一覧 戻る 次へ


七日目




 殿様が意識を取り戻したのは、巡礼出発から数えて七日目の朝だった。ちょうど、私と瑠璃蜘蛛が朝ごはんをすませて、今日は何をしようかと考えている頃だった。
 四日の午後に倒れて以来、殿様は、ほとんど眠りっぱなしだった。旅で疲れていたのもあるだろうし、あまり食事をしない殿様の体力が落ちていたのも本当だと思う。高熱を出して魘されていた彼は、時折目をあけることはあったものの、意識がはっきりしないようで、何かわけのわからないことを呟いているうちにまた眠ってしまっていた。
 時々、殿様はうわごとで、誰かに謝っているようだった。人の名前もつぶやいていたが、それが誰であるかは知らない。もしかしたら、あの世話係の人だったかもしれない。
 瑠璃蜘蛛は、ほとんど付きっ切りで看病していた。彼女はほっそりしている割に体力があるようで、ほとんど疲れを感じさせなかった。丁寧で優しくてきぱきと看病してあげている彼女だったけれど、何故か、甲斐甲斐しく、という表現が似合わなくて、何故か事務的に見えてしまうのは、多分彼女が無表情だからだと思う。
 そんな彼女だったけれど、殿様の覚醒を一番喜んでいたのも、多分瑠璃蜘蛛だったと思う。
 殿様が目を開けて、ぼんやりと辺りを見回した後、短く呻いたとき、瑠璃蜘蛛は、彼女にしては珍しく笑顔で声をかけたものだった。
「気がついた?」
 声を聞いて殿様は、初めて気づいたように瑠璃蜘蛛を見上げた。
「あ、あんた……」
 殿様の反応を見て、意識を取り戻したとわかった瑠璃蜘蛛は、寝台の方に寄り添った。
「気分はどうかしら。二日間と半日眠っていたのよ」
「あ……」
 微笑む瑠璃蜘蛛に、殿様は何か言いかけて言葉がつながらなかったようだ。瑠璃蜘蛛の手が殿様の額に当てられた。
「最初は驚いたけど、よくなってよかったわ。まだ熱があるみたいだけど、ずいぶん下がったわね」
「どうして……」
 殿様は、かすれたこえでつぶやいた。
「どうして、俺を置いて行かなかったんだ。……叱られるんだろ」
「あなたをおいていくわけにも行かないでしょう?」
 瑠璃蜘蛛は、そういって微笑んだようだった。
「ど、どうして……。三日たっているんだろ、もう間に合わないだろ」
 殿様は起き上がろうとしたようだったが、うまく力が入らないらしく、瑠璃蜘蛛のほうに視線だけをやった。
「わからないわ。間に合うかもしれないし。間に合わなくてもそれはそれで、女神様の思し召しよ」
 瑠璃蜘蛛の相変わらず無表情な白い顔を見て、殿様は困惑気味につぶやいた。
「俺は、あんたにひどいことをいったよ。どうして、そんなことまでして、助けようなんて……」
「貴方に何を言われたのかわすれてしまったけれど、むしろ、貴方を助けない理由のほうがわからないわ」
「俺が、王族だから助けてくれるのか?」
「別にあなたが誰だって助けるわ」
「それじゃ、どうして……」
 殿様は、熱に浮かされた目をさまよわせて呟いた。揺るがない瑠璃蜘蛛の視線に戸惑うように、彼の口調は弱弱しい。
「私が貴方についてきてほしいと頼んだのだもの。見捨てていくなんてそんなの不義理だわ」
 殿様は、瑠璃蜘蛛に目を向け、しばらく何か考えているようだった。
「ねえさんは」
 殿様は、そうっと切り出した。
「俺が、怖くないのかい?」
「私には、あなたはそんなに怖い人には見えなかったわ」
 瑠璃蜘蛛は、額に絞りなおした手ぬぐいをおいた。殿様は、手ぬぐいの下から、瑠璃蜘蛛を見あげて、ため息交じりに呟いた。
「あんたは、……なんだか、変わった女だな……」
「よく言われるわね」
 瑠璃蜘蛛は、うっすらと苦笑した。
「あ、そうだわ。さっき朝ごはんを済ませたのだけど、貴方の分も作っておいたのよ。ちょうど目を覚ましてくれてよかったわ」
 思い出したように彼女はそういって席を立つと、まだ湯気ののぼる器をもってきた。
「食べられるかしら? ゆっくりでもいいから少し食べたほうがいいわ」
 瑠璃蜘蛛は、そっとさじにかゆを掬い取り、殿様に勧めた。
「あ、お毒見が必要ね。私が食べればわかるかしら?」
「い、いいんだ……」
 殿様が、苦しげにつぶやいた。
「そんなこと、もういいんだよ」
「あら、どうして?」
「いいんだ。……食べるよ。でも、今は食がすすまないんだ。そこにおいておいてくれ」
 殿さまは目をそらしながら言った。
「ねえさんも少し休憩してくればいい。あの子と買い物にでもいっておいで。俺は、一人でも平気だから」
 その言い方がひどく気弱で優しくて、私は一瞬それが彼の口から出たものだと信じられなかった。
「本当? どこかにいったりしない? 本当に大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ。待っているよ」
「そう。それなら、私、買い物してくるわね」
「ああ」
 殿様がかすかにそう答えて、顔を背けた。瑠璃蜘蛛は私の傍を通り過ぎ、少し買い物に行ってくるといい残して部屋から出て行った。私も、彼女のあとをついて部屋を出ようとした。ふと、鼻をすするような音が聞こえて背後を振り返ると、殿様は顔を背けたままだった。
「さ、シャシャ、少し外に出ていましょう」
 瑠璃蜘蛛は、戻ってきて私の背を軽く押して部屋から出るように言った。私と瑠璃蜘蛛は、そのまま、買い物に出かけた。狙われているかもしれない殿様を一人にするのは、私は不安だったが、瑠璃蜘蛛は、一言、「しばらく一人にしてあげましょうね」と、言っただけだった。
 部屋を出る時、私には殿様が泣いていたようにみえたけれど、それは気のせいなのだろうか。


 部屋に戻ると殿様はもう眠っていた。おかゆは空になっていて、さじといっしょに並べられていた。
 その日は、殿様は、目を覚ましたり、眠ったりしていたが、あまり口をきくことはなかった。
 ただ、以前と違って、とげとげしい態度をとることはなくなり、瑠璃蜘蛛のいうことを素直に聞いていたように思う。時折、何か考えるように、明り取りの天窓のほうをぼんやり見上げていることがあった。
 その日の夜は、何事もなく平穏に過ぎていった。
 瑠璃蜘蛛のけん制がきいているのか、刺客らしい人間がやってくることもなく、誰かが様子を伺っている様子もなかった。
 殿様がいくらか元気になったことで、私もほっとしたのだろうか。その日は早くに眠ってしまった。
 ふと、真夜中、ことん、という音がして私は目を覚ました。
 月は満ちかけていて、明るく夜空を照らしていた。その光が天窓からはいってきて、室内もぼんやりと薄明るかったと思う。
 そんな幻想的な青白い夜の部屋の中、気づくと瑠璃蜘蛛は殿様の眠っていた寝台の毛布の上に突っ伏して眠っているようだった。さすがの彼女も看病疲れが出たのだろうか。でも、そのままでいると風邪を引いてしまう。
 私がそう思ったとき、目の前を人影がよぎった。
 それは、水を飲みに起き上がってきていた殿様だった。殿様は、自分で水入れからグラスに水を注いで、水を口に含むと、深いため息をついていた。
 そして、振り返った彼は、瑠璃蜘蛛のほうを見やった。
「ねえさん、そんなところで寝てたら……」
 それが殿様の声だったのかどうか一瞬、判別がつかなかった。それぐらい別人のように軽やかな声だった。小声で彼はそう声をかけたが、瑠璃蜘蛛は目を覚ます様子はなかった。殿様は、困った様子で彼女をみつめていた。
 瑠璃蜘蛛のベールがはがれていて、彼女の素顔が月の下にさらけ出されていた。淡い光に照らされて、瑠璃蜘蛛の黒髪は夜の闇のようにかがやき、閉じたまつげがつやつやしていて、それは乙女の名に恥じないぐらいに綺麗だった。
 殿様は、そんな瑠璃蜘蛛をじっとみていた。
 あまりに、彼がずっとそうしているので、私は、彼が瑠璃蜘蛛になにか不埒なことでもするのではないかと、警戒してそっと様子を伺っていた。
 かなり長いことそうしていたように思う。
 そして、殿様は、思いついたようにそばの毛布を取り上げると、瑠璃蜘蛛を起こさないように気を使いながら、そっとその肩に毛布をかけてやった。
 彼女が起きださないのを確認して、殿様は何か満足げに笑った。何か悪戯っぽい雰囲気の笑みだった。
 そして、そっと足音を立てないように気をつかいながら床に戻っていった。
 そうしてしばらくすると、かすかに寝息が聞こえてきていた。
 私は、彼のそういう表情をここにきてはじめてみたような気がした。






一覧 戻る 次へ