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三日目:蜘蛛と猫-1


 窓から朝の光が、ゆるゆると差し掛かるころ、私はまだまどろんでいた。
 まだ、瑠璃蜘蛛も殿様も起きている気配はない。うとうととしながら、私は不意に夕映えのねえさまのことを思い出して、何となく不安な気持ちになっていた。
 夕映えのねえさまはきっと無事に違いない。私はそう思うことにしたけれど、内心やはり不安だった。
 もしかしたら、私を心配して探し回ったりしていないだろうか。私がいなくても、誰かなにもできない彼女の世話を焼いてくれるひとがいるだろうか。いろいろ心配すると、不安がとめどなくあふれてきそうだった。
 それに、夕映えのねえさまは、殿様のことが好きにちがいないから、いなくなった殿様のことを心配しているに違いない。それか、一緒に巡礼を行うはずだったのに、その機会を失って悲しんでいるかも。それどころか、殿様が無事かどうかわからなくて不安に思っているのかもしれない。
 夕映えのねえさまは、殿様のことが多分好きだったから。
 あの時も――。
「ねえ、殿様」
 夕映えのねえさまは、その日、殿様に酌をしていた。他に妓女はいなかった。殿様は、時々夕映えを席に呼んでは、歌を歌わせた。ねえさまは、歌のうまい乙女として有名だったし、その声をきいて心の落ち着かないものはいないと、評判だったから――。
 殿様は、比較的ねえさまのことは大切に扱っていたと思う。
 殿様が癇癪を起こして荒れたときに止められるのは、ねえさまぐらいなものだったし、何度も殿様の部屋に入っていけるのもねえさましかいなかった。
 それでも、殿様は、ねえさまに対して一定の距離を保っていた。けして、自分の心を開くことはなく、明らかに線を引いていた。
 殿様は、別に特定の娘を愛している風でもなかった。むしろ、娘達のほうは、意外に殿様を愛している風にもみえたが、殿様のほうは彼女達を愛することはなかった。
 多分、ねえさまもその例外にはなれなかったのだ。
「殿様、時々魘されていらしゃるでしょう?」
 ねえさまは、その時そう尋ねた。
「ふ、そうだったか。寝てる時のことなんて覚えてねえ」
「そうかしら。でも、この前、酷く魘されていて、何か怖い夢でも見ていらっしゃるのかと、夕映え、心配になりましたのよ」
「夢か」
 殿様は、酒の入った杯に目を落とした。その瞳が、わずかに曇った気がしたのは、気のせいだろうか。
「女をな、絞め殺す夢をみたんだ」
 殿様は、ねえさまを見ないで言った。
「ふふ、俺を裏切った女だったかな。顔はよく覚えちゃいないが」
 苦笑する殿様に、私は恐れをいだいたが、ねえさまは気の毒そうな顔になった。
「その方を許せないのですね。殿様――」
「は、顔も忘れちまったよ。許すも何もねえ筈だ。だが、感触が、夢だと思えないほど生々しくてな。……本当は、俺は、あの女を殺してまで、俺を裏切った復讐がしたかったのか?」
 殿様は、自問していたが、右手がかすかに震えている気がした。殿様は、くすりと笑って、ねえさまを見た。
「夕映え、俺はそういう男だからよ。俺にあまり関わらねえほうがいいんだよ。いつ可愛がった女の首に手をかけるかわからねえんだ」
 それは、今思えば、殿様の遠まわしな拒絶だった。殿様に自分から関わろうとする、殿様に懸想をしている、夕映えのねえさまに対する、殿様の拒否の言葉だった。
 ねえさまは、その時落胆したに違いなかった。けれど、そんなことはおくびにも出さずに、にっこりと笑った。
「ふふ、殿様、それでも夕映えは」
 ねえさまは――、思いついたように殿様の手をとって、その細い首に当てた。
「夕映えは、殿様に殺されてもいいんですのよ」
 そのときのねえさまは、とても艶っぽく美しかった。多分、それは、夕映えのねえさまの偽らざる気持ちだったのだろう。
 けれど、殿様は――
「や、やめろ!」
 殿様は、慌ててその手を振り払った。その動作は、どこか怯えているようですらあった。杯を落としてしまって酒がこぼれても、殿様は見向きもしなかった。
「やめろ、夕映え」
 殿様の表情は真剣だった。
「そんなこと、冗談でも言うな!」
 そのときの殿様は、明らかに動揺していた。あれほど狼狽した殿様の姿は、それ以来見たことがない。
「シャシャ。起きて」
 ふと、私を現実に引き戻す、涼やかな声が聞こえた。いつの間にか、二度寝していたのだろう。瑠璃蜘蛛の声に優しく起こされて、私は目を開いた。
 向こうで、殿様が不機嫌そうに座っているのが見えた。多分、私より先に彼女に起こされたのだろう。
「さあ、したくができたら出発しましょうね」

 三日目の朝が来たのだった。

 *


 私達は、太陽のぼりきらないうちに、その街を出て行った。
 神殿の位置を把握している瑠璃蜘蛛は、先頭に立って道を歩く。
 行く先は砂漠ばかりで、迷いそうな地形にしか思えなかったが、瑠璃蜘蛛曰くは大丈夫なのだそうだ。砂漠の多いここでも、神殿までの間は一応街道のようになっていて、そんなに迷うような道ではないということらしい。定期的にオアシスがあるので、それが見つかるのなら間違いないだろうと。
 彼女の言うとおり、定期的にオアシスがあり、休憩をとることができたので、今のところ道順からはそれていないようだった。旅人の姿は少なかったが、逆に盗賊などもいないようで、意外に平和に旅ができた。
 殿様は、今日も朝から飲んでいた。この旅に出てからも、彼は酒を抜くことが出来ないらしい。
 どこかにいってしまえばいいのに、と私は思ったが、殿様は、私たちの後を無言でついてきていた。
 殿様は、何のつもりで私達についてくるのだろう。瑠璃蜘蛛が頼んだとおり、護衛役を引き受けたつもりなのだろうか。そんなはずはないと思う。今もって彼は非協力的だし、私や瑠璃蜘蛛に何かあれば悪態をつくことが多い。
 彼が私達についてくる理由は、きっと、一人で置いていかれても、どうしようもないからだと思う。瑠璃蜘蛛も言っていた。殿様も、王都に今更帰るわけにはいかないのだ。それは、彼が命を狙われているからでもあったし、多分、その刺客を放ったのが誰であるのか知りたくないからだろう。
 今も彼を心配しているであろう夕映えのねえさまのことを思うと、殿様のその態度は、私には許せなかった。
 一方、瑠璃蜘蛛とは――。実は、私は、ようやくこの瑠璃蜘蛛という人間になれてきていた。
 最初は、感情のない冷たいひとなのだろうと思っていたが、彼女は十分優しくしてくれたし、時折、ふっと表情をやわらかくすると、言いようもなくかわいらしかった。普段が無表情なだけに、少しだけ笑った時、とても表情がやわらかく見えて魅力的だった。そして、こんな容姿をしている割に、なんとなく男っぽい気がしてしまうぐらいさばさばしていて、頼りにもなる。ちょっと浮世離れしているというか、なんだか不思議な雰囲気はただよっていたけれど、この二日で私は彼女が好きになってきていた。
 彼女の先導で、それほど無理なはやさでもなく、私達は旅路を進んだ。
 午後、太陽が傾きかけた頃、小さなオアシスにたどりついたので、私達はそこで休むことにした。瑠璃蜘蛛曰く、無理にこれ以上歩いても次の宿場町には着かないのだそうだ。夜の砂漠は危険であるので、今日はここまでの旅になる。
 私は、水辺で足をつけて遊んでいた。砂漠の昼。気温が上がるなか、道を歩いてきた私たちにとって、日陰のある水辺はとても貴重なものだった。特に旅慣れていない私は、この熱い砂の上でひからびてしまうかと思ったぐらいだ。その分、水を足で蹴り上げたりして遊ぶのが楽しかった。
 殿様は、私たちとは離れた場所で涼んでいる様子だったが、そのうちに眠ってしまっているようだった。まあ、今日も朝から飲んでいるのだし、眠いのは当然だろう。早くに起こされているし。
 私が水辺で遊んでいる間に、瑠璃蜘蛛はいつの間にか薪を集めてきて、すっかり夜を越す用意をしていた。
 そういうことは、いってくれればよかったのに、と私が慌てて彼女の所にいく。夕映えのねえさまと違って、いつのまにか行動を始めるので、私が気づかないこともよくある。
 けれど、彼女はいつもの調子で、気にすることはないわ、という。
「シャシャは、まだ遊びたい盛りだもの。こういうときぐらいしっかり遊ばなければね。こんなところで、遊べるのだって、とっても貴重だわ」
 瑠璃蜘蛛は、そういってすべて自分でしてしまうのだった。
「そういえば、あのひとは、どこにいるのだったかしら」
 瑠璃蜘蛛は、殿様のことを「あのひと」という。どうせ殿様というあだ名しかわからないのだから、彼をどう呼ぼうと勝手なのだが、思えば、彼と彼女の関係も不思議な部分があった。
 夕映えのねえさまをはじめ、紅楼の女達は、意外に殿様に好意を抱いているものが多かった。危険な男で、怖がってもいたけれど、そういうところが魅力的だとも聞いたことがある。実際、殿様自身は、女達に好かれていた方だった。殿様のほうが、彼女達に愛を返すことはなかったけれど。
 殿様を旅に誘ったのは、瑠璃蜘蛛ではあったけれど、別に瑠璃蜘蛛は、彼女たちや夕映えのねえさまのように、殿様に対して好意を持っている風でもない。かといって、昨日口喧嘩したからといって、あからさまに嫌う風でもなかった。
 そのせいか、瑠璃蜘蛛は、殿様に名前を尋ねなかった。私が殿様と呼んでいることぐらいは知っているはずだが、彼女が彼を示すのは「あのひと」である。瑠璃蜘蛛が殿様の名前を尋ねないのは、意地になっているわけでもなさそうだ。もちろん、素直に殿様が答えるとも思っていないのだろうが、多分、興味がないのである。
 一方、殿様のほうも、彼女に対してよくわからない反応をしていた。
 あれほど嫌味を言ったり、いきなり下世話なことをいったりして辱めようとしている割には、殿様は瑠璃蜘蛛にはあまり近寄らないし、目を合わせることもほとんどない。面と向かうと、殿様は実際は瑠璃蜘蛛にはそれほど強く物は言えないのかもしれない。その態度は、夕映えのねえさまや妓楼の女達に対するものとは、少し違っているように思えた。
 多分、殿様は、瑠璃蜘蛛が純粋に苦手なのだ。そういう反応だ。大体、彼女と話すときも、私を挟んでないと話せないのだ。
 殿様から彼女を呼ぶ時は、よくて「ねえさん」悪くて「お前」。私に彼女がどこに行ったか聞くときも「あの女」とか「あの冷血女」などとよんでいた。
 最初はなんてやつだろうと思ったけれど、殿様のほうもどうも瑠璃蜘蛛の名前や素性を良く知らないので、呼びようがないのだろうと気づいた。殿様は、瑠璃蜘蛛が乙女の一人であるというぐらいしかしらないのだ。舞踊が得意だとか、織物が絶品だとか、そんなこともまったく知らないのだと思う。それは、殿様が紅楼に引きこもって、他の好事家達と交流していないからでもある。
 そして、殿様も、意地を張って瑠璃蜘蛛の名前をたずねない。
 だから、瑠璃蜘蛛が「あなた」とか「あのひと」と呼んで、殿様が「ねえさん」とか「あの女」と呼ぶおかしな状況が起こっているのだった。
 私は、なんとなくそんな二人の関係が、面白く思え始めていた。
「殿様なら、あの日陰のあたりにいましたよ」
 私は、彼が休んでいるはずの茂みのほうを指差した。
「あのひと、大丈夫かしら。今日はなんとなく歩みが遅れ気味だったわ」
「そうですか?」
 私はきょとんとした。
「お酒は飲んでいたけれど、あの人、昨日から何も口にしていないわ。こんな行程を続けていたら、それこそ倒れてしまうと思うけれど」
 それこそ、殿様が意地を張っているあらわれだった。
「少しゆっくり歩いたつもりだったけど、疲れてしまったのかしらね」
「別にそんなこと、気にしなくても……。あの人だってもう大人なんですもの。自分の責任よ」
 私がそういうと、瑠璃蜘蛛は苦笑した。
「シャシャは手厳しいのね。でも、様子を見てあげたほうがいいわ」
 瑠璃蜘蛛は、そういって殿様のいるほうにいこうとするので、私は彼女の先に立った。殿様にかまうのはいやだったが、これ以上彼女に働かせるのに気が引けた。





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