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三日目:蜘蛛と猫-2

 先に茂みのほうにいくと、かすかに唸る声が聞こえた。
 そうっとのぞいてみる。殿様は、木にもたれかかって眠っていたが、昨夜と同じようにうなされているようだった。仮面の端から汗が流れ、鼻から下に巻きつけてある布が肌に張り付いているようだ。かすかに見える顔の色もよくない。
 殿様は、左手で額を押さえるようにして眠っていたが、瑠璃蜘蛛が言うとおり、確かに病人に見えた。
 木漏れ日を浴びて何かがきらりと光った。
 殿様の左手の中指。そこに銀の指輪がはまっている。
 殿様は装飾品を多くつけている人だったので、他の指にも指輪をいくつかしていた。宝石のついた大きなものや、凝った細工がしてあるものや、けれど、その中指の指輪は何の変哲もない銀の指輪で、ひときわ地味な印象だった。そういえば、前からそこには指輪があった。他の指輪は何度か変えていたけれど、その指輪はずっと変わっていない。
 大切なものなのだろうか。
 そんなことを考えて、私はそっと殿様に近づく。
 と、いきなり、殿様の目が開いた。
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。次の瞬間、私の鼻先に殿様の抜いた剣が突きつけられていた。その動きは、私の目には捉えきれないほど速かった。いつの間にどうやって抜いたのか、私にはわからない。
 硬直した私は、殿様の殺気だった視線とぶつかった。思わず気が遠くなりそうだった。
「お前か……! ちっ、驚かせやがって」
 殿様は、そう吐き捨てて剣をしまう。ぜえぜえと彼の呼吸音がせわしなく聞こえた。私はまだ動けずにいた。
「どうしたの?」
 遅れてきた瑠璃蜘蛛が、私達を覗き込んだ。私は思わず彼女の後ろに隠れた。それをみて、殿様は、ふいと尊大に顔を背けた。俺は別に悪くない、とでもいいたげだった。
「シャシャが驚かせてしまったのね。ごめんなさいね」
 殿様は返事をしなかったが、その息が荒いのは隠し切れなかった。息を落ち着かせようとしているようではあったが、瑠璃蜘蛛は、その様子をみて小首をかしげた。
「あなた、やっぱり、どこか悪いのではないの? 熱でも出ているのでは?」
「別に」
 殿様は冷たく突っぱねた。
「別になんでもねえよ」
 そういう声が、少し苦しげだった。殿様は額の汗をぬぐって、目を伏せた。
「そうは見えないわ」
 瑠璃蜘蛛は、小首をかしげた。
「お酒ばかり飲んでいて、何も食べないからかしら」
「そうかもな」
 殿様は、自棄気味にそういって、再び額を押さえていた。いつもどおり二日酔いなのだと私は思っていた。そういう時殿様は迎え酒をする。そうやれば治るのだから、ほうっておけばいいのにと思った。殿様は、まだ酒を持っているのだ。
 しかし、瑠璃蜘蛛は、何か気になるのか、彼の側にひざまづいた。
「何か食べないと体に悪いわ。今日は昨日よりも顔色が悪いし」
「いいだろう。俺の勝手さ。ほうっておいてくれ」
 殿様は、突っぱねようとしたが、瑠璃蜘蛛は自分の荷物入れから、果物を取り出すと殿様に差し出した。
「栄養になるものはもっていないのだけれど。少し食べたほうがいいわ。食べられるかしら」
「お前の施しなんていらねえよ」
 殿様は、冷たく言った。
 私はむっとした。
「せっかくねえさまが用意してくれているのに……」
「シャシャ、いいの」
 いいかけた私の言葉は、当の瑠璃蜘蛛にゆったりとさえぎられた。
「別にそんなつもりはないわ。ただ、私、あなたが心配になったから」
「お前、俺の身分を、その娘から聞いたな? だから俺に優しくするんだろ? いつもそうさ。見かけじゃそうは見えない俺をそうだと知った途端、周りの連中はころっと手のひら返しやがる!」
「ああ、その話はきいたような気もするけれど、別に貴方が誰だろうと、今の私には、大して関係ない話だもの。貴方も、私に自分から身分を明かすつもりはないでしょう?」
 瑠璃蜘蛛の言葉は、何気ないものだったが、痛烈なほどそっけない。
「一緒に旅をしているのに、調子が悪かったらそれは心配するに決まっているわ」 
「それじゃあ何だって言うんだ。ああ、そうか! 俺は売女のお前に哀れみをかけられるほど落ちぶれているってか?」
 今の言葉が、殿様の癇に障ったのだろうか。口調が早口になった。
「そうだろうよ。俺の姿は、さぞかし哀れに見えるだろうな。王族とは名ばかりで、実際はそれにのっかかっているだけのただの酔っ払いさ。酔ってなければ、まともに外に出られない死に損ないのな!」
 殿様は、額を押さえながら自棄気味に言った。
「こんな死に損ないの俺でも命を狙われる。そんな価値すらないのにな」
「そんなことはないわ。あなたが命を狙われるのは、それなりに価値があるからでしょう?」
「価値、か。強烈な皮肉だな、ねえさん」
「別に皮肉をいったつもりはないわ」
 瑠璃蜘蛛は、静かに首を振った。
「でも、勘違いしないでね。貴方の首にどれほどの価値があろうと、私だったら、自分の命を危険にさらしてまで、貴方の命を狙おうとはしないわ」
 瑠璃蜘蛛はそう答えて、唐突に差し出した果物を一口かじった。しゃり、とみずみずしい音がした。
「これはあたりね。とても甘いわ」
 そういうと、彼女は殿様に向き直った。
「毒を怖がる貴方でも、こうすれば安心して食べられるでしょう」
 瑠璃蜘蛛は、薄く微笑んだらしい。
「私は、あいにくとまだ死にたくはないもの。毒の入った果物に口なんてつけないわ。あなたもこれで信じてくれるわね?」
 そういって瑠璃蜘蛛は、殿様に果実を押し付けた。殿様は、彼女の行動に予想ができなかったらしく、きょとんとしたまま、なされるままに果実を受け取った。
「貴方、本当に毒を盛られたことか、身近な人が毒殺されたことがあるのね?」
「だ、だった、ら、何だよ?」
 殿様は、呆然としたまま答えた。その言葉から彼が動揺しているのは、明らかだ。瑠璃蜘蛛は首を振る。
「昨日から、様子を見てて思ったの。ただですら刺客に襲われた後だもの、疑心暗鬼になって当然ね。でも、毒見をしたものなら、平気でしょう?」
 そういうと、瑠璃蜘蛛は、かすかに笑った。その表情を、殿様は呆気にとられたように凝視していた。
「それに、私達は、あなたの力が必要なの。いくら私が道を知っているといっても、女二人での巡礼は危険だわ。あなたがそばにいてくれるほうが心強いの。たとえ、あなたが誰であろうと、私達にあなたが必要なのは、変わりないことなの」
 瑠璃蜘蛛はそうして立ち上がる。
「だから、私、あなたには元気でいてほしいわ」
 私は、殿様がもっと怒り出すのかとひやひやしたが、意に反して殿様は、面食らったように瑠璃蜘蛛を見上げているだけだった。
「……あんた」
 殿様が不意にぽつりといった。
「なあに?」
 殿様は、何を考えているのか。一瞬、何か考えた後、ぼそっと言った。
「あんた、なんだか変な女だな……」
「よく言われるわね」
 瑠璃蜘蛛は、苦笑した。
「とにかく、今日はここで休むから、あなたもゆっくり休んで頂戴」
 瑠璃蜘蛛は、そういってまた薪をあつめに戻ろうとする。
 殿様は、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。その視線は、珍しくとげとげしいものがなかった。瑠璃蜘蛛が遠ざかるのに気づいて、私は慌てて彼女の後ろをついていった。
 私は、瑠璃蜘蛛が殿様を王族と知ってからも、まったく言葉遣いを変えていないのに気づいた。私は、彼女が殿様を怖がらない理由がわかった気がした。



 その日は、それ以降は平和だった。
 殿様も、私達に何か言うこともなく、自分の持ち場所から出てこようとしなかった。
 日が暮れて、すっかり空を星が覆うようになると、瑠璃蜘蛛は火をおこした。食事は、持っていた堅く焼いたパンを食べて済ませた。殿様は、その時は寝ているようで、瑠璃蜘蛛は彼の傍にパンを置いてあげた。
 今日も明るめの月が昇り、砂漠を静かに照らしている。
 瑠璃蜘蛛は、何か鼻歌を歌いながら、焚き火を調整していた。
 瑠璃蜘蛛は、自分は歌は得意ではない、夕映えのねえさまのようにうまくなりたいものだと言っていたが、乙女としては標準以上の歌声の持ち主ではあった。
 けれど、彼女の歌う歌は、少なくとも妓楼で披露されるような歌の種類でなく、素朴な旋律のもので、聞いたことのない歌だった。少なくとも、たくさんの歌知っている夕映えのねえさまですら、歌ったことのない旋律。それは、私にとって、どこか不可思議な響きを帯びているように聞こえた。
「その歌、妓楼の女の歌っている歌とは違うんだな」
 ふいにそんな声が聞こえて、振り返ると、いつの間にか殿様が背後に立っていた。
「あら、少しは調子がよくなって?」
 殿様は、多少、顔色が良くなっている気がしたが、直接返答しなかった。
「そんな歌、楼閣の誰も歌ってなかったぜ」
「ええ、私の故郷の歌だもの」
 瑠璃蜘蛛は、そう答えると殿様は、そうか、と答え、近くの木の下に腰を下ろした。木の幹に寄りかかりつつ、私達に正面こそ向けなかったが、視線だけはこちらに向けていた。
「高地の歌だ。ねえさんは、山の出身なのか」
「まあ、詳しいわね。どうしてわかったの?」
 少し瑠璃蜘蛛が嬉しそうな表情をしたようだった。
「昔、陣中で、同じ歌を歌っていたやつがいたのを思い出した」
「そうなのね。私は、もう方言も忘れてしまったけれど、この歌だけは覚えているわ」
 そこまでいって、不意に瑠璃蜘蛛は、笑ったようだった。ベールの下に、かすかに恥じらいの色がうつっていた。
「気になるかしら? 私、夕映え姐さんほど歌がうまくないから、あなたには聞き苦しいかしらね」
「別に、あんたと夕映えと比べる必要はないよ」
 殿様の声が、少しだけ優しくなった気がした。
「その歌、久しぶりに聞いた。好きに歌ってくれ」
 彼にしては珍しいやわらかい言い方だった。そして、そんな穏やかな殿様を見たのは、初めてだった気がする。
 再び、瑠璃蜘蛛が歌いだした時、殿様は目を閉じていた。眠っているのかどうか、私にはわからなかった。
 私も、そうしているうちに、眠くなって寝てしまった。
 瑠璃蜘蛛の歌声が、夢の中、かすかに遠くから聞こえるようだった。





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