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0:前夜 紅楼の殿様-1

 暖かな空気が窓から流れてくると、私達は春の気配を感じる。花と緑の風の香り。優しい日差し。
 私たちにとって春は、特別な季節だった。

 春になれば、星の女神さまのお祭りがある。


 星の女神、というのは、金星を司る女神のことで、豊饒の大地の女神を兼ねていた。彼女は娼婦達の守護者でもありるため、春の祭りの主役はそうした娼婦達が担っていた。
 この国には、少し変わった習俗があって、高級な妓楼や娼館には、必ず星の女神の巫女が派遣されていた。私もよくは知らなかったが、私を可愛がってくれた夕映えのねえさまがいうには、星の女神の神殿には、大昔、春を売る巫女がはべっており、巡礼に来るものに女神の加護を与えていたという。時代が下るにつれて、そんなことはなくなってしまったが、そうした神殿娼婦の習俗を一部受け継ぐ形でそういう派遣が行われているのだという。
 そんな彼女たち、星の女神の乙女達は、けれど、他の妓女や娼婦と違って、積極的には春を売る役割を負わされてはいなかった。彼女達は、特別な存在であり、他の妓女もできる楽器の演奏や歌や舞踊は当然として、機織や裁縫、詩作に将棋、難しい政治の話や学者の話にも受け答えができるような教養すらもとめられていた。加えて、巫女としての祭祀、神託としての占い、簡単な薬草の作り方など、さまざまな知識も必要とされている。
 もちろん、個人的に得意不得意はあるものだから、どこどこのだれそれは歌のうまい乙女、どこそこのだれそれは舞のうまい乙女とか、色々あり、それぞれ得たい女神様のご利益を求めて、客達は妓楼を選ぶのだった。
「シャシャ、今年のお祭りはあなたをつれていくことにしたわ」
 今年も、もうすぐそのお祭りがあるというので、ここ、紅楼の乙女である夕映えのねえさまは、とても楽しげだった。
 乙女とはいえ、彼女達も基本的には遊里の中の人間であって、外界と触れることはほとんどない。星の女神様の祭りは、そんな彼女達が館を出て、ゆっくりと行列しながら、王都から10日ほどの場所にある女神様の神殿まで巡礼をするお祭りだ。外界に触れられない彼女達にとって、一年に一度のその時は一ヶ月近く心行くまで外の空気を味わえる機会である。
 夕映えのねえさまは、この紅楼にはべっている乙女だった。ここでは妓女達が源氏名で呼ばれていて、夕映えのねえさまは、夢の夕映えという源氏名で呼ばれている。だから、夕映えのねえさま。本名は私も知らない。目が大きくて、かわいらしい印象で、おっとりとしてやさしい性格も手伝ってとても人気のある乙女だ。今日も薄紅の衣装がとてもよく似合っていて、小首をかしげるように微笑むのがとてもきれいだった。
 私は、ここに売られてきて、ちょうど一年ぐらいになる。下働きとして売られてきたので、客をとるようなことは今の所ないようだった。ただの下働きということだったが、夕映えのねえさまが私を気に入ってくれたので、私はそばで使ってもらえることになっている。夕映えのねえさまは、とても親切な人で、時間があれば、私に文字の読み書きや歌を教えてくれたり、髪の毛を梳かしておしゃれをしてくれたりと、とてもかわいがってくれている。私はそんなねえさまが大好きだった。
 そんな夕映えのねえさまが、とても楽しそうにもう一度言った。
「シャシャ、今年のお祭りには、あなたを一緒に連れて行くことにしたのよ」
「本当ですか」
 星の女神様のお祭りで巡礼をする乙女は、世話係ひとりと護衛をひとり指名する権利がある。もちろん、誰も指名しなくてもいい。その場合は、店のほうが誰か用意をしてくれる。
 それに、夕映えのねえさまは私を指名してくれたのいうので、私は思わず嬉しくなった。ここにきてから、その世界のことを直接見聞きすることはなくなっている。大手をふって外に出られるのだから、嬉しくないわけがなかった。おまけに、大好きな夕映えのねえさまと一緒なのだから、こんなに嬉しいことはない。
「うふふ、あなたも外の空気にふれたいでしょう。それにね、お祭りってとてもきれいで楽しいものなの。シャシャも一度みておくといいわ。シャシャも社会勉強をしなきゃねえ」
 夕映えのねえさまは、夢見るように目を閉じた。
「それに、他の乙女達とは、お手紙でおしゃべりしたり、時々連絡をとって会うこともできるけれど、あんなに一同に会することはないもの。特におしゃべりがとても楽しいの。でも、今年のお祭りはあなたもいるから、いつにもまして楽しくなりそうね、シャシャ」
 夕映えのねえさまが、そういって笑う。
 そうなのか。ねえさまがそんなに楽しみだというのだから、本当に楽しくてよいものなのだろう、お祭りは。
 想像もつかないけれど、私の脳裏に、きらきらとした音楽とまばゆい色彩がよぎりはじめる。
「私も、楽しみです。そのお祭り……」
 と、私がねえさまにそういいかけたときだった。私が笑いかけたその表情が凍りついたのは、向こうの部屋から聞こえる怒鳴り声のためだった。
「馬鹿野郎! てめえ、そんなこともわからねえのか!」
 私は、はっと声のするほうを見た。
「てめえら、出て行け! 全員だ!」
 びくりとした私に、夕映えのねえさまは困ったように笑う。
「あら、まあ、今日はご機嫌が悪いのね」
 続いて皿がいくつか割れる音がした。ああ、そうだ。今日は、たくさん料理をお出ししたのだ。来客も多かったから。私は部屋の惨状を想像してぞっとした。
「シャシャ、恐がらなくてもいいわ。殿様だわ」
 ねえさまは、平然としていたけれど、私はとても落ち着いていられなかった。向こうで荒れているのが、夕映えのねえさまのいう殿様だということは言われなくてもわかっている。
「ねえさま、私、片づけを手伝ってきます」
 割れた皿を片付けなければ、そう思って私は立ち上がる。さすがの彼も、私のような小娘に手を上げることはないから、こうした片付けは私の仕事でもある。ねえさまが恐がらなくてよいというのは、そういうことだ。彼は乱暴で手の早い男だったけれど、女を殴ることはなかった。
 もちろん、私よりも夕映えのねえさまに対しての方が甘い態度をとっていたけれど、ねえさまは、家事などしたことがないから、危なっかしくて片付けなどさせられなかった。うっかり欠片で手でも切ったら大変だ。
「あら、もう少ししてからいったほうがいいのでないの? 殿様の癇癪は、いつもしばらくたったらおさまるわ」
 夕映えのねえさまがおっとりといったが、私は首を振った。
「でも、すぐにいかないと、お皿の破片が飛び散ったままだと危ないですし」
「それもそうね。それじゃあ、殿様のご機嫌をこれ以上損ねないように気をつけてね」
 夕映えのねえさまは困ったようにいい、私に手を振った。私は彼女に返事をして、そして部屋を出て行った。
 向こうで酔っ払った男の声が聞こえている。私は、うんざりとしながら、部屋にむかっていた。



 彼は、ここ数ヶ月、この楼閣に居座っていた。
 酒を飲んで大騒ぎしたり、よその妓楼から妓女を呼び寄せて騒いだりと好き放題だったけれど、彼がここにいるのをみんな許容していた。それだけお金を落としているということなのだろう。
 どこのどういう人なのかしらないが、やんごとないひとだとだけきいている。
 多分王族なのだろうと思うけれど、王様にはたくさんのお子様がいらっしゃるし、親戚筋も多いから、どのぐらいえらい王族なのかはわからなかった。
 彼のことを、みんな殿下と呼んでいた。それで、夕映えのねえさまをはじめ、ここの妓女たちは「殿様」と呼んでいた。それが伝わって、花里の事情に詳しい人たちの間で、かれは紅楼の殿様と揶揄を含んだ言い方で呼ばれていた。
 紅楼の名前を意識したわけではないのだろうけれど、このところ、殿様は赤を貴重とした服を自堕落に着ており、黄金の首飾りや指輪、腕輪などの装飾品を、ちゃらちゃらと見せていた。そんな姿も彼を「紅楼の殿様」とまわりに呼ばせたのかもしれない。
 私が部屋の前についたとき、慌てて側近達が逃げていくのが見えた。おおかた、皿でもぶつけられたに違いない。
 ばたばたと男達が、恐れるように部屋から出て行ったあと、私は、失礼します、と声をかけて部屋の中に入った。
 赤いじゅうたんの引かれた部屋に入ると、すぐに割れた皿の破片と投げつけられて散乱した料理が目に飛び込んできた。
 そして、外の光を入れない暗い部屋の奥で、一人の青年がだらしなく寝そべっていた。いったいいくつぐらいなのかはよくわからないが、どうやら若いのは確からしい。黒い癖の強い髪の毛をひとつにまとめている。
 いつも顔を仮面と絹の布で隠しており、目だけが見えているだけだから、年のころなどわからない。仮面は宝石で作った豪奢なもので彼の目元を隠しており、大抵いつもつけていた。時には、鼻から下を絹の布で覆い隠してもいる。今日は両方だった。
 殿様はやんごとない人なので、普段はあまり顔を見せないのだと夕映えのねえさまが言っていた。そのとおり、飲食する時も彼は布で顔の半分を隠していることすらあるし、それでなくても仮面のせいでろくに顔も年齢もわからなかった。
 けれど、彼が酔っているのは、人目でわかった。深酒を続けているせいか、外に出たがらないせいか、青白い肌がのぞいている。
 普段、殿様は、日によって妓女をとっかえひっかえはべらしているものだったが、今日はそばにはいなかった。彼は、妓楼にやってくる遊び人達とは違って、お気に入りの妓女というのが存在せず、日ごとに別の女性を呼びつけていた。しかも、ただはべらすだけで、機嫌が悪ければ、歌もうたわせずに帰してしまうなどということもしていた。殿様が何をやりたいのかよくわからない。
 私は、はじめは、妓女達はみな殿様のことを嫌っているのだろうと思っていた。
 けれど、夕映えのねえさまの様子や、他の妓女達の話をきいてみると、別にそうでもなさそうだった。彼女達は、殿様のことを気難しいがとても素敵だといっていた。本当は優しい方なのだと。
 お金があるからそう思っているのだろうかとも思うけれど、夕映えのねえさまも、何かと殿様の世話を焼きたがる。私にはそんな気持ちはよくわからなかった。
「ふん、なんだお前か」
 殿様は、私を一瞥すると鼻先で笑い、酒をあおった。
「夕映えの君はでてこねえのかよ?」
「ねえさまは、少し忙しくて……」
「ああ、そうか。俺などより、さぞかし、色々大切なことがあるんだろうな」
 皮肉っぽくいって、紅楼の殿様は、私を横目で見た。
 殿様の目は、言ってみれば三白眼で、それでなくても、暗い殺気を含んだまなざしをしていて恐ろしいのに、普通にみられただけでにらみつけられているような印象があった。それが仮面の奥から覗くのは、本当に恐ろしかった。
 酔っているから余計かもしれない。酒を抜いた殿様の姿を、私はみたことがなかった。
「まあいい、目障りだから、さっさと片付けろ」
 すげなくそういうと、殿様は私に背をむけて寝転がってしまう。
「はい」
 私はそう答えながら、なにかやり切れぬものを感じていた。
 いやなやついやなやついやなやつ!
 私は、この紅楼の殿様が、本当に嫌いだったのだ。





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