その日も晴れていた。その青い空の下、突然の怒号が、辺境の森の奥に響き渡った。ギレスのすむ洞窟の、その近くの木の下で、サライはそこによりかかっっていた。
「どうして教えたんだ！」
サライは、目の前にいる男を冷静に見ていた。その目に憤りと焦りが見えた。おそらく普段は大人しい男なのだろう。滅多にない感情の発露に、彼自身が戸惑っているようだった。
布で丁寧に覆面をし、大きな体にマントをかぶせている。そこにいるのは、間違いなく、この前に現れたイェーム＝ロン＝ヨルジュと名乗る狼人だった。
イェームはサライに食って掛かった。掴みかかりはしなかったが、その口調はかなり強かった。
「…あんた、全部知ってたんだろ！ なんで教えたんだ！」
「それを望んだのは、レックハルド自身だ。お前も良く知っているはずだ。あの性格からして、なにも教えなくても、どこかで必ず無茶をやる。だったら可能性の高い無茶のほうがよいだろう」
サライは悪びれもせずに応える。
「だからって！ なんでそんなこと！」
「それに、このままではおぬしのほうもおさまるまい…違うか」
言われて、イェームはぐっと詰まった。サライから目をそらし、イェームはため息をつく。
「レックハルドは、…死の砂漠に向かったのかい？」
「そうだ。それを越えて、おそらくは聖域を目指しているはず…」
イェームは、ばっとマントを翻した。
「…追うのか？ ただ失踪しただけかもしれぬぞ」
彼を試すように、サライは少し意地悪につけくわえる。
「もし、逃げたのだとしたら？」
「あいつはそんな人間じゃない！ 時々、無謀な賭けに出る奴なんだ！ そうなったら、絶対に自分の決定を貫き通す！ たとえ、死ぬかもしれなくても！」
イェームは振り返って叫んだ。
「あんたのせいだぞ！ あいつが死んだら！」
サライは薄く笑っているだけである。
「あの男は死ぬまい」
小声でサライはささやいた。
「その方がいる限り、おそらくは――」
「オレが間に合わなかったら？」
「そのときは、自分の運命だといって笑って死ぬかもしれん。あの男はそういう男だ。お前も良く知っているはずだが？」
イェームがこちらを睨んだのがわかった。サライはふと微笑む。
「…今すぐ追えば、おそらく間に合う。アレの足は速いが、お前は狼人だろう。間に合わぬわけがない」
黙ってイェームはサライを睨んだ後、わずかにため息をついた。
「……そうだな、あんたを恨んだところで何も解決しない。それに恨みもつらみも、もうたくさんだ」
そういいながら足を踏み出す。マントの端から、色あせたコートの裾がちらついた。
「ただ、…そうだな」
歩きながらイェームは振り返らずに言った。
「その洞窟の奥にいる王様によろしく伝えてくれ。もしかしたら、力を借りなければいけないかもしれないから…」
「よかろう」
サライはそういい、くすっと微笑んだ。
サライに背を向け、イェームは早足で歩き始めていた。死の砂漠は、マジェンダ草原側にある。普段は歩きだろうが、レックハルドも元々は遊牧民だ。馬術には自信があるといっていたので、もし彼が馬にのって道中をしているなら、イェーム自身も相当速いペースで行かないと追いつかない。
どうしたものか、自分も馬か何かを調達したほうがいいのかと考えながら、辺境をほとんど駆け足で戻っていく。だが、彼はふと足をとめた。
「なんだ？」
足元に何か光るものがある。草の中のそれを目ざとく見つけ、イェームはしゃがみこんで、その光るものを手にとった。それは小さな金貨のようだ。
「これ…」
イェームはその硬貨をじっと見極めた。金貨の表裏に狼と剣が描かれている。それの意味することを、イェームは確か知っていた。
「これは…たしか『三枚目』の…」
ファルケンは司祭にそれを取られた。ここにあるということは、彼が金貨をこの辺りに捨てていったということだろうか。
(これは、レックハルドに返さなければ。)
イェームは、それを色あせた上着の袖でぬぐうと丁重に袋に包んで懐に収めた。その時、近くで足音がした。イェームは顔をあげ、そして驚いた。
「シ、シーティアンマ…」
ちょうど横に、狼人が通りすがったところだった。随分繊細な長い髪をしていて、顔の作りも繊細だった。頬につけるメルヤーも、他の狼人に比べて随分と細くこまやかである。目は閉じられ、目の前にいる自分を見ていないようだった。視力が弱いのか、それとも失っているのかもしれない。額には、銀でできた額冠がはめられていた。その額冠が輪を描くので、狼人の中では「輪冠
」と呼ばれている。それも、またシェンタールの一つだった。
それを見て、イェームは彼を自分の師匠であると判断する。また自分を止めに来たのだろうか、と不安になりながらも、彼はその場にひざまずいた。
だが、この前と違い、彼の師はふと足をとめ、怪訝そうな顔でこちらを伺ってきた。
「…おや、そなたはどなただね…」
狼人は、おっとりと首を傾げた。
「なんだか、会ったことがあるような気がするのだが、思い出せないのだ。…どこで会った方かな？」
イェームは、今気づいたように目をわずかに見開いた。それから、少しため息をつく。
「では、私の人違いでしょう。失礼」
そういって、イェーム＝ロン＝ヨルジュは、足早にそこを去っていく。彼が立ち去る気配を感じながら、その狼人は、ゆったりと微笑んだ。
「変わった方だ。そんなに私と似ている人がいたのだな」
一人納得し、狼人はそのまま足を進める。景色も地形も見えないが、彼はどこにすすめばよいか、その直感でわかるようになっていた。ゆっくりと足を進め、やがて彼は木の下で休んでいる青年の方に向かう。そこに誰がいるのか、気配を読めば、彼にはわかるのである。
「久しぶりだな、サライどの」
「ようやく現れたか…。『銀輪冠』。ハラール＝ロン＝イリーカス」
サライはいい、顔をあげた。思ったより元気ではないか、と意地悪なことを言いそうになったが、それは心の中にとどめておいた。
「少し…来るのが遅くなってしまった…。いや、私がきても、どうにもならなかっただろうが」
ハラールは言い、顔をわずかに伏せる。
「サライどの、私の力はあなたが思っているよりも弱くなってしまったのだ…。というよりは、今度の刺客の力があまりにも強すぎる、といったほうがよいかもしれないが……。それに、私ももう年が年だし……。世代交代の時期かな……」
落ち込んだ様子のハラールを見て、サライはいたずらっぽく笑んだ。
「では、弟子
はどうだ？」
サライはわざわざそこだけを
辺境古代語
で言った。師匠
に対する弟子
である。サライは、おそらく先ほど謎の青年が彼を人違いして「シーティアンマ」と呼んだことと、関連付けてわざわざツタービュと言い換えたのだろう。あの青年に人違いされたことをどうして離れていたサライが知っているのかも良くわからないが、それ以上にそれをわざわざ引っ掛けたサライの思惑が、ハラールにはどうも理解できないのだった。
「二人とも、『離れ島』の私の小屋で留守をしているよ。だが、兄弟子のあの子はあまり向いていないし。昨日入門した子はまだ寝ているみたいだし。素質はよくわからないよ」
「そうか。良いツタービュになればよいがな」
意地の悪い笑い声が聞こえ、ハラールは、彼が何を面白がっているのか、真剣に考えようとし始めたが、すぐにやめた。サライの気など、どうせ知れないのである。
「だが、…すべては今から始まる…か」
サライは空を見上げるようにしてそういった。ハラールは、仕方のないことを考えるのをやめて、こくりと頷く。
「……封印は七つ目が解けた後が正念場」
ハラールは繊細な髪の毛を風にあそばせた。
「あの、レックハルドにとっても、それから――」
サライは、わかったような顔をして何も言わなかった。ハラールが、首をかしげる横で、彼は不敵な笑みを浮かべる。
「これで、おそらく、すべてが回り始めるのだがな…」
奥の洞窟で、竜の咆哮が聞こえた。ギレスが起きだしてきたのだろうか。
「…役者は揃った。か」
サライは楽しそうに微笑んだ。
――レックハルドが姿を消して、二日後のことである。