一覧 戻る 次へ 四日目-4 「シャシャ?」 瑠璃蜘蛛は、怪訝そうに首をかしげた。 「だって、このままじゃ、ねえさまがひどく叱られてしまいます。もしかしたら、ひどく折檻されるかも」 「そうね、怒られるのは確かね」 さらりと瑠璃蜘蛛は答える。その他人事のような冷たさに、私は苛立ちを覚えた。 「だったら、行かないと。殿様は、自分でいっていたもの。使いさえ呼んでくれればそれでいいって……」 「シャシャ」 私は、話しながらだんだん感情が高ぶっていくのを感じた。自分でわかっているのに、止められなくなってしまう。 「殿様のわがままでこうなったんだもの。自分でも自業自得だっていってたわ。だから、伝令だけ飛ばしてしまえば」 「シャシャ、それは駄目よ。ここでおいていったらこの人は死ぬわ」 瑠璃蜘蛛は、首を振る。 「今、このひとは、生きる気力がないの。そんな時に一人でおいていったら、間違いなく死んでしまうわ。ましてや、命を狙われているのよ」 「それでは、誰か王都に呼びにいってから」 「それもいけないわ。このひとは、わかっているはずよ。王都に知らせるということは、この人がここにいることを敵にも知らしめてしまうことになるの。しかも、今弱っているということまでね。シャシャ、このひとは、死ぬつもりでそんなことをいったのよ」 瑠璃蜘蛛は、ゆったりと正確に私に伝わるように言葉を選んで言う。その彼女の言葉に、私は自分の感情的で幼稚な反論が消されていくのを感じた。 「そんなこと、でも……」 自業自得じゃないか、と私は思った。 今の状況は、殿様が自分で悪化させていったものだ。 あの世話役の人が、殿様を殺さなければならなくなるような状況を作ったのも、もとはといえば殿様の放蕩が招いたものだ。 それも誤解して、自分を殺しにきたのは彼だと思った殿様は、食事もとらずに酒ばかり飲んで体を悪くしてしまった。 あの林檎に毒が仕込まれているのを知っていたくせに、自分から食べたのだって殿様だ。私へのあてつけだ、きっと。どうしてあんなことを。 すべては殿様が原因だ。 自分がいれば、狙われることを承知で巡礼に参加した。だから、私は夕映えのねえさまと離れ離れになってしまった。楽しいはずの祭だったのに、殿様のせいですべておかしくなってしまった。 殿様は知っていたのに。知っていたはずなのに。こうなることを、全部知っていたはずなのに! 私は、紅楼でいた時の、暴君のような殿様の憎悪に満ちた目を思い出した。 「こんなにひどい人、しんじゃえばいいんだ」 私は無意識にその言葉が口をついたのを知った。自分でいってしまって、少し衝撃的でもあった。 私は瑠璃蜘蛛の顔を伺うように彼女を見上げた。彼女の顔に軽蔑が浮かんでいるようで恐かった。恐くなって私がうつむいた時、彼女はこちらを見た。 「シャシャ。あなた、この人が怖いのね」 いきなり、そうきかれた。私はためらった末に、静かにうなずいた。 「そう。恐いのは仕方がないわ」 瑠璃蜘蛛の手が私の頭を優しくなでた。私が顔をあげたとき、彼女の目とぶつかった。 私はじっと瑠璃蜘蛛の目を見た。彼女の目は、揺らぐことなく私を見ている。黒曜石のような黒い瞳が、冷たく正確に私を見ている。 綺麗で冷たい目だ。ふと、何の感情もうつさない彼女の瞳の奥に、恐怖におびえる自分の顔が浮かんだ。瑠璃蜘蛛自身は、感情をうつさないために、きっと見ている自分の感情がそこに浮かんでしまうのだと私はわかった気がした。 殿様が、瑠璃蜘蛛と対峙するのを嫌ったのはそのせいだろうか。自分の感情が彼女の中に鏡のように映ってしまうから。 「でもね、シャシャ。恐いのはあなただけじゃないわ。この人も、ずっと恐がっているの」 「え?」 思わぬ言葉に、私は彼女を見上げた。 「色んなことを恐がっているの。それで虚勢を張ってしまうのね。死ぬのも恐い、裏切られるのも恐い、それから、きっと、自分のことも恐いのよ。自分の感情をどうしていいかわからなくなってしまったのよ、きっと。自分も他人も信じられなくなって、それでこわくてこわくて仕方なくて、心を壊してしまったの。恐怖にとりつかれた彼が、最後にとったのは、一番嫌いな自分に飲み込まれることだったのよ」 「一番嫌いな自分?」 「酒浸りで乱暴な皆に嫌われるような自分……」 瑠璃蜘蛛は、私を優しくなでて微笑んだ。 「皆が自分を見捨てたなら、誰も自分を裏切らないもの。期待されなくなったら、期待を裏切って悲しい思いをすることもないわ。心を閉ざして、そこに逃げ込んでしまえば、何も恐いことはないわ」 瑠璃蜘蛛のいうことは、わかったようなわからないような感じがした。 「シャシャ、あのね」 瑠璃蜘蛛は、続けて優しく言った。 「この人が貴方の林檎を食べたのはね、本当に死んでもいいと思っていたからだと思うわ。あなたのせいじゃないわ」 瑠璃蜘蛛の言葉が優しくて、私は涙があふれてくるのを感じた。 「そうかもしれないと思いながら食べたの。まあ、いいやって。本当はね、シャシャ、あのひとはこの旅の最中に、どこかで死ねたらいいと思っていたのかもしれない」 「どうして……」 「自分で死ぬのは怖かったから、他人任せになってしまっているのね」 「どうして、そんな……」 私はいつの間にか泣き声になっていた。 「だって、誤解をしていたんだもの。だって、お父さんみたいに世話をしてくれた大切な世話係のひとがいたのね? そんなひとにまで命を狙われたって思ったとしたら、本当に辛いわ。しかも、そのひとだってこのひとを殺してしまったら、責任をとって死ななければならないのだとしたら……。それでも、彼は自分自身では立ち直ることができないのなら……。その人の手にかからないように、その人の責任にならないように死のうとしたのかもしれないわ」 瑠璃蜘蛛は、優しく言った。 「でも、全部誤解だったんだもの。死ぬ必要なんかないわ。ねえ、シャシャ、死ぬ必要のない人を、死なせてしまったのなら、それは罪ではないのかしら」 瑠璃蜘蛛の言葉が、少し強かった。 「女神様の祭祀は、人の幸せを願って行われるものではなかったのかしら。祭りを行う為に、幸せになれるかもしれない人を見捨ててしまっていいのかしら」 瑠璃蜘蛛のささやくような声が、頭の中に何度も響くようだった。 「私は、星の女神様の乙女だわ。売女だ、淫売だと蔑まれても、私はそれを誇りに生きてきたの。少なからず乙女は、そういう自尊心を持っているものよ。夕映え姐さんや蓮蝶姐さんもそうよね」 瑠璃蜘蛛は、にこりと微笑んだ。 「女神が人に救いを与える存在なのだとしたら、その僕である私達もそうでなければならないわ。その役割も果たせないで、乙女を名乗るのだとしたら、それは女神様への重大な冒涜だと思うのよ」 「役割……」 「ええ、本来、私達はお店のために巡礼を行うわけではないのですもの。それなのに、私達は、徐々にお店やお金を出してくれるお大尽の為に巡礼を行っていくようになっている。それは、女神様が本当に望んだものかしら。本当に彼女の助けがほしいのは、このひとみたいな人なのにね」 瑠璃蜘蛛は、そういって殿様に目を落とした。 荒い息をつきながら、熱に苦しむ彼の姿は、紅楼の殿様と呼ばれたあの傍若無人な男と同じ人間に見えなかった。 一覧 戻る 次へ |