八日目:始動-1
八日目の朝、目を覚ますと部屋に殿様の姿がなかった。
疲れがたまって私も瑠璃蜘蛛も、少し遅くまで寝込んでしまっていて、目が覚めるとすでに日が高くなっていた。それなものだから、彼がいついなくなったのか、わからなかったのだ。
そのことに気づいた私は、あわてて瑠璃蜘蛛を起こしてしまった。瑠璃蜘蛛は目を覚まして、ゆっくり目をこすりつつ、状況を確認したが、大してあわてた様子もなく、軽くあくびをしながら、「そうなの」というばかりだった。
なにやら、呆気に取られるほどのんきな、というか、そっけない反応で、私は驚いた。
「ねえさま、そんなのんびりしている場合じゃ」
「もしかしたら、そのうち帰ってくるかもしれないし、慌てても仕方がないわ」
瑠璃蜘蛛は、そういいながらゆったりと身支度を始めている。意外にのんびりとしたところがあって、私は自分が騒いでいるのが恥ずかしくなるぐらいだった。
「シャシャも慌てず、もう少し待ってみましょう。とりあえず、顔でも洗って、お化粧でもして……」
瑠璃蜘蛛は、そんな調子で私にも身支度をすすめる。
そうして、瑠璃蜘蛛が化粧を終えて、身繕いを整えた時だった。
ふらっと、殿様が部屋に帰ってきたのだった。
けれど、最初、無造作に扉を開けてきた彼を、私も瑠璃蜘蛛も、殿様本人だと気づかなくて、思い切り警戒してしまった。
それもそのはずで、殿様は、いつの間にやら白い粗末な服に身を包んでいたのだった。頭から首まで白い布でおおっていて、それで鼻から下を隠していたのだ。わかるはずがない。
私たちの視線を感じたのか、殿様は顔の布を外した。
戻ってきた殿様は、すっかり身なりをきれいに整えていた。ここ数日寝込んでいた間に生えていた無精ひげを、きっちりと剃って、癖の強い髪も綺麗にして結い上げていた。
私は、派手で豪奢な服をわざとだらしなく着崩して、金銀の装飾品でじゃらじゃら身をおおっていた彼しか知らなかったから、そんな風に普通の姿の彼を見たのは初めてで、何となく面食らった。前は、一端の不良青年にしか見えない彼だったが、今の彼は普通に巡礼者か隊商の護衛といっても通る。けれど、逆に王族という風には、全く見えなかった。
殿様は戻ってきたものの、気まずそうにこちらの様子を伺っていた。と、そうしているうちに、瑠璃蜘蛛のほうが声をかけた。
「おかえりなさい」
「あ、ああ」
殿様は、瑠璃蜘蛛の言葉に救われたように答えて、こちらに少し歩み寄ってきた。とはいえ、ある一定の間隔をあけてはいたのだが。
ふと、瑠璃蜘蛛は、じっと彼を見る。その意図がわからないようで、殿様は少しぶっきらぼうにきいた。
「な、何だよ」
瑠璃蜘蛛は、ふっと微笑む。
「あなた、今日は、お酒を飲んでいないのね?」
「え? あ、ああ」
いきなりそう聞かれて、殿様が、やや慌てた様子でそう答えた。いわれれば、確かに酒のにおいがしなかった。
まだ熱のあった昨日はともあれ、素面《しらふ》の普段の殿様と対面するのは、私にとっても瑠璃蜘蛛にとっても初めてのことだ。殿様は、雰囲気ががらっと変わってしまっていて、その辺を歩いている兄さんといった感じすら漂っていた。
それは、彼女の目にどのように映っていたのだろう。
「素面《しらふ》の貴方の方が素敵だわ」
瑠璃蜘蛛が目を細めてそういったのをきいて、殿様は少し面食らったようだ。
「そ、そうか……。そうかな?」
ふっと、殿様がほんの少し赤くなったのがわかった。殿様は、少し息をついて仕切りなおして続ける。
「な、何もいわずに外に出て行って、驚かせたなら悪かったよ。その、……よく寝ていたから、その」
殿様は、言葉を選びつついう。
「起こすと悪いと思った、からさ。疲れてるみたいだったし」
その様子に、瑠璃蜘蛛がかすかに微笑む。
「そんな気をつかってもらわなくても大丈夫よ。でも、今日は、貴方、お加減がよさそうね」
「あ、ああ。熱も下がったし、大丈夫だから」
「それならよかったわ」
瑠璃蜘蛛はやさしくそういう。
「でも、まだ病み上がりなんだから、あまり無理はしないほうがいいと思うの」
「あ、ああ。気をつける」
殿様はそう答えてうなずいた。一度、そこで話が切れてしまって、沈黙が訪れた。
殿様は、しばらくためらった後、沈黙にたえかねたようにそろそろと切り出した。
「その、なんだ……」
瑠璃蜘蛛が、小首をかしげる。
「そ、その、俺が倒れている間には、いろいろ、ねえさんたちには随分迷惑を、かけてしまった、ね」
殿様がそんなことを言い出すのは、予想外だった。素面の殿様は、以前の凶暴性をどこかに置き忘れたようで、まだ少し残った乱暴さがとってつけたようにぎこちなく感じさせる。
「おまけに、日程を遅らしちまって……」
「いいえ。気にしないで。事情が事情だもの」
瑠璃蜘蛛がそう答えると、殿様は首を振った。
「いや、俺の責任だ」
「いいのよ、無理しなくても。仕方がないもの」
瑠璃蜘蛛が優しくいったが、殿様は首を横に振る。
「そうはいかない。遅れると、酷くしかられるんだろう。今からでも急いで向かわなきゃ……」
「でも、急ぐにも路銀も少ないことだし、連絡を取って事情を話せば怒られたりしないわ。そんなに責任を感じないで。大丈夫なんだから」
「そうはいかないよ」
殿様は、かたくなに首を振った。
「これは全部、俺の責任なんだ。俺が何とかする」
そういって、殿様は懐から財布を取り出した。
「路銀だってこれでなんとかなるはずだ」
と、私は首をかしげた。殿様は、確か出発時にそれほど金を持っていなかったはずだ。自分でも酒代ぐらいしかもっていないといっていたし、実際に倒れている間に持ち物は一箇所に固めていたが、それほど入ってもいなさそうだった。というのに、今の殿様の財布には、かなりお金が入っていそうだった。
「どうしたの?」
瑠璃蜘蛛も怪訝におもったのだろう。そうきくと、殿様は軽くうなずいた。
「首飾りや腕輪を売った。一応、金や銀で出来てるし、宝石もついているから、そこそこの金になったよ。短剣なんかもそれなりの金額になったしね。着ていたのものも、それなりのものだったから」
どうやら、殿様は剣以外の私財を売り払って金に換えてきたということらしい。それで粗末な服を着ているだけなので、印象が違ったのかもしれない。
「そんなことしてもいいの?」
「いいさ。あんなただの飾りなんて、俺の首にあるより、役に立つほうがよっぽどいい」
殿様は、そういうと安心したのか、少し表情をやわらかくした。
「これで馬を一頭ぐらい買えると思うんだが、それなら何とか間に合うかもしれない」
「馬を? 確かに、それなら大丈夫かもしれないけれど……、そこまでしてもらったら悪いわ」
「ここまでの路銀は、ねえさんが出してくれたんだろう。だったら残りは、俺が全部出すよ。何も気を遣うことなんかないさ」
瑠璃蜘蛛は、ありがとう、と礼をのべつつ、心配そうに言った。
「けれど、貴方はもう大丈夫なの? そんな無理をしないほうがいいわ。本当に病み上がりなんだから、無理はしないで」
「ああ、俺のことは、大丈夫だから」
殿様は、やつれてはいたが、顔色は前よりよくなっていたように思う。
そして、そのまま、ふとまじめな顔つきになり、そっと足を彼女のほうに踏み出した。
天窓から差し込む光が、殿様の顔を正面から照らしていた。その光が、彼の瞳に入る。黒目がちに見えていた彼の虹彩が真っ青に輝いていた。その深い青い色は、魔よけの青い瞳のお守りの色にそっくりだった。
この地では、青い瞳の人間は魔性の力を持っているといわれ、睨みつけただけで他人に呪いをかけるのだと、恐れられてきた。そして、魔性の力を持つ瞳は、自分が魔の力を持つために、他人の呪いを退ける。
殿様の目は、それを思い起こさせた。
殿様は、普段は黒目がちの大きな目の男という印象しかなかったが、明るい場所では、本来の色が透けて見えるのだろう。多分、それまで私も、瑠璃蜘蛛も、彼が目が青いことを知らなかったと思う。
殿様が仮面をつけていたのは、彼自身の顔を隠す為もあったのだろうが、もしかしたら、彼の目から他人の視線をそらす為もあったのかもしれない。
殿様の青い瞳は、多分、彼が王族の身分であるがゆえに、周囲からは不吉として忌まれるものであっただろうし、権力闘争中の呪いに敏感な彼らが、その瞳を恐れないはずもなかった。
そして、その瞳のために、殿様は、かけられた呪いを跳ね除けることができると信じられていただろう。それは、かえって殿様を直接排除しようという動きに繋がっていたのかもしれない。
けれど、そのときの殿様の青い瞳は、私たちにとって悪い印象を与えるものではなかった。
今までぎらついた目で私を睨みつけていた殿様だったが、そのときの殿様はまっすぐな強い視線を持った男だった。天窓から入る陽光の元に立った殿様は、あの紅楼の闇で私を睨みつけていた人とは別人だった。
その青い瞳の魔力を持って、彼は、瑠璃蜘蛛を守ることを決意していた。
「あんたがいなければ、俺は死んでたんだろうから、それぐらいなんてことはない。それぐらいはさせてくれよ」
殿様は、強い意志を感じさせる目で、瑠璃蜘蛛を見ながらこういった。
「必ず、十日目までにねえさんたちを神殿に送っていく」
殿様の言葉は、まるで神に対して宣誓しているような重さを持っていた。
思えば、そのとき初めて、殿様は瑠璃蜘蛛の巡礼の護衛となったのかもしれない。女神の化身を守り、女神の化身が聖地につくために献身する。護衛の戦士とは本来そういうもののはずだった。
私たちは、慌てて準備をして宿を出て行った。
殿様は、話をあらかじめつけてきていたのだろう。馬を一頭手配してもらい、ついでに幌のついた中古の荷馬車を買い付けてきた。乗り心地はよくないが、ないよりましだという。
殿様は、今までの非協力的な姿からは想像できないほど、あちこちにすでに手を回しているようで、商談はあっという間に成立していた。おそらく、瑠璃蜘蛛の承諾を得たら、すぐに行動できるように手配していたのだと思う。
どうやら、私が考えていたよりも、殿様はずっと世間慣れしているようだった。商人たちと会話する彼の言葉をきいても、世間知らずの王族の会話とは思えない自然なもので、その言動で、彼の身分が割れることもなさそうだった。多少の無駄口や世間話を挟みつつも、商談を進める彼からは、先日までの不良青年紅楼の殿様の印象は、全く感じられず、ただの旅人にしか見えない。
それは、まだこの街にいるかもしれない刺客達を巻く方法としても、かなり有効なものだったと思えた。
昼までには、とっくに私たちは街を後にしていた。
殿様は、夜までひたすら馬車を操っていた。
殿様は馬の扱いにもなれていた。乗り物酔いするといけないからと、私は瑠璃蜘蛛に酔い止めの薬をもらった。途中で眠くなって何度か寝てしまったが、その間、瑠璃蜘蛛が殿様に多少の世間話を振っていたような気がする。
殿様は、私たちを届けることに、異常な執念を抱いているように見えた。
実際に遅れれば罰せられる瑠璃蜘蛛や私より、必死になっていたのは間違いなく殿様本人だった。いったい、どうしてそんなに瑠璃蜘蛛を神殿に届けることに執念を抱くのか。彼は夕映えのねえさまの護衛であって、部外者だったはずなのに。そんな疑問すら浮かぶほど、彼は、この件に責任を感じているようで、病み上がりのやつれた姿に、青い瞳を執念にぎらつかせていた。その姿は、私たちに好意的なのに、以前より怖いとも思ってしまうこともあるほどだ。
けれど、そんな殿様にも瑠璃蜘蛛はいつもの調子で声をかけた。彼女の流水のように冷ややかな声が、殿様の焦りを落ち着かせるのか、徐々に殿様は落ち着きを取り戻していた。
私は夢うつつで、瑠璃蜘蛛の涼やかな声を心地よく聞いていた。
殿様は、どこからか地図を手に入れていて、進路をすでに決めていた。本来の道からやや外れる道を通ることで、彼は時間の短縮に成功していた。そもそも、殿様は、実際に神殿まで何度も行ったことがあったのだろう。彼は土地勘があるらしかったし、旅慣れてもいた。
南中した太陽が少し傾くころに宿場町についたが、殿様はそこをすっ飛ばしていった。本来はそこで一夜明かすはずなのであるが、そんなことをしていては間に合わないという判断だった。
月が昇ってしばらくしてオアシスにたどり着くまで、殿様は小休止を少し取る程度で後はひたすら前進するのみだった。夕方にも街にたどり着いたが、殿様は危険だという理由でそこには逗留せずに、オアシスまで走ったのだった。