「こんなことではいかん。それはわかっているのだが、いかんせん方法がな」
 赤い絨毯のひかれた石づくりの回廊をしきりにうろうろしているのは、宰相のカッファ=アルシールである。元々は近衛兵だった彼は、この警備がいかに甘いか自分でもよくわかっている。ハダートから報告だけは受けたが、それでも、宮中には自分の味方よりも敵の方が多いのだから、鉄壁の警備など望める訳もない。おまけにハダートはハダートで、なかなかの曲者で、保身の為に、最低限の情報しか流してこない。カッファがやりきれない気分になるのも、当然といえば当然だった。
 唯一の救いは、若いシャルルにはまだ後宮のような女官の居室が存在しないことだろうか。ああいった場所があると、なおさら警備はしにくいものだ。
「カッファ!」
 ざっざっと厳しい軍靴の音を響かせながら駆け寄ってくるのは、白髪混じりでロマンスグレーになった髪の毛をオールバックにまとめている男だった。カッファより少し年上ぐらいで、眉間にしわを寄せている様からも、彼の真面目な人柄が伺える。軍人らしい少しごつい感じの顔立ちだが、威厳と落ち着きを十分に備えていて、名門の香りすら漂わせていた。
「ゼハーヴ。ラダーナ将軍は間に合いそうか?」
「いや」
 七部将の一人であり、彼らのまとめ役でもあるゼハーヴ将軍は、やや眉をひそめた。
「今夜中には戻れそうにない。私の兵士とジートリューの兵士と、ハダートの所で抑えるしかないのだが、ジートリューはそもそも軍隊を分散して統括しているからな。今夜すぐに動かせるのは、三分の一ほどだぞ」
「ああ、わかっている。……全く、将軍の半分が不在の時にとは、あらかじめラゲイラの策略にはまっていたのかもしれんな」
 カッファはため息をつきながら唸った。七部将には、ハダートのような流れ者風の将軍から、彼のような名門出の軍人まで様々にいる。特にゼハーヴが信用されているのは、カッファとゼハーヴが、お互いセジェシスに仕えて辛苦をともにした時間が長いからである。
「しかし、ラゲイラの背後にいるのは、一体誰なのだ? ハダートの情報は?」
 カッファは腕を組んで唸る。
「それが、連絡を入れてきた今朝の時点ではわからんということだった。今なら或いはわかっているかもしれないが、もう下手に動けない状態のようだし、それに、あの性格だからな、ハダートは」
「なるほど、いざというときの逃げ道のために、危なくなった今はもう連絡などしてこないか」
「とりあえず、用心の為に面会を全て断ることにしているがな。まあ、あの方には敵が多い。今更誰が黒幕でも驚きはせんがな」
 ハダートを思い浮かべながら苦い表情の二人は、同時にため息をつく。ゼハーヴは、少しだけ考えて申し出た。
「この際、せめてあの方だけでも避難させては……」
「いや、あれであの方もなかなか強情でな。『カッファ、お前が逃げないのに、私が逃げるなど言語道断だ。それに、私には責任がある。』などとおっしゃるのだ」
 カッファはシャルルの口まねをしながら、げんなりとした顔をした。そして、ふつ、と何か火がついたらしく、急にむっとした顔をして、天井をにらむ。
「あの方の立派なお心がけにひきかえ、あの腐れ三白眼は……」
 カッファは、不機嫌に続けた。
「今どこをほっつき歩いているのだか! あの性根、絶対に叩き直してくれる!」
「ハダートからは何もいってこないのか?」
「ハダートとジートリューはいかん。すぐにアレと結託する」
 ゼハーヴの問いに、カッファは渋い顔をした。
「今、本当にどこにいるやら。 陛下自身の身が今、危険な目にさらされているというのに!」
 カッファは言いながらさらに腹が立ってきて、いらいらとしきりに床をつま先で叩いている。何しろ、ぶっきらぼうに言いながら思い浮かべる顔は、忙しいときに出られると普通の人の十倍は腹が立つ、あのいい加減な三白眼なのだから、ゼハーヴもカッファの気持ちがわからないではない。
「シャー=ルギィズだと……。……まったく、なにを好きこのんで、私の妻の旧姓など」
 カッファは、相変わらず天井を眺めながら言った。「シャー」というのは、本名だが、ルギィズは完全な偽名だ。ルギィズというカッファの妻の旧姓を、わざわざ彼は名乗っているのだった。その理由を、わからないといいながら、カッファは何となくわかるような気すらしていた。
 少し唸った後、ゼハーヴが、さっと身を翻した。
「仕方があるまい。では、私は持ち場に戻る。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ああ、そうしよう」
 カッファはそういい、ゼハーヴとわかれて、回廊を引き返し始めた。とにかく出来る限りのことをやればいい。それでダメなら、せめてあのシャーが無事であれば、それでいいと思うしかない。そうカッファはどこかで思っていた。


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