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前夜-3

 
夕映えのねえさまは、どうしても殿様を護衛に指名したいようだった。私は、殿様が嫌いなので、やめておいたほうがいいといいたかったけれど、ねえさまの楽しそうな姿を見ると、なんともいえなかった。
 ねえさまはどうして、あんなに乱暴な殿様がすきなんだろう。それなら、紅果様のほうがよっぽどいいのに。
 私はそう思いながら、ひっそりとため息をついた。
 今日、夕映えのねえさまは、殿様の前にはべっていた。そして、もう目先に迫った巡礼に殿様を誘おうというのだ。
 私は殿様が断ってくれることを祈るしかなかった。別に護衛を指名する必要はない。だれも指名するひとがいなければ、お店で腕の立つものを用意してくれるのだ。こうして客を指名するのは、その客と親しくなりたいからであったり、時におべっかでもあったりした。
 今日は殿様は上機嫌だった。殴られた人間もいないようで、傍で数人の男たちが静かに酒を飲んでいて、殿様だけが笑っている。
 殿様がさすがに女には手をあげたことはないのは知っていたけれど、こうして彼が上機嫌なほうが、夕映えのねえさまの傍ではべる私も安心した。今日は荒れることはなさそうだ。
「なんだ、巡礼に俺にもついてこいというのか」
「はい」
 夕映えのねえさまは、恐れ知らずだ。にっこりと笑いながら、そんなことを言う。
「星の女神の乙女は、聖地への巡礼には、身の回りの世話をする侍女と、護衛が一人指名する権利をえられるのですわ」
「へえ、それで俺を指名するのか。夕映えの君は、なかなか勇気のある女だな」
 いったい何をもって勇気のある女といったのかはわからない。けれど、確かにねえさまは勇気があるとは思う。
「殿様も、ここずっと外にでていらっしゃらないのでしょう。それなら、一度外に出られたほうが気晴らしになるかと思いますわ」
「ふん、別に心配してもらうようなことでもねえんだが」
 殿様は苦笑して、
「でも、まあ、たまには、祭りに触れてみるのもおもしろいかもしれん」
「よろしいのですか?」
 夕映えのねえさまの顔が華やぐ。殿様はうなずき、そこだけ見えている目をねえさまに向けた。
「ただし、俺がついていくと、どんなことになるかわからねえ」
「うふふ、それは覚悟の上ですわ」
 夕映えのねえさまは、本当に度胸があると思う。
 そうして、殿様が巡礼に参加することがあっさりと決まってしまった。私は、せっかく夕映えのねえさまと楽しくすごせるはずだったお祭りに、大嫌いな殿様が入り込んでくるのがとてもいやだった。とても複雑な気分だったが、ねえさまにそんな表情をみせられないので、表向き殿様に対する嫌悪をみせないようにしていた。
 祭りは前日に迫っていて、私は紅果様からいただいたお金でお祭りの為の髪飾りを買ってもらった。ねえさまは儀礼の復習や歌の練習をしながら忙しくすごしていた。
 殿様に珍しく来客があったのは、その日の夜だったと記憶している。
 夕映えのねえさまが殿様に巡礼を誘ったときは、誰も異を唱えるものはいなかったけれど、誰かが報告したらしく、やってきたのは今まであったことのない中年男性だった。
 とても、こんなところにやってくるとは思えないような、まじめそうなひとで、夜遅くにあわてたようすでやってきて、殿様との面会を迫っていた。そのおじさんは、面会を断られても、殿様にどうしても会わせろとひかなかったようである。
 祭りの前の日で、夕映えのねえさまはもうお休みになっていた。私も寝ようとした矢先だったけれど、殿様の下にその人を案内するようにいわれて起きだしていた。殿様の居場所は、限られたひとしかいけないし、私はまだ子供なので深夜に訪れたわけのありそうな客人を案内するのにうってつけだと思われたのかもしれなかった。
 私は眠い目をこすりつつ、その男を案内した。彼は、何か思いつめた表情をしていた。結局、彼は廊下を歩いている間、私と一言も話をしなかった。
「こちらです」
 私が部屋まで案内すると、彼は少しうなずいて部屋の中に声をかけようとした。
「へえ、こんな夜遅くに仕事熱心なんだな」
 不意に殿様の声が聞こえた。
「寝るところだったんだが、仕方がねえ。入れよ」
「殿下。失礼いたします」
 そういって彼は部屋の中に入っていった。私は部屋の入り口で待つことになっていた。客人を帰りも案内しなければならないのと、殿様に来客があったときは、なるべく殿様を一人にしてはいけないと、旦那様からいわれていたせいもある。
 部屋の中から、殿様の声が聞こえていた。
「久しぶりじゃねえか。元気そうで何よりだな。俺のほうは、よ、あははは、この様だぜ」
「殿下……」
 男は、低い声で言った。
「殿下、祭りの巡礼に参加されるとききました」
「ああ、そうさ。かわいい子がいて、俺に是非にと頼み込んできたのさ。連中、あんたに告げ口したんだな。なんだかんだで、忠実な部下だな、あいつら」
「おやめください」
 そういわれて、殿様は、ふっと笑い出す。ちらりと部屋をのぞいてみると、今日の殿様は、顔を覆っている布をはずしていて、その顔が見えていた。ゆがんだ笑みを浮かべながら、まだ酒を飲んでいる様子で、目が据わっているのも相変わらずだった。
「いまさら無理だね。祭りは明日なんだ」
「代わりの人間ならいくらでも出します」
「嫌だね」
「殿下! 考えてください。危険すぎます。巡礼では、護衛もつけられません」
 男のこえがきつくなった。
「祭事に仕掛けてくるほど罰当たりなことはしねえだろ」
「殿下、彼らは本気ですよ。何をしでかすかわかりません」
「いいじゃねえか。よしんば、それで死んだなら、かえって極楽にいけそうだろ。女神の祭事中なんだからよー。まあ、俺は、どうせ死ぬなら女の腹の上のほうがいいけどな」
「殿下!」
 しかりつけるような男の声が響く。
「かてえこというなよ。相変わらずだな」
「殿下、殿下は、そんなことをいうような方じゃなかった」
 男の声は少し震えていた。それをみて、ゆったりと殿様は笑う。今日は表情がよくわかるので、なにかその笑顔が怖かった。
「ふん、幻滅したかい。だったら幻滅しておいてくれよ。どうせ、俺は最初からそういう男なんだ」
「違う」
 男は首を振る。
「しっかりしてください。殿下。殿下は……」
「今は、ちょっとした病気だっていうんだろ。ああ、そうだろう。戦場で拾ってきた悪い病気だとか、悪霊に取りつかれたとかさあ」
 男は、声を低くしていった。
「とりあえず、もう、これ以上の乱痴気騒ぎはおやめください。元の殿下に戻ってください」
「あっはっはっは、その様子じゃ、大分ケツに火がついているんだな」
「殿下」
「俺は、ちゃああんと顔を隠してやってるじゃねーか。どこのだれそれってわかったら、さすがに王の顔に泥を塗るっていいたいんだろ。これでもな、俺は気をつかってるんだよ」
 殿様の笑い声がひときわ高かった。
「王族ったって、あっちこっち血のつながりのあるのからねえのまで、親戚がたくさんいるんだ。俺が誰だかわかったところでなんだっていうんだよ。へへへへへ、あんたも仕事熱心だねえ」
「殿下!」
「俺があんまり評判落とすようなら、消してしまえとでもいわれてるのか? いいね、いっそのこと、すっぱり消してもらいたいぜ」
「殿下あっ!」
 いきなり、男が殿様の胸倉をつかんで引き起こす。私ははっとしたが、飛び出すことも出来ず、硬直したままその場を見守っていた。 
「……もし、これ以上、酷い体たらくを見せるというのなら、私は……!」
「あんたが自ら俺を殺すっていうのかよ?」
 すっと殿様が突っ込んだ。男が、はっと言葉に詰まったのを見て、殿様はげらげら笑い出す。
「あっはっはっは、これは面白いな。馬鹿馬鹿しい。あはははは」
「殿下……」
 苦しげな男の声が聞こえた。 
「いいぜ。殺してくれよ」
 ふいに笑いをおさめて、殿様は言う。その目が、何か暗くよどんでいるようで、私は思わず身を縮めた。殿様は、口元だけ笑っていたが、どこか空虚だった。つかまれていた胸をゆっくりはらいのけて、ゆらりと立ち上がった彼は、男の方にしなだれかかるようにしながら言った。
「殺してくれよ。俺が完全におかしくなっちまわないうちに、さあ。あんたも疑ってるんだろ。俺が狂ったんじゃねえかってさあ」
「で、殿下……」
 殿様にそういわれて、男は、明らかに狼狽した様子になった。
「本当に、俺、今でもおかしくなっちまいそうなんだ。酒を飲んでいないといらいらして、体の中がバラバラに千切れてしまいそうになる。ただ、ざーっと湿った黒い感情があとからあとから湧き出してくるんだ」
 じっとりと語りながら、殿様は、男の肩に手を置いた。
「わかるかい、こういう気持ち。目の前の気のいいやつらを八つ裂きにして、かわいがっている女の細い首を力いっぱい絞めて殺したいような気持ちだよ」
 殿様はおぞましいことを笑いながら口にする。ぞっとしたのは、私だけではなかったようで、思わず男が後ずさった。にいっと殿様は微笑むと、男の肩をたたく。
「安心しろよ。まだ実行しちゃいない。でも、あんた、あのジジイに言われているんだろ。このままほっといたら、俺がどこぞの暴君みたいになる。その前に殺せと」
 男はなにもいわない。
「ああ、そうかもな。ふふ、俺もそのうち、どんな血なまぐさい遊びを覚えるかわからないかも。最近じゃ、女を抱いてもちっとも楽しくない。むしろ吐き気がするぐらいだ。もう、俺自身、どうにもならねえんだよ。ここに渦巻く黒いなにかがさ」
 殿さまは、はだけた胸に手を置いていった。
「殿下、いったいご自分が何を言っているのかわかっているのですか!」
 たえきれなくなって、男が強い語調で叫ぶように言う。
「うふふふっ、だから言ってるだろう。取り返しのつかなくなるうちに殺してくれってさ」
 男は答えない。ただ、かすかに彼が震えているのがここからでもわかった。
「なあ、……だから、今のうちに、いっそのこと殺してくれよ」
 殿様は突然子供っぽく、甘えるような口調になった。
「なあ、殺してくれよ。あんたが俺を殺してくれるっていうなら、俺、抵抗したりしねえからさあ」
「殿下……」
 男は、涙声になっていた。
 しばらく、部屋には、彼の嗚咽が響いていた。殿様の声は聞こえなかった。
 しばらくして、消え入りそうな、男の声が聞こえた。
「殿下はお疲れのようです。もう、お休みください」
 殿様の声は聞こえなかった。しばらくして、男は部屋から出てきた。青ざめてつかれきった顔に、かすかに絶望が浮かんでいた。
 男は私の顔をみようともせず、とぼとぼと来た道を帰っていった。私は、すぐに彼を追いかけるのがためらわれて、しばらくそこでたっていた。
「あんたも、おやすみ……」
 小さな声が聞こえた。それが殿様の声だったのかどうかは判断できそうもなかった。ただの空耳か、ちかくの部屋の誰かの声だったのかもしれない。
 部屋をのぞくと、殿さまは見えない位置にいってしまっていた。
 私は、ようやくわれに返って、男の後を追って廊下を歩き出した。





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