここに、もしかして自分は勝手に安住の地を見つけてしまったのだろうか。この居心地のいい夜の闇に、自分は、強さに驕り、ここの境遇に甘えたのではないか。
 それがジャッキールの思い込みなのか、真実なのかはわからない。ただ、ジャッキールには、そんな事実がひどく悲しく思えた。
 ジャッキールは、ふと思い立ったように、腰にさげてあった短剣を抜いた。鏡の前に光る冷たい刃物の光は、失ったかつての心を呼び覚ましてくれそうだった。


「そういえば、ジャッキールさんが負けたんだってな」
 二人組で見回りをしていた兵士が、もう一人にそういった。
「らしいな。……てことは、相手が相当強いってことだろうぜ」
「だな。あんなことがあったばかりだ。以外に卿の行動ははやいかもしれないぜ。……抜け目のない男だからな」
 ああ、と兵士は相方の言葉にうなずいた。
「どこに回されるかわからねえが、一応かんがえとかねえとな」
 と、彼らはふと何者かの気配を感じて立ち止まった。角の暗い闇のほうから、足音がするのだ。しかも、軍靴を踏み鳴らすような甲高い音が。
「誰だ!」
 彼らはめいめいの武器に反射的に手を伸ばした。そのとき、ふらりと人影が姿を現した。
 ぬっと出てきたのは、見覚えのない短髪の男。蒼白な顔色だが、端正で冷たい顔立ちに、鋭い目が光っていた。陰気な風貌ではあるが、その角ばった挙動ひとつとっても、武官特有の清冽な潔癖さが漂う男だった。
「貴様ら、何をしている?」
 そう聞かれて、思わず彼らは息を呑む。
「い、いえ、見回りを」
 威圧的な口調と風貌だったので、思わず丁寧に答えたが、彼らは目の前の男がいったい誰であるかもわからなかった。どうしようと思わず目をあわせそうになったとき、そうか。と男は納得した。
「今夜は何事もおこらぬかもしれんが、念のためにな。役目ご苦労」
 彼はそういうと、ずいぶんあっさりと下がった。そのまま、長身を揺らせて、すたすたと歩き去っていく。
「…………い、今の、誰だ?」
「さ、さあ…………」
 しかし、あの声には聞き覚えがあった。そして、ああいう挙動にも。だが、もう少し暗くて鬱蒼とした印象があったような気がする。
「ちょっと待てよ。あの声は……」
「ま、まさか、ジャッキールさん?」
 そういわれれば、そうかもしれない。だが、前は髪の毛で顔があまり見えなかったので、ずいぶんイメージが違うような気がした。少々退廃的な印象もあったのだが、そういう部分は一切削られてなくなったようだった。
「い、意外だな」
「ああ、しかし、あの人、思ったより若かったんだな」
 自分たちより年上だと思っていたが、ああしてみると三十そこそこといったところらしい。
 彼らは、怒られないようにしながらも、好奇心のおもむくまま、そっとジャッキールの背中を見送っていた。
 ジャッキールは、そんな視線を気にする暇もなく、ただすたすたと歩いていった。彼の向かう先は、この屋敷の主人がいるはずの場所である。
 ラゲイラの寝所の近くまで来ると、女の召使が、まだ何か歩いているのが見えた。今日はラゲイラも忙しくしていて眠っていないということだろう。
 ジャッキールは、彼女に近づく。彼に気づいて、少し身構える召使に、彼は丁重な言葉遣いでこう言った。
「夜分にすまぬが、卿にお目通りしたい。非礼は承知の上なのだが、至急伝えたいことがある」
「ど、どなたでしょう……」
 召使の女は、ぎくりとしたように彼を見た。彼の顔は知っているはずだったが、それほど印象が違うのか、彼女はジャッキールを見間違えたらしかった。
「ジャッキールがきたと伝えていただきたいのだが」
「ジャッキールさま?」
 彼がそういうと、彼女は目をしばたかせてジャッキールを見上げた。相変わらず不気味で恐ろしい印象はあるのだが、今日はジャッキールが少し元気がないせいもあって、ずいぶん印象が違って見えた。
「は、はい。……か、かしこまりました」
 召使は、彼の変化に驚きながらも、一礼して向こうのほうに歩いていく。ジャッキールがしばらくそこでたたずんで待っていると、割りに早く彼女は彼の前に戻ってきた。だが、その顔が少しこわばっているのを見て、ジャッキールは軽く失望を覚えた。
「申し訳ありません、ジャッキール様。ラゲイラ様は、現在忙しくされておりまして、あなたとお話をするお時間がないとのことです。あなたには申し訳ないとおっしゃられておりましたが……その……」
 主人からの言葉を伝え、彼女はジャッキールのほうをおびえながら見やった。前は目が直接見えなかったが、今度は目の表情が直接うかがえるので、少し怖かったのだ。もしかしたらジャッキールが怒り出すのではないかと思い、彼女は身をかたくしていたが、ジャッキールの目に浮かんでいるのは、予想通りになったことへの失望ぐらいだった。
「……そうか。卿はお忙しいのだな。ならば、仕方がない」
 ジャッキールは、ため息をついて目を伏せ、思い立ったように顔を上げた。
「では、卿にこうお伝え願おう。……事がすみ、私が戻らねば、そのときは死んだと思っていただきたい。と」
「え……」
 驚く召使に、彼は再び言った。
「戻らぬときは死んだと思っていただきたいと……。そういう覚悟であるというように伝えてもらいたい」
 ジャッキールはそういうと、懐から銀貨を何枚か出して、召使の手に握らせた。予想以上に多い硬貨と恐いことで有名なジャッキールの殊勝な態度に、彼女は驚きながら、こくりとうなずいた。
 ジャッキールは黙ってマントを翻して、来た道を戻った。
 冷たい空気が、肌を刺すようだ。
 ラゲイラが会うのを拒否したということは、自分は、暗殺計画の中心には入らないのだろう。
(……俺のここでの役目は終わったな)
 ジャッキールはそう確信した。伝えようと思ったこともあったのだが、それを今、自分が口にしたところで、ラゲイラは信じないかもしれない。いや、その前に、彼に伝える方法もない。
(いいや、これでよかったのだ)
 ジャッキールは唇を噛みながらそう思った。
(俺は、最初から権力闘争にはかかわらないという約束だったはずだ。……だとしたら、俺は、それを言うべきではない)
 そう、自分の役目は実地で戦うことだけだ。作戦を投げかけることではない。そういう立場になろうという野心がわいたから、あの時おびえて遅れをとったのだ。
 ジャッキールは自分を戒めるように、こぶしを握った。
「俺が奴を殺せば済むことだ」
 ジャッキールは、静かにだが、はっきりとそういった。暗い闇の中、白い顔に壁の灯火の光を浴びて、瞳が赤く見えていた。
 





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背景:空色地図 -sorairo no chizu-
©akihiko wataragi