一覧 戻る 進む 紅い剣の月の夜-4 遠くで、気合の声をきいて、シャーは小屋からおきだしていた。 空にほっそりと刀のような月がのぼっていた。ほんのりと赤い色をたたえるそれは、どことなく異様な印象すらあった。 赤い新月、つまり三日月の夜。あれが上弦であったか、下弦であったか、何時みたものであったのか、シャーは忘れてしまった。ただ、乾燥した夜の空気の冷たさが、シャーの身を凍らせたのを覚えている。 毛布をかぶりながら目をこする彼は、当時、まだ十五にもなっていなかった。ザドゥという名の師について、剣を学んでいた時、彼は師とともに王都から離れた人気のない田舎で数ヶ月を過ごしていた。 そして、シャーは、そのとき、月の次に見たものは、月下で剣を振るう師の姿だった。こんな夜中におきだして、一体何をしているのだろう。修行の好きな男だから、こんな酔狂も道楽のうちなのかもしれない。 そんな風にも思ったが、彼を見ているうちに、シャーは全身が総毛だつのを感じて、思わず毛布を握る手に力を込めた。 師は、ただ素振りや型を練習していただけのようだったが、だが、その振りは、明らかに人を殺せるような振りだった。ただの練習とは言いがたい、そんな異様な冷たさがあったのだ。 シャーが、彼と行動をともにしていたのは、それほど長い期間ではなかったが、それでも印象に残っているほど、師は強い男だった。 けれど、今までは、彼のそんな姿を見たことはなかった。シャーの前では強いが、とてもやさしい男でもあったのだ。 しかし、今日は違った。今日の師は、明らかにいつもと違った。思わず、シャーは、護身用に持ち歩いている短剣に手を触れた。何故か、体が勝手に動いて、それに気づいてあわててひっこめる。 師には到底勝てるはずがない。だから余計にだろうか。心の奥にわけのわからぬ恐怖心がたまっていた。 (今日は、もう寝てしまおう) シャーはそう考え直した。今の師に話しかける気にはなれなかった。まるで、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。これが夢ならいいのだが。いや、夢だということにしてしまおう。 そうっと、シャーは、足音を忍ばせてもとの小屋に戻ろうとした。 「どこに行かれる?」 ふと、そんな声がして、シャーは反射的に振り返った。 月を背景に、師が立っていた。その手に、白刃が握られて、淡いつきの光を浴びて、それだけがぎらりと光っていた。 表情は見えない。だが、師が先ほどまで放っていた殺気が、いまだに彼の背から立ち上って、痛いほどだった。そして、うっすらと見える師の目が、こちらをにらみつけているようだった。いや、睨んでいたのではないかもしれない。ただ、その目が怖かった。 その目は、彼が知っている師の目ではなかった。暗さゆえに、余計にそう思ったのかもしれないが、まるで獣の目だ。 そのときのシャーにとっては巨大すぎる相手だった。勝てるわけがないにもかかわらず、逃げることもできない相手。その目が、シャーに逃亡の可能性を否定させた。 寝ぼけた頭に、たまりたまった恐怖心が先走った。 ――殺される! 直感的にそうおもってしまった。思わず、背筋が寒くなった。と、同時に体が勝手に動いた。 シャーは、そのとき、剣を抜いた。 そのとき、細い月夜が目に入った。どうして相手に夢中で飛び掛ったときに見たはずなのに、月が目に付いたのかはわからない。もしかしたら、目に付いたとおもったのは誤解で、 けれど、シャーには、異様にそれが印象に残ったのだ。 紅く冷たい、剣のような新月が。 突然響き渡った甲高い金属音は、しかし、酒場の喧騒に打ち消されて、気づくものは少なかった。普通なら、一番騒ぎを起こすはずの目の前の男が、無言だったのもあるし、シャーが座っていたのが隅のほうだったからもある。 半分鞘走った状態の抜き身は、男が抜き放った小剣で受け止められていた。 「あ、あら……」 シャーが我に返ったと同時に、男は不機嫌そうにシャーを突き放すようにして弾く。そのまま、マントの中に滑り込ませるように、彼は刀を鞘におさめた。ちょうど座っていた椅子にたたきつけられるように戻されて、シャーは少しきょとんと彼のほうを見上げた。 「ありゃ、おかしいな? なんでいきなりこんなことに?」 「おかしい、で済む話か? 一体何をするか」 目の前にいるのは、そういえば先ほど話題に上がっていたような気がするジャッキールその人である。さすがにかなり不機嫌ではあるが、この騒ぎを聞きつけられたくないのか、彼もどなりつけたりはしない。だが、彼にしてはやけに早口になっているところで、その心情は予想できるところである。 「とおりすがっただけで斬りかかってくるとは、俺でなければ死んでいるところだ。こんなところで刃物を抜くとは、常識知らずもいいところだな」 普段、常識やら節度やらとは無縁の彼にそういわれて、何となくシャーはきょとんとしてしまった。 「いやあ、あんたじゃなかったら切りかかってないとは思うけど」 シャーは苦笑する。 そうか。先ほどの師の雰囲気を思い出したのは、コイツが近くに現れたからだ。 シャーは、一応の納得を見た。似ているわけではないのだが、絶対的に冷徹だった師の雰囲気と、ジャッキールが普段から纏わせている空気というのは、大体同じようなものだ。 逆にいえば、彼が近くを通ったので、反射的に切りかかってしまったともいえる。だから、シャーとしては、自分が悪いながらも、ジャッキールの雰囲気が悪いと責任を転嫁してしまいたい気分もあった。 「いや、でも、悪かったね。別に嫌がらせじゃないのよ。それにしても、相変わらず顔色悪いくせに元気だね、ダンナ」 シャーは、ちょっと皮肉を混ぜた。 「だけどさ、お堅いアンタが何の用よ、ジャッキーちゃん」 「俺が酒場に来ては悪いのか?」 ジャッキールは憮然として答えた。 「別に悪いとは言ってないよ。下戸でも別に酒場で遊ぶのはたのしーもんだし。いきなりこられると心臓に悪いだけでさ」 ジャッキールは、目を伏せて鼻先で笑った。 「ふん、俺が入ってきたぐらいで、剣を抜きにかかるようなのは、自制心の足りない証拠だろう。もう少し精進でもするんだな」 「おたくこそ、そんな殺気ビシバシ飛ばしまくりながら歩くなよ。だから、人間どころか虫すらよりつかねえんだ。もうちょっと、生き物によりつかれるような生活でもしたらどうだよ」 シャーはちょっと絡むような口調になる。いつもは気のいいつもりのシャーだが、どうも本性を知られている相手には容赦がないらしい。 「おちつかねえったらありゃしねえ」 「貴様のような精神の弛緩したやつは、多少緊張したほうがいい」 ジャッキールは、すげなくいいすてる。 「あら、お久しぶりね。ジャッキールさん」 急にリーフィが、声をかけてきた。いつの間に出てきたのかわからなかったが、手にはシャーに入れた茶をのせた盆を持っている。その湯気の運ぶ香りが、場に合わないのどかな空気をつれてくる。 ジャッキールは、反射的に直立姿勢になると、顔まで硬直させてあわてて挨拶をした。 「こ、これは。こ、こちらこそ、沙汰もなく失礼した」 「お元気そうでなによりだわ。怪我も大分いいみたいね」 「あ、ああ、お、おかげさまで、な」 やたらとぎこちない彼を横目に、シャーは冷めた口調できいた。 「なんだ、リーフィちゃんに挨拶しにきたの?」 「いや……」 「私が一度来てくれる様にいっていたのよ」 リーフィが、困ったジャッキールを助けるように間に入る。 「ええ? リーフィちゃんが? どうして?」 シャーが、いかにも不可解だといいたげな顔で声をあげ、きっとジャッキールを睨む。こういうことには、まるでだめらしいジャッキールは、明らかに動揺したそぶりを見せる。リーフィは、そんな二人に気づいているのかいないのか、平然とした顔で話を続けた。 「ちょうど、あの時預かった服の繕いが終わるころなの。そのころに寄って欲しいっていっていたのよ」 「いや、すまないとおもっていたのだが」 ジャッキールが所在なさげにいったが、リーフィは笑顔を見せた。 「あら、気をつかうことはないわ。こういうのは、私の趣味なんだもの」 「あ、そういうことなわけ」 シャーが、少しほっとして浮かした腰を下ろす。 「そうなの。あ、もしかしたら、もうお帰り?」 「い、いや」 きかれて、ジャッキールは、相変わらず戸惑いつつ続けた。 「せ、折角来たのだから、いっぱいいただきたくおもうのだが」 「そうなの。それじゃあ、服は帰りに渡すわね? それじゃあ、なにか用意してくるわね。シャーと一緒の席にすわって、シャーと一緒にお酒を飲んでおいて」 「えっ! リーフィちゃ……、ちょっとなんでオレがこいつと……」 シャーが何かいいかけたが、リーフィはもはやきいていないようだ。 「じゃあ、少しいってくるわね」 リーフィは、シャーの前にいれてきたお茶をおいてすすめると、また酒を取りにあわただしく席を立っていった。と、不意に振り返り、一言きく。 「何でもいいかしら?」 「あ、ああ、得に好みは……」 「どきどきしながら注文してんじゃねーよ、おっさんが」 ジャッキールの緊張した様子に、小声で毒づき、シャーは、やれやれとため息をつく。リーフィは、たったと行ってしまって寂しいが、リーフィの性格もわかってきたので、まあ、仕方がないかなあなどとシャーはため息混じりに思う。 それはともあれ、今日は舎弟がいない日でよかったかもしれない。彼らの前で、ジャッキールみたいな物騒がマント着てうろついているような男と話したくない。思わず地が出てしまいそうだ。 とはいえ、ジャッキールのほうも、多少は気をつかっているらしいところはある。本当はシャーの本名も知っているくせに、彼は自分のことをアズラーッドとしか呼ばないし、なんとなくではあるが、それなりに自分をまともに見せようという努力が見えないでもない。その割に効果があまりないのであるが。 「ちょいと、不服だけどまあいいや」 シャーは、口を尖らせつつ酒を注ぐと、ジャッキールの前においた。 「何が不服だ」 「男と飲むのは趣味じゃないんだよな」 「普段取り巻きをつれて飲んでいる男の言葉とは思えん」 ジャッキールは、片眉をひそめてそんなことを言う。 そりゃあそうだが、とりあえず、あんたみたいなヤツと飲むとはおもわなかったんだよ。 シャーは、その言葉はとりあえず飲み込んでおいた。 「まあ、ちょっとだけならいいけどね。ただし、オレはお金ないよ。ダンナがおごってくれるなら、飲んであげてもいいけどさ」 「いつもその調子で遊んでいるのだろう。全く」 ジャッキールは、いつもの、しかめつらしい様子でそういうと、杯を手に取り、口に含んだ。 「おーや」 ふと、シャーは、驚き混じりの声をあげた。大きな目をしばたかせながら、彼はぽつりという。 「ありゃ、あんた、酒飲めたんだ」 「……貴様が酒を入れてくれたのではないのか?」 シャーは、両肘をつきつつ、ジャッキールをねっとりと横目に見た。 「入れたのは嫌がらせにきまってるじゃんか。なんだ、てっきり、下戸だとおもってたんだけどな」 「意地の悪い男だ」 ジャッキールは、苦笑も浮かべず、少しむっとした様子でシャーのほうを見た。 「しかし、貴様が、どういう感覚でそういうことになったのかはしらんが、別に飲まないといった覚えはない」 「そういわれればそうだっけ」 シャーは、他人事のように軽く答えながら、相変わらず珍しそうにジャッキールをみやる。ジャッキールは、別に表情も変えずに酒を飲みながら、不意に思い出したように付け加えた。 「まあ、実際の話、貴様ぐらいの年のときには、俺は下戸だったがな。付き合いでしか飲んだことがなかった」 「ああ、そのくらいで、人生捨てちゃったから酒でごまかしだしたわけ?」 そういったとたん、ジャッキールの目が、シャーのほうをぎらりと向いた。シャーは、反射的にがたがたと後退する。 「おお、こわ……。今の目線だけで一人二人殺せそうだな、ホント」 シャーは、怯えたそぶりをみせつつも、そんな風におどけて言う。 「ほんっと、凶悪な目つきするよねー。そんな面してるから、一向に身が固まらないんでしょ」 「人のことが言えた口か」 ジャッキールは、いかにも不快そうに眉をひそめた。 「オレは若いけど、ダンナは、そろそろアレなお年じゃない。そろそろ、更正しないと、嫁がきてくんないよ?」 シャーは、口元をにやけさせながら相変わらず横目に彼を見た。嫁とかなんとかいわれて、こういう話が苦手なジャッキールの顔には、すでに動揺が走っている。まじめな男はからかうと面白い。とはいえ、彼の場合、余りからかいすぎると命にかかわるのだが。 「俺のことは別にかまわんだろうが」 ジャッキールは、ようやく咳払いしてそういってのけるが、何となく視線をシャーから外したままだ。しかし、彼はすぐに気を取り直し、例のやけに真面目な口調でつげる。 「それよりも、貴様のほうが問題だろう。いい加減ふらふらしていないで、もう少しまっとうな……」 ジャッキールが、例のごとくずらずらと説教をならべたてはじめたのをきいて、シャーは、ひっそりと首を振った。 「あーあ、ジジイは説教がすきで困る。自分は好き勝手人殺ししまくりなくせに、何をいまさら口うるさく……」 シャーが小声で毒づいたのが聞こえたのか、ジャッキールは説教をとめると、きっと彼の方をにらんだ。 「何か言ったか?」 「べつになーにもいってません」 もしかして、酒を飲むと余計説教臭くなるのだろうか。それほど酔ってもいない様子だが。いや、きっと元々説教魔なだけに違いない。 「大体、貴様というやつは、若者だというのに不健全だ。もっと若者らしく……」 「ああ、そうですね。どうせ、オレはアレですよ、アレ」 適当に答えつつ、シャーは苦笑いした。 (酔ったらくだまきそうだな、このオッサン) 続くジャッキールの説教を上の空に、シャーはそんなことを考えていた。一回のせてどこまでも飲ませてみても面白そうではあるのだが、かといって、本当に延々と説教されたらいやなので、ちょっとだけ迷ってしまうシャーなのだった。 一覧 戻る 進む このページにしおりを挟む 背景:空色地図 -Sorairo no Chizu-様からお借りしました。 |