七日目:月下の殿様
殿様が目を覚ましたのは、巡礼出発から数えて七日目の朝だった。
それは、ちょうど、私と瑠璃蜘蛛が朝ごはんをすませて、今日は何をしようかと考えている頃だった。
四日の午後に倒れて以来、殿様は、ほとんど眠りっぱなしだった。
旅で疲れていたのもあるだろうし、食事をほとんどしていなくて、酒ばかり飲んでいた殿様の体力が落ちていたのも確かだった。医者の言うとおり、飲まされた毒は、瑠璃蜘蛛が早々に吐かせたこともあり、初めに少し痺れただけで済んだらしいけれど、腕の傷跡のほうが厄介らしかった。
毒の塗られた刃で切りつけられた後、ろくに手当てもしなかったそれは、殿様に高熱を出させていた。彼は熱と悪寒に魘されていて、時折目をあけることはあったものの、意識がはっきりしないようで、何かわけのわからないことを呟いたりしたが、結局そのまま眠りに落ちてしまっていた。
時々、殿様はうわごとで、誰かに謝っているようだった。人の名前もつぶやいていたが、それが誰であるかは知らない。もしかしたら、あの世話係の人だったかもしれない。
そんな彼を看病しているのは、瑠璃蜘蛛だった。
瑠璃蜘蛛は、ほとんど付きっ切りで看病していた。
彼女はほっそりしている割に体力があるようで、ほとんど疲れを感じさせなかった。丁寧で優しくてきぱきと看病してあげている彼女だったけれど、何故か、甲斐甲斐しく、という表現が似合わなくて、何故か事務的に見えてしまうのは、多分彼女が無表情だからだと思う。
とにかく、その手並みを見ていると、瑠璃蜘蛛は、乙女より看護婦のほうが向いているのでないかと思うほどだった。ちょっと、心がこもっているように見えないのが難点だけれど。
そんな風な彼女だったけれど、彼女が本当は、親身になって殿様の看病をしたのには違いないとは思っている。だから、殿様の覚醒を一番喜んでいたのも、多分瑠璃蜘蛛なのだろうと思った。
殿様が目を開けて、ぼんやりと辺りを見回した後、短く呻いたとき、瑠璃蜘蛛は、彼が目を覚ましたことに気づいた。そして、彼女にしては珍しく笑顔で声をかけたものだった。
「気がついた?」
声を聞いてぼんやりした殿様は、ようやく状況に気づいたらしい。彼女がいることに初めて気づいたように、瑠璃蜘蛛を見上げて驚いた様子になった。
「あ、あんた……」
殿様の反応を見て、意識を取り戻したとわかった瑠璃蜘蛛は、寝台の方に寄り添った。
「気分はどうかしら。二日間と半日眠っていたのよ」
「あ……」
微笑む瑠璃蜘蛛に、殿様は何か言いかけて言葉がつながらなかったようだ。瑠璃蜘蛛の手が、殿様の額に当てられた。
「最初は驚いたけど、よくなってよかったわ。まだ熱があるみたいだけど、ずいぶん下がったわね」
「どうして……」
殿様は、かすれた声でつぶやいた。
「どうして、俺を置いて行かなかったんだ。……叱られるんだろ」
「あなたをおいていくわけにも行かないでしょう?」
瑠璃蜘蛛は、そういって微笑んだようだった。
「ど、どうして……。三日たっているんだろ、もう間に合わないだろ」
殿様は起き上がろうとしたようだったが、うまく力が入らないらしく、瑠璃蜘蛛のほうに視線だけをやった。
「わからないわ。間に合うかもしれないし。間に合わなくてもそれはそれで、女神様の思し召しよ」
瑠璃蜘蛛の相変わらず無表情な白い顔を見て、殿様は困惑気味につぶやいた。
「俺は、あんたにひどいことをいったよ。それに、あんたらにとって、少なくとも好意的な態度じゃなかったろ? どうして、そんなことまでして、俺のことを助けようなんて……」
「貴方に何を言われたのかわすれてしまったけれど、むしろ、貴方を助けない理由のほうがわからないわ」
「俺が、王族だから助けてくれるのか?」
「別にあなたが誰だって助けるわ」
「それじゃ、どうして……」
殿様は、熱に浮かされた目をさまよわせて呟いた。揺るがない瑠璃蜘蛛の視線に戸惑うように、彼の口調は弱弱しい。
「私が貴方についてきてほしいと頼んだのだもの。見捨てていくなんてそんなの不義理だわ」
殿様は、瑠璃蜘蛛に目を向け、しばらく何か考えているようだった。
「ねえさんは」
しばらくしてから、殿様は、そうっと切り出した。
「俺が、怖くないのかい?」
「私には、あなたはそんなに怖い人には見えなかったわ」
瑠璃蜘蛛は、額に絞りなおした手ぬぐいをおいた。殿様は、手ぬぐいの下から、瑠璃蜘蛛を見あげて、ため息交じりに呟いた。
「あんたは、……なんだか、変わった女だな……」
「よく言われるわね」
瑠璃蜘蛛は、うっすらと苦笑した。
「あ、そうだわ。私たち、さっき朝ごはんを済ませたのだけど、貴方の分も作っておいたの。おかゆなら食べられるわよね?」
思い出したように彼女はそういって席を立つと、まだ湯気ののぼる器をもってきた。
「食べられるかしら? ゆっくりでもいいから少し食べたほうがいいわ」
瑠璃蜘蛛は、そっとさじにかゆを掬い取り、殿様に勧めた。
「あ、お毒見が必要ね。私が食べればわかるかしら?」
「い、いいんだ……」
その話に及んだ途端、殿様が、苦しげにつぶやいた。
「そんなこと、もういいんだよ」
「あら、どうして?」
「いいんだ。……食べるよ。でも、今は食がすすまないんだ。そこにおいておいてくれ」
殿さまは目をそらしながら言った。
「そう。それなら、ここにおいておくわね。お水も置いておくわね」
瑠璃蜘蛛は、寝台の近くの棚の上に器と水差しとグラスを置いた。殿様は、それを見ながら少し考えていたが、ふと、こう口にした。
「あんた、ずっと、俺についててくれたのか?」
「それほどのことはしていないわ」
瑠璃蜘蛛は、笑ってそう言ったが、実際彼女が彼に付き添っていたのは、彼自身がよくわかっているようだった。殿様は再び何か考えているらしく、黙り込んでしまったが、目を伏せていった。
「俺についてて、疲れたろ。ねえさんも少し休憩してくればいい」
殿様は、彼女を見ないで言ったが、その言い方がひどく気弱で優しくて、私は一瞬それが彼の口から出たものだと信じられなかった。
「買い物にでもいって、そこで茶でも飲んで、少しゆっくりしてきたら。俺は、一人でも平気だから」
瑠璃蜘蛛は、その言葉に少し警戒したらしく、かすかに眉根をひそめた。
「本当? どこかにいったりしない? 本当に大丈夫?」
瑠璃蜘蛛は、殿様の様子がおかしいので、飛び出していくのでないかと心配しているようだった。それがわかったのか、殿様は、かすかに弱弱しく微笑んだ。
「ああ。大丈夫だ。待っているよ」
「そう。それなら、私、買い物してくるわね」
「ああ」
殿様がかすかにそう答えて、顔を壁側に背けた。私は殿様が機嫌が悪くなったのかと思った。
瑠璃蜘蛛は私の傍を通り過ぎ、少し買い物に行きましょうといい残して部屋から出て行った。私も、彼女のあとをついて部屋を出ようとした。
ふと、鼻をすするような音が聞こえて背後を振り返る。殿様は、起き上がってうつむいていた。その表情は、暗く沈み、その大きな瞳が潤んでいるようにみえた。
「さ、シャシャ、少し外に出ていましょう」
私が立ち止まっていると、瑠璃蜘蛛が戻ってきて、私の背を軽く押した。
私と瑠璃蜘蛛は、そのまま、買い物に出かけた。狙われているかもしれない殿様を一人にするのは、私は不安だった。それに、瑠璃蜘蛛自身が心配していたように、彼がどこかに逃げ出してしまうかもしれないのに。
けれど、瑠璃蜘蛛は、一言、「しばらく一人にしてあげましょうね」と、言っただけだった。
部屋を出る時、私には殿様が泣いていたようにみえたけれど、それは気のせいなのだろうか。
部屋に戻ると殿様はもう眠っていた。おかゆは空になっていて、さじといっしょに並べられていた。私たちが戻ってくると、殿様は目を覚ましたようだったが、まだ熱も下がっておらず、体力を高熱でかなり消耗してしまっているらしくて、そう楽に動ける状態ではなかったようだ。立ち上がるときも、かなりふらついていたし、瑠璃蜘蛛が思わず手を貸して支えるほどだった。
殿様は、その日、あまり口をきかなかった。瑠璃蜘蛛や私とも、目を合わせもしなかった。
ただ、以前と違って、とげとげしい態度をとることはなくなり、瑠璃蜘蛛のいうことを素直に聞いていたし、昼食も出されるままに素直に食べた。
時折、何か考えるように、明り取りの天窓のほうをぼんやり見上げていることがあり、物憂げにため息をついていることもあった。
その日は、何事もなく平穏に過ぎていった。
瑠璃蜘蛛のけん制がきいているのか、刺客らしい人間がやってくることもなく、誰かが様子を伺っている様子もなかった。
夕食を食べた時も、殿様は素直にそれに応じた。必要以上に彼は口をきかなかったが、瑠璃蜘蛛がどこか嬉しそうだったのが、私には印象的だった。
殿様がいくらか元気になったことで、私もほっとしたのだろうか。その日は、私は瑠璃蜘蛛が床に入るのも見ないで、早くに眠ってしまった。
ふと、真夜中、ことん、という音がして私は目を覚ました。
月は満ちかけていて、明るく夜空を照らしていた。その光が天窓からはいってきて、室内もぼんやりと薄明るかったと思う。
そんな幻想的な青白い夜の部屋の中、気づくと瑠璃蜘蛛は殿様の眠っていた寝台の毛布の上に突っ伏して眠っているようだった。さすがの彼女も看病疲れが出たのだろうか。
でも、そのままでいると風邪を引いてしまう。
私がそう心配したとき、私の目の前を人影がよぎった。
それは、水を飲みに起き上がってきていた殿様だった。殿様は、自分で水入れからグラスに水を注いで、水を口に含むと、深いため息をついていた。まだ殿様は、熱っぽいらしく、少し歩き方がふらついていた。
そして、彼はおもむろに瑠璃蜘蛛のほうを見やった。多分移動する時に、その様子には気づいていたが、どう対処したものか考えあぐねていたようだ。
「ねえさん、そんなところで寝てたら、風邪ひいちまうよ」
それが殿様の声だったのかどうか一瞬、判別がつかなかった。それぐらい別人のように軽やかな声だった。小声で彼はそう声をかけたが、瑠璃蜘蛛は目を覚ます様子はなかった。殿様は、困った様子で彼女をみつめていた。
起こしてあげたほうがいいのか、このまま寝させてあげたほうがいいのか。どうやら、それを悩んでいるようだった。
瑠璃蜘蛛は、というと、眠った拍子にベールがはがれていて、彼女の素顔が月の下にさらけ出されていた。淡い光に照らされて、瑠璃蜘蛛の黒髪は夜の闇のようにかがやき、閉じたまつげがつやつやしていて、それは乙女の名に恥じないぐらいに綺麗だった。
殿様は、そんな瑠璃蜘蛛をじっとみていた。何か魅入られてしまったかのように、彼女を見ていた。あまりに、彼がずっとそうしているので、私は、彼が瑠璃蜘蛛になにか不埒なことでもするのではないかと、思わず疑ってしまうほどだった。
かなり長いこと、彼は、そうしていたように思う。
そして、不意に、殿様は、思いついたようにそばの毛布を取り上げると、瑠璃蜘蛛を起こさないように気をつかいながら、そっとその肩に毛布をかけてやった。
彼女が起きださないのを確認して、殿様は何か満足げに笑った。何か悪戯っぽい雰囲気の笑みだった。そして、足音を立てないように気をつかいながら、床に戻っていった。
しばらくすると、かすかに寝息が聞こえてきていた。
私は、彼のそういう表情を、ここにきてはじめてみたような気がした。