第十一章:歯車:歯車-1
「旦那、ちょっとお待ちを!」
裏通りの軒下に座っていたあまり柄の良くない青年が、立ち上がり、通行人を呼び止める。一人の男が振り返った。顔に布を巻きつけている男で、そこから覗く目が少し鋭く見えた。それだけでなくかなり大男なので、彼も迫力負けしているところがあった。だが、その目には見覚えがある。
「もしかして、ファルケンの旦那じゃないんですかい?」
男は、思い出したように目を瞬かせた。
「あたしですよ、昔、あんたに助けてもらったケールです。覚えてませんか。ずっと礼を言いたくて捜してたんです」
指先で、サイコロをいじりながら彼はふらふらと駆け寄ってきた。覆面の男は、静かな目で彼を見ている。
「ほら、あの時もこんなボロい家の下にいて、オレは奴らに殴られてた。ああ、でもあん時は、オレもガキでしたから覚えてませんか?」
覆面の男の表情は暗いのではっきりとは見えないが、彼にはそれを懐かしむような光があったようにみえた。
「あんときの犬…いや、喋る狼は元気ですかい? あれは、兄貴が飼ってた狼で、とても頭のいい奴でしたね。兄貴が殺されちまって、オレが路頭に迷っていると、あんたが助けてくれて…」
「すまないが…」
覆面の男は少し苦しげな声で言った。
「他人の空似みたいだな。…この前も間違われた」
言われて、ケールという博徒は、ふうとため息をつき、失礼しましたと言った。失望の色を見せたが、ケールは再び顔をあげた。
「ただ、…あんたも狼さんのようですから、お願いしてもようござんすかね。…もし、ファルケンという狼人にあったらお伝えください。…あんたに礼をいえなかったけれど、ケールという男はあんたに感謝していますと」
覆面の男は、しばらく無言だった。ケールが、狼人というのは間違いだったかと後悔し始めたとき、男は答えた。
「ああ。…そう伝えておこう」
ぱあっとケールの顔が輝いたのは、すでに向こうを向いたイェームにはわからなかった。暗い道をそのまま歩きながら、イェームは空のほうを見上げた。
太陽は見えず、辺境のある北の空だけが不気味に赤く光っている。
「六番目の封印が破れたな」
空を見ながら、イェームは呟いた。六番目の封印は、五番目の封印を破った時に、外に現れる。結界を破ることができれば、後は中に突き立っている剣を抜けば済むことだ。金属さえ恐がらなければ、誰にでもできることだった。それを抜いたのが、はたしてシャザーンだったか、辺境に入り込んだ人間だったか、そんなことはもうどうでもよい。それに、わかるはずもないことだ。
少し真剣になった目を空のかなたに向けたまま、彼は暗い声で言う。
「…とうとう時が来た」
なにか、体にぞっとするような冷たさが走る。彼にとっては、待ちわびた瞬間でもあり、永遠にこなければいい瞬間でもあった。
(止めてやる…)
と、イェームは呟く。
(…お前たちの好きにはさせない。)
半分は執念だ。そして、もしかしたら、間違っているかもしれないこともわかっている。
(今度こそ――オレは…)
ぐっとこぶしを握る。少し震えているのは、恐怖からなのか、興奮からなのか、自分でもよくわからなくなってきた。
「シーティアンマ…」
お師匠様、先生を意味する
辺境古代語
である。少しだけ、それは哀しげな声だった。
「あなたの言いつけには背くことになるでしょう」
目を閉じ、イェーム=ロン=ヨルジュはそう呟く。そのシーティアンマが、何と答えるのか、イェームには分かるような気がした。きっと、眉をひそめて「いけない。そんなことはいけない」というだろう。
しかし、イェームは、彼の師の制止を聞く耳ももたなかった。
「オレは、このときの為に、今まで生きてきたんですよ…」
静かだが、堅い意思の滲むことばをいい、イェームは再び歩き出す。
辺境へ――
すべては、あそこで決するはずだ。
「なんでえ、この空は」
この前怪我をした左手は、まだ少し動かせないので、三角巾で吊ったまま、ダルシュは荒っぽそうな目を上に上げた。宿屋の横の井戸の傍で、くつろいでいたダルシュはの横には、この前から彼と一緒にいるシェイザスの姿が見える。太陽が照らないせいか、今は少し涼しい。まだ、寒いというほどではなかった。元々、このあたりは気温の高い地域なのである。
「昨日からお日様がのぼらないじゃねえか」
「あなた、どうしてそんなにのんきにできてるの」
シェイザスが半ばあきれるように言った。
「世間の人は、右往左往しているのよ、この空で」
「だって、オレはけが人だし、どうしようも」
よくわからない言い訳を口にしながら、ダルシュはあくびをする。
「それに、お日様が一日二日見えないぐらいで騒ぐことか?」
「あなたには、事の重大さがわかっていないようね」
シェイザスは、軽く額を押さえた。
「大体、普通日蝕が起こった時点で、人間は右往左往するものでしょう?」
「そ、そうなのか?」
暴れられればどうでもいいダルシュにとって、太陽とはただ明り取りか、暖炉ぐらいにしか思えないのかもしれない。太陽がなければ穀物が育たない等そういうところに頭が回らないのだろう。
シェイザスはもはや何も言わず、黙ってダルシュの顔を見ていた。
「な、何だよ、その目は」
「――あなたって…」
少しの沈黙の後、シェイザスは、ずばりと冷たく言った。
「なんだか、役立たずって感じよね」
「何だ、その言い方は!」
ダルシュは思わず立ち上がる。シェイザスは、その剣幕にも構わず、冷たく言った。
「だってそうじゃないの。今回のことでは、あなたって左腕やられて帰ってきただけじゃない? あのレックハルドでも、色々頑張ってたみたいなのに…」
「そ、それは…。オ、オレだって一生懸命やったんだ! ただだな! た、ただ…。ただ…」
詰まりながら、ダルシュはそこまで言い返したが、、威勢だけで言った言葉の後が続かない。竜頭蛇尾に終わりながら、ダルシュは少し首をたれた。
「あら、言い過ぎた?」
シェイザスが、気の毒がるというよりは面白そうに言った。
「さすがのあなたでも、落ち込むときは落ち込むのよねえ」
「う、うるせえっ! オレは若いんだ! これから挽回は何度でも…」
と、ダルシュが大声で言ったとき、不意に足音が聞こえた。近くに積み上げたたらいを蹴飛ばしたのか、けたたましい音が闇に響いた。だが、それにも足をとられず、足音の主は、ここまで走ってきていた。
「やっと…見つけたぜ」
肩で息をしながら、宿の壁に身を預ける。そこにいるのがレックハルドだということは、一見してわかったが、その様子はいつもの彼とは大きく違った。かなり走り回ったのか、ずいぶんと疲れているようで、髪の毛も乱れている。いつもの少し憎たらしいほど、年不相応に冷静なレックハルドの姿はそこにはない。
「レックハルド!」
ダルシュが声をかけたが、レックハルドはダルシュを無視して真っ直ぐにシェイザスの元に駆け寄った。その顔には、鬼気迫るものがあふれている。
「ど、どうしたの?」
シェイザスが訊くと、レックハルドは倒れこむようにひざをつき、シェイザスの肩をつかんだ。
「ファルケンが…あいつがどこにいるか教えてくれ!」
レックハルドは、シェイザスに言った。
「頼むよ…金でも話でも、あんたの望み通りに報酬は払う!」
すでにあちらこちら走り回ったようだった。
「…頼むよ…。あいつが馬鹿なことをしでかす前に止めなきゃ…」
レックハルドは、顔をうつむかせ、沈痛な声で言った。
「あいつ、このままじゃきっと死んじまう」
「お、おい!」
ダルシュが、怪しんでレックハルドを覗き込んだ。レックハルドが冗談を言っている気配はない。彼がこんなにあせっている姿を、ダルシュもシェイザスも見たことはなかった。
「どうしたんだ? そんな大げさな…」
「大げさ?」
レックハルドはシェイザスから手を離し、ダルシュにつかみかかるようにしていった。
「大げさじゃねえ。あいつ、この前の怪我が治りきってないんだぞ! あいつは戦うつもりなんだ。勝てるわけがねえじゃねえか」
「な、なんだよ? どうしたって…」
普段と違う彼に気おされて、ダルシュは言いよどんだ。
「空を見ろ。…北の空が赤いだろう? あれは、辺境に火の手が上がっているからだ。おそらくな、また何かが起こった。この前の奴かもしれないし、違うかもしれない。わかることは、辺境を害する敵が現れたって事だ!」
レックハルドは一気にそこまでまくし立てて、ふと息をつく。
「だから…、あいつは、それと戦いに行っちまった。なぜなら、辺境を助けるのが、辺境に住まうものの勤めだから。特に狼人は、何かあれば真っ先に戦わなければならない」
「そ、それで、行っちまったのか? なんで止めなかったんだ?」
レックハルドは何も答えない。ただ、ダルシュを睨みつけているだけだった。
「…出し抜かれたのね」
シェイザスの少し冷たい感触のする声が聞こえた。レックハルドは、彼女のほうを見る。
「…あなたに嘘をついて出て行ったのね、ファルケンは」
「ああ」
暗い顔で、レックハルドは頷いた。シェイザスは立ち上がり、ふと空のほうを見た。そして、レックハルドのほうを向く。
「ファルケンは、まだ大丈夫よ。ただ…」
シェイザスは不意に眉をひそめた。
「あなたが助けに行っても、きっと事は収まらないわよ」
「な、なんでだよ!」
「…あなたは、自分の力に自信がおあり?」
訊かれて、レックハルドはぐっと詰まった。
「その相手って、この力馬鹿のダルシュでもこんな風に無様にやられるような相手なんでしょう。あなたに、そんな相手と戦う力があるの?」
「力馬鹿だと!」
後ろでダルシュが文句を言ったが、シェイザスは取り合わなかった。
「どう? なければ、ファルケンの足を引っ張ることになるわよ」
「…それは……」
わかっている。辺境の中で、自分はファルケンにどれほど助けられたことか。体力はそこそこあるほうだが、レックハルドに戦闘能力はほとんどない。不意打ちぐらいならどうにかなるが、あの化け物共を相手に戦えるはずもなかった。ましてや、あのシャザーンなどとは――
「…あなたが、どの選択を望んでも、私は止めはしないわ。ただ、昔私が言ったことを、忘れないで」
レックハルドは苦しげに顔をあげた。
「どんな結果になっても、あなたの選んだ道よ。たとえどの結果になっても…すべては、あなたのとった行動が跳ね返ってきたもの」
レックハルドは立ち上がった。迷いと憤りが交錯したような目をしている。それがわかっていながら、追い詰めでもするようにシェイザスは言った。
「ファルケンは、司祭とともにいるわ。…場所は、辺境の中」
ダルシュが、止めようと手を出したが、それをシェイザスははねつける。
「おそらくは、最後の封印を解くのを止める為の戦士を募っているんでしょうね。彼はそれに自分から志願したんでしょう」
「志願だって…」
レックハルドは、わずかに光る目を上げた。唇をわずかにかみ締める。
「…あなたがどうするかは自由」
シェイザスはもう一度繰り返す。
「彼が向かうのは、七番目の封印…。辺境の、入り口近くの大きな湖の近く。そこに大きな力を感じるわ。グランカランが二本、そこに立っているはず」
「あんた…」
レックハルドは、絶望と怒りの入り混じった目でシェイザスを振り仰いだ。
「オレにどうしろって言うんだ!」
熱い目だったが、それは悲しみにも沈んでいた。
「どうしろとも言っていないわ」
「シェイザス! もうやめろよ!」
ダルシュがとうとう止めに入る。
「わかっているさ…」
ダルシュの耳に、レックハルドの声が聞こえた。
「ああ、わかっていたよ…。オレなんかが行ってもどうにもならないってことは! オレは、本当は非力で臆病だ。小心者で、いつも何かに怯えてたよ。…わかっているさ。…あいつがいるから、オレも強くなったような気でいただけだ。思い上がりだ…。ただ、あいつの力を借りてただけだ!」
低い、怒りを押さえたような声だった。
「……ただ、…オレは、…オレは…」
闇夜にもはっきりと見える目だった。疲れ果てているレックハルドの、その瞳だけが、おそらく自分への憎悪に燃えていた。
――オレは、あいつを見捨てるのが嫌だったんだ!
レックハルドはいきなりきびすを返した。そのまま、暗い路地を走り抜けて、街に消える。
「あっ! おい!」
ダルシュが慌てて駆け出そうとするのを、シェイザスが止めた。
「な、何すんだ!」
「待って!」
シェイザスは、ふうとため息をつく。
「…だいぶ参ってるみたいね、あの人。いつもなら、切り返してくるでしょうけど」
「だって、お前が追い詰めるような事いうからだろ!」
ダルシュはシェイザスを責めるように言った。
「仕方ないじゃない…」
ふっとシェイザスは目を閉じる。美しいシェイザスの黒髪が、闇にさらりと音を立てた。
「…どう転ぶかは、あの人の行動しだい…。さすがのあたしにもそれ以上は読めないのよ」
ダルシュはきょとんとしてシェイザスを見つめる。彼女はふっと笑って、ダルシュの顔を見た。
「あの二人は、まるで歯車みたいだわ。お互いにお互いの運命をまわしあっているの…。だから、良くも悪くも、お互いの行動でお互いの未来が変えられていくんでしょうね。そのせいで、図像がちゃんと浮かんでこないのよ」
「でも…それは…」
「そうね、やがて、あたしたちも巻き込まれていくのかもしれないわ。ただ…」
シェイザスは言葉を切る。
「幸運な未来が待っているといいんだけれど…」
シェイザスの言葉が、妙に不吉な響きを帯びていた。ダルシュは何となく身構え、ごくりと喉を鳴らす。
空は漆黒をたたえ、闇夜よりもどろりとしていた。
妖精は基本的には争いごとには参加しない。彼女らが戦うようになるということは、それだけで辺境の絶対的な危機を表すことなのである。まず戦うのは、戦闘能力としてはすぐれた狼人たちだった。
狼人が自ら本気で戦う事を決めたには、ある慣習にしたがって儀式を行う。それがどういう意味なのかはわからないが、昔から彼らはそうしてきた。顔に描く紋様である「メルヤー」を落とし、代わりに血を顔に塗る。
そうして、誓いの言葉を述べるのだった。すると、普段は温厚な狼人が非情な戦士に変貌する。そうやって、彼らは戦いに挑む。それでも、まだ戦えない心優しきものは、ザメデュケ草を噛み、自分の心を失わせてまで戦うのだった。
自分たちの使命を果たすときの狼人の姿勢は、残酷なほど凄まじい。それが、彼らが命を与えられた代わりに、果たす義務でもある。
そして、辺境を捨てない限り、彼らはそうしなければならないことになっていた。ファルケンも例外ではない。
ファルケンがやってきたのは、司祭
(
のもとだった。
六番目の封印が破られ、凄まじい火柱が立った。レナルたちは、それを消すのに翻弄しているようだったが、一方ではシャザーンを止める為に動いているものもいる。例えば、司祭はこういうときには、シャザーンと戦うための戦士を集めようとする。そうして、精鋭たちで、彼を破ろうとするのだろう。
最初から目をつけられているファルケンには、辺境に入った途端、司祭
(
の声が風に乗って聞こえてきた。つまり、我々についてシャザーンを討てという命令だ。そのまま、操られるように足を運んだ先に、司祭たちが立っていた。
いや、もしかしたら、本当に操られてそこまで歩いたのかもしれない。自分で考えずに歩いてそこまできていたのだから。
「…つまり、オレが協力すれば、他の人間には危害を加えないと?」
ファルケンは、疑うような目をして彼らを見た。ギルベイスをのぞいては、他のものは皆、頭から布のようなものをかぶっていて顔がはっきり見えない。
『そうだ。…どうだね、ファルケン。』
温厚そうな三番目の司祭が、手を広げながら訊いた。少し落ち着いた感じの、年長者風の物腰の男である。
『それは、我々にとっても、お前にとっても悪いことではないと思うのだが。お前の友達にも、もはや危害を加えたりはしない。そう、私が約束させよう。』
後ろでは、少し十一番目の司祭、アヴィトが不服そうな顔をしていた。この案は、両派の意見を折衷した形の作戦である。アヴィトからすれば、ファルケンなど最初から操って駒にしたほうが、早いのであった。しかも、あの忌々しい人間を助けるなどと。
『…ただ、お前の力を貸していただければ、ということなのだ。』
「この前、オレを操ったのは…」
ファルケンは、少しだけアヴィトを見るようにした。
『それは、我々が少しやりすぎたかも知れぬ。代表して、私が詫びを入れよう。』
『三番目!』
アヴィトの声が飛んだ。三番目の司祭は、それを一切無視した。特に他の司祭は非難の声をあげない。
『それで、協力はしてくれるのかね。』
ファルケンは、じっと布をかぶった司祭を見つめた。
「…協力というのは、オレが協力するという意味なのか、それとも、オレを協力させるという意味なのか、どちらですか」
『それは…』
少し、三番目が言いよどむ。
「操られるのは本意ではありません」
きっぱりとファルケンは言った。
「自分の意思で戦わせてくれないのであれば、この条件を飲むことはできません」
『しかし…』
と、司祭たちは消極的だった。はっきりとは口には出さないが、ファルケンを少し恐がっているところもあるようだ。彼が裏切れば、もはや勝ち目はない。
信用されていない様子に、ファルケンは目を伏せる。
『それでは、こうすればいかがでしょう。』
と、その時、五番目の司祭、コールンが言った。
『彼に戦士の誓いをしていただくというのは? あれは、辺境の為に命がけで戦うことを誓う儀式です。』
『そうだな、それがいいかもしれない。』
三番目の司祭が頷いた。そして、ファルケンの方に目を向ける。
『…誓いの儀式は絶対だ。それにそむくことは許されぬ。…それでもよいなら、ここで儀式を…』
作法はわかっているか? と、訊かれ、ファルケンは頷いた。そして、顔のメルヤーを布切れで落とし始める。すべて落としたところで、彼は司祭のほうを向いた。
「これから言うことには、二言はありません」
ファルケンは、いつか聞いた作法どおり、親指を強く噛んだ。切れた皮膚に血が滲み、見る見るうちに指を赤く染めている。ファルケンは、それをメルヤーを落とした顔に近づけ、そのままそれを左頬に押し付けた。そして、ゆっくりと右側へ引く。鼻柱をとおり、右頬までを通った親指は、ちょうど顔に赤い一本の線を描いた。
「『命がけで戦うことをお誓いいたします』」
辺境古代語でそう述べる。普通、儀式はそれで終わりだ。
だが、
「信用できぬな。魔幻灯」
一番目、ギルベイスの声である。はっとファルケンは、血塗りの顔をあげた。
ギルベイスは冷たく言った。
「お前は、そもそも辺境に恨みを持つ身ではないか?」
「…恨みなど…」
ファルケンは唸るような声で言った。
「もし、仮にそうだとしても、戦うと決めた以上、裏切るようなことはしません。まだオレは、辺境に身を置く狼人ですから。…たとえ追放されていようとも」
最後の言葉は、少し小声だったが、かえってギルベイスに聞こえたのか、彼は険しい顔をしていた。
『一番目。彼もこういっていることですし。事を荒立てることはありませんでしょう。』
三番目の司祭が止めに入った。ふうむと唸ったが、ギルベイスはそれ以上、追求はしなかった。場が悪くなると思ったのだろうか。
「わかった。では、健闘をいのって、そなたにもこれを」
そういって、ギルベイスは後ろの妖精から受け取った杯を掲げた。それを受け取ろうとしながら、ファルケンはふと動きを止めた。普通は、酒を一杯だけ振舞われるのが通例だ。だが、これは本当に酒だろうか。自分を嫌っているらしいギルベイスの態度を見て、ファルケンの心に疑いが持ち上がる。
「どうした? 恐いのか?」
その様子を見て、彼があざ笑ったのが分かった。
ファルケンは、挑発してくるようなギルベイスの目を睨み返した。黒髪のギルベイスは、目も他の狼人のように純粋な碧色ではない。少し茶色の入ったレナルのような目である。レナルは、どちらかというと突然変異型だが、もしかしたら、ギルベイスは、どこかで人と混血しているのかもしれないとファルケンは漠然と思った。
「何を考えている!」
見通されたのか、ギルベイスが苛立った声をあげた。
「いいえ、何も」
ファルケンはぶっきらぼうに言うと、ギルベイスの横にたつ近衛の狼人の手から、石を薄く削ってつくられた杯を取った。透明な液体の中に、キラキラしたものが沈んでいるのが見えた。一口舐める。ファルケンの顔に、驚きが広がった。
「…これは…」
ファルケンは、わずかに顔をしかめた。薬草などについてかなり詳しいファルケンには、その中身のものがなんであるかよくわかった。「恐いのか」と、ギルベイスが訊いた理由も、何もかも。
(これは、『誠意の水』だ。)
胸の鼓動が早くなる。噂に聞いたことはある。実際に見たのは初めてだが、おそらく間違いはない。
この水は、そもそも辺境に反逆する可能性のある戦士が誓うときに使われたものである。滅多に使われることがないのは、これが恐ろしいからだ。
この水は、特別な呪術がかけられている。この水を調合した術者が、この水をつかって誰かに誓いを立てさせれば、誓ったものは、絶対にその誓いを破ることができない。というのも、誓いを破った途端、術者の意思一つで、この水の中に混じる毒が呪縛をとかれて溶け出す。飲んだものは、毒に全身を冒されて、もがき苦しみながら壮絶な最期を遂げるのである。その恐ろしさゆえに、これは辺境の中でもあまり使われることがなかった。
だから――その恐ろしい罰を知っているから、その誓いを破るものはいない。破ったとされるのは、伝説的な悪党たちだけである。
ファルケンは、自分の顔から血の気が引くのを感じていた。ギルベイスの声だけが、嘲笑のように響いてきた。
「…まさか、飲めぬというではあるまいな」
「そこまで、オレを信用しないんだな!」
ファルケンははじめて声を荒げた。司祭の何人かが、びくりと肩を震わせる。だが、ギルベイスは変わらずたたずんでいた。
「オレは、自分から身をささげるつもりでここまで来たんだ! そのオレを、こんなにまで信用しないのか!」
ほとんど怒ることのないファルケンの怒りは、少なからず、魔力では圧倒する司祭も怯えさせた。少しだけ殺気じみた目が、悲しさを帯びて潤んでいた。
「オレは、オレを信用してくれていた人を裏切ってまでここに来たんだ! なのに、どうして、あんたたちは信用しないんだ! そもそも、オレが何をしたっていうんだ!」
たまりたまった不満をぶつけるように、ファルケンは叫んだ。
「オレが、何か辺境を壊したことでもあるのか! 何もしていないはずだ! ただ、シェンタールがこの魔幻灯だったってだけじゃないのか! それだけで、オレは反逆者扱いなのか! どうしてだッ!!」
目の前で恐れおののいたり、または突っ立っている司祭たちは、彼にいっそう不穏な目を向ける。ファルケンは、彼らの自分に対する不信感をひしひしと感じていた。
彼らの冷たい仕打ちはファルケンの心にとげの様に突き刺さっていた。こんな連中に手を貸すため、あのレックハルドを裏切ったのだと思うと、後悔に似たものが彼の胸に沸き起こった。
あの金貨の意味を、ファルケンは漠然と把握していた。
そう、あの金貨は、あの草原の者たちが成功して金に酔いしれたとき、人間関係の大切さを思い出すために持ち歩くものなのだ。あの伝説を元にして、彼らはそういう風習をつくったのだろう。
部族によって多少意味は変わるが、何人かから尋ねるうちに、意味はわかってきていた。 おおよその意味はこうだ。
一枚目は、自分の身を金よりも大切にするということ。二枚目は、金のように変わらず永遠に伴侶を愛すること。そして、三枚目は、他人、つまりは一番親しい友人を金の確かさより信頼するということ。
渡された当初はすっかり忘れはてていた。だが、ベーゼルの話を聞くうちに、ファルケンは思い出してきていたのである。
レックハルドに、どういう意図があったのかどうかはわからない。ただ、普通の貨幣代わりにくれたのかもしれない。しかし、レックハルドが、少なくとも彼を元気付けようとしてくれたのは、間違いない。あのレックハルドが、金貨をくれるなど、普通では有り得ないことなのだから。
「オレはあんたを裏切った…」
ファルケンは小さな声で呟いた。
(ごめんよ、レック…。あんたは、オレを信用してくれていたのに。)
ファルケンは目を伏せた。司祭たちは、恐れおののいて声を出さない。ギルベイスだけが平然とたたずんでいた。
「…条件は――」
ファルケンは顔をあげた。
「あの、レックハルドやマリ…いや、彼の関係者一切に絶対に手を出さないことだ。…たとえ、今後彼らが辺境を破壊したとしても。未来永劫に」
ざわりと、司祭たちがざわめいた。
「ほう、…そんなことでよいのか?」
ギルベイスは、にやりとした。
「条件はいいだろう。そちらの覚悟はできているのか?」
ファルケンは無言で、杯を握り締めた。躊躇はしなかった。ファルケンは杯を持ち上げると、一気に口に流し込んだ。先ほど切った親指の血が混じったのか、それはほんの少し鉄の味がした。後は、後味の悪い甘さが、舌に残った。
ファルケンは杯を投げ捨てる。地面で粉々に砕け散った石造りの杯の破片が、ギルベイスの足元に飛んできた。
「…これで、文句はないんだろう…!」
ギルベイスが笑ったのが見えた。ファルケンは、少し奥歯を噛んだ。
のどの奥を、あの水が流れ落ちていくのがわかる。もう、引き返すことはできない。それでも、構わなかった。