辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2004
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 第十一章:歯車:歯車-2


 シャザーンは、焼けた木の下にたたずんでいた。もう、次の日の朝を迎えたというのに、まだ火柱は勢いよく燃え上がっている。日蝕も、まだ続いていて、今日は朝日がとうとう昇らなかった。
 半分人間なので平気だとは言え、シャザーンにも他のものたちと同じく、火を恐がる性質は受け継がれている。炎を見ていると、本能的な恐怖が、心の底から湧きあがってくるようだった。
「本当に、これでいいんだろうな…」
 シャザーンは、自問するように言った。
「…次の封印の場所もわかった。だが、これでいいのか…。…もし、これで、僕の望むとおりにならなければ?」
 いいんだよ、と、心の中の何かが言った。シャザーンは、恐怖と自信がわきあがるのを感じる。この、どろりとした心の中に住み着くモノは、恐ろしくもあったが、彼に強力な意思力をくれる。これがある限り、彼は強くいられた。
「でも、七つ目の封印の解き方は、違うというじゃないか」
 シャザーンは、手にもった古びた剣をかざした。古代文字、それも辺境のものではないものが、刻まれている。それは、間違いなく人の作ったものに違いなかった。
「結界を解いて剣を抜くのは簡単だし、その後の炎を避けるのもできた。僕に解けるのか、どうか…」
 だったら、と妖魔が答える。
(誰かにやらせればいいんだ。クレーティス。)
「誰か?」
「『そうだ、炎の平気な者がいい。』」
 彼自身の口を借りて、妖魔は言った。その瞬間だけ、彼の顔はぎこちなく妖魔の持つ黒い表情に変わっている。
「『それか人間か、だが、…なるべく狼人を使ったほうがいい。人間を使ったところで、下手をすれば、司祭 ( スーシャー ) に始末されてしまう可能性があるからな。』」
「だが、…彼はここには来ない」
 シャザーンは、自信のない声で言った。
「この前、お前が傷つけてしまった。おそらく、あの怪我ではここには来れないよ」
「『いいや、必ず来る。いや、もう来ているさ。…わからないのか? 我々がたどり着いたときには、すでに目的地では戦いが始まっているだろう。』」
 妖魔は、好戦的な笑みを浮かべた。
「『司祭があそこで待ち構えているのは知っている。…あとは、我々の仲間がもうすぐ奴らに襲い掛かるはずだ。』」
「そこに、いるのか?」
「『ああ、そうだ。説得すれば、協力してくれるだろうな。』」
 それがどういう意味かわからない。シャザーンは、少し不安を感じた。
「この前みたいなことにはならないな?」
「『平和的に話し合おうといっているんだ。』」
 どこまで本当なのかどうかはわからない。ただ、今の彼にとっても、それは信じる他のない言葉だった。それを信じなければ、シャザーンは、今、どうすることもできなかったのであるから。


目の前の狼人が倒れた。足をやられたらしく、他のものが代わりに前に出る。めまぐるしく動く、先輩たちを見ながら、ファルケン自身はついていくのに、必死だった。
 目の前では、蜘蛛のような形の 妖魔 ( ヤールンマール ) ががさがさと音を立てながら、こちらに向かってくる。すでに、異形の姿と化した連中の集団は、吐き気がするほど醜悪だった。
 太陽が見えないので、正確な時間はわからない。ただ、わかるのは、もう朝がすぎたぐらいだということだけだ。そのころに、妖魔が集団で襲ってきた。
 ――何考えてるのよ! あんたが戦いに向いてるわけないじゃない!
 目の前の光景を眺めながら、ファルケンは不意にロゥレンの言葉を思い出す。
 昨日、司祭と、ファルケンと同じよう志願した狼人の戦士とともに、まず、あの火柱付近に行ったときのことだ。そこには、すでにいくつかのチューレーンが集まってきていて、火柱をどう消すか、話し合っているところだった。
 そんな時、不意に後ろから呼び止められたのだ。
「ファルケン…」
 呼ばれて、振り返ると、不安な顔をしたロゥレンがそこに立っていた。どうして、彼女がここにいるのかは判然としないが、おそらく、火柱と空のせいで不安で一人でいられなかったのだろう。
 ロゥレンは、ファルケンだとはっきりと分かると急に口調を強めた。
「何よ、あんたが一人で来るなんて、変じゃない。あいつはどうしたのよ? あの悪党商人とは、手を切ったの?」
 不審そうにしながら、ロゥレンはファルケンを見上げた。ファルケンは、困ったような顔をする。
「おかしいじゃない。あいつ嫌な奴だけど、あたしは大嫌いだけど、あんた、あいつを置いてきちゃっていいの? 困ってるんじゃないの?」
「…ロゥレン…。レックは…」
 ふと、ロゥレンはファルケンの顔を凝視した。かわいらしい碧色の目に、驚愕の色がはっきりと浮かんだ。
「あんた! その顔!」
 ロゥレンでも、その意味は知っている。狼人にとっては、あのメルヤーを落とすだけでもそれだけで戦時を意味しているのだった。顔に自分の血を塗っているのは、間違いなく、今から生死をかけた戦いに出るということだ。
「あんた、戦いに行くの?」
 ファルケンは、応えない。ロゥレンは、ファルケンの服をつかんだ。
「何! 何であんたが、戦いに行くの? レナルだってセンティーカだって、自分のグループから戦士を出してないのよ! あれは、司祭 ( スーシャー ) から選ばれた特別な戦士だけが…!」
「ロゥレン…!」
 ファルケンは、ロゥレンの細い肩をつかんで引き離した。寂しげだが、覆しようのない意思を見せて、彼ははっきりといった。
「オレが……志願したんだよ」
「えっ…!」
 ロゥレンは首を振った。信じられなかった。あの、優しくて穏やかなファルケンが。と、彼女はもう一度首を振る。
「な、何考えてるのよ! あんた、戦いなんて向いてるわけないじゃないっ!」
ファルケンは何も言わず、ただ、目をロゥレンに落としているだけだった。
「あんたに戦いなんか無理よ! あんたにそんなの…!」
 ロゥレンは、ファルケンに考え直してもらおうと、何度も彼をゆすったが、顔を少しそむけるようにしている彼を見て、そっと手を離した。
「…無理なんだから…!」
 ロゥレンの目から、しずくのようなものがはらりと落ちた。
「あんたには、絶対そんなの無理なんだから!」
 碧の瞳を涙でぬらし、ロゥレンはきびすを返す。走り出し、そのまま羽を広げて飛び上がる。
「ロゥレン!」
 ファルケンは、手を伸ばしたが、それ以上引きとめようともしない。ロゥレンの姿は、やがて闇にまぎれるように、どこかに行ってしまった。
「ファルケン! お前!」
 ちょうど、後ろからレナルが近寄ってきていた。彼もまた、ファルケンの顔を見て、ぎくりとする。ファルケンの肩をつかみ、レナルは問い詰めるように言った。
「何だ、どうしたんだ!」
「レナル…。オレは…」
「お前! あいつらに協力してるのか!」
 レナルが愕然としていった。
「あいつらはお前を利用したんだぞ!」
「わかってるよ…でも、……」
 ファルケンはそれっきり黙りこんでしまった。レナルは、ファルケンの胸倉をつかむようにした。それでも怪我に配慮したのか、レナルの力は弱い。
「お前、ホントは、まだ走ったりできねえはずだろ!」
 ファルケンは目を伏せるようにして黙っている。レナルはさらに少しきつい口調でいった。
「お前の怪我がたいしたことがねえといったのは、お前がゆっくり療養するってことを考えての言葉だぞ! 戦いだなんて、何考えてるんだ! そんな体で戦っても、まともに…」
『レナル=ロン=タナリー。』
 気づけば、横に司祭が立っていた。何番目の司祭かは、頭からローブをかぶっているのでわからないが、とにかくレナルに好意を持っていないらしいことは確かだ。
『ファルケンは、志願してきた。おまけに、お前の 集団 ( チューレーン ) の構成員ではない。』
「だから、オレには、文句を言う権限はないと?」
 レナルは、わずかに敵意を含めた目で、司祭を見た。司祭の方も、人間の世界に自分から飛び込んできて、火や金属を持って帰ってきたレナルが嫌いらしい。
 ファルケンは険悪な様子に割って入った。このままでは、レナルに害が及んでしまうかもしれない。
「レナル…! オレのことはいいから!」
「だがな! お前!」
 レナルは、司祭からファルケンに視線を移す。
「お前、そもそも、あいつらに利用されてるだけなんだぞ! 本当にわかってて、それでも協力するだなんて言ってるのか!」
 ファルケンは、少し地面に目を伏せる。
「何か吹き込まれたんだろ! レックハルドを助けるとか、お前を辺境に戻してやるとか!」
「…レナル。どちらにしろ、もう手遅れなんだよ…」
 ファルケンは、小声で言った。
「オレは、…もう戻ることは出来ないんだ」
「何?」
 レナルは、わずかに表情を変えた。一つの可能性にたどり着き、レナルはわずかに青ざめる。
「お前、あれを飲んだのか! あれを飲んで、誓いを…!」
「今までありがとう、レナル」
 手を払い、ファルケンはうっすらと笑った。
「…もし、戻ってこれたら、また頼むよ」
 レナルは悔しそうに司祭をにらみつけた。
「お前ら! よもや、そこまで!」
 司祭は、歩き始めたファルケンの後ろについて歩き出す。レナルに、敵意のある視線を送り、それから顔をそむけた。
「ファルケン!」
 レナルの声が、後ろから追ってきた。
「レックハルドには、ちゃんと言ったんだろうな! もし、死んできたりしてみろ! あいつ、一人でどうなるか! ちゃんと考えてやれ!」
 耳が痛いと思った。だが、ファルケンは振り返ることもしなかった。振り返れば、おそらく気持ちが揺らぐからだった。そのまま、彼はその場を去った。
(ロゥレン、確かに、オレは向いていないような気がするよ。)
 ファルケンに戦闘らしい戦闘の経験はない。人間の中を渡る中、様々な危険なことにであった。それで、人間と命をかけて戦ったこともあるし、辺境の猛獣とも戦ったことがある。だが、それは違った。
 彼が経験した人間との戦いは、ほとんどが喧嘩の仲裁などで、それには時にルールがあった。立てなくなれば終わりだし、もし、その前に相手が逃げれば、無用な暴力は無用だった。辺境の猛獣とは、それは命をかけたものだったかもしれないが、そもそも彼の生業は猟師ということなので、その戦いは別に自然なものだった。相手を憎もうと思って戦うのではない。
 だが、これは違った。
(これは…殺し合いなんだな…)
 ファルケンは、総身の毛が逆立つような感覚に襲われていた。
「ファンダーン!」
 はっと、ファルケンは顔をあげた。ファンダーン、つまり、魔幻灯だ。それが自分を指す名前だということに、彼は一瞬気づくのが遅れた。呼ばれなれない名前だ。
 腰に魔幻灯を、さすがに今は中に火を入れていないが、それがあるにも関わらずである。しかし、それでも、司祭にしろ、他の仲間達にしろ、彼のそれを見るたびに、顔を恐怖にしかめる。それが少しつらかったので、シェンタールを忘れたふりをしていたのかもしれない。
 同じく顔に自分の血を塗った狼人が、ファルケンに前に行くように指示をする。
「ここは、なんとかする。お前は先に!」
 ファルケンは、言われて慌てたように頷き、襲ってくる妖魔 ( ヤールンマール ) をかわしざま、前に向かって駆け出し始める。後ろで、先ほどの狼人が、妖魔にとどめを刺しているのがわかった。
『そんなことで大丈夫か?』
 ふと、頭にアヴィトの声が響いた。自分の動揺を悟られたのを知り、ファルケンは少し表情を険しくした。
 急に、ファルケンはがくんと速度を落とした。足が動かなくなる。
「うっ…!」
 走りつかれたように、ファルケンは木の幹に身を寄せた。額に浮かぶのがただの汗でないことは、ずいぶん前からわかっている。わき腹の上あたりがズキズキと痛み、ファルケンはそこを押えて座り込んだ。
 レックハルドには、ただの打撲だといっておいたが、おそらく肋骨の二、三本軽く折れていたのだろう。レナルが言ったとおり、ゆっくり療養すればたいした怪我ではないが、こうして派手に動くと辛い。そもそも、息をするだけで傷に響いていた。
 昨日から今日にかけて、無理ばかりを押し通してきたせいで、もしかしたら傷が悪化したのかもしれない。痛みは、この前より激しくなっていた。
「くそ…!」
 ファルケンは、歯をかみ締めながら立ち上がった。
「…あいつらに操られるのだけは…嫌だ…!」
 そうして、懐に突っ込んであった小袋を取り出す。
「……これにだけは頼りたくなかった…」
 そういいながら、ファルケンはその袋の中身を手の中に開けた。中に入っていた、葉をすりつぶして細かくしたものを口に一気に含むと、彼はそのままそれを噛み締める。苦いような甘いような複雑な味がする。
「あの水よりはましだ」
 自分に言い聞かせるようにいい、ファルケンは痛みとその味を両方我慢するように、顔をわずかに引きつらせた。


「運命は自分で切り開くものだ」
 鏡の中で男がいった。
「それがオレたちの信条じゃなかったか?」
 鏡の中の男は続けてそういった。黒いターバンに、黒いマント。着ているものも見事に黒かった。口にはわずかにひげをたくわえていたが、印象としてはずいぶんと若い。長身で痩せているが、何となく凄みを感じる男だった。
 口許は、皮肉っぽく歪み、細くて鋭い瞳は、わずかに縁に碧をたたえている。それが、叶えようもない野望と、自信に満ち溢れている。ただ、レックハルドは、その男の中に、ひどく寂しげな影を見出していた。
 レックハルドは、真っ暗な空間の中、大きな姿見の前に立っていた。果たしてどこが上なのか、下なのか、それすらもわからない。わかるのは、今、彼がどこかに立っているだけだった。
 おまけに、鏡の中に目の前に映っているのは、自分の姿でありながら、自分の姿とは言い切れないそうした三十代前半の自分とよく似た男の姿だった。決して自分ではないとレックハルドは思った。
「それをお前はどうなんだ? 何をためらってる?」
 鏡の中の男は、あざ笑うような顔をしていった。
「何をためらうことがあるんだ?」
「何を? …あんたにはわからねえのか?」
 レックハルドは、手を広げて言った。
「オレは、あいつを助けられるほど、強くないんだぜ。行ってどうするというんだよ!」
「それはオレも同じだな」
 鏡の中の男は、腕組みをしながら言った。まだ、顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「だが、オレ達が弱いのは、元からじゃねえか」
「じゃあ、尚更、助けに行くことはできないだろ!」
「尚更? 何をあきらめてるんだ、お前は。情けないとは思わないのか?」
 指輪、おそらく印章のついた指輪をはめた右手がゆらりと揺れた。鏡の中の男は、笑みを口から消した。
「いつから、そんな男に成り下がったんだ?」
「いつから? 元から、オレはこんな…オレは小心者だ。本当はな! 怖いし、あんなところで死にたくなんかないんだ!」
「それはオレも同じだ」
 感情的に言った彼に、鏡の中の男は静かに言った。レックハルドは、思わず絶句した。鳥肌の立つような、不気味な迫力がそこにはある。射すくめるような目をまっすぐに向ける男には、静かでそして有無を言わさぬ力が秘められていた。
「…オレも小心だし、臆病だ。お前とオレと、何が違う。…考えろ。何も変わらないじゃねえか」
「あんたは、そんな風に見えないぜ…。オレとは違う…」
「年の功じゃねえのか?」
 自嘲的に、彼は笑った。ぬっと手が鏡の向こうから飛び出てきて、レックハルドはわずかに身を引いた。鏡の中の男は、逃げようとしたレックハルドの肩をつかんだ。
「オレとお前…つまりは、オレ達は同じだ。力なんかないくせに、あきれるほど自信過剰で、狡猾で自分勝手で強欲で嫉妬深くて冷酷で、でも、本当は小心者で人の力の陰に隠れてぬくぬくしてたいと思ってる。自己嫌悪におちいっても、直りようもねえ性格だ。そうだろ?」
 そういいながら、軽く彼は笑った。
「…そうだよ、オレ達はいやな男だよな。生きてたってこの世の害悪にしかなれないゴミだ。でも、屑にだってランクがあるだろ? 相棒を見捨ててへらへらしてられるほどの最低野郎にはなりたくねえよな?」
 まるで誘惑にかかったように、レックハルドは、ふと口を滑らせていた。
「違う! オレは、力がないから、足手まといになりたくないから、行かないだけだ!オレはあいつを見捨てたくなんかないんだからな!」
「そうだろう? 昔、オレが、断崖から身を躍らせることになった原因もそれだ」
 にやりと男は笑った。
いつの間にやら、鏡の中から男は出てきていた。薄ら笑いを浮かべながら、男はそのままレックハルドにいう。
「もし、失敗して死んだら別にいいじゃねえか。…どうせ死んだ後の評判なんざ、痛くも痒くもないだろ? もし、生きてたら、あとで目一杯無様に後悔して泣き喚けばいいさ。どうせ、世の中の評判なんてかわりゃしねえ。どうせ、屑の評判だ。だがな!」
 それから挑発的な目を向ける。
「今、何もしなかったら、後悔じゃすまねえぜ、レックハルド」
 レックハルドは黙ったまま、その目を睨み返した。
 ――何もしない? ばかな事いってるんじゃねえ! 何もしたくないからここにいたんじゃない! あいつを助けるほかの方法を考えていたんだ!
 口には出さず、レックハルドは心の中一杯に叫んだ。頭の中が熱くなったが、いつものように、彼に歯止めをかけようとする心の動きはない。思いの通りに叫ぶがいいと、彼の中の何かが言った。
 相手を睨みつけ、怒りをこめて、レックハルドは肩にかかった男の手を払った。
「ふざけるな! 無様な男だってレッテルを貼られることは恐くなんかないぜ! 方法が、オレが突撃かますしかねえというなら、そうしてやるさ! あんたの言うとおり、死んで来てやろうじゃねえか!」
 考えていった言葉ではない。もちろん、死ぬ気などはない。口から飛び出る言葉を、そのまま勢いでいっただけだった。
 男は、払われた手を戻し、ふんと鼻先で笑った。
「まだそんな元気があるなら、大丈夫だな」
 そうして、今度は親しみをこめて、肩を軽くたたく。金の印章の指輪には、古代文字らしいものが複雑な形で刻まれていた。
「さあ、行け。それが、お前らしい決断だ」
 レックハルドは視線を指輪から男にうつした。不敵な笑みを浮かべたままの男に、レックハルドは、既視観を覚えた。前に見た夢で、そういえば鏡に映っていたのもこの男だった。
「あんた、レックハルド=ハールシャーか?」
 レックハルドが尋ねると、男はゆったりと首を振った。
「…いいや、オレはお前だよ」
 そうして、彼の姿はやがて黒い闇に透けていった。
「普段のお前はこんなもんだ」
 闇に溶けるように、入り込むように、消えていく。完全に姿を消す一瞬前に、男は、少しだけ微笑んだ。
「さあ、普段のオレらしい決着をつけてくれ」
 ちゃりん、と音が鳴った。指輪だけが落ちて、地面で音を立てのだ。
 一条の光もないはずの真っ暗な世界に、レックハルドはその指輪の形を見ていた。
 そして、やがて遠くから声が聞こえた。聞き覚えのある、優しくて高い声だった。

「レックハルドさん?」
 聞き覚えのある高い声が聞こえ、レックハルドは目を開いた。空は暗かったが、目の前に人がいるのがわかった。その人物が何か灯をもっていたからだろう。
 その声は、更に続けて、安堵したようにため息をついた。
「よかった、こんなところにいたんですね。探していたんです。宿にも戻っていないみたいだし…どこへ行ったんだろうって…」
「マリスさん?」
 やがて、炎はマリスのおっとりした笑顔を浮かび上がらせた。
 思い出した。昨日は、ファルケンを方々に当たり、更にシェイザスに言われたことが気にかかり、街のあちこちをさまよった挙句に、疲れ果てて町外れにある大木の幹に倒れ掛かるようにして眠ってしまったのだった。
「オ、オレは…」
 では、さっきのは夢か。そう思いながら、レックハルドは少し重たい体を起こす。
「ど、どうしてここへ…」
 そう尋ねながらレックハルドはマリスを見た。マリスは、レックハルドを心配そうに覗き込んでいる。彼自身は気づいてはいないが、食事をろくに取っていない上に、あちこち走り回った分、少しやつれた印象が彼の顔に残っていたのである。
「ダルシュさんが、レックハルドさんが昨日からなんだか元気がなくて心配だからって教えてくれたんです。それで…」
 まさか、恋敵から知らせがいくと思わなかった。レックハルドは少し驚いたが、それを表情にはあまり出さなかった。
 マリスは、少し首を傾げた。
「ファルケンさんと喧嘩なさったの?」
 マリスはレックハルドの顔を覗きながら訊いた。レックハルドは静かに首を振る。マリスは少し微笑んだ。
「そうでしたらよかった。レックハルドさん、元気がないし、ファルケンさんもいらっしゃらないから。もしかして、喧嘩したんじゃないかって…」
 ダルシュは、詳しいことをマリスに告げなかったようだ。それはそれでありがたいかもしれない。あの無様な様子を、彼女に知られなかったのなら。
「あいつと喧嘩らしい喧嘩ってそういえばしたことないですよ」
 レックハルドは言った。
「あいつは、喧嘩を買わねえたちですから、オレが喧嘩を売っても……」
 寂しそうに微笑んだのがわかったのか、マリスは少し曖昧な表情で笑い返してきた。
「マリスさん」
 レックハルドは顔をあげた。
「オレ…やっぱり……辺境へ、少し様子を見に行きます」
 マリスはきょとんと彼を見上げる。
「ファルケンさんがそこにいらっしゃるんですか?」
 彼は応えずに、あいまいに微笑んだ。
「…ただ、様子を見に行くだけですが、オレは何の力にもなれないだろうし。でも…」
 マリスは柔らかく微笑み、レックハルドの手を取った。
「大丈夫ですよ! ファルケンさんがもし今、辛い目にあっているのなら、レックハルドさんが来てくれただけで、きっと」
「マリスさん…」
 レックハルドは、少し驚いた様子でマリスを見た。
「あたし、何が起こっているか、ぜんぜんわからないですけど、何となくわかります。…レックハルドさん、ファルケンさんは、今、大変な目にあってるんでしょう?」
 マリスは、少し励ますように、強く言った。
「多分、本当に辛いときは、誰でもいいから心配してくれるだけで、救いになるんだと思います。あたしなら、多分、そう。きっと、ファルケンさんも…」
「マリスさん…」
 レックハルドは、考え込むように目を閉じ、マリスにつかまれていない方の手を握り締めた。
 ――普段のオレらしい決着をつけてくれ。
 鏡の中の男の言葉がよみがえった。言われるまでもないことだと、レックハルドは言い返す。
「ロゥレンちゃん!」
 不意にマリスの声が聞こえ、レックハルドはそちらを向いた。上空から、妖精が一人こちらに向かって飛んできていた。虹色の羽も、暗い闇にまぎれて、ほとんど見えない。
 落ちるように地面に着地したロゥレンは、レックハルドにすがりつくようにして口早に言った。
「あいつを止めて!」
「ど、どうしたんだ?」
 レックハルドは、きょとんとして訊いた。
「ファルケンよ! あいつ、絶対まともじゃないの! お願い、あいつに戦いなんか止めさせて! あんな、弱っちくておとなしい奴! 勝てるわけない!」
「ロゥレンちゃん、落ち着いて!」
 マリスがロゥレンをレックハルドから引き離した。すでに半分べそをかいているロゥレンは、興奮した口調でまだ何か言い続けている。
「教えてくれ、ロゥレン」
 レックハルドは、険しい表情をしたまま、静かに訊いた。
「ファルケンは…、今、どこにいるんだ?」
 ロゥレンは力なく首を振った。
「わかんない、…どこかに行っちゃった。でも、あいつ、きっと死ぬ気なの…。あいつのあんな目みたことないのよ。…お願い、あいつを止めてよ!」
「大丈夫よ、ロゥレンちゃん」
 震えるロゥレンの引き寄せて、マリスはレックハルドを見た。何か考え込んでいる様子のレックハルドは、ふと顔を上げる。
「オレ、今から行って来ます。ロゥレンを…」
「ええ、任せてください。あと、ダルシュさんとシェイザスさんに、言っておきます」
 マリスは、レックハルドを安心させようとしてか、少しだけ微笑んだ。微笑み返し、レックハルドはそのまま方向を変える。辺境に続く、北の道を走っていく彼の姿は、闇に溶け込むように見えなくなっていく。
「…ファルケン…」
 心細げにつぶやくロゥレンに、マリスは優しく言った。
「大丈夫よ。だって、ファルケンさんは強いもの」
 泣きじゃくるロゥレンをあやすように、マリスはにっこり笑った。
「絶対に、大丈夫だわ」
 レックハルドの姿は、すでに道の向こうに消えている。その背を見つめながら、マリスは深く頷いた。
 ――レックハルドさんなら、きっと……
 まだ、太陽は出現しない。





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©akihiko wataragi