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十日目-4



 太陽が姿を現し、あたりが明るくなっていた。
 女神の星は、太陽の光に紛れつつも、まだ光を保っている。朝日に照らされて、青いタイルで彩られた神殿が、本来の美しい姿を砂の上に現していた。
 中庭を見下ろすバルコニーで、私と殿様は休憩していた。殿様は、左腕の手当てをされていたが、特に他に目立った怪我もなく、また左の袖を血で汚してはいたものの、返り血も浴びておらず、衣服は綺麗なものだった。
 殿様は、疲れきっているようだったが、戦闘の興奮の後のためか、眠れない様子だった。それとも、今は残りの儀式を行いにいってしまった瑠璃蜘蛛を気にしているのかもしれない。
 着替えるのが面倒なのか、兜も脱がずに、彼は武装した姿のままで壁にもたれかかるように座っていた。機嫌がよくないのか、それとも疲れているからなのかはわからないが、やけにふてくされたような、だらしない座り方だった。
「思い出したよ」
 ふと声が聞こえて、顔を上げると、いつの間にか神官長がバルコニーにやってきていた。先ほどまでとちがって、彼女も少し微笑みを浮かべているようだった。
「そうか。見覚えがあると思ったら、東方遠征前に巡礼に来たのはお前だったね」
 神官長にきかれて、殿様はぶっきらぼうに答える。
「俺は別に行きたくなかったんだ。ゲン担ぐやつがいるから、仕方なくだぜ」
「病気だといって、身内のものが、そういえば何度かきていたよ」
「チッ、うるせえな、ばばあ。俺のことはほっとけよ」
「ふん、まだ病気が治っていないと見える」
 神官長は、あきれた様子で言った。
「今年、病気平癒の為に、次期遠征用に新調された武具が奉納されたのでどうしたのだろうと思っていたら、そういうことかね」
「知らねえな。全部俺の知らないところでなされたことさ」
 殿様は、とげとげしく言ったが、やけにわざとらしかった。内心動揺しているのかもしれない。
「お前の病が治ったかどうかは知らないが、女神様は、どうやらお前がお気に入りのようだ」
 神官は、目を細めた。
「まあ、もう少し男前だったら、聖婚の儀式までもつれこめたかもしれないが」
「なに言ってるんだ。俺は、そういうつもりじゃ……」
 殿様は、照れた様子でいささか焦った様子だった。以前の彼からは考えられなくて、私は思わずこっそりと噴出した。それに感づいたのか、殿様が、じっとりと私をにらみながら呟く。
「ちょっと、お前、笑うなよな」
「ごめんなさい」
 私はそう答えて、神官を見上げた。
「しかし、まさか女神の体に触れることができるとは」
「触れるって、俺はただお手を拝借させてもらっただけだろ。からかわれたんだよ」
 殿様は、ため息混じりに答える。
「いや、私が女神の降りた乙女の手に触れた男をみたのは、お前が最初だよ。そう何度もあることではないのだ。お前にも資格がないわけではないのだが」
 神官長は、殿様を見上げながら眉をひそめた。
「しかし、そうだとすれば、次の王は……」
 神官長が小声でそういったのに、殿様は気づいていなかったらしい。彼は、向こうからやってくる瑠璃蜘蛛を見つけて、慌ててだらしなく反抗的に座っていたのを改める。殿様は瑠璃蜘蛛には弱い。
「神官長さま。残りの儀式を終えてきました」
 瑠璃蜘蛛が神官長に報告する。
「そうか。それなら、巡礼の本隊が到着するまで休憩してもよい」
 彼女は、ええ、と言って殿様のほうを見た。殿様は、心配そうに彼女を出迎える。
「だ、大丈夫かい、ねえさん」
「ええ、女神様が降りたからって別に疲れたりするわけじゃなかったもの。大丈夫。それより、あなたは?」
「え、俺は、その、大したことないし。ちょっと手当てしてもらったらそれで十分だし」
 先ほど神官長にひねくれたことをいっていたのと同じ人間と思えなくて、私は思わず苦笑した。
「それより、ねえさんが飛び込んできてくれて助かったよ。あれじゃ、もうほとんどもたなかったからね」
 殿様が感謝の言葉を口にする。本当に瑠璃蜘蛛に対しては素直だ。
「いいえ。できればもっと早く助けられればよかったんだけれど」
 でも、と、彼女は小首をかしげた。
「驚いたわ。女神様は、他の乙女に降りこそすれ、私に降りてくれたことはなかったもの。だから、私は神託ができなかったのだけれど」
「お前は特にそういう感受性が鈍い乙女であったからな」
 神官がそうしみじみと呟く。
「演技をしたところで、ああはいかなかったがね」
「ええ。私はそんなには器用ではありませんし。演技をしようと思っていたのですが、焦ってもうまくいきそうになくって、ひとまず踊りに集中して、そのうちに機会を狙おうと思っているうちに意識がふっと飛んでしまったのです」
 瑠璃蜘蛛は、しばらく何か考えていた様子だったが、ふと、あ、と声をあげた。
「ということは、あのお酒がやはりきいたのかしらね」
「さ、酒飲んでたのかい、ねえさん」
 驚く殿様の言葉には直接答えずに、瑠璃蜘蛛は腕組みして唸る。
「けれど、あの程度では私酔わない筈だから、焦っていたのに。あのお酒には幻覚きのこでも入っていたのかしら」
「お前はどうしてそういう解釈しかできないのだろうねえ。だから、お前は、神官には向いていないのだよ」
 現実的な瑠璃蜘蛛に神官長はため息をつく。
「相変わらず本番に強い娘よな」
「そうでしょうか?」
 瑠璃蜘蛛は例の調子で答える。
「まあいいわ。世の中って不思議なことがあるものだものね」
 瑠璃蜘蛛はそういうと、一人納得した様子だった。
「まあ、そういうお前にも女神様が降りてきたということは、何かしら伝えたいことがあったのだろう」
「伝えたいことですか」
 瑠璃蜘蛛は、怪訝そうに呟き、
「しかし、どういう状況だったか覚えていないのですが」
「覚えてなければかまわん」
 神官長は、そういってバルコニーから出て行った。
 バルコニーには、私と殿様と瑠璃蜘蛛の三人だけが取り残される形になった。
 明るみはじめた砂漠に一列に並んでやってくる人影が見える。あれは、間違いなく私たちがはぐれた巡礼の本隊に違いない。
「あれが到着する前に俺は消えるよ」
 殿様がふといった。
「俺がいて変な誤解するやつがいて、ねえさんに迷惑かけても申し訳ないし、それに、俺ももう行かなきゃ……」
 殿様は、ある一点を見つめていた。本隊に先んじて、一騎早足でこちらに向かってくるものがいる。
「安心させてやらなきゃね……。心配かけてるから」
「ええ、残念だけれど……」
 瑠璃蜘蛛が静かに答える。殿様は彼女に向き直った。
「ねえさんには、本当に世話になったね。感謝しているよ」
 殿様は急にまじめになっていった。
「何かお礼をしたいけれど、あいにくと今俺には何もなくてね」
 殿様は、目を伏せた。瑠璃蜘蛛が、少し微笑んでいった。
「お礼なんかいいわ。あなたのおかげでこの十日間、本当に楽しかったわ。いろんなお話もできたし、街もめぐることができたし。私のほうがお礼をしたいぐらいよ」
「そっか」
 殿様は、なにやら考えてこういった。
「また、都に戻ったら、妓楼に戻るんだろう。窮屈だろうね」
 いきなり殿様はそんなことを言い出した。
「ええ。でも仕方がないわ」
「本当は自由になりたい?」
「それはそうだけれど。こんな身の上だもの、仕方がないわ」
 それじゃ、と殿様は、切り出した。
「俺が権力や金を使って、ずるして君を身請けした後、自由にしてあげるといったら……」
「それは……」
 瑠璃蜘蛛は答えかけたが、少し顔が曇っていた。乙女の身請けについては、希望者多数の場合、くじ引きが通常だ。異例なこともなかったわけではないのだろうが。
「気持ちはありがたいけれど、それはいけないわ。そんな無理な不正がわかったら、あなたの世間体を汚してしまうし、私も、周りの乙女のねえさんたちに申し訳が立たないもの」
「そういうと思っていたよ」
 殿様は、いたずらっぽい顔になった。
「それじゃ、正々堂々名乗りをあげてさ、くじ引きしてあたった暁には、君と結婚するといっても、君は同じように喜ばないんだろうね」
 瑠璃蜘蛛は、はっとして何か答えようとした様子だったが、殿様が笑いながら手を出して制した。
「何も言わないでいいんだ。どうせ答えはわかってるよ。それに、いいんだ。自分の身一つどうにもできない明日をも知れない俺じゃ、他人を幸せにするどころじゃないしね。なみいる競争相手に勝てるほど魅力的でもなさそうだし、挙句の果てにくじ引きで負けそうだし。それに第一、ねえさんをものみたいにかけてくじを引く気にはなれないよ。それに、君を金で買う行為は、君自身を侮辱することになるってことも、わかっているからね……。お金で買えるような人じゃないことは、よくわかっているつもりだよ」
 殿様は、わざとらしく軽い調子で言った。
「へへ、俺はホント卑怯だなあ。拒否されるのが怖いもんで、先に自分でいっちまうんだよ。かっこ悪いよな。適当に、聞き流してくれよ」
 殿様は、目を伏せていった。
「だから、俺は君の名前をきかないよ。その代わり、そのままのねえさんでいてくれよな」
 一瞬、静寂が流れた。
「私ね」
 黙っていた瑠璃蜘蛛は、口を開くと彼女にしては早口に言った。
「あなたには本当に感謝しているの。あなたと一緒に旅ができてよかったと思っているわ。今の話もうれしかったわ。私がもっと自由な身の上だったら、よかったのに。もっとあなたと旅がしてみたかった」
 殿様は笑った。
「ありがとう。そういってくれるだけでいいよ」
 そんな話をしているうちに、バルコニーから見える中庭に、先ほどの人影が辿りついていた。
 やはり、予想したとおり、それは殿様の世話係をつとめていた男だった。
 よほど急いできたのだろう。疲れ果てた様子で、彼は中庭のかがり火の近くでひざをついていた。その手に、殿様がかつて身に着けていた赤い衣服がきつく握り締められていた。
「もう、俺いかなきゃ……」
「ええ、早くいってあげて……」
 殿様は、うつむいて私のほうを見た。
「夕映えには、よろしくいっておいてくれよ。感謝してたって」
「はい」
 私は頷いた。殿様は、今にもいってしまいそうだったが、そのとき、すっと瑠璃蜘蛛が手を出した。
 殿様は、少しためらっていたが、彼女の手をしっかり握って彼女を見た。
 名残惜しそうではあったが、彼は決意したように微笑んだ。
「さよなら、ねえさん」
「さようなら」
 手を放した後、殿様はきびすを返してバルコニーを出て行った。一度も振り返ることはなかった。
 ほどなく、中庭に殿様は姿を現していた。
 その人はどんな気持ちで殿様を見たのだろう。
 乱心して遊びほうけていた自分の主君が、昔のように凛々しい戦士の姿で神殿に立っている。
 青いタイルで飾られた神殿を前に、青の軍衣をはためかせ、威厳すら感じさせる姿でたたずんでいる若者。
 それが、死んだはずだと思っている彼の主だとしたら。
「殿下」
 ぽつりと呟いた男に、殿様は笑いかけた。
「そんな顔をしなくても消えやしないよ。幽霊じゃないよ」
「殿下……!」
 男は、赤い上着を放り出して駆け寄った。殿様は彼を迎え、足元にすがりつく男の肩に手をかける。
「今までごめんよ。でも、俺はもう大丈夫だから……」
 殿様がそういって、世話係の男を慰めている間に、瑠璃蜘蛛は、目を伏せると、静かにバルコニーから出て行った。彼女の感情は、その表情から一切読めなかった。
 そのうちに、本隊が到着した。夕映えのねえさまは私を見るなり、駆け寄ってきて私を抱きしめてくれた。
 涙声で私の無事を喜んでくれたねえさまが、ようやく殿様のことを口にしたときには、すでに彼の姿はなかった。どこにいったのかもわからない。乗ってきた馬と、あの男と共に、殿様は消えていた。
 


 そうして、その年の祭りは終わりを告げた。私とねえさま、そして瑠璃蜘蛛は、十日の平穏な帰路を経て王都に帰って日常に戻っていった。
 殿様を恋しがる夕映えのねえさまに、私は殿様は、二日目の朝に王都に戻ったのだと嘘をついた。瑠璃蜘蛛も、殿様のことについてその後、何も語ることはなく、殿様の痕跡は消え果ていた。かれがそばにいたのが幻のようだった。
 殿様と瑠璃蜘蛛が、楽しげに話をしていたあの情景さえ、幻のように――。


 ただ、ひとつ、神官長が帰り際に一言言った言葉があった。
 今年、星の女神様はひとつの神託を下した。
 ――王が不在の国は、戦乱がつづいているが、次の王は女神の祝福を受けた。次の王が即位すれば国は必ず平和になり、穏やかな繁栄を取り戻すことだろう。
 それが何をしめすのか、私にはわからない。





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