0:前夜 紅楼の殿様-3
お祭りが近づくと、夕映えのねえさまは旅の準備をはじめるように言った。
私は紅果様からいただいたお金でお祭りの為の髪飾りを買ってもらったり、ねえさまのおさがりの服をいただいたりした。
ねえさま自身は、儀式の作法の復習をしたり、歌を覚えたりと色々大変なようだった。私が任された仕事で、一番大変なのが荷造りだった。もって行くものを整理して選ぶのだけれど、それがなかなか難しい。どれもよいものばかりで、どれもねえさまに似合うものだから、どれを選べばよいのかわからなかった。
儀式の為の衣装や、旅の途中に着る服、髪飾り、首飾り、腕輪に指輪。綺麗な飾りのついた靴。それに化粧品。それらは皆、豪華で煌びやかなもので、見ているだけでうっとりとしてしまうようだった。まるで王国のお姫様の持ち物のようだ。
私は結局、ねえさまに相談して、どれをもっていくのか決めて荷造りを行った。ねえさまにはご迷惑かと思ったけれど、彼女と一緒にそれらを眺めたり、選んだり、そんな作業はとても楽しかった。
準備だけでもこんなに楽しいのだから、お祭りはどれほど楽しいものだろう。
けれど、一つだけ心配なことがあった。
「シャシャ、やっぱり、護衛は殿様にお願いしようと思うのよ。今日、殿様に召しだされたら、そのお話をしてみようと思うの。まあ、ご機嫌がよくなければ、やめておくけれどね?」
青いガラス玉のついた首飾りを両手にもって、シャラシャラと鳴らしながら、ねえさまはそんなことを言うのだった。
「殿様に?」
私が嫌な顔をしたのがわかったのか、ねえさまは苦笑した。
「あらいやね。そんな顔をするものじゃありません」
そういって私の頭を撫でたねえさまは、小首をかしげた。
「だって、適役だと思うのよ。ああみえて、殿様は、昔は都の外を旅していらっしゃったのよ、お仕事で。だから、旅には慣れているでしょうし」
ねえさまは、首飾りを私が持っていた宝石箱に入れた。それを持っていくつもりなのだろう。
「それに、ずっとあんなふうに閉じこもっていらっしゃるのってよくないわ。外の空気を吸えば、気分も変わるし、よいのではないかと思うのよ」
「けれど、周りの方が反対なさるのではないでしょうか」
「それはそうかもしれないわ。けれど、一応、殿様には提案してみるつもりよ。ダメもとでもいいじゃないの。外の世界で殿様がどんな風に行動なさるのか、少し興味あるわ。だって、私達、この楼閣の暗い部屋の中の殿様の様子しかしらないのだものね」
そういって、夕映えのねえさまは悪戯っぽく笑った。
夕映えのねえさまは、どうしても殿様を護衛に指名したいようだった。私は、殿様が嫌いなので、やめておいたほうがいいといいたかったけれど、ねえさまの楽しそうな姿を見ると、なんともいえなかった。
ねえさまはどうして、あんなに乱暴な殿様がすきなんだろう。それなら、紅果様のほうがよっぽどいいのに。とはいっても、紅果様は、とても聡明な方だから、自分で言ったとおり、目立つことはなさらないのだろう。
今日、ねえさまはもう目先に迫った巡礼に殿様を誘おうとしている。それに殿様がどんな返事をするのだろう。私には殿様が断ってくれることを祈るしかなかった。
乙女が必ずしも護衛を指名する必要はない。だれも指名するひとがいなければ、お店で腕の立つものを用意してくれるから、それで済むことだった。けれど、こうして客を指名するのは、その客と親しくなりたいという思いからであることが多い。乙女の側からの好意を伝える手段だったのだ。
そんなことをしばらくしていると、案の定、殿様からお召しがあった。
ねえさまは、私に目配せして嬉しそうに立ち上がる。私は、ねえさまに感づかれないように、けれど、少し憂鬱な気分でため息をついた。
今日は殿様は上機嫌だった。
殿様は、日によって機嫌がコロコロ変わるが、今日ほど上機嫌なことは少ない。
今日は珍しく普通に食べ物も口にしているらしく、口元の布をはずしていたが、仮面はとっぱらってはいなかった。
側近達も特に殴られたり、怒鳴られたりした人間もいないようで、どこか安堵した様子だ。彼らは静かに酒を飲んでいて、殿様の笑うのにあわせて愛想笑いを浮かべていた。
殿様は、夕映えのねえさまには弱いし、女に手をあげることはないのだが、こうして彼が上機嫌なほうが、夕映えのねえさまの傍ではべる私も安心した。今日は荒れることはなさそうだから、私もそれほどびくびくしなくてもいい。
そんな比較的和やかな空気の中であるものだから、ねえさまも例の件について言い出しやすかったのだろう。
「ところで、殿様は、もうすぐ星の女神様のお祭りがあるのをご存知です?」
何かの話をしていたとき、ねえさまがそういう風に話を仕向けた。殿様は、別に反応を示さない。
「ああ、そういえば、そういう季節だったな。まあ、俺には関係のねえ話だが」
あら、とねえさまは苦笑して、殿様に酒を注ぐ。
「関係がないなんて、冷たいことをおっしゃいますわね。私もお祭りになると巡礼に参らなければなりません」
「ああ、そうか。一ヶ月ほどいなくなるんだな。それは寂しいことだぜ」
殿様の言葉には、それほど感情がこもっていなかった。ねえさまは、少し寂しげな顔をしたが、すぐに明るく微笑んで続けた。
「本心からそうおっしゃってくださっているのかしら? 夕映えは、殿様にお会いできないのを、とても寂しくおもっていますのに」
「ちぇっ、俺の言葉が信用できねえというのかい?」
殿様は苦笑していた。
「別に社交辞令で言ってるわけじゃねえよ。俺に毎日会いに来るのは、お前ぐらいなもんだしな。顔がみられないのは、寂しいと思うぜ」
「ありがとうございます、殿様」
くすりとねえさまは笑って続けた。
「本心からだとおっしゃるのでしたら、一つ、この夕映えのお願いを聞いてくださいますか?」
「お願い? ああ、何だ。内容によるが、言ってみな」
殿様は、機嫌のいいのも手伝ってか、珍しく気軽にそういった。
「では、この夕映えと女神様の神殿まで一緒にお参りしませんか? それなら、夕映えも寂しくありませんから」
それをきいた殿様が意外そうな顔をしたのが印象的だった。一瞬、動きを止めて何事か考えた後、彼は困惑気味に苦笑いした。
「なんだ、巡礼に俺にもついてこいというのか」
「はい」
夕映えのねえさまは、恐れ知らずだ。にっこりと笑いながら、そんなことを言う。
「星の女神の乙女は、聖地への巡礼には、身の回りの世話をする侍女と、護衛が一人指名する権利をえられるのですわ。それで、夕映えは、殿様に私の護衛をつとめていただければ、と願っているのです」
「へえ、それで俺を指名するってえのか。夕映えの君は、なかなか勇気のある女だな」
殿様は、杯を置いて腕組みした。
「俺を指名すると、ろくでもない有象無象の悪霊たちを呼び寄せることになるぜ?」
「うふふ、それら有象無象の悪霊たちを浄化する為の巡礼ですもの。夕映えは、恐くありませんわ」
「ふむ」
ねえさまの言葉をきいて、私ははらはらしていた。殿様の言うとおり、ねえさまは、思い切りがよすぎる。
考え込む殿様に、ねえさまは続けていった。
「殿様も、ここずっと外にでていらっしゃらないのでしょう。それなら、一度外に出られたほうが気晴らしになるかと思いますわ。巡礼に危険な道のりは存在しませんし、春の街はとても美しいものと思いますわ」
「ふん、俺は好きで閉じこもってるんだよ。別にお前に、心配してもらうようなことでもねえんだが」
殿様は苦笑して、それからにやりと笑った。
「でも、まあ、たまには、祭りに触れてみるのもおもしろいかもしれん」
「よろしいのですか?」
夕映えのねえさまの顔が華やぐ。殿様はうなずき、そこだけ見えている目をねえさまに向けた。
「ただし、さっきも言ったとおり、俺がついていくと、どんなことになるかわからねえぞ。責任はもてないからな」
「うふふ、それは覚悟の上ですわ」
私は思わずため息をついてしまいそうだった。夕映えのねえさまは、本当に度胸があると思う。どうしてわざわざ問題を起こしそうな殿様を護衛に選んだりするのだろう。本当にあきれてしまう。
そうやって、殿様が巡礼に参加することはあっさりと決まった。私は、せっかく夕映えのねえさまと楽しくすごせるはずだったお祭りに、大嫌いな殿様が入り込んでくるのがとても嫌だった。祭りは楽しみだけれど、殿様と一緒にいるのは嫌で、本当に複雑な気分だったが、ねえさまにそんな表情をみせられない。だから、表向き殿様に対する嫌悪をみせないようにしていた。
*
祭りが前日に迫っていたその日、私は早く休むようにいわれていた。けれど、なかなか興奮して眠れなくて、すやすやと眠るねえさまの隣で時々ふっと目が覚めて困っていた。
殿様に珍しく来客があったのは、その日の夜だったと記憶している。
夕映えのねえさまが殿様に巡礼を誘ったときは、誰も異を唱えるものはいなかったけれど、やはり殿様の周囲はそれをよしとはしなかったようだった。
やってきたのは、今まで見かけたことのない中年男性だった。殿様の取り巻きの中にはそんな年齢の人がいなかったし、とても、こんなところにやってくるとは思えないような、まじめそうな人だった。
彼は夜遅くにあわてた様子でやってきて、殿様との面会を迫ったのだった。そのおじさんは、面会を断られても、殿様にどうしても会わせろとひかなかったようである。
後で思い返せば、彼は特別な立場の人だったのだろう。真夜中に殿様に謁見するのを、最終的には、誰も止められなかったのだから。
殿様の部屋は、限られた人しか知らないし、行けない場所だった。眠れなくなっていた私が、その騒ぎに起きだして、廊下から覗いていたのを見つけた旦那様が、ちょうどいいとばかりに私を手招きした。殿様の居場所を知っている上に、子供の私だから、この深夜に訪れたわけのありそうな客人を案内するのにうってつけだと思ったのだろう。
私は目をこすりつつ、その男を案内した。彼は、何か思いつめた表情をしていた。結局、彼は廊下を歩いている間、私と一言も話をしなかった。私も何かお話をしようかと考えたけれど、彼の顔を見てやめた。そんな雰囲気ではなかったのだ。
「こちらです」
私が部屋まで案内すると、彼は少しうなずいて部屋の中に声をかけようとした。
「へえ、こんな夜遅くに仕事熱心なんだな」
不意に殿様の声が聞こえた。あの騒ぎは奥にいる殿様の耳にも入っていたのか、それとも、殿様は彼が来ることをおおよそ予想していたのだろうか。まだ顔も見えていないはずなのに、殿様はその人物を確信しているようだった。
「寝るところだったんだが、仕方がねえ。入れよ」
「殿下。失礼いたします」
そういって彼は部屋の中に入っていった。私は部屋の入り口で待つことになっていた。客人を帰りも案内しなければならないのと、殿様に来客があったときは、なるべく殿様を一人にしてはいけないと、旦那様からいわれていたせいもある。
部屋の中から、殿様の声が聞こえていた。
「久しぶりじゃねえか。元気そうで何よりだな。俺のほうは、よ、あははは、この様だぜ」
「殿下……」
男は、低い声で言った。
「殿下、祭りの巡礼に参加されるとききました」
「ああ、そうさ。かわいい子がいて、俺に是非にと頼み込んできたのさ。連中、あんたに告げ口したんだな。俺があんだけ口止めしたのによお」
殿様が自嘲的に笑った。
「なんだかんだで、あんたに忠実な部下だな、あいつら。主君の俺を裏切って、あんたの命令はきくんだからな!」
「彼らは殿下のことを思って私にそのことを告げてきたのです。時間がぎりぎりになってしまったのも、彼らなりに悩んでのことで……」
「ああ、そうかい。まあ、そのことはいいや。で、……あんたがじきじきにこんな所に何の用さ。まさか女と遊びにきたわけじゃねえだろ? いい女はいるぜ。あんたの為にたたき起こして連れてきてやろうか?」
「殿下!」
男が声を荒げ、殿様は、くっくと苦笑したようだった。
「悪い悪い。冗談だよ。で、本当の所、何の用事さ? 俺は明日朝が早いのさ。早い所言ってくれよ」
「では、率直にいいます。巡礼に加わるのは、おやめください」
そういわれて、殿様は、ふっと笑い出す。面白くて仕方がないといった様子だった。
私は、そっと部屋をのぞいてみた。
今日の殿様は、顔を覆っている布も仮面をはずしていて、その全貌が見えていた。ゆがんだ笑みを浮かべながら、まだ酒を飲んでいる様子で、目が据わっているのも相変わらずだった。けれど、意外にあどけなさも感じられた。ただ、蝋燭の光に揺れるその瞳の奥には深い闇を抱えているようで、なんだかぞっとした。
「何を言い出すのかと思えば、結局その話かい。いまさら無理だね。祭りは明日なんだ」
「代わりの人間ならいくらでも出します。今からでも……」
「嫌だね」
殿様は、にやりとした。
「俺が行きたいっていってるんだ。気が変わらない限りは無理だね」
「殿下! 考えてください。危険すぎます。巡礼では、殿下のために護衛もつけられません」
男の声がきつくなった。殿様はあざ笑った。
「はは。心配性だな。連中だって、祭事の時に仕掛けてくるほど罰当たりなことはしねえだろ」
「殿下、彼らは本気ですよ。何をしでかすかわかりません」
「いいじゃねえか。よしんば、それで死んだなら、かえって極楽にいけそうだろ。女神の祭事中なんだからよー。まあ、俺は、どうせ死ぬなら女の腹の上のほうがいいけどな」
「殿下!」
しかりつけるような男の声が響く。
「かてえこというなよ。相変わらずだな」
「殿下、殿下は、そんなことをいうような方じゃなかった」
男の声は少し震えていた。それをみて、ゆったりと殿様は笑う。今日は表情がよくわかるので、なにかその笑顔が怖かった。
「ふん、幻滅したかい。だったら幻滅しておいてくれよ。どうせ、俺は最初からそういう男なんだ」
「違う」
男は首を振る。
「しっかりしてください。殿下。殿下は……」
「今は、ちょっとした病気だっていうんだろ。ああ、そうだろう。戦場で拾ってきた悪い病気だとか、悪霊に取りつかれたとかさあ」
男は、声を低くしていった。
「とりあえず、もう、これ以上の乱痴気騒ぎはおやめください。元の殿下に戻ってください」
「あっはっはっは、その様子じゃ、大分ケツに火がついているんだな」
「殿下」
「俺は、ちゃああんと顔を隠してやってるじゃねーか。俺がどこのだれそれってわかったら、さすがに王の顔に泥を塗るっていいたいんだろ。これでもな、俺は気をつかってるんだよ。俺の正体を知ってるヤツはここにはいねえさ!」
殿様の笑い声がひときわ高かった。
「王族ったって、あっちこっち血のつながりのあるのからねえのまで、親戚がたくさんいるんだ。俺が誰だかわかったところでなんだっていうんだよ。へへへへへ、あんたも仕事熱心だねえ」
「殿下!」
「俺があんまり遊びすぎて評判落とすようなら、消してしまえとでもいわれてるのか? いいね、いっそのこと、すっぱり消してもらいたいぜ!」
殿様は、唇をゆがめながら続ける。
「俺みたいなどこの馬の骨だかわからん屑なんざあ、こんな風にだらだら生きててもしょうがねえからなあ!」
「殿下あっ!」
いきなり、男が寝転がっていた殿様の胸倉をつかんで引き起こす。
私ははっとしたが、飛び出すことも出来ず、硬直したままその場を見守っていた。
「……もし、これ以上、酷い体たらくを見せるというのなら、私は……!」
「あんたが自ら俺を殺すっていうのかよ?」
すっと殿様が突っ込んだ。男が、はっと言葉に詰まったのを見て、殿様はげらげら笑い出す。
「あっはっはっは、これは面白いな。馬鹿馬鹿しい。あはははは」
「殿下……」
苦しげな男の声が聞こえた。
「いいぜ。殺してくれよ」
ふいに笑いをおさめて、殿様は言う。その目が、何か暗くよどんでいるようで、私は思わず身を縮めた。殿様は、口元だけ笑っていたが、どこか空虚だった。つかまれていた胸をゆっくりはらいのけて、ゆらりと立ち上がった彼は、男の方にしなだれかかるようにしながら言った。
「殺してくれよ。俺が完全におかしくなっちまわないうちに、さあ。あんたも疑ってるんだろ。俺が狂ったんじゃねえかってさあ」
「で、殿下……」
殿様にそういわれて、男は、明らかに狼狽した様子になった。
「本当に、俺、今でもおかしくなっちまいそうなんだ。酒を飲んでいないといらいらして、体の中がバラバラに千切れてしまいそうになる。ただ、ざーっと湿った黒い感情があとからあとから湧き出してくるんだ」
じっとりと語りながら、殿様は、男の肩に手を置いた。
「わかるかい、こういう気持ち。目の前の気のいいやつらを八つ裂きにして、かわいがっている女の細い首を力いっぱい絞めて殺したいような気持ちだよ」
殿様はおぞましいことを笑いながら口にする。ぞっとしたのは、私だけではなかったようで、思わず男が後ずさった。にいっと殿様は微笑むと、男の肩をたたく。
「安心しろよ。まだ実行しちゃいない。でも、あんた、あのジジイに言われているんだろ。このままほっといたら、俺がどこぞの暴君みたいになる。その前に殺せと」
男はなにもいわない。
「ああ、そうかもな。ふふ、俺もそのうち、どんな血なまぐさい遊びを覚えるかわからないかも。最近じゃ、女を抱いてもちっとも楽しくない。むしろ吐き気がするぐらいだ。もう、俺自身、どうにもならねえんだよ。ここに渦巻く黒いなにかがさ」
殿さまは、はだけた胸に手を置いていった。
「殿下、いったいご自分が何を言っているのかわかっているのですか!」
たえきれなくなって、男が強い語調で叫ぶように言う。
「うふふふっ、だから言ってるだろう。取り返しのつかなくなるうちに殺してくれってさ」
男は答えない。ただ、かすかに彼が震えているのがここからでもわかった。
「なあ、……だから、今のうちに、いっそのこと殺してくれよ」
殿様は突然子供っぽく、甘えるような口調になった。
「なあ、殺してくれよ。あんたが俺を殺してくれるっていうなら、俺、抵抗したりしねえからさあ」
「殿下……」
男は、涙声になっていた。
しばらく、部屋には、彼の嗚咽が響いていた。殿様の声は聞こえなかった。
部屋に立てていたろうそくの火がじりじりと音を立てて一つ消えた。それと共に、消え入りそうな、男の声が聞こえた。ようやく搾り出したような声だった。
「殿下はお疲れのようです。もう、お休みください」
殿様の声は聞こえなかった。
その後、ゆっくりと男は部屋から出てきた。
部屋からでてきた男の青ざめてつかれきった顔に、かすかに絶望が浮かんでいた。男は私の顔をみようともせず、とぼとぼと来た道を帰っていった。私は、すぐに彼を追いかけるのがためらわれて、しばらくそこで立ち尽くした。
なんだか見てはいけないものを見てしまった気がした。暗い暗い黒い泥沼の底に沈んでいくような、そんなその場の空気に、私は急に寂しく恐いような気持ちになってきた。
その時。
「あんたも、おやすみ……」
少し優しい、小さな声が聞こえた。それが殿様の声だったのかどうかは判断できそうもなかった。ただの空耳か、ちかくの部屋の誰かの声だったのかもしれない。
部屋をのぞこうとしたが、殿様がともし火を全部消したのか、中は真っ暗だった。
私は、ようやく我に返り、男の後を追って廊下を歩き出した。