0:前夜 紅楼の殿様-2
殿様の部屋は、楼閣の奥にある一室で、彼は一日のほとんどをそこに閉じこもって暮らしていた。楼閣から外出することは、私の知る限りはほとんどない。
取り巻きたちがやってきて、妓女達が呼ばれて遊んでいる時以外は、大体酒ばかり飲んで惰眠を貪っているらしいとだけ聞いている。
殿様は、元から痩せていたが実際に食も細くて、見かけはひょろりとして頼りなかったが、暗い部屋の中にいるといっそう不健康な印象だった。そんな彼だったが、彼が不機嫌になって暴れると、みなが彼を恐がった。力で押さえ込んでしまうことは簡単そうに見えたけれど、あの暗い殺気に満ちた目で睨まれると大抵のものは身がすくんでしまうらしい。彼が不機嫌な時は、彼に好意的な妓女ですら、近寄るのを恐れていた。
彼が荒れて暴れた後、殿様は、料理がひっくり返され、酒の杯が割れた破片の飛んだ部屋で、ふてくされたように寝転がって、煙草でもふかしているのが常だった。
そんな中でも、平気で彼に会いに行くのは、夕映えのねえさまぐらいなものだ。
殿様が荒れて少しすると、夕映えのねえさまは、ふらりと彼に会いに行こうとする。私が止めても無駄だ。
「大丈夫よ。もう落ち着いていらっしゃるわ」
と、ケロリとした様子でそういう。
私は心配になってついていくけれど、そういうときの殿様は確かにすでに落ち着いていることが多かった。
ごろりと横になって酒を飲んでいる彼は、じろりと夕映えのねえさまに一瞥をくれるだけで、怒鳴りつけたりしなかったものだ。
「お加減はどうですか?」
にこりと微笑んでねえさまが声をかけると、殿様は苦笑した。
「よさそうに見えるか?」
「悪そうにも見えませんわ」
「ちッ、さっきまでは最悪だったんだよ」
殿様は舌打ちして、面倒そうに起き上がり、ねえさまを横目に見た。
「お前は、時を見計らったように出てくるんだな。頭のいい女だよ」
殿様が皮肉っぽくいうと、夕映えのねえさまは小首をかしげて微笑む。
「あら、ご機嫌の悪い時にお部屋に来ては、ご迷惑でしょう」
殿様は答えず、差し出された酒を飲む。
「それとも、私がお部屋に来ることがご迷惑?」
「別に。勝手にしろよ」
殿様は、ぶっきらぼうに答えるが、ねえさまはくすりと笑うばかりだ。
「それなら、勝手に来させていただきますわ。一人、手酌もお寂しいでしょう?」
「俺は一人の方が気楽だよ」
「それなら、私が来るころにお外で遊び歩かれてはいかがです? 殿様がお嫌だと言われないなら、私は、このお部屋に来てしまいますよ?」
「ちッ、面倒なこと言いやがって」
そういいながらも、ねえさまの酌を受けて、殿様は黙って酒を飲んでいる。そういう殿様はちょっと居住まいが悪そうで、逆にねえさまは、上機嫌ににこにこしていた。
楼閣で一番殿様と近しい女性はねえさまだった。けれど、ねえさまと殿様がそれ以上深い仲になったという話もきいたことがなかったし、寝所に呼ばれる風でもなかった。
もちろん、殿様には深い仲になった妓女もいないわけではなかっただろうし、自分でそうしたことを吹聴している女もいたが、殿様は彼女達を取り立てて可愛がることも呼びつけることもなかった。あるものは二度と座敷に呼ばれることもなかった。
結局、一番、殿様の前にはべる回数が多いのは、夕映えのねえさまだった。
私にしてみれば、彼らの関係もよくわからないものだった。
どうして、ねえさまは殿様にかまいたがるのだろう。殿様は、どうしてねえさまの前では、比較的大人しいのだろう。
*
この楼閣には、他にも何人か大切なお客様がいて、夕映えのねえさまも殿様にかかりきりというわけにはいかない。やんごとないお方だという殿様は別格としても、他にも国の偉いお方が遊びにやってきていて、彼がいる間にも、他の客がやってきて夜はわいわいと賑わいでいる。
特にもうすぐお祭りだから、何かとお客の数も多い。お気に入りの乙女がいる客にとっては、一ヶ月近く彼女に会えなくなるのだから、その前に顔をみておこうとやってくるものもいる。
だから、最近は、夕映えのねえさまもとてもとても忙しい。私も、ねえさまのおめかしを手伝ったり、色んな雑用でとても大変だった。だから、殿様のことで、何かがあると余計いらだってしまうのかもしれなかった。
祭りが迫ったある日、私はねえさまの衣装のほころびを直すのに針仕事をしていた。
そんな時、ふいに店に従者をひきつれた美青年がやってきた。なじみの客でもある彼は、奥へ奥へとどんどん通され、少し離れた特別な部屋へと案内されるようだった。紅楼の殿様も、奥にある普通の客が入り込めない部屋にいるが、ここはそことは反対側にあった。
「シャシャ、紅果のお大尽様がいらっしゃったわ」
ねえさまはそういって私に微笑みかける。
「紅果様が?」
「ご無沙汰しているし、お出迎えしに行きましょう。シャシャも若旦那は好きでしょう?」
ねえさまもいうのももっともで、きっと、私は楽しそうな顔をしていたのだろう。紅果のお大尽と言われている青年のことを、確かに私は好きだったのだ。
そして、夕映えのねえさまにつれられ、私は彼に会いにいった。
そこには、すっきりとした美青年と、とりたてて目立った印象のない従者がいた。従者のほうは、童顔で背もそれほど高くなく、少年のようにみえる。主人を前に恐縮している姿をみると、いかにも従順な召使といった風にしかみえなかった。
が、部屋に入ったとたん、この二人の関係は一転するのだ。私は知っているから、それほど驚かないけれど。
「おう、すまねえな。もう帰っていいぞ」
急に従者の青年は、しゃっきりと背筋を伸ばし、着ているものを粋に着崩すと、さきほどまでの印象とはまったく違う、ゆがんだ笑みをうかべて主人を見るのだ。
「はい、今日はお休みですか?」
「おう。おめえも何かと忙しいんだろ。俺の守りはいいから、おめえも好きなように休みな」
「はい」
部屋に入ったとたんに、豹変した従者は、さっきとは文字通り別人のようになって、奥に座る。身にまとう空気までもがすべて違っていて、はじめてみたとき、私はしばらく信じられなかったのを覚えている。
ついてきていた美青年が、頭を下げて引き下がったのをみて、彼は私たちに目を向けた。
「出迎えご苦労、といったとこかな。悪いな、忙しいのに」
ここでは、紅果のお大尽とあだ名されている彼は、本来は、この国でも有数の富を誇る大商人の御曹司である。その御曹司の素行が悪いことは有名であるらしかったが、彼がどのような顔かたちをしているのかをあまり知るものはいなかった。
というのは、普段、彼は、彼の側近の一人を影武者に仕立て上げて、自分自身はその召使の一人のふりをしているからだった。どうしてそういう酔狂なことをしているのかは知らないが、本人はその状況がいたく気に入っているようである。信頼できるものだけを、そうして選りすぐっているのかもしれなかった。彼がここであだ名で呼ばれているのもそうで、身元を明らかにしてほしくないからだった。きっと、別の楼閣では、別のあだ名で呼ばれているに違いない。
彼はこうして遊里で遊んでばかりいるものの、よほど親しくなった妓女にしか、本性を現さないため、その実際の性質を知るものも少なかった。表裏の激しいのは、少し印象がよくなかったけれど、紅果様は、基本的に私たちには優しいお方だ。あまり無茶な遊び方もしないし、一人か二人でやってきて、静かに遊んでかえるような方だった。それに、気前がよくて、私たちに色々なものを下さる。それが実に気が利いていて、私のような小娘にまでお花をお土産に持ってきてくださることもあった。
紅果様は、肉親との人間関係が大変お悪いようで、自宅に帰ることはなかった。宿屋がわりにこうして高級妓楼を渡り歩いているようだった。そういう意味では紅楼の殿様と同じだったが、紅果様のほうが、精神的に安定しているし、乱暴でなかったから、私にはとっつきやすかった。
少なくとも、私は、あの殿様と違って、この少し奇妙な若旦那のことを、結構気に入っていた。
「おう、夕映えだな。久しぶりじゃねえか」
「はい。なかなか顔を見せられませなくって、すみませんでした」
「いや、俺もここにきたのは久しぶりだからなあ」
彼は、かなりの童顔で、どうみても少年にしか見えなかったが、なぜかこうやって目の前に座っていると、先ほどまでのあどけなさや頼りなさが消えて、急に大人びて見えた。どことなく艶っぽさがあって、それも影響しているのかもしれない。
紅果様は、ちらりと私に視線を向けて、にやりとした。
「シャシャも元気そうだな。だんだんかわいくなってきたぜ。夕映えの教育の賜物かね」
「まあ、そんな……」
いきなりそんなことをいわれて、私は思わず赤くなる。夕映えのねえさまの添え物であり、まだ子供の私にそんなことをいう客は少ない。逆に言うと、私の名前をしっかり覚えていて、さらに私にまで挨拶のようにそんなことをいう紅果様は、やはり遊び人としての気質があるのだろうとも思う。けれど、そういわれて悪い気分はしない。
「いいや、女の子ってのは、本当にちょっと見ないうちに綺麗になっちまうもんだしな。おお、そうだ。小遣いをやるから、後でねえさんに化粧品でも買ってもらいな」
そういうと、紅果様は、財布からねえさまにいくらかぽいと手渡した。
「まあ、紅果様、ありがとうございます。この子も、そろそろ年頃ですものね」
ねえさまは、私の頭を撫でながらにこにこと微笑んだ。
「お店にでる予定はないんですが、着飾りたくなる年頃ですもの。いいえ、むしろ私がこの子をかわいらしく着飾らせるのが楽しくて」
「おお、こわいな。人形代わりじゃねえか。シャシャもねえさんに遊ばれてたいへんだな」
にっと紅果様はわらって、ゆっくりと酒を口にした。
「誰かお呼びしましょうか?」
夕映えのねえさまは乙女であるので、あまり長くお相手はできない。他の客から、歌を歌って欲しいとか、占いをして欲しいとか急に呼ばれることもあるのだ。それに、今は、空いた時間に、紅果様に挨拶しにきたわけで、彼の酒の相手をしにきたわけでもないのである。
「今日は休みにきただけだ。呼んでもらわなくてもいいぜ。俺もちょいと疲れたし、飯と酒をたのしんで、一晩軒先を貸してもらうだけだからな。おめえも、遠慮せずに仕事に戻ってくれていい」
「わかりましたわ」
夕映えのねえさまはにこりと笑って返す。紅果様は、そういう気遣いをしてくれるので、われわれとしてはとても楽だった。
「ああ、そういえば」
と、夕映えのねえさまが手をたたく。
「今度の女神様のお祭りには、この子を連れていこうとおもっていますの」
「ああ、もうそんな時節か。こいつはうっかりしていたな。それじゃあ、しばらく会えないというわけか。寂しいねえ」
紅果様は、こういうときにもさらりと殺し文句を入れてくる。おそらく、意識していっているわけでもないのだろうなと思う。
「紅果様は、そういえばお祭りにはおいでにならないのですか?」
「俺ァ、あまり人前に出るのがすきじゃないからなあ。それに、俺はねんごろにしている乙女はあまりいなくてよ。こうして顔さらしてじっくり話せる乙女は、夕映え、おめえぐらいのものさ」
「まあ、本当かしら。紅果様はお口がうまいから」
夕映えのねえさまは、頬に手をあてて小首をかしげた。
「それでは紅果様は、護衛では巡礼に参加されないのですわね」
「ふふふ、わざわざ影武者立ててる俺が、そんな目立つことはしねえよ。そりゃあ、夕映え、お前にどうしてもと頼み込まれれば、俺も少しは考えてしまうけれど、それでもできれば勘弁してやってほしいぜ」
「そうですわねえ。それでは、やはり、殿様に頼もうかしら」
ふと、夕映えのねえさまからそんな言葉が出たので、私ははっとした。うすうす感じていたけれど、ねえさまは、護衛を殿様にしてもらおうなどと考えているのだ。それだけは、それだけは止めて欲しい。
紅果様も、なにかぴんときたらしい。
「殿様って、ああ、紅楼の殿様か」
「ご存知ですの?」
「話はきいているぜ。なるほど、今日もいらっしゃるんだな? 近頃、この楼閣の一角がやたらと警備が厳重だったもんで、そうかなとは思ってたんだが」
紅果様は、怪訝そうな顔をした。
「うわさによりゃあ、ずいぶん変わった御方だっていうけれど、またどうしてここにいらっしゃるんだい」
「ええ、なんでも、うちの旦那様が王族の方から頼まれたという風にうかがっておりますが」
「しかし、ここに住んでるっていうのも妙な話だよなあ。屋敷にかえれねえ事情でもあるのか」
「あらまあ、それは紅果様がおっしゃる言葉かしら」
「あはは、そりゃごもっともだな」
紅果様は楽しげに笑ったが、ふとまじめな顔つきになった。
「しかし、夕映えよ、そんな男を護衛に誘っても大丈夫かい? どうせ深いわけがあるにちがいねえ。あまり目立つことをしないほうがいい。危険にさらされることがある」
紅果様は、すっと声を低めた。
「あの男は、王族だろう。どの程度の位かしらねえが、今は王族とはつきあわねえほうがいいぜ。お前らは、この楼閣にいるから知らないかもしれないが、昨日も国境近くで反乱があったんだ。前の国王が戦場で失踪してから、今王位は空位のまんまなんだぜ。今、ヤツらは担ぎ出せるものは担ぎ出そうと必死でね。あっちこっちで王を僭称しているヤツらがいるという話さ。その殿様がもし王位継承位を持っているとすれば、どんな理由で命を狙われるかわかったもんじゃない」
夕映えのねえさまは、少し眉根をひそめた。
「ええ、それはわかっておりますが、けれど、殿様は、あまりここからお出にならないので、気晴らしにはよいのではないかと思いますの。ふさぎこんでいらっしゃるときもありますし。それに、お祭りの最中ですもの。王位を目指す方が、巡礼中に血を流すなどもってのほかですわ。星の女神様は王位にもかかわる大切な女神様ですもの。そんな神を恐れぬ行動を取らないでしょう」
ねえさまがそういうと、紅果様は、ふむとうなった。
「それもそうかもしれねえな。まあ、なんにせよ、巡礼の途は気をつけてな。おめえの言うとおり、巡礼中に騒ぎはおこさねえと思うが、今のこの国の王族は、何かと殺気だってやがるから、何をしでかすかわからねえ。まあ、巡礼中に暗殺騒ぎが起こるようじゃあ、この国も終わりだけどな。まったくいやな世の中だねえ」
紅果様の言葉が、ふと気になった。この狭い世界で生きていると、外の世界のことがわからない。だから、今までこの国で何が起こっているのか、私は知らなかった。
けれど、紅果様の話では、内戦状態だということのようだ。王様がいなくなって、跡継ぎ問題でもめているのだとか、あまり詳しくきいたことがなくて、私は一抹の不安を覚えた。
よりによって、その件に深く絡んでいるであろう殿様を、巡礼の護衛に選ぼうと考えているなんて、夕映えのねえさまは、正気なのだろうかとすら思うのだった。