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前夜-2

 
 紅楼の殿様が居座るこの紅楼も、けして殿様一人のために動いているわけではない。彼がいる間にも、他の客がやってきて夜はわいわいと賑わいでいる。特にもうすぐお祭りだから、何かとお客の数も多い。お気に入りの乙女がいる客にとっては、一ヶ月近く彼女に会えなくなるのだから、その前に顔をみておこうとやってくるものもいる。
 祭りが迫ったある日、ふいに店に従者をひきつれた美青年がやってきた。なじみの客でもある彼は、奥へ奥へとどんどん通され、少し離れた特別な部屋へと案内される。紅楼の殿様も、奥にある普通の客が入り込めない部屋にいるが、ここはそことは反対側にあった。
「シャシャ、紅果のお大尽様がいらっしゃったわ。ご無沙汰しているし、ご挨拶に行きましょう」
 そういう夕映えのねえさまにつれられ、私は彼をむかえにいった。
 そこには、すっきりとした美青年と、とりたてて目立った印象のない従者がいた。従者のほうは、童顔で背もそれほど高くなく、少年のようにみえる。主人を前に恐縮している姿をみると、いかにも従順な召使といった風にしかみえなかった。
 が、部屋に入ったとたん、この二人の関係は一転するのである。
「おう、すまねえな。もう帰っていいぞ」
 急に従者の青年は、しゃっきりと背筋を伸ばし、着ているものを粋に着崩すと、さきほどまでの印象とはまったく違う、ゆがんだ笑みをうかべて主人を見るのだ。
「はい、今日はお休みですか?」
「おう。おめえも何かと忙しいんだろ。俺のもりはいいから、おめえも好きなように休みな」
「はい」
 部屋に入ったとたんに、豹変した従者は、さっきとは文字通り別人のようになって、奥に座る。身にまとう空気までもがすべて違っていて、はじめてみたとき、私はしばらく信じられなかったのを覚えている。
 ついてきていた美青年は、頭を下げて引き下がったのをみて、彼は私たちに目を向けた。
「出迎えご苦労、といったとこかな。悪いな、忙しいのに」
 ここでは、紅果のお大尽とあだ名されている彼は、本来は、この国でも有数の富を誇る大商人の御曹司である。その御曹司の素行が悪いことは有名であるらしかったが、彼がどのような顔かたちをしているのかをあまり知るものはいなかった。
 というのは、普段、彼は、彼の側近の一人を影武者に仕立て上げて、自分自身はその召使の一人のふりをしているからだった。どうしてそういう酔狂なことをしているのかは知らないが、本人はその状況がいたく気に入っているようである。信頼できるものだけを、そうして選りすぐっているのかもしれなかった。彼がここであだ名で呼ばれているのもそうで、身元を明らかにしてほしくないからだった。
 彼はこうして遊里で遊んでばかりいるものの、よほど親しくなった妓女にしか、本性を現さないため、その実際の性質を知るものも少なかった。表裏の激しいのは、少し印象がよくなかったけれど、紅果様は、基本的に私たちには優しいお方だ。
 あまり無茶な遊び方もしないし、一人か二人でやってきて、静かに遊んでかえるような方だった。紅果様は、肉親との人間関係が大変お悪いようで、自宅に帰ることはなかった。宿屋がわりにこうして高級妓楼を渡り歩いているようだった。そういう意味では紅楼の殿様と同じだったが、紅果様のほうが私たちには接しやすかった。少なくとも、私は彼のことが割りと好きだったのだ。
「おう、夕映えだな。久しぶりじゃねえか」
「はい。なかなか顔を見せられませなくって、すみませんでした」
「いや、俺もここにきたのは久しぶりだからなあ」
 彼は、かなりの童顔で、どうみても少年にしか見えなかったが、なぜかこうやって目の前に座っていると、先ほどまでのあどけなさや頼りなさが消えて、急に大人びて見えた。どことなく艶っぽさがあって、それも影響しているのかもしれない。
 紅果様は、ちらりと私に視線を向けて、にやりとした。
「シャシャも元気そうだな。だんだんかわいくなってきたぜ。夕映えの教育の賜物かね」
「まあ、そんな……」
 いきなりそんなことをいわれて、私は思わず赤くなる。夕映えのねえさまの添え物であり、まだ子供の私にそんなことをいう客は少ない。逆に言うと、私の名前をしっかり覚えていて、さらに私にまで挨拶のようにそんなことをいう紅果様は、やはり遊び人としての気質があるのだろうとも思う。けれど、そういわれて悪い気分はしない。
「いいや、女の子ってのは、本当にちょっと見ないうちに綺麗になっちまうもんだしな。おお、そうだ。小遣いをやるから、後でねえさんに化粧品でも買ってもらいな」
 そういうと、紅果様は、財布からねえさまにいくらかぽいと手渡した。
「まあ、紅果様、ありがとうございます。この子も、そろそろ年頃ですものね。お店にでる予定はないんですが、着飾りたくなる年頃ですもの。いいえ、むしろ私がこの子をかわいらしく着飾らせるのが楽しくて」
「おお、こわいな。人形代わりじゃねえか。シャシャもねえさんに遊ばれてたいへんだな」
 にっと紅果様はわらって、ゆっくりと酒を口にした。
「誰かお呼びしましょうか?」
 夕映えのねえさまは乙女であるので、あまり長くお相手はできない。他の客から、歌を歌って欲しいとか、占いをして欲しいとか急に呼ばれることもあるのだ。それに、今は、空いた時間に、紅果様に挨拶しにきたわけで、彼の酒の相手をしにきたわけでもないのである。
「今日は休みにきただけだ。呼んでもらわなくてもいいぜ。俺もちょいと疲れたし、飯と酒をたのしんで、一晩軒先を貸してもらうだけだからな。おめえも、遠慮せずに仕事に戻ってくれていい」
「わかりましたわ」
 夕映えのねえさまはにこりと笑って返す。紅果様は、そういう気遣いをしてくれるので、われわれとしてはとても楽だった。
「ああ、そういえば」
 と、夕映えのねえさまが手をたたく。
「今度の女神様のお祭りには、この子を連れていこうとおもっていますの」
「ああ、もうそんな時節か。こいつはうっかりしていたな。それじゃあ、しばらく会えないというわけか。寂しいねえ」
 紅果様は、こういうときにもさらりと殺し文句を入れてくる。おそらく、意識していっているわけでもないのだろうなと思う。
「紅果様は、そういえばお祭りにはおいでにならないのですか?」
「俺ァ、あまり人前に出るのがすきじゃないからなあ。それに、俺はねんごろにしている乙女はあまりいなくてよ。こうして顔さらしてじっくり話せる乙女は、夕映え、おめえぐらいのものさ」
「まあ、本当かしら。紅果様はお口がうまいから」
 夕映えのねえさまは、頬に手をあてて小首をかしげた。
「それでは紅果様は、護衛では巡礼に参加されないのですわね」
「ふふふ、わざわざ影武者立ててる俺が、そんな目立つことはしねえよ。そりゃあ、夕映え、お前にどうしてもと頼み込まれれば、俺も少しは考えてしまうけれど、それでもできれば勘弁してやってほしいぜ」
「そうですわねえ。それでは、やはり、殿様に頼もうかしら」
 ふと、夕映えのねえさまからそんな言葉が出たので、私ははっとした。紅果様も、なにかぴんときたらしい。
「殿様って、ああ、紅楼の殿様か」
「ご存知ですの?」
「話はきいているぜ。なるほど、今日もいらっしゃるんだな?」
 紅果様は、怪訝そうな顔をした。
「うわさによりゃ、ずいぶん変わった御方だっていうけれど、またどうしてここにいらっしゃるんだい」
「ええ、なんでも、うちの旦那様が王族の方から頼まれたという風に伺っておりますが」
「しかし、ここに住んでるっていうのも妙な話だよなあ。屋敷にかえれねえ事情でもあるのか」
「まあ、それは紅果様がおっしゃる言葉かしら」
「あはは、そりゃごもっともだな」
 紅果様は楽しげに笑った。
「しかし、夕映えよ、そんな男を護衛に誘っても大丈夫かい? どうせ深いわけがあるにちがいねえ」
「ええ、それはわかっておりますが、けれど、殿様は、あまりここからお出にならないので、気晴らしにはよいのではないかと思いますわ。ふさぎこんでいらっしゃるときもありますし」
 ねえさまがそういうと、紅果様は、ふむとうなった。
「それもそうかもしれねえな。まあ、なんにせよ、巡礼の途は気をつけてな。まさか、巡礼中に騒ぎはおこさねえと思うが、今のこの国の王族は、何かと殺気だってやがるから、何をしでかすかわからねえ。まあ、巡礼中に暗殺騒ぎが起こるようじゃあ、この国も終わりだけどな。まったくいやな世の中だねえ」
 紅果様の言葉が、ふと気になった。王族が殺気だっているというのは、いったいどういうことなのだろう。跡継ぎの問題でもめているとか、勢力をそれぞれが争っているとか、そういうことだろうか。この狭い世界の中で生きる私には、外の世界の事情はそれほど詳しく伝わってこないのだが、なんとなく気になった。




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