一日目:出立−2
ねえさまがいったとおり、夕方には宴が盛大に行われた。
護衛をもてなし、祭りを支えるものたちの士気をあげ、巡礼に向けて最後の贅沢をするのだとねえさまは言っていた。とはいえ、実際、巡礼の最中もそれなりに贅沢な道程となるらしいのだが。
宴は、街の門を出てしばらくした砂漠に天幕を張って行われた。
天幕では、乙女たちが何人も舞い踊り、歌いまわる。それは、どんな妓楼でもみることのできない贅沢なものだった。
普段は高嶺の花である乙女達が、酌をしてくれるなど世話を熱心に焼いてくれるのだが、基本的に乙女たちに関係を迫ったり、しつこく触れようとするのはご法度であることもあり、そんなことをする輩はおらず、盛り上がりの割りにずいぶんと健全で平和な宴であった。
私は、ねえさまの手伝いとして、酒や料理を運ぶのに忙しく、舞い踊る乙女たちをじっくりと見る暇がなかったので、めったに見られないという彼女達の演技がみられなかったのは残念だった。けれど、忙しいことはかえってよかったように思われる。その間、私は殿様のことを忘れることができたので、不安な気持ちから逃れられたのだった。
結局、彼がそこにいたのかいなかったのか、私にはわからなかった。
夕映えのねえさまも忙しく、酌をしたり、踊ったり大変そうにみえていた。けれど、ねえさまが誰か探している様子だったのは、今思えば、殿様を探していたとしか思えないのだった。
夜は更けていったが、宴はいつやむともしれなかった。さすがに私も少し疲れてしまったので、そっと抜け出させてもらった。
熱気にあふれた天幕を出ると、急に冷たい空気が感じられた。外はこんなに寒いものだっただろうか。空は、満ちかけた月がのぼっていて、こうこうと世界を照らしていた。
とりあえず、少しやすませてもらおう。そう思って、私は天幕の近くに腰を下ろした。天幕は砂漠の真ん中に張られているので、そこからは遠くに都の街の光がちらちらしていて、後は砂と岩山ぐらいしか見えない荒れた大地だった。手を伸ばして地面をつかむと、さらさらとした手触りの砂があり、月とかがり火に照らされて、キラキラしている。
男たちの笑い声がまだ聞こえている。
(ねえさま達はたいへんだな)
私はふとそんなことを思った。乙女達は、私達以上に気を遣うし、踊りや歌をこなさなくてはならないし、せっかく外に出られたのにかわいそうだなと思った。
私がため息をついていると、ふいに視界に青い色が入ってきた。驚いて顔を上げると、いつのまにか、そこに青い服を着た乙女が立っていた。
乙女だとわかったのは、彼女がきらびやかな装飾を体にまとっていたからで、とりわけ、頭の青い宝石の髪飾りが豪華だった。顔には薄いベールをかぶせていたが、面のように白い顔の、冷たく感じられるぐらい静かな女だった。
青い服を着た、物静かな雰囲気の乙女。
ああ、瑠璃蜘蛛だ。と思った。
私は慌てて振り返り、彼女に挨拶した。
「瑠璃のねえさま、こんばんは」
「あなたは、夕映え姐さんのところのシャシャね」
瑠璃蜘蛛の声をはじめて聞いた。ささやくような、ちょっとかすれたような、それでいて可憐な声をしていて、意外にかわいらしい感じだった。
「夕映え姐さんから、お話は聞いているわ。これからよろしくね」
彼女はそういって、ベールの下でうっすらと微笑を浮かべた。そうして彼女が微笑んだのを見て、私は少しだけ安心した。ほんの少ししか微笑まなかったようにみえるが、それだけでも、彼女に抱いていた警戒心のようなものがほぐれた気がしたのだ。
「でも、シャシャ、こんなところで一人で外にでていると危ないわ。少し寒いし、一人でいて悪いひとに襲われたら大変だわ。一緒に戻りましょうね。一体、どうしたの?」
「はい。少し疲れてここで休んでいたんです」
瑠璃蜘蛛は、そう、と言った。
「そうね。初めての宴は疲れてしまうもの。私もそれで外に出てきたものだから、あなたのことを責められないのだけれどね」
と、いって、彼女は苦笑した。そして、不意に視線を向こうの天幕に走らせた。私も視線を追ってみた。
そこに人影が見えたので、私は思わずびくっとしたが、瑠璃蜘蛛は相変わらず冷静な様子でそちらをみていた。
「あら、あの方は、夕映え姐さんの護衛のひとね」
「えっ?」
そういわれて、私は目を凝らした。
そこには、誰かがうずくまっていた。どうやら男のようだ。
彼は、赤いマントを体に巻きつけ、金の首飾りや腕輪をいつものようにつけていた。そして、誰もいない天幕にもたれ、剣に手をかけたまま眠っていた。確かにそれが殿様の姿のようだった。
ああ、やはり殿様だ。彼は顔に絹の布を巻いていて、さらに目元に仮面をつけていた。そんな格好をしているのは、殿様しかいない。
こんなところで何をしているのだろうと思った。護衛の人間達は、普通は宴に参加して楽しくやるものである。護衛のくせに酔っ払ってどうするのだろうと思うが、彼らが楽しく騒いでいる間は、魔物が寄り付かないとされているので、宗教的な意味もあるようだった。
だから、夕映えのねえさまの護衛である彼も、宴に参加しなければならない。それはある意味では義務でもあるはずだったのだ。
それなのに、殿様は一人ぽつんとこんな所で酒を飲んで寝ていたのである。
でも、理由はわからなくもない。殿様は、顔を見せられない身分の人間でもあるし、彼の性格からして大勢と楽しく騒ぐような人間でもなさそうだった。
それに第一、彼が今、この宴の場に出て行くと、空気が凍り付いてしまうだろう。紅楼に住まう暴君「紅楼の殿様」。彼のうわさは、花街に通う風流人なら一度はきいたことのある名前だたのだ。傍若無人な殿様にも、それぐらいの空気を読む力はあったらしかった。
「こんな寒いところで眠ってしまったら、風邪でもひいてしまいそうね。起こしてあげようかしら」
瑠璃蜘蛛がそんなことをいうので、私は彼女のすそをひっぱった。
「ねえさま、あの人はそのままにしておいたほうが」
厄介は起こしたくない。殿様が、ここで暴れだしたら、瑠璃蜘蛛にも迷惑がかかる。
「でも、夜の砂漠はどんどん寒くなるのよ。もっと暖かなところでお休みいただいたほうがいいわ」
「け、けれど、あの人も、お疲れなのかと思いますし」
私はそういって彼女を引きとめようとしたが、私のほうを怪訝そうにみていた瑠璃蜘蛛が、不意に顔をあげたのをみて、次の言葉を継がずに彼女の視線を辿った。
そして、どきりとした。
殿様の近くの、別の天幕に誰かが隠れているようだ。その人影は、殿様の動きを伺っているようだった。
彼は、私と瑠璃蜘蛛が自分に気づいているのを知らないようだった。暗がりに目が慣れてきて、私はようやく彼が誰であるか気がついた。
そこにいるのは、昨日殿様の部屋を訪れ、泣きながら帰った男だった。
「あのひと……」
「どうしたの? お知り合い?」
ぽつりといった私に、瑠璃蜘蛛は身をかがめて私の反応をうかがっていた。
と、そのときだ。
いきなり悲鳴が響き渡った。天幕の一角が朱色に輝き、煙が上がった。焦げ臭いにおいが、鼻をつき、怒声が轟く。
わあっと複数の人影が闇の中に見える。天幕の影に男達が武器を抜く影が映っていた。
なんだろう、何が起こったんだろう。
私は、混乱して、瑠璃蜘蛛を見上げた。瑠璃蜘蛛は、表情一つ変えず、燃え上がる天幕を見つめていた。
ふと、殿様がはじかれたように起き上がった。
彼は燃え上がる天幕を見て、何かに気づいたようだった。
殿様は、はっと剣を抜く。その殿様めがけて、黒い影が飛んできた。殿様は天幕に影もろとも倒れこんでいた。しばらく、そこでもみ合いが続いていた。
「殿下!」
影にいた人影がさっと表に出たが、その時には、殿様は、相手を蹴り上げてそこから逃れると、起き上がって影と距離をとっていた。
「てめえら……、ただの夜盗じゃ……」
殿様が口の中でうめいたのがわかった。一番大きな天幕の中の護衛たちも、異変に気づいたらしい。外に男達が武器を手にでてきていた。そして、彼らにも、殿様を襲った黒い服をきた男達が襲い掛かっていた。
突然、周りは修羅場と化した。周りは叫び声や怒号が飛び交って、その渦の中で私は動けずにいた。炎の熱が、頬にじんじんと感じられ、私は恐くなった。
「ね、ねえさま」
私は、恐くなって瑠璃蜘蛛の衣にすがりついた。けれど、瑠璃蜘蛛は、その時ですら表情を変えてもいない。なんてひとだろうと、私は思った。この人には、感情がないのだろうか。それぐらい、瑠璃蜘蛛の顔からは恐怖すら感じられないものだったのだ。
と、殿様が私と瑠璃蜘蛛のほうを見た。私は彼と目があってしまい、思わずどきりとして首をすくめた。
「お前ら、逃げろ!」
殿様はそう叫んで、私達の方に走りよってきた。後ろを男達が追いかけてくる。
「早く!」
せかす殿様の声に、私と瑠璃蜘蛛は我にかえって走り出した。慌てて天幕の間を抜けていく。一生懸命走ったけれど、普段あまり走らない私は、殿様と瑠璃蜘蛛においていかれそうになった。
不意に手をひっぱられて、私ははっと上を見上げる。殿様が私の手をひっぱって走っていた。
「こっちだ!」
ぐいと殿様は、瑠璃蜘蛛に方向を指示すると、そのまま、何もない砂漠のほうに走り出す。砂漠は暗く、月明かりだけでは見通しがききづらかったが、殿様の目指す方向に岩山があったのを思い出した。
殿様は、砂の小山をひとつ二つ越えると、岩山に逃げ込んだ。そこには大小さまざまな形の岩がごろごろしていて、見通しがききづらい。が、姿を隠すのにはちょうどよかった。
殿様は、その岩かげのひとつに私と瑠璃蜘蛛を押し込んだ。そして、息遣いを整えながら警戒した様子であたりをうかがっていた。私は瑠璃蜘蛛に抱かれるようにして岩陰に身を潜めていた。
殿様は、息遣いすら押し殺していた。絹の布はいつの間にかとれていて、殿様の口元が露になっていた。そして、仮面から除く双眸は、荒々しさと怯えが同時に存在して、ぎらぎらと異様な輝きを放っていた。
殿様は、まだ刀を抜いたままでそれを右手で握っていたが、そのままの手で左腕を押さえていた。よく見ると殿様の左腕から血が流れているようだった。殿様が右手を振ると、血が地面に飛び散った。
いつ怪我をしたのだろう。さっき、押し倒された時?
私がじっと彼を見ていたのを気づいたのか、不意に仮面の中の瞳がこちらをちらっと見た気がした。殿様は、血に染まった右手を手ぬぐいで無造作にふき取った。そして、そのまま左腕を拭いてしまうと、それを適当に傷の辺りにまきつけ、強引に腕輪をはめてしまった。
「まさか、一日目に襲ってくるだなんて……。しかも、……がいた……」
殿様が、ぽつりと呟いたのが聞こえた。
「まさか、本当に……が。あいつが、俺を殺す為に?」
殿様が何を言ったのかは、きっちりとは聞き取れなかった。
私は、恐くなって瑠璃蜘蛛の衣服をぎゅっとつかんだ。そして、瑠璃蜘蛛の顔を見上げた。が、意外に瑠璃蜘蛛は、不安そうな顔をしていなかった。
彼女は、殿様の姿を見ているわけでもなく、恐怖に怯えてふさぎこんでいるわけでもなく、私を見ているわけでもなく、敵を探っているわけでもなかった。
ただ、彼女は身を潜めながら、空を悠長に見上げているようだった。
「ねえさま?」
「シャシャ、綺麗なお月様ねえ」
ぽそ、と囁くように瑠璃蜘蛛が呟いた。こんな状況なのに、瑠璃蜘蛛は一体何を言っているのだろう。気休めにそんなことを呟いたものだろうか。けれど、あまりにも悠長すぎるではないか。
瑠璃蜘蛛を見上げると、彼女もこちらを向いた。そして、かすかににこりとしたのだ。
綺麗なお月様ねえ。それは、彼女の本心なのかもしれない。こんな状況なのに、瑠璃蜘蛛は、この岩山から見える月を愛でて嘆息をついていたのだ。なんてひとだろう。
けれど、何故かその表情を見ると、今までの緊張感がやわらいだ気がした。殿様からビシビシと発せられる殺気から解放されて、あたたかな瑠璃蜘蛛の体温が、恐怖をかきけしてくれるようだった。
ふっと意識が飛びそうになった。それが睡魔のせいだと気づいたのは、ほとんどまぶたをあけていられなくなってからだ。
確かに疲れていたけれど、こんな状況で眠くなるなんて……。
私はそう思ったけれど、一度感じてしまった眠気は、どんどん強くなっていった。
大丈夫よ、おやすみなさい。そんな風に瑠璃蜘蛛が呟いた気がした。
そうして、私はそのまま眠ってしまったらしかった。