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二日目:瑠璃蜘蛛-2


 居心地の悪い沈黙が流れていた。殿様は、私のほうを見ないで、不機嫌そうに黙りこんでいた。
 そこに、滑り込むように女の涼やかな声が入ってきた。
「お待たせしたわね」
 ふと、気づくと籠に食べ物や水を積んだ瑠璃蜘蛛が立っていた。いつからそこにいたのだろう。もしかしたら、瑠璃蜘蛛は、私と殿様の会話をきいていて、それが途切れるのをまっていたのかもしれない。ともあれ、私は、安堵した。瑠璃蜘蛛のところに荷物を持つのを手伝いにいくことで、殿様から離れることにも成功した。
「食料とか水とか、要るものを買ってきたけれど、とりあえず、これで二、三日ぐらいもつかしら」
 瑠璃蜘蛛は、そんなことをいう。
「けれど、ねえさま、路銀は大丈夫ですか?」
 私がそういうと、瑠璃蜘蛛は、ええ、と静かに答える。
「こういうことがあってはいけないと思って、それなりに持ってきたわ。十日ぐらいならなんとかなるわね。今日のとまる宿も見つけてきたわ。あまりいいところではないけれど、野宿よりはいいでしょう」
 私は彼女の言葉に、ほっと安心した。どうせ殿様は、大した路銀を持っていなさそうだった。たとえ持っていても、すべて酒代に消えてしまうだろう。瑠璃蜘蛛が一緒にいてくれてよかったと、心底安堵したものだった。
 瑠璃蜘蛛は、籠の中から肉を挟んだナンのようなものを取り出すと、私に渡してくれた。
「今日は何も食べてなかったものね」
「ありがとう、ねえさま」
 私はそういって喜んで口にする。甘い肉汁が溢れてきて、忘れていた空腹感が一気に蘇ってくるようだった。
 私がそれを夢中で食べていると、瑠璃蜘蛛は殿様のほうに歩み寄った。その手には、私にくれたのと同じものがあった。殿様は、瑠璃蜘蛛の出現に気づいていたが、知らぬふりをしているようだった。
「あなたの分よ」
 そういわれて、殿様は、仕方なさそうに瑠璃蜘蛛を見た。
「お酒は飲んだみたいだけれど、食べてるようにみえないもの」
 殿様は、鼻で笑った。
「ふん、そんなものが食えるかよ」
「お口にあわないかしら?」
 無表情に小首をかしげる瑠璃蜘蛛に、殿様は冷たく言った。
「俺が言ってるのはそういうことじゃなくって、お前みたいな、どこの馬の骨かもわからねえ女に、もらったものを食えるわけがねえといっているんだ」
 殿様は、引きつった笑みを浮かべた様子だった。
「毒殺されちゃたまらねえからな」
 あまりの言い方に、私はむっとした。自分は金もろくにもってなくて、自分の酒だけ買ってきたくせに、この男はいったい何を言っているのだろう。
「なにいってるの。瑠璃のねえさまは!」
「シャシャ、いいの」
 私が思わず食って掛かるのを、瑠璃蜘蛛は静かに制した。
「信用してくれないのなら仕方がないわね。私にそんな他意はないのだけれども」
 と、ため息をつきつつも、彼女は、こう続けた。
「でも、これからまだ旅は長いのだから、ある程度は信頼してほしいわね。これからも一緒に旅をするのですもの」
 瑠璃蜘蛛が、そうおっとりというと、殿様がにやりと目元をゆがめたのがわかった。
「ほほう、そんなに信用してほしいのか?」
「ええ、信用してほしいわ」
 殿様は、皮肉っぽく笑い、そっと瑠璃蜘蛛のほうに歩み寄って告げた。
「そうか、それなら一発やらせろよ」
「なっ」
 私は絶句した。それには、あからさまに悪意がこめてあった。
「俺を満足させられるっていうなら、信用してやってもいいぜ。それからお前が俺を裏切ったとしても、一回いい思いして死ぬなら、それはそれでいいからよ。許してやらあ」
 殿様は忍び笑いを漏らしながら、瑠璃蜘蛛を見た。
「どうなんだよ。ふん、お高くとまりやがって。最初から気に入らなかったんだよ、その人形みたいな面が。乙女だなんだといいながら、お前だって所詮は商売女なんだろうが」
 殿様は、明らかに瑠璃蜘蛛に対する嫌悪を示してそう詰め寄った。
「な、何を言ってるの! 女神様のお祭り中は……!」
「餓鬼は黙ってろ!」
 殿様は私を一瞥して、瑠璃蜘蛛に視線を戻した。
「で、どうなんだよ」
 そうね、と瑠璃蜘蛛は顔色ひとつ変えない。
「本当に、あなたが私を抱きたいというのなら、別にかまわないわ。女神様の祝祭日は本来は、禁欲的に過ごさなければならないけれど、その間に何か起こるとしたらそれは女神様の思し召しだということになっているわ」
「ふうん、それじゃ、やらせてくれるっていうのかよ?」
 殿様が本気だったのかどうかはわからない。ただ、殿様が嫌がらせにわざと意地悪くいっているのはわかる。瑠璃蜘蛛の返事に、殿様がやや困惑しているようにも見えた。
「ただし、あなたが、本当にそう思っているのなら、よ」
 瑠璃蜘蛛は、まっすぐに殿様を見ていた。思わず殿様がその視線にひるんだようだった。
「本当に、だと、どういう意味だ?」
「あなたは、本当は私になんて興味がないし、本当はそんなことしたくもないんでしょう? 違うかしら?」
 瑠璃蜘蛛は、静かに続けた。
「あなたは、本当はお酒も飲みたい気分じゃないんじゃないの? そうやって、何かで気を紛らわしてないと、落ち着かないからではないの? その後で、自己嫌悪に陥っているのでないの?」
 瑠璃蜘蛛は、優しくおっとりと、しかし、ひるむことなくそういった。殿様が、はっとした顔になったのがわかった。
「気を紛らわせる為に自分に嘘をついて苦しむのは、本来の目的から外れていると思うわ。本当に快楽に溺れたくて、そうやっているなら、止めないけれどね」
「な、何言ってやがる……。馬鹿馬鹿しいこと言いやがって!」
 殿様は、強がるように笑った。
「ちっ、お前が信用して欲しいっていうから、せっかく、機会をくれてやったのによ。まあいいさ、俺はお前みたいな冷たい女は嫌いだからな。どうせ、お前みたいな女は閨でも、その氷のように冷たいまんまなんだろうよ」
 そういって、殿様は一方的に話を打ち切り、立ち去ろうとした。しかし、瑠璃蜘蛛は彼の背中に一言投げやる。
「あなたは、何か恐いことがあるの?」
 きかれて彼が弾かれたように振り返る。
「そんなに恐いことがあるの?」
 もう一度聞かれて、殿様は、慌てたように答えた。
「な、何を! 俺に恐いものなんか!」
「それじゃあ、どうしてそんなに怯えているの」
「お、おびえている? 俺が?」
「ええ、そう見えるわ。……どうして、何が恐いの?」
 瑠璃蜘蛛にきかれて、珍しく殿様は動揺しているようだった。
「何が怖いの? 騙されて、毒殺されることが恐いの? それで私を疑っているの?」
 瑠璃蜘蛛は、ゆったりと、しかしはっきりした口調でたずねた。
「それとも、命を狙っている人が、あなたの慕っていた人、あなたの大切な人かもしれないことが恐いの?」
「な、何言ってやがる! 俺は!」
 図星を指されたのだろうか。殿様の声が高くなった。
「本当は、信じてみたいのではないの? その人は、あなたを殺したりしないのだって」
「うるさい!」
「あなたも知っていたんでしょう? 昨日、その人は眠るあなたを見ていた。本気で殺すつもりなら、すぐに殺せたはずなのに」
 瑠璃蜘蛛は、恐れを知らないのだろうか。彼女はためらいもなく殿様にそんなことをいう。
「それなのに、どうして信じてあげないの? どうして怖がるの?」
「だ、黙れ! 黙れ!」
 ぎゅっと殿様のこぶしが握られていた。その手がかすかに震えている。私は、瑠璃蜘蛛が殿様に殴られるのではないかと心配して、身を潜めた。けれど、瑠璃蜘蛛は凛とたたずんでいる。
 そんな爆発的な空気がしばらく続いていた。私は何をすることもできず、二人をかわるがわるみつめて、おろおろするだけだった。
 その空気を最初に破ったのは、また瑠璃蜘蛛のほうだった。
 彼女は、ふっと微笑んだようだった。けれど、ベールで顔を隠していて、さらに元から表情の薄い彼女のこと、その表情の変化から感情はわからない。
「ごめんなさい。少し立ち入ったことをきいてしまったわね」
 瑠璃蜘蛛は、そういうと少しだけ優しい声で言った。
「ひさしぶりに外の世界に出てしまうと、とても疲れてしまうわね。あなたも外はお久しぶりみたいだし、無理しないでいきましょうね」
 そういって瑠璃蜘蛛は、歩き出した。そのまま、殿様とすれ違う。
 私は、殿様が瑠璃蜘蛛に暴力を振るうのではないかと心配したけれど、私の予想に反して、殿様は彼女に手をあげることもなく、彼女の後姿を見送るだけだった。
「あ、そうだわ」
 と、不意に瑠璃蜘蛛は、無造作に殿様を振り返った。殿様が、ドキリとしたように彼女を見る。
「あのね、宿は、西の門に近いところを取ったの。一軒しかないから、すぐにわかるわ。私達もそこにいくから、貴方も来てね」
 殿様は返事をせず、そこに立ち止まっていた。
 私は慌てて、彼女の後を追いかけた。
「ねえさま、あの人、本当に……」
 私がそう不平を言おうとすると、瑠璃蜘蛛は苦笑した。
「いいえ、私もいけないの。思わず、つい強く言ってしまったもの。だめね、久しぶりに外に出てみると、刺激が強すぎて、気が立ってしまうのね。多分、あの人も同じだわ」
 私は、一通り瑠璃蜘蛛に殿様のことを話した。彼が紅楼で殿様といわれていた王族であること、夕映えのねえさまが彼を護衛に頼んだこと、その夜にえらいひとがやってきて殿様に外に出ないように頼んでいたこと。
 瑠璃蜘蛛は、そう、とだけしか答えなかった。
「もう、あんな人置いて、私達だけで神殿に向かっては?」
 と私が尋ねると、瑠璃蜘蛛は静かに首を振った。
「それはいけないわ。女二人では旅はとても危ないものよ。それに、あの人だって、ここまで来て帰るわけにはいかないもの」
「でも、――」
 宿に彼が来るなんて思えない。私が言いよどむと、彼女はくすくすと笑った。
「大丈夫よ。きっと、あの人は来てくれるわ」
 瑠璃蜘蛛には、妙な確信があるらしかった。
 私達は、歩きつかれたので、早めに西の門に近い宿で休むことにした。
 殿様とも相部屋とのことだったが、部屋には殿様はいなかった。やっぱり、来ないんじゃないだろうか。それはそれで、私にとってはいいことだけれど。
 けれど、時間が夕刻に近づいて、空が赤くなりだしたとき、ふらりと殿様は部屋に現れた。殿様は、あえて私達から一番遠い場所を選んで無言で座り込んだ。
「あら、お帰りなさい」
 瑠璃蜘蛛は、そうさらりと彼に声をかける。殿様は、無視するように無言だった。
「さっきは、ごめんなさいね。私も気が立っていたみたい」
「何があったかなんて、いちいち覚えてねえよ」
 殿様は面倒そうに吐き捨てた。瑠璃蜘蛛がきょとんとしているのを見て、彼は、ため息をついて、付け加えた。
「俺が忘れてるんだから、お前も忘れればいいだろ。もういい」
「そう。ありがとう」
 瑠璃蜘蛛が、ふとわずかに笑ったようだった。
「何だよ。何笑ってやがる」
 殿様が、不機嫌そうに彼女を睨んだ。
「いいえ、ごめんなさい。なんとなく……」
 瑠璃蜘蛛は、少しためらってから、ぽつりと言った。
「あなたって、なんだか猫に似ているわね」
「は?」
 殿様は、唐突にそういわれて、呆気に取られた。
「ど、どういう意味だ、そりゃあ」
「ううん、深い意味はないの。忘れて」
 そういって、彼女はくすりと笑った。殿様は、その様子をちらりと見てなにやら不満そうだったが、結局何もいえなかったらしく、すぐに目をそむけてごろりと寝転んでしまった。
 その日、殿様は酒を飲んでいたようだったが、結局、食事を取っている様子はなかった。食事を瑠璃蜘蛛が勧めたが、いらないといって受け付けず、そうそうに一人寝てしまった。
 その夜は疲れていたのか、瑠璃蜘蛛は、明日に備えて早く眠りましょうといった。確かに私も疲れていたし、それに賛同した。昨日は、なんだか落ち着いて眠れなかったし、朝も早かったから。
 けれど、殿様とも相部屋になってしまったことが、私は落ち着かなかった。
 昼間、あんなことを瑠璃蜘蛛に言い出した彼だ、何をするかわからない。そんな風に思って怖かったのだけれど、瑠璃蜘蛛はというと、私より先に平気そうに眠ってしまっていて、安らかな寝息をついていた。
 それに、殿様のほうも、部屋の端っこを自分の寝床に決めたようで、私達に近づくようなことはなかった。
 ただ、殿様は。時折うなされて、苦しげにしていることがあった。それがあまりにも苦しげで、殿様は何を苦しんでいるのだろうと少し気の毒に思うほどだった。けれど、昼間の傍若無人な殿様の姿を思い出すと、やはり怒りがこみ上げてきて、当然の報いだとも思えた。
 私は、瑠璃蜘蛛にぴったりと寄り添って眠ることにした。





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