第十一章:歯車:歯車-3
鼓動の激しい音が、耳を突いた。封印の場所が、見えている。辺境特有の、人よりも背の高い草に覆われた草むらを抜けると、そこにそれはあった。急に草が短くなり、芝生のようになる。その向こう側はしっとりと湿った黄緑色のコケに覆われていた。
この辺りは、確か入り口付近になるはずだったが、それにしても、辺境の奥ほどに得体の知れない木や草が多かった。近くに湖があるが、そこも何かと謎に包まれたところである。
(昔、オレがここに来たとき、何だか妙な感覚がしたのは、封印の場所だから、人を近づけないような工夫がされていたんだな…)
ファルケンはそう思い、足をそっとすすめる。
六番目の封印が解けたせいで、封印の場所は、ファルケンにもはっきりとわかった。いくらか、不自然にコケが生えていない石があり、円を描いている。そして、その真ん中に抜き身の剣が一本突き立っているのが見えた。剣にもコケが覆い被さっていたが、剣自身は錆びもせず、美しいままだった。
普通の狼人は、あの剣をなかなか手にしようとできないだろうと、ファルケンは思った。それも、そこにあるのは、異様に飾り立てられた、芸術作品のようなものだった。柄頭に宝石がはめられているし、細工がこまやかになされている。あれだけこまやかだと、おそらく普通の金属嫌いの狼人たちには触ることもできないだろう。
そして、好奇心でそれを手にしてしまうだろう人間は、この場所まで独力で来ることはできない。辺境に住まう精霊の子供達の、独特の勘と、その力によって守られ、案内されなければ、ここに来ることは不可能だ。
人も辺境の狼人も、お互いの力なくして、封印を解く事ができないというのは、こういうことなのかもしれない。
そして、その剣が立っている両側に、グランカランの苔むした古木が二本立っている。まるで双子のような、まるきり左右対称の木だった。同じようにコケが生え、そして同じように地面にあちらこちらに大きな根を張っている。枝の向いた方向もまったく逆で、葉の茂り方も同じだった。
その姿に、いささか、ファルケンは興味を覚えた。辺境の中を色々歩き回ってみたが、こんな木は珍しい。いくら聖なるグランカランだとしても。
だが、それは興味と同時に、畏怖も彼に与えていた。言葉では言い表しようのないような、独特の、少し荘厳な感じさえする神聖な空気が、彼の上にものしかかってくるようだった。
「…また会ったな」
声が聞こえ、ファルケンは、振り返った。急に動いたので、例の傷が痛み、わずかに顔をしかめる。
「シャザーン=ロン=フォンリア」
シャザーンの薄い色の金髪が、緑の世界の中で、少しだけ目立っていた。端正な顔立ちには、表情が浮かんでいない。おそらく、妖魔と彼自身が交互に現れているせいで、不安定にみえるのだろう。
だが、この周りには、狼人の戦士と司祭
が必死の守りを張っているはずだった。だというのに、どうしてシャザーンがここにいるのか。
ファルケンの思惑を読んだのか、シャザーンは笑った。
「『まるでざるだ。』」
顔がわずかにゆがみ、妖魔の方がそう応える。
「『…他の妖魔どもの相手で手一杯で、侵入してきたことにも気づかない。狼人も質が落ちたな。…昔はこうではなかったが。』」
「…話し合いたいんだ。乱暴なことはしたくない」
シャザーンのと妖魔が、お互いまるで正反対のことをいっているような気がした。
「『戦っても勝てないこともわかっているはずだ。おまけに、この前私が負わせた傷は、そんなに浅くはない。』」
「協力してほしい。…私の気持ちがわかるはずだろう?」
ファルケンは黙って両者の言葉を聞いていた。
「そうだな」
いくらかの沈黙の後、ファルケンは静かに言った。
「オレじゃ、あんたには勝てない」
ふっと諦めたようなさびしげな笑みをうかべた。
「オレがあんたに勝てない理由はいくらでもあるさ。まず、そうだな、…あんたのほうが才能もあるし、オレはまったく戦いには向いてないらしいからな。それに、オレは、今、あんたにやられた怪我が治ってない…」
「『なら、我々に協力しろ…』」
シャザーンは、そういって薄ら笑いを浮かべた。もはや、クレーティスの表情は一切が消えていた。
「『司祭
(
に操られるのは嫌だろう?』」
「そうだな」
ファルケンは、言いながら顔を引きつらせた。何か、少しだけ、顔が紅潮してきている。
「…酒に酔う奴がいるって…人間界ではよくわかるんだ。狼人は、あまり酔わないからさ」
ファルケンは、妙な話をし始めた。
「例えば、レックは、大酒に酔うと、やけに説教じみるし、ダルシュはダルシュで余計暴れたりして大変だったんだ。人格が変わる奴までいるんだってな。…理性が飛んでしまうのかな。オレには経験があまりないから、わからないんだけど」
「『何の冗談だ?』」
シャザーンは、不審そうにファルケンに目を向けた。疑るような眼差しである。
「……それはいい方法だと思ったよ。司祭に操られるのも嫌だし、オレはたぶん、戦いに向いている性格じゃないし、それに、今は正直、傷が痛くて立っているのもやっとだ。でも、全部わからなくなったら、…どうなるんだろうな」
それから、ファルケンは目を閉じた。あの、司祭に操られて、理性なくレックハルドを殺そうとしていた悪夢が頭をよぎる。あれでわかったことが、一つある。
自分は、おそらく、理性を無くしている間の方が強い。あの間なら、何だってできる。どんな冷酷なことも、残酷なことも。だが、頭をよぎるその悪夢も、形をどんどん無くして、何か大きな熱い渦の中に引き込まれていくようだった。徐々に変調をきたしていく自分に、ファルケンは気づいている。そして、それを待っていたのだった。
「そろそろ、オレも限界だ…」
ファルケンは、顔をあげ、目をシャザーンに向けた。
「オレが、…司祭に操られもせずに、あんたに勝つ方法はただ一つ――」
ファルケンの目が、少し焦点を無くしてきていた。先ほどと違い、口調も何かを抑えるような物に変わっている。かすかに呼吸が速くなり、鼓動の回数も多くなる。シャザーンは、ふと警戒した。
「オレが、正気を、なくす、…ことだ…!」
言葉が終わった瞬間、ファルケンの足が地面を蹴った。今までとは違い、何のためらいもない動きだった。肩に背負っていた剣を抜き、間違いのない殺気を目に点し、ファルケンは飛び込んでいった。叫びながらそのまま抜き放った剣を、力任せにシャザーンに向けて振り回す。
その双眸が急速に凶暴さを増していた。普段の彼ではありえない、その乱暴な動きといい、目といい、シャザーンにある可能性を導き出さずにはおられない変化だった。
赤くなった肌、血走った目、そして、怪我をしているにも関わらず、まるで痛みを感じていないかのような動き。
「まさか、ザメデュケ草を!」
シャザーンは、ぽつりといった。
「『…そこまでするとは思わなかったぞ!』」
妖魔が、舌打ちする。足元の草がいっせいに刈り倒されて空中に乱舞する。
「『…思ったより出来るな…。』」
ファルケンはそれも聞いていないらしく、相手にひたすら攻撃を続ける。クレーティスの戸惑いなど気にする風もなく、妖魔は好戦的な笑みを見せた。
「『なるほど。これもまた一興だ。』」
シャザーンの目は、ファルケンが腰から下がるランタンに向いた。火の点されていないそれの蓋いには、ファルケンが細工したのか、何か文字らしいものが刻まれているのがわかった。
辺境の森の中を進む。暗い分、いつもよりは地形がわかりにくくなっていた。
――彼が向かうのは、七番目の封印…。辺境の、入り口近くの大きな湖の近く。
シェイザスの言葉を思い出し、レックハルドは足を進めていた。辺境の湖というと、確かミメルが住む辺りにひとつあった。辺境の中に湖とは珍しいと、レックハルドが言うと、その時に、ファルケンが確かに言っていたのである。
「珍しいって程でもないけどな。たしか、辺境の入り口近くに、もっと大きな湖があるよ。でも、どういうわけか、あそこは入り口近くなのに、深い場所よりも草が生い茂っていて、おまけにおかしな植物がたくさん生えているんだよ。おまけに、あるのはわかるのに、普通の人間なんかは、進んでも進んでもたどり着けないらしいんだ」
わずかに首をかしげながら彼はいった。
「だから、入り口近くとはいえ、あそこに行ける人はかなり少ない。オレもね、一回行こうとしたんだけど、ずいぶん遠回りしたよ。ただ、そのほとりになんだか広い場所があって、でも、そこには歩いても歩いても、どういうわけか近づけないんだな。不気味だし、入っちゃいけない場所だと思ったから、オレも行かなかったんだ」
その湖が果たしてシレッキの近くにあるのか、レックハルドにはわからない。だが、一ついえるのは、ロゥレンがシレッキに現れたことを考えて、しばらくは彼が近くにいたのだとわかる。だとすれば、そんなに遠くには行っていないはずだ。
まず、レナルに会ってからでもいい。向こうに大きな火柱が立っているのが見えるし、そこにいけば誰かにあえるとレックハルドは踏んでいた。そして、あの時から空を赤く染めていたものの正体が、この火柱であると、ようやく知れたのである。
「くそ! 結構遠いな…!」
全力で走ってきたせいで、さすがのレックハルドもかなり息切れしていた。迷うと危なかったが、幸い進行方向から熱風が吹き付けてくるし、ともすれば光が見えるので、今のところ迷うことはなさそうだった。
そのせいと、それからこの空のせいか、辺境の獰猛な生き物達も身を潜めているようだった。だからこそ、彼が一人、得体の知れない草木の生い茂る辺境を、こうして奥に進むことができたのである。
「レックハルド!」
急に、呼び止められ、レックハルドはどきりとした。声がファルケンに良く似ていたからだったが、すぐにある可能性にいきついた。
「…イェーム?」
その方向に目を向ける。そこには案の定、見覚えのある覆面姿が立っていた。レックハルドは、その時、イェームにした約束を思い出した。日蝕の間は危険だから、辺境には入らないという、あの約束である。
「悪い。…今緊急事態なんだ。許してくれよ」
イェームは首を振った。
「ダメだ。危ないからあんたはすぐに戻らなければ…」
「オレにも引けない事情があるんだ!」
レックハルドは聞き入れなかった。歩み寄ってくるイェームは、再び首を振った。
「ダメだ! あんたは、ここから先にいっちゃいけないよ」
「あいつが危ないんだ! だから、仕方がないんだよ!」
レックハルドのほうも必死である。
「わかるだろ! ファルケンが危ないんだ! オレが行かなきゃ…」
「いま、日蝕が起こってるのがわからないのか! オレに入らないって約束したじゃないか!」
イェームは強い口調でいった。
「だから、入っちゃ…」
言いかけたとき、レックハルドが突然声を荒げた。イェームの思わぬ妨害に、もしかしたら腹を立てたのかもしれない。
「じゃあ、オレにどうしろって! あいつが死ぬのを黙ってみてろっていうのか! この半日考えに考えた! でもな、やっぱりオレには無理なんだよ! だまって待ってるなんて!」
「ファルケンは死なないよ!」
イェームはレックハルドを止めようとその肩に右手をかけた。
「お願いだから、…あんたは行かないでくれ…!」
「それは、オレが足手まといだということか!」
レックハルドは怒ったように言って、イェームの手を振り払う。イェームは心外そうな顔をして両手を広げた。
「違う。そうじゃないんだ!」
「じゃあ、どういう意味だ?」
「あんたが辛い思いをするだけなんだ! お願いだから!」
「うるせえ! お前の相手なんかしてられっか!」
レックハルドは、押し問答を嫌って背を向けた。そのまま無視を決め込んで足を進めようとする。
「頼むから!」
と、イェームの声が哀調を帯びて聞こえた。
「お願いだから! 辺境には行かないでくれ!」
レックハルドは、我に返ってイェームのほうを振り向いた。彼は懇願するようにもう一度叫んだ。
「何も起こらないから! あんたはこれ以上辺境に関わっちゃいけない!」
レックハルドは足を止める。イェームの碧の目には、熱さと悲しみがあふれているようだった。
「お願いだから、とどまってくれよ! 約束したじゃないか!」
彼は目を閉じ、その声を聞きながら考える。
「…すまねえ」
レックハルドは言った。
「でも、オレは、今いかねえと多分、オレはオレでなくなっちまうんだ!」
はっとイェームは顔をあげた。
「ああ……どうやっても後悔するかもしれねえ。でも、やって後悔するより、やらねえで後悔する方が、ずっと辛いんだよ!」
イェームは、黙ってこちらを見ていた。何かに驚いたような顔をしていたが、レックハルドにはよくわからなかった。彼は、ゆっくりと走り出し、軽くイェームを振り返った。命の恩人のイェームには、そんなにも冷たい仕打ちをすることができなかったからである。
「すまねえ。…あんたには後々、何か埋め合わせをする」
レックハルドは、顔を前方に向けた。
「だから、今はオレを行かせてくれ!」
本当は止めようとすれば無理に止められたかもしれなかったが、イェームはなぜかレックハルドをそれ以上追おうとしなかった。それを、イェームがゆるしてくれたのだと認識した。
「すまねえ」
もう一度だけそういい、レックハルドはスピードをあげた。イェームは、脱力したように肩を落とた。レックハルドは辺境の中に去っていく。それを見送りながら、イェームはなにか深く考え込んでいるようだった。ふと闇の中にレックハルドの背は完全に消えた。イェームは、まだ動けない。
「……わかったか? こんなことはもうやめよう」
不意に声が聞こえ、イェームは身を引いた。いつからそこにいたのか、細身の狼人が立っていた。そこにたたずむ男は、繊細でこまやかな長髪をなびかせていた。頬には赤いメルヤーが、狼人には珍しい繊細でこまやかに描かれている。顔も十分繊細でどちらかというと女性のような、ほっそりした顔つきである。
「お前には何度も言いつけたはずだが…」
「シーティアンマ…」
彼の師は、わずかに憂いの表情を浮かべていた。
「これに成功すれば、お前の存在自体が危うくなる。それはわかっているはずだ」
「…しかし!」
イェームは、反抗的な目を向ける。師はため息をついた。
「…もう一度考え直せ。青年は先ほど何といった?」
イェームはびくりとした。
「何もしないままだと、自分も辛いといっただろう? これは、…お前だけの問題ではないのだ」
「…しかし……私は…!」
イェームは、両手を広げて師を納得させようと、感情のこもった言葉を吐き出す。
「私は、……これを望んでいないのです! きっと、彼だって、後から!」
「…お前は、自分がそれほどに嫌いか? …成功すれば、お前は跡形無く消えるかもしれぬのだぞ? それでも、お前はいいというのか? 彼はそれでも、後悔しないというのか? …もう一度言う、お前だけの問題ではないのだ」
イェームは黙り込む。彼の師は、深くため息をつき、悲しげな顔をした。
「お前は、もう一度、お前自身について見直さねばなるまい…。時間を与えよう。さあ、戻れ」
そういい、師は広げた手を上にあげた。さっと光が周りを取り囲む。急なことに、イェームは一瞬その光から逃げおくれた。顔を真っ青にして、イェームは声を張り上げた。
「シーティアンマ! 私は、まだやることが!」
「…いや、…お前は戻らねばならない! 今度はお前の現実に!」
イェームはもう一度何か言おうとしたが、師は取り合わなかった。何か口の中で呪文めいたものを口走ると、彼は指で軽く印を切った。
光がその指のほうからばらばらとこぼれていく。イェームが何か彼を非難するように叫んだが、もう間に合わなかった。
ばっと辺りに閃光が走った後、急に静寂が訪れた。そこにはイェームの姿も、彼の師の姿も、もうどこにもなかった。
水鏡に戦いの様子が映っている。それを皆で眺めながら、司祭達は息を詰めていた。
『どうなっているのだ?』
『そ、それが…』
問い詰められて、十一番目の司祭
(
アヴィトは、焦りの色を明確に見せていた。それはそうだろう。まさか、飼い犬どころか、自分に絶対服従するはずの操り人形に手を噛まれた状態になっているのだから。
『ああいう状態になられたら、…こちらの支配がおよびません。…そもそも、あれは理性がある状態であるからこそ、それを押さえ込んでこちらがコントロールするという術なのです。最初から、ああいう風に戦闘本能だけが剥き出しになっている場合、手を出せば、我々のほうが…』
『まずいというのか?』
アヴィトは冷や汗を拭きながら、答える。
『え、ええ。…たとえ魔力でも、あの状態なら自分に干渉するものをすべて敵とみなします。しかし、よもや、あそこまで…』
「…しかし、奴は裏切らない」
ギルベイスは、何か含んだような笑みを浮かべた。
「裏切ることは、死を意味する。…しかも、死よりも辛い地獄を味わうことになるからな」
しかし、ギルベイスが何を言おうと、アヴィトも彼の周りの司祭達も、落ち着いた気分にはなれなかった。
彼らの戦いの様子が映っている水鏡の中では、少しファルケンがシャザーンを押しているようにさえ見える。
なににしろ、このままシャザーンを倒してくれれば、彼らにとっては問題がないはずだった。しかし、司祭達には、もう一つ不安な要素があるのだった。
『せめて、魔幻灯を、置いて行かせればよかった。』
悲観したような声があがる。ギルベイスは、薄ら笑いを浮かべたままだった。
五番目の司祭のコールンは、それを遠くで眺めるようにしながら、もしかしたらギルベイスは、辺境の危機などどうでもいいのではないかと思い始めていた。
(いや、まさか。)
コールンは首を振る。そんなはずはない。いくら強硬とはいえ、一番目の司祭がそんなことを……。
思いながらも、疑惑が胸の中に渦巻いた。水鏡の中では、まだ延々と戦闘が続いていた。
シャザーンは、木の幹にたたきつけられ、口許をぬぐった。はっと顔をあげると、すでにファルケンの剣がそこに迫っている。慌てて身を翻す。避けたことが分かったのか、すばやく目がシャザーンを捉え、そちらに薙ぎ返す。間一髪、それを避け、シャザーンは後ろに逃げた。
「『…この前とは、ずいぶん違うな。』」
思わず、妖魔でさえそういうほどに、ファルケンはいきなり強くなっていた。
「『司祭
(
が目をつけたのは、このせいだな…』」
数歩向こうで、ファルケンがこちらを見ていた。すでに、普段の彼らしい穏やかな表情は失われ、荒く息を吐きながらも、疲労を感じさせない。
足から血が流れている。相当深い傷だが、ファルケンは気にとめる風もない。
(痛みを感じてないのか?)
シャザーンは少し戦慄を覚えた。だとしたら今のファルケンは獣だ。確実に一撃でとどめを刺さない限り、絶対に止まらない。いや、自分が死んだことすら気づかずに、そのまま戦おうとするかもしれない。
どちらにしろ、ファルケンの作戦は完璧だった。さすがにこの状態になると、司祭でも手がつけられない。彼自身が言っていたように、元々戦い向きではない、穏やかな人格もこうなれば何のしがらみにもならない。悪化した怪我の痛みなども関係ない。ただ、血の赴くまま、戦うのみだった。
捨て身のファルケンが行った、唯一つの逆襲といってもよかった。それが、こんな風にも司祭
(
もシャザーンも苦しめられることになったとは、ファルケン以外は誰も考え付かなかったかもしれない。
「このままでは…」
シャザーンは、少し後退しながら呟いた。まだ、シャザーンは決定的なダメージを与えられてはいなかったが、体力をかなり削られた。相手は、おそらく体力の衰えなど考えもせずに襲ってくる。このままでは、もしかしたら負けるかもしれない。
「『手を変えるしかあるまいな。』」
「どんな手を?」
妖魔はにやりと笑った。シャザーン、正確にいうとクレーティスはびくりとし、その笑みに怯える。
「『…いくらあの状態でも、ひどいショックを与えれば目がさめる。…ファルケンにとってのアキレス腱がなんであるかわかるか?』」
妖魔はふっと呟いた。
「『…ファルケンにとっての一番のアキレス腱は…』」
妖魔の目には、もしかしたら辺境を走る青年の姿が見えていたのかもしれない。ぞくりとするほど冷たい笑みをみせ、彼はそっとその名を告げる。
「『あの、レックハルドという人間の行商人だ。』」
「それは!」
シャザーンは怯えるような声で言った。
「…彼を殺すのか?」
かわるがわる喋るたびに、その表情と顔が変わる。妖魔は暗い笑みを刻んだ。
「『殺す? …短絡思考はこれだから困るな。…生かしてこそ、使える材料もあるということをお前は知らねばならないようだ。』」
目の前にはファルケンが走ってきている。シャザーンはそれを避けて、横の草むらのほうにとんだ。ほとんど獣と化したファルケンは、それを追いかけるようにして、剣を力任せに薙いだ。草むらの高い茎がシャザーンの代わりに、切り倒される。
こうして避けていくのも限界だった。シャザーンの中の妖魔は、そろそろ時間だなとばかり、彼の心の奥で陰鬱に微笑んでいた。