一日目:出立−1
祭りの当日がやってきた。朝早くに起きだして、私はあれこれ準備をしなければならなかった。けれど、それも済んでしまって、やがて出立の時までねえさまとお部屋で待っている時間が訪れていた。
私は、もう待つだけだったけれど、他にもさまざまな準備があるみたいで、楼閣のの中はあわただしかった。
そんな中、私は、ねえさま達に綺麗な服を着せてもらって、頭にあの髪飾りをつけてもらって、お化粧をしてもらった。そんなにおめかししたのは初めてで、私は鏡に映った自分の姿が別の人のような気がしていた。思わずはしゃいでいるのがわかったのか、ねえさまが目を細めて笑っていた。
そして、祭りのために飾り付けられた私とねえさまは、輿に乗せられた。輿には屋根と薄絹で出来た幕が垂れ下がっていて、私たちの姿は隠され、そのまま、外に連れ出されたのだった。
外の空気は、どこか乾いていて、さまざまな香りがした。市場の果物の香りや、花の香りもする。私は久しぶりの外気にやや圧倒されていた。
輿は私たちを乗せたまま、街をゆっくりと進んでいる。まだ行進は始まったばかりで、周りの騒がしさはそれほどでもなかった。ただ、華やかな音楽が、遠くきこえていた。
乙女は、祭りのときに基本的に顔を見せてはいけない。ベールで顔を隠していないといけないのだ。とはいえ、ベールはかなりの薄物で、それごしに顔立ちはわかるから、沿道にでてきた市民にも、彼女たちの美貌にふれる機会はあった。薄絹をすかしてみると、たくさんの市民が外にでてきては、彼女達の姿を見ようと押し合ったり、背伸びをしている。
とても楽しい予感に満ち溢れているはずだった。実際着飾ってもらってとてもはしゃいでいたし、どきどきしていた。嬉しかった。それなのに、急に外気に触れたからだろうか。私は、急に不安な気持ちになっていた。
外に出た、ということは、もうすぐ彼が現れるのだ。護衛たちは、街のはずれで乙女達を待っているのである。夕映えのねえさまの護衛である殿様も、そこにいるに違いなかった。
それを思い出すと、私は急に恐くなった。昨日の殿様の暗い目がはなれなくて、不安になってきたのだ。
不安になった私はねえさまにくっついたまま、しばらく無言におちていた。
ああ、今でも、思い出す。夜の灯火の赤い光に照らされて、炎に揺らめいてぎらぎらしている殿様のよどんだ瞳。
はじめてみた殿様は、思ったより若く、思ったより冷酷な顔立ちをしていなかった。特別美男子というほどでもないが、それなりに整った顔をしていたし、優しく微笑んだりするととても愛嬌があるのかもしれないと思った。けれど、その顔で殿様が浮かべるのは、冷たい歪んだ笑みだけで、酒臭い息と一緒に吐く自暴自棄な暴力的な言葉が、私の頭にこだまするようだった。どす黒い感情を映したあの目が私に迫ってくるようで、私にのしかかってきていた。
私は小刻みに震えた。殿様はいつでも恐かったし、嫌いだったけれど、昨夜ほど殿様を恐くて気持ちの悪い存在だと思ったことがなかった。
「さっきから、急にだんまりになってどうしたの?」
心配してくれたのか、夕映えのねえさまが私をのぞき込んできた。
「ねえさま」
私が思わずねえさまの袖をつかむと、彼女は苦笑して私の頭を撫でた。
「どうしたの? 今日は甘えんぼうねえ、シャシャ。久しぶりのお外が不安なのかしら」
夕映えのねえさまが、頭を撫でてくれながら、小首をかしげた。
「どうしたの? わけを話せば力になれるかもしれないわ」
ねえさまにそういわれて、私はとうとう我慢できなくなった。私は、それで、昨日の殿様の来客のことを伝えた。殿様が、彼に対してとっていた態度、そしてあの憎悪に満ちた瞳。けれど、一体、来客が何ものなのかわからないこと。
「まあ、昨日、そんなことがあったの」
と、ねえさまはいった。祭りのため、装飾のついたベールが、きらきらしていた。
「それは、殿様の世話係のお方ね」
「ねえさまは知っているんですか?」
「ええ、少し事情を聞いたことがあるの」
そういって、夕映えのねえさまが、苦笑しながら、「秘密よ」といって語ったのは、以下のようなことだった。
紅楼の殿様は、確かに王族の一人である。順位がどれほどかわからないものの、どうやら王位継承の権利すら持っているらしかった。だから、ねえさまは、殿様が王子か、王の兄弟の子供かそれに近しい存在ではないかといっていた。ただし、王にはたくさんの養子も義兄弟もいたから、彼がどの程度の地位にあるのかはよくわからないという。
今の王様は、この間の戦闘中に失踪してしまって行方不明となっていた。王様がみつかる様子はなく、そろそろ次期の王位について考えなければならないのだという。それで、王族は、現在熾烈な権力争いを重ねており、少しでも有利な立場に立つため、水面下で事故に見せかけて宿敵を暗殺したり、追い落としたりしているのだとか。殿様もその争いに巻き込まれているらしいということだった。
そもそも、殿様には大した後ろ盾がいなかったため、それゆえに、幼少のころから、継母たちに何度か暗殺されそうになったことがあったのだという。王都にいても危険なだけなので、殿様は少年のころから戦争に行って、遠い土地で少年時代を過ごしたのだということだった。王族の子供が、士気を鼓舞するために戦場に赴くのはそれほど珍しいことでもないし、そのことは特に問題ではないのだとねえさまはいった。
「けれど、そのころの殿様は、とても陽気で優しい男の子だったそうなのよ」
彼が変わったのは、この前の大きな戦争の間だったという。この間の大きな戦争で、この国は隣の大国に勝利したが、その戦闘中、殿様は矢が当たって瀕死の重傷を負った。
それがきっかけだったようだ。どうにか意識を取り戻した殿様は、怪我を押して戦ったが、徐々に不安定になっていった。彼に何があったかはわからない。ただ、その戦争で敵の王が自決したころには、殿様は不安に取り憑かれて、周りに隠れて深酒をするようになっていた。
それでも、まだ殿様は人前では自分を律していたという。
「殿様の変貌には、女の子がかかわっているときいたわ」
ねえさまは、静かに言った。
「女の子、ですか?」
「ええ、そのとき、殿様に思い人がいたそうよ」
夕映えのねえさまは、少し複雑そうな顔になった。その時は、相思相愛だったらしい。
「けれど、殿様の深酒が度を越し始めた時、彼らの関係は変化していった。彼女は、殿様を支えきれなくて、徐々に距離を置くようになった。彼女は、徐々に壊れて不安定になっていく殿様を恐がるようにすらなった。殿様はそのことに気づいて、彼女が離れていくのを止めようとした。世話係の方は、殿様は人前で弱音を吐くのが苦手な方だと言っていたわ。けれど、もう誰かに本心を聞いてもらわなければ、正気を保てなくなっていたのね。殿様は、彼女を捕まえて、『そばにいてくれるだけでいい』と懇願したの。自分の正直な気持ちを伝えて、不安だからただそばにいて話をきいてくれるだけでいい。自分の話を聞いてほしい。一人でいるのが恐いのだ、と。殿様が弱音を吐いたのは、ただその時だけだったそうだわ」
「でも」
「ええ、彼女は、そんな殿様を拒絶したの。恐がって逃げていってしまったわ」
夕映えのねえさまは、苦い笑みを浮かべた。
「けれど、彼女の気持ちはわからないでもないの。殿様の背負っている重たい心を受け止めるのには、覚悟がいることだから。でも、殿様にはそれが裏切りとしか映らなかった」
彼女はため息を就いた。
「その次の日、殿様は豹変した。会議に酔っ払って乱れた姿で現れた殿様は、横柄で乱暴な態度を取ったらしいわ。そして、それ以来、陽気で明るかった殿様は、人目にくれず酒におぼれるとても乱暴な男に変貌してしまった」
夕映えのねえさまは、ため息をついた。
「裏切られたと思ったのね。それから、殿様はずっとああなのよ。きっと、もう誰も信用しないつもりなの」
だから、あのお方はかわいそうな方なのよ。と夕映えのねえさまは言った。
「本当は、それほど悪いお方ではないと思うし、できるなら助けてあげたいと思うわ」
そういう夕映えのねえさまは、どこか綺麗に見えた。ねえさまは、殿様がやはり好きなのだろうかと思った。ねえさまが、その時、ふとさびしげな顔をしたのを、私は忘れない。
「けれど、殿様は私のことをどこかで避けていらっしゃるわ。信用していただきたいのにね」
それは意外なことのような気がした。 私はどこかで殿様とねえさまは、それなりにうまくやっているのだろうと思っていたからだ。
ねえさまは、一転明るい表情に戻った。
「だから、シャシャ。あまり殿様を怖がらないであげてね。本当はやさしいところもある方なのよ」
ねえさまはそういって、私の頭を撫でて笑った。
「それよりも、シャシャ。周りを御覧なさい。せっかくお外にでたのだもの。外は素敵よ」
そういって、ねえさまは薄絹の天幕をそっとめくった。
私の視界に鮮やかな色彩が飛び込んできた。外には、もうほかの妓楼から出てきた乙女たちの乗った輿がいくつもでていた。
「あれが蓮蝶姐さんよ。ごらん、シャシャ、とてもきれいでしょう。蓮蝶姐さんは、私達乙女のなかでも、一番艶やかなひとよ」
夕映えのねえさまにそう呼ばれて、私は輿の薄絹からそっと顔をのぞかせた。そこに、蓮蝶《はすちょう》と呼ばれる乙女が見えていた。
彼女の名前は、時々聞いていた。とても美しい人だという話をねえさまからはずいぶん聞いていたけれど、赤い唇が薄絹のベールごしに見えていて、本当に艶やかだった。大人びた色気を含んだ微笑をふりまきながら、彼女は見物人たちの視線を一身に浴びていた。そんな蓮蝶をみて、私もうっとりとしてしまったのものだ。
ねえさまは、それからとおりすがる乙女達を一人ずつ紹介してくれた。夕映えのねえさまも十分きれいな人だと思っていたけれど、乙女達は皆綺麗なひとたちばかりだった。もちろん、そうした人を選抜しているのだから、当たり前ではあるけれど、普段、紅楼で美しい妓女達にかこまれている私の目からみても、乙女として現れた彼女達のきらびやかさは、選ばれし者特有の特別な空気を背負ったものだった。
「あら、瑠璃蜘蛛《るりぐも》だわ」
夕映えのねえさまが、そういって顔をほころばせる。その一種奇妙な名前に、私はどきりとしたものだ。
「瑠璃ちゃんも、元気そうで何よりね」
そういうねえさまの視線を辿ると、向こうで輿にのっている乙女が見えた。
瑠璃蜘蛛と呼ばれる乙女も、乙女として選定されたからには、乙女として身に着けるべく標準的な教養をすべて備えている女性であろうことは確実だった。ねえさまからきいた話では、こと、彼女は舞踊に長けており、現役の巫女の中でも一、二を争う優秀な踊り手だといっていた。
しかし、それなら、蝶とでもあだなをつければいいのに、彼女につけられたのは蜘蛛という名前だった。それは、彼女が織物や編み物、刺繍に長けているためにつけられた名前であるとのことだったけれど、何か毒々しくて不気味な蜘蛛という名前をつけなくてもよいのにと思ったものだ。
ただ、蝶の名を持つ乙女は歴代何人もいる。先ほどの蓮蝶も同じく舞踊を得意としているし、彼女より先輩だった。蝶という同じ名前をつけたのではいまいちだから、奇をてらったのかもしれなかった。
そんなこともあって、夕映えねえさまからうわさをきいた私は、もしかしたら蜘蛛のように毒気のある女性なのかもしれないと思ったものだった。彼女は、蜘蛛と名づけられるぐらいなのだから、気が強く、自分に自信があり、艶やかな、いわゆる毒婦の属性をもつ女性なのだろうと思っていた。
それなのに、私はその名前にある種の期待を抱いて彼女を見たとき、軽く失望にも似た感覚を覚えたものだった。私が見た瑠璃蜘蛛と呼ばれている人は、私の想像とは全く印象の違う娘だったのだ。
確かに瑠璃蜘蛛は、そこにいる乙女達のなかでも、かなり目を引く美しいひとだった。それもおっとりとした貴人のような上品さの中に、どこか庶民的な可愛さのある夕映えのねえさまや、艶やかで華やかで女王のような美しさを誇る蓮蝶と比べても、まったく異質な美人だった。その異質さが目を引くのは間違いない。
彼女は、いってみれば、作り物のように美しい人だった。
しっとりとした黒い髪、いっそのこと無機質に整った顔立ち、そして、あまり感情をうつさない理性的な黒い瞳。艶やかさは十分にあるけれど、なにかガラスで作られた細工物のような、そういう冷たさを含んだひとだった。けれど、その冷たさを差し引くと、清楚という言葉がしっくりくる感じもする。とても、蜘蛛と名前のつくような恐ろしい女には見えないし、思ったよりも地味な印象すらあった。
「あら、瑠璃ちゃんをみるのは初めてだったかしら、シャシャ」
「はい、蓮蝶ねえさまも、瑠璃蜘蛛ねえさまも、お会いするのは初めてです」
「あら、そうだったのね。瑠璃蜘蛛はね、ああ見えてとてもやさしい子よ。シャシャも一度話してごらんなさい。乙女といっても、あの子はそれを気取るような子じゃないし、とても話しやすいと思うわ」
そうなのだろうか。一見とっつきにくい感じがするけれど。私がそんな不安を抱いていることもつゆしらず、ねえさまは明るくいったものだ。
「瑠璃蜘蛛は、頭が良くてね、昔神殿にいたころには、よく一緒に将棋をしていたものだわ。あの子ほど、将棋の強い子もなかなかいなかったけれど、今でも時々殿方をやりこめているそうよ」
そういって夕映えのねえさまは楽しげに笑っていた。
「夕方の宴は、皆一緒に集まれるから、その時、シャシャも色々お話すればいいわ」
ふと、外を見ると、むこうに護衛たちがまっているのが見えた。
もしかしたら、殿様はいないかもしれない。私は、そう思った。昨日の今日なんだもの、もしかしたらいないかもしれない。危ないからと考え直して、中止にしてくれればいいのに。そうだといいのに。
そう思いながら、こわごわ目をこらすと、人ごみに混じって赤い服が見えた。みれば、顔を仮面と布でおおった青年が、ちらりと見えた気がした。
その姿はすぐに人ごみにまぎれてみえなくなったのだけれど、私は、殿様がここに来ていることを確信していた。