一覧 戻る 次へ 十日目-3 私が聞いたのは、殿様の悲鳴と壁に何かが摩擦する音だった。剣を交えたまま押し切られた殿様は、左腕の側を壁に押さえつけられてしまっていた。殿様は、よくなったとはいえ、左腕を怪我しているのだ。あれだけ押さえつけられて痛くないはずはなかった。 私は再び窓のほうに張り付いた。 殿様はうめきながら、相手を突き飛ばすべく隙をうかがっている。 相手は殿様より背が高い男で、力で押さえつけられている間は、殿様には正攻法で抜け出すすべはなさそうだった。 と、殿様が一瞬力を緩めて、さっと身を沈めた。思わず相手の姿勢が崩れたところで、するりと抜け出したが、他の刺客が目の前に来ていた。 十分攻撃態勢ができていないところに、刺客の蹴りが殿様の足をとらえる。それでぐらついたところに横っ面を張り飛ばされる。そのまま倒れこみそうだった殿様だったが、きっと相手を睨み返すとすかさず剣を握ったまま、柄で相手を殴り返した。 一人をそうして撃退したが、姿勢の崩れた殿様にもう一人の刺客が攻撃を仕掛ける。振るった剣の一撃をさけたものの、すぐに蹴りが飛んできた。よけ切れなかった殿様は、鳩尾にそれをもろに食らって倒れる。 苦痛に呻く暇も与えず、トドメ、とばかりに剣を振りかぶった刺客だったが、殿様の足が彼の足を掬った。バランスを崩したところで、殿様の反撃を浴びて男が倒れる。 地面を転がって起き上がった殿様は、彼らから再び間合いを取っていた。左腕から血が流れているのか、殿様の左腕の袖が黒く見えた。 「ちっ、ふざけんなよ! この野郎……」 殿様は、血の混じった唾液を吐き捨てた。 「このぐらいでまだ死ねるかよ!」 それは強がりだろう。殿様の足元が、怪しくなってきていた。先ほどの攻撃が効いているせいもあるのかもしれない。 息の上がった殿様は、ふらつく足でどうにか攻撃の糸口を見つけようとしているようだったが、相手のほうが早い。取り囲まれた彼が引き倒されるのは、時間の問題だった。 直後、殿様の周りでもみ合いになっていた。殿様は地面に押さえつけられていたが、まだ剣を放していなかったし、抵抗も激しかった。何度か、逃げ延びようとしていたが、複数の刺客たちに囲まれているせいで逃げ切れていない。ただ、殿様が暴れているので、刺客のほうも決定的な一撃を加えるにいたっていなかった。 ああ、瑠璃蜘蛛は、まだなんだろうか。 私は、祈るような気持ちになった。 見上げれば、明けの明星が燦然と輝いている。アレは女神の星だ。この神殿の主である、星の女神とはあの星の女神のことをいうのだから。 女神は、この様子をみているのだろうか。それなのに、女神は、どうして助けてくれないのだろう。殿様も、根はいいひとなのに。瑠璃蜘蛛だって、真剣に彼を助けようと願っているはずなのに。 星の女神様は、どうして助けてくれないんだろう。 どうして――? 星は瞬きもせずに、明るい光をのどかに放っている。今にも殺されてしまいそうな殿様を見ることができず、私は星を見上げて祈った。 と、あたりが突然騒がしくなった。神殿を守る兵士たちが、あわただしく走っていく。みんなが門のほうに歩いていくので、私も慌てて後をついていった。 もう夜明けなのだろうか。いやでも、まだ太陽は昇っていないし、鶏の声もきかなかったのに。 走っていく兵士の真ん中を瑠璃蜘蛛が歩いているのが見えたが、兵士たちに囲まれて近寄ることができなかった。 瑠璃蜘蛛がとうとうやってくれたのだと私は思った。彼女ならやってくれると思っていたのだ。 門番が門を開け、兵士たちが外に出て行く。これで殿様も助かるに違いない。 兵士たちに続いて私が外に出たときには、いきなりの兵士たちの出現に刺客たちも、殿様も、あっけに取られた様子でこちらを見ていた。神殿の前にずらりと整列した兵士たちは、彼らをにらみつけている。 そうして、兵士たちの先頭には、瑠璃蜘蛛が立っている。彼女は剣を携え、それを弄ぶようにしていたが、門の外にでると、ついとそれを掲げて何か言った。 なんといったのかはわからない。この国の言葉ではありえないことは確かだ。 けれど、その声をきいた兵士たちは、いっせいに行動に移った。声をあげて刺客たちに襲いかかったのだ。 殿様を押さえつけて今にも殺そうとしていた刺客たちは、いきなり神殿の兵士たちの攻撃を受けて浮き足だったようだった。殿様にトドメを刺すこともできずに、逃げに入る。 殿様はそこに一人残されて、呆然としていた。 私はそっと瑠璃蜘蛛のそばに駆け寄った。 「ねえさま、うまくいきましたね」 私はそういって声をかけたが、瑠璃蜘蛛は答えない。 「ねえさま?」 そう声をかけて、注意をひくために腕をとろうとしたところで、はっとして引き下がった。 瑠璃蜘蛛は私を見ていなかった。そして、彼女の視線は、恐ろしく冷たい。まるで人間ではないもののようだった。 瑠璃蜘蛛じゃない。 私はそう思った。 演技するはずが、瑠璃蜘蛛は、本当に神がかりになってしまったのか。 その、瑠璃蜘蛛ではない誰かは、笑いながらふらふらと殿様のほうに近寄った。 突き飛ばされていた殿様は、呆然と近づいてくる彼女を見上げていた。手をついて半身を起こしたところで、殿様は彼女の異常さに気づいたのか、動きを止めていた。 剣を持った瑠璃蜘蛛は、静かに彼を見下ろしていた。 うたうように、彼女は何か言うが、わからない。視線の冷たさと、別人のように妖艶に笑う彼女の笑い声が、私には恐かった。 殿様にもおそらくわかっているはずだった。 彼女は演技をしているわけではない。神懸りの瑠璃蜘蛛は、くすりと笑って殿様の前に立った。 彼女は、断罪を待つ哀れな罪人のような殿様の前に立ちはだかった。瑠璃蜘蛛は女性にしては長身ではあったが、ほっそりしていて威圧感を感じさせなかったはずだ。だというのに今の彼女は全身に女神の権威をまとって、とても大きくみえている。 そうして殿様を見下す彼女は、本当に瑠璃蜘蛛とはまったく違う女だった。 彼女は剣を握っている。 先ほど、刺客たちに退去を命じたように、彼女に剣を下ろされたものは排除される運命にある。もし、殿様に剣が振り下ろされようものなら、疲れきった殿様は神殿の兵士たちに八つ裂きにされるだろう。ここでは女神の神託は絶対的なのだ。 殿様はのどを鳴らした。冷たい視線に身の危険を感じたらしかったが、もはやここで逃げ出すことはできない。殿様は観念したように彼女を見上げていた。 ふわりと剣が振り上げられる。殿様は思わず身を固めていた。そして女神が手を下ろす。 衝撃を予感して目をつぶった殿様は、思いのほか軽い何かがひらひらとふりかかるのに驚いて、はっと目を開いた。 降りかかったのは冷たい金属でなく、淡い色の薔薇の花びらだった。剣と一緒に花びらをにぎっていたのだろうか。薔薇の淡い香りが鼻をなでた。 女神はいたずらっぽく微笑み、持っていた剣をからりと落とした。そして、驚いたままの殿様にそっと、手を差し出していた。 殿様は、身を起こして彼女を見上げた。意味を把握しかねている様子だった。女神は思いのほかやわらかく微笑み、せかすように差し出した右手を振った。手を取れということだろうか。 殿様は、ひざまずき、そっと彼女の手をとった。いくらかためらっていたが、臣下が王にやるように、そのまま手の甲に口付ける。 何か彼女が声を出したが、不思議な響きの言葉で聞き取れなかった。女神は人間の言葉を話さない。内容は私や殿様にはわからないだろう。 呆然と殿様は彼女を見上げていた。ちょうど瑠璃蜘蛛の頭上に、明けの明星があった。明け行く空の中、それでも燦然と輝く星の下に立ち、彼女は妖艶な微笑みを浮かべた女神から、普段の無表情な彼女の姿に戻っていった。 殿様は、彼女の手をとったまま、硬直したように瑠璃蜘蛛を見上げていた。星の光を受けてたたずむ彼女は、まさしく女神の映し姿に他ならない。 それに見とれたように、殿様はそっと彼女の手を離した。 その瞬間、ふわりと瑠璃蜘蛛の体がかしいだ。はっとわれに返った殿様は、慌てて彼女を抱きとめにかかる。どうにか彼女を抱きとめて、殿様は彼女を覗き込む。 「だ、大丈夫かい?」 そうきかれた瞬間、瑠璃蜘蛛は目を開いて、彼を見上げた。 「だ、大丈夫?」 もう一度殿様はきいてみる。瑠璃蜘蛛は、瞬きをして殿様を見上げるとにこりと微笑んだ。 「よかった。あなた、無事だったのね」 「あ、ああ、おかげさまでね」 瑠璃蜘蛛は起き上がると、きょとんとした様子であたりを見回した。 「あれ、どうして私、外にいるのかしら? 祭壇で踊ってたはずなんだけれど」 「え?」 「おかしいわね。まったく何もおぼえていないわ」 瑠璃蜘蛛は、そう呟いて怪訝そうに小首を傾げる。その様子がおっとりとしていて、なんだか気が抜けてしまいそうだった。 ふと、時を告げる声が聞こえた。いつの間にか、空は明るくなりつつある。 それに気づいた殿様は、ようやくその場に座り込んだのだった。 一覧 戻る 次へ |