四日目:乙女の矜持-1
四日目の朝は、平穏に訪れた。相変わらず今日も良く晴れていた。
その日も、朝早くに私達は出発することにした。殿様は、今日も調子よくなさそうだったが、昨日はよく休めたせいか、特に文句をいうことなくついてきていた。なんとなくだが、殿様の瑠璃蜘蛛に対する態度は、昨日までより緩やかになっていたような気もする。
瑠璃蜘蛛によると、行程は順調だという。
その言葉のとおり、そのまま西に歩いていくと、昼をすぎたころには宿場町に着いた。
一日あいての町だったが、この宿場町はこの前の町に比べてずいぶん大きく、華やかだった。その様子に、私は少なからず興奮したものだった。砂の色と空の色の二色だけの砂漠を旅してくると、町の市場の過剰なまでの色彩の氾濫がいとおしく思えてきた。
「ここは少し大きな町だから、見ごたえがあるでしょう?」
と瑠璃蜘蛛は言った。
「でも、迷子にならないでね、シャシャ」
そういって、瑠璃蜘蛛は、ひとまず宿を探そうといった。殿様も黙ってついてきていた。
北の巡礼の道は、南路に比べてさびれているとはいえ、行商人の往来はそれなりにあるようだった。瑠璃蜘蛛は、北の地方との交易にこの街が使われるのだといっていたので、そのせいなのかもしれない。宿屋も多く、人も多かった。
途中の広場に噴水があり、私は少し立ち止まってそれを見ていた。水しぶきが日の光に当たってきらきらしていた。噴水をみるのは初めてだったので、私はとても心ひかれた。
殿様は、はしゃぐ私と微笑む瑠璃蜘蛛を、何を考えているのか、遠巻きに眺めていたようだった。
瑠璃蜘蛛は、宿の立ち並ぶ場所で、殿様のほうを見た。
「このあたりの宿屋でいいかしら。お金があまりないから、今日も貴方と相部屋になると思うけれど」
「別に」
瑠璃蜘蛛がそう断ると、殿様は肩をすくめた。
「俺はどうでもいいさ。あんた達のほうがいいっていうならな」
「それなら大丈夫ね」
瑠璃蜘蛛は、軽くうなずく。私は、別の部屋にしてほしかったけれど、瑠璃蜘蛛がそういうのだから仕方がないと思った。瑠璃蜘蛛がいる限りは、殿様も乱暴なことはしないと思う。
瑠璃蜘蛛は、いくつか宿屋を当たって、値段と条件の合う所を探すようである。
「それじゃあ、私はここのあたりを何軒かあたって、一番いいところにするわね」
そして、何を思ったのか、瑠璃蜘蛛は、ふと私を見てこういったのだ。
「その間に、向こうの市場で食べ物を買ってきてくれるかしら。街の空気を楽しみたいでしょうし、私のほうも時間がかかってしまうといけないわ。宿が決まると、さっきの噴水の広場で待っていることにするわ」
最初は私に言われたのだと思い、はい、と答えた所で、瑠璃蜘蛛の視線が殿様に向いた。
「貴方もシャシャについていてあげてね」
驚いたのは殿様も同じだったようで、一瞬、彼があっけにとられたのがわかった。
「お、俺が?」
何言っているんだ、と言いたげな殿様だったが、そこまでは口には出さなかった。瑠璃蜘蛛は、特に悪意もなさそうだ。
「そうよ。シャシャは、こんな大きな町に出るのは初めてだもの。大きな町には、悪い大人もいるものだわ。だから、貴方が一緒にいてあげてね」
「そんなの、ねえさんが、戻ってきてから……。俺と、この餓鬼とは……」
なんとなく殿様の反論は歯切れが悪い。
「それでは、日が暮れてしまうかもしれないわ。せっかく出てきたんですもの、買い物ぐらい楽しませてあげて。シャシャ、これで食べ物を買ってきてね」
瑠璃蜘蛛は、私に財布を渡すと、まだ不服そうな殿様のほうを見た。
「それじゃあ、シャシャのこと、お願いね」
「……た、頼まれても、よ」
殿様は何か言いかけたが、結局、言葉を飲み込んでしまった。
私は大変なことになった、と内心思ったが、街の様子を見て回ることができることについての期待感が、殿様への嫌悪感より勝っていた。
瑠璃蜘蛛と別れた後、私と殿様は、市場に向かった。
殿様は、私に何も話しかけてこなかったが、瑠璃蜘蛛に言われたとおり、私にはついているつもりだったようだ。
けれど、特に殿様とする話を、私は持たなかったし、殿様のほうもそれは同じだったらしい。私たちは、やや気まずい沈黙の中、市場についた。
市場は、人であふれていてにぎやかだった。私は、殿様と一緒にいるということも忘れて、はしゃいでいた。色とりどりの野菜にあふれた店頭にも、きらびやかな布が並んだ店にも、同じように驚いたり、喜んだりした。殿様がそんな私をどう見ていたかは知らないが、少し離れた所からついてきていた。
楽しく店を見回りながら、瑠璃蜘蛛から頼まれたように食料を調達した。そろそろ帰ろうかと思いながら、果物を売っていた露天商に勘定をすませているところで、ふと商人が声をかけてきた。
小太りの親切そうな中年の女の人で、頼んだ果物を用意してくれながら、彼女は笑顔で聞いてきた。
「お嬢ちゃんも大変ねえ。旅をしているのかい」
「はい。旅は初めてなんですが」
「そうかい。大変だが、お嬢ちゃんぐらいの年では、ものめずらしくて楽しいこともあるだろうね」
おばさんは、そういってにっこりと微笑んだ。そして、ふと彼女は気づいたように、私のかなり後ろでぼんやりと突っ立っている殿様のほうを見た。
「お嬢さんは、あのひとと連れかい?」
ときかれ、私はいくらか困った。殿様と一緒にいたくない私は、本当は連れでないといいたかったが、私のような子供が一人で旅をしているなどというのは不自然だ。
「はい」
と私はひとまず答えた。実際、それが事実である。
殿様のことを、私の兄弟のように見たのか、おばさんは笑顔でうなずいた。
「そうかい。それでは、これをおまけしてあげよう。お代はいいからね」
と、おばさんは林檎を一つ追加してくれた。
「一緒に二人で食べるといいよ」
「ありがとうございます」
私は、うれしくなって笑顔で礼をいい、商品を持って引き上げた。
殿様は、後ろのほうで閉まっている店の軒先にもたれかかって私を待っていた。腕組みをしている彼は、私が近づいてきたのを見て、それを崩した。
「すみませんでした」
私がそう声をかけると、彼は、ゆっくりと体を起こした。殿様は、痩せているので一瞬わからないことが多いが、こうしてみると、見上げなければならないほど背が高かった。
「もういいのか」
「はい。お待たせしてすみませんでした」
殿様は、そのことについて、それ以上何も言わなかった。
私と殿様は、それから瑠璃蜘蛛の待っている広場へと歩き出していた。市場を離れると急に人の姿がまばらになる。雑踏から遠ざかると、私と殿様の砂を摺る足音だけが聞こえて、私はいたたまれなくなって、ふと足を止めて殿様に声をかけた。
「これ……」
私は、買い物籠から林檎をさしだして、殿様にきいた。
「これ、召し上がりますか?」
私は一応聞いてみた。先ほどのおばさんからは、二人で分けるように言われているし、それを殿様も聞いているはずなので、私としては一応きいてみなければいけなかった。
殿様は、私に視線を投げた。殿様は、今日はそれほど目が据わっていない。近くによると、酒のにおいがしたから、飲んでいないわけでもないのだろうが、いつもの彼にしては控えめそうだった。
彼は日が高くなるころには、すでに大酒を飲んでいて、目が据わっていることが多かったので、なんとなく私は珍しいような気がした。手持ちの酒がなくなったわけでもないだろうに、どうしたのだろう。
「俺に?」
一瞬おくれて、殿様はそう聞いた。
「はい。二人で食べるように言われました」
「馬鹿だな」
殿様は、嘲笑う。
「そんなもの、口にするわけねえだろ。どこのどいつから貰ったのかわからねえものをよ」
「そんな。親切そうなおばさんからおまけしてもらったんです」
「親切? 人の顔見てわかるもんかい」
殿様は、そう悪態をつく。私はなんだか腹が立った。
「毒見をすれば、食べてもらえるんですか」
そうきいてやると、殿様は面白くなさそうな顔でふんと鼻先で嘲笑った。
「そんなに俺に死んでほしかったら食ってやるよ」
そういって殿様は、林檎を奪い取った。私は思わず非難の声を上げたが、殿様は気にせず林檎を齧った。
「なんだ、食べてほしくないのか?」
「そういうわけではありません」
でも、もう少し方法があるじゃないか。私は喉まででかかった言葉を飲み込んだ。殿様は、例の三白眼で、私を見下すように見た。どうやらにやりとしたらしい。相変わらず、殿様は顔を隠しているのだが、このところの付き合いで、私にはその下の彼の表情がわかるようになっていた。
「それとも何か、お前もこいつを食べたかったと? 食い意地が張ってるんだな」
「別に私はいりませんが……」
殿様は、あっという間に林檎を齧りつくしてしまうと、ぽいと芯をその辺に捨てた。そして、懐に手をいれると、何か取り出して砂の上に投げやる。それは私の足元に落ちた。
きらきら光るもの。それは、殿様がいくばくかしかもっていないお金だ。
「それで代わりに何か買えよ。それでいいだろう」
「要りません」
私は、なにか傷つけられたような気分になって、そう強い口調で言った。殿様に対する憤りで顔が真っ赤になっていたと思う。
「いらねえ? どうしてだ」
「別に貴方の施しを受けるほど落ちぶれていません」
とっさにそう答えてしまった。たぶん、昨日の瑠璃蜘蛛と彼の会話が頭に残っていたから。
けれど、そういって顔を上げて、殿様の鋭い視線にぶつかって、一瞬、私はどきりとした。
殿様の目は、暗く絶望感にあふれていて、そして、暴力性を内に秘めているようだった。日の下で見る殿様は、どこかしら貧弱で、楼閣で居座っている彼ほどは恐くないと思っていた。が、それは思い違いだったのかもしれない。こうして、私の前に立ちはだかる彼は、狂気すら感じさせる憎悪を振りまいている。
素直に、恐いと思った。
「そうか。お前より、俺のほうがよほど落ちぶれているってことか」
私は返事が出来なかった。
そんな私の様子をじっと見て、殿様は、ははっと声を立てて笑った。
「そんなにお前は俺が恐いのか」
殿様は、そう聞いてきた。私は返事をせず、だまって彼を見ていた。心臓が早鐘のように打ち、ここから逃げ出したくなった。殿様に抱いていた怒りは胸の奥にくすぶっていたが、それを冷やすように恐怖心が迫ってきた。
殿様の目が、私をにらみつけていた。
「俺のどこが恐いんだ。……俺は、ただ……」
殿様は、そういいながら私に一歩近づいた。全身の毛が逆立つような感じがした。
恐い。……こわい、こわい。
「俺は、ただ……」
私は身動きできず、彼の目を見つめていた。殿様の目の中に、怒りの感情が見て取れた。けれど、あれは、誰に向けてのものだろう。私の中にいる私ではないものを見ている気がした。
誰だろう?
ああ、そうか。
殿様が私に似ているといっていた、あの、苦しむ彼から逃げ、彼を裏切った少女だろうか。
――俺は、ただ、一言そばにいてくれといっただけじゃねえか!
殿様の声が幻のように聞こえた気がした。
ふと、気がつくと、殿様は、苦笑して身を翻していた。
私が泣きそうな顔をしているのに気づいたのだろうか。彼はいくらか気まずそうに吐き捨てた。
「そんな面しなくても、お前みたいな餓鬼を取って食いやしねえよ」
俺がそんなに見境がないように見えるのか。と、殿様は、不服そうに吐き捨てていた。
「そろそろ、あの女が戻ってくる頃だろ。俺がいやなら、早く帰ればいい」
そういって彼が歩き出した時だった。
何かの気配を感じたように、殿様が飛びのく。そして、先ほどまで彼がいた場所に、黒い影が走りこんでいた。