第十一章:歯車:休息-6
暗くなった空を見ながら、通る人々はざわざわと不安そうにささやきあった。不気味そうにレックハルドも空を見る。この前よりも、更に暗くなったような気がするのは気のせいか。円の周りに銀色に光るコロナまで、今日は暗く見える。それに、いつまでたっても日蝕が終わる気配を見せない。
いつの間にか、レックハルドの横にファルケンが立っていた。
「日蝕ってのは」
ファルケンが話し出した。
「日蝕って言うのは、マザーが邪気を中和するために起こすんだ」
「何だと?」
ファルケンは、レックハルドのほうを見た。
「マザーの力の源は、太陽の光だ。それで、その活動を妨げるのは、邪気なんかの負のエネルギー…。マザーはすごく敏感だから、そういった力を嫌って、中和しようとするんだ。だけど、邪気なんかの負のエネルギーが多い場合は、自分のもつ力だけじゃ中和しきれなくなってしまう。だから、太陽の光を独占しようとして、自分の見えない手を伸ばすんだ。それで、太陽を食うんだよ」
「太陽を? ってどういうことだ?」
レックハルドがわからないというように首を振った。
「いや、食うというより正確には、地上に降り注ぐ光のほとんどを、直接上空で取ってしまうんだ。だから、他には光が降りない」
「独占するってことか? 他には太陽の光を与えさせないって…」
ファルケンは頷いた。
「そうしなければならないほど、マザーが弱っているっていう証拠なんだ。この前、辺境で日蝕を見て、わかった」
(それで、あいつは辺境に入るなと?)
イェームに言われた言葉を思い出す。そう思いながら、どこか思いつめたように天空を見やるファルケンに気づく。不意に胸騒ぎがし、レックハルドは慌てたように言った。
「お、お前は辺境には行かないよな」
ファルケンが、こちらに目だけを向けてきた。
「まさか、お前も駆けつけるなんていわないだろ? この前、あんな目にあったんだし」
ファルケンは、向き直り、レックハルドの顔を見る。いつもは素っ気無く、そして自信たっぷりの態度のレックハルドが、今だけは不安そうに見えた。
「まだ、怪我が治ってないんだろ。なあ、レナルとかに任せて、待ってるよな?」
頼み込むような、彼らしくもない口調だった。
「ファルケンさん、まだ無理をしては…」
マリスが反対側からレックハルドを援護する形でそう言った。
「せっかく、治ったばかりなんですから、しばらく静かに休んでいたほうがいいですよ」
「そうだぞ。…なあ、マリスさんの言うとおりにするよな?」
ファルケンは、少し考えるようにしていたが、やがて優しく笑いかけた。
「オレは行かないよ」
レックハルドが真偽を探るような目でファルケンを見る。
「今、オレが辺境に行けば、どうなるかわからないし…それに…」
続く言葉をファルケンは飲み込んだ。司祭
がレックハルドを消したがっている。だからこそ――いつ、操られてレックハルドに危害を加えるかわからない。
あの夢も引っかかっている。あの、ハールシャーという男を殺そうとするときのあまりにもリアルな感情の動きが、ファルケンには怖かった。
あれが、もし、本当にレックハルドで、あれが本当に自分だとしたら――
そう考えると、ファルケンは背筋のあたりが凍てつくような感覚に襲われる。きっと、今、司祭
(
に操られれば、ファルケンは、何のためらいいもなく、レックハルドもマリスも殺せるだろう。司祭
(
の魔力はそれだけ強く、ファルケンの力は弱い。そして、司祭
(
の魔力に捕まっている間は、体中を流れる狂気じみた血潮に身を任せることになる。その間は、熱い血にのぼせあがり、一種、陶酔状態になる。
だから、どれだけ残酷なことも、きっと平気でやれる。レックハルドやマリスを八つ裂きにして殺しても、彼らの血を全身に浴びたとしても、顔色一つ変えずにいられるだろう。
それが、ひどく怖かった。
だが、そんなことはおくびにも出さず、彼はいった。
「また、レックやマリスさんに迷惑かけてしまいそうだし。だから、オレはここにいるよ」
「そ、そうか!」
レックハルドがうれしそうな声を出し、ファルケンの肩に手をかけた。
「そうか! 行かないよな! オレ、余計な心配しちまったらしいぜ」
ファルケンが困ったような笑みを浮かべる。それをみて、レックハルドは、そっと手を引いた。そしてばつの悪そうな顔をする。
「いやっ…、お前が行きたいのはわかるんだが…」
「気にしなくてもいいよ。オレが辺境に行くと、きっと一番レックに迷惑をかけるんだから」
そう答えられ、レックハルドは少し困る。
「オレは、なにも、そういうことをいってるんじゃあ…」
「おいおい、なんだぁ? 今のは…」
ベーゼルが、ようやく机の下から姿をあらわした。メガネを直しながらレックハルドのほうを見る。空を見ながら、
「また日蝕かい。へぇ、お日様も疲れてんだなあ」
と一言のんきに言った。ベーゼルには、太陽が出ない事よりも、自分の仕事の方が気になるらしい。それに、そういうオヤジだからな、とレックハルドは少しだけ小気味よく思った。
「そりゃそうと、お前、どれにするか決めたのか? どうせ旅の身なんだろ、ってことはオレに無茶な締め切りをつけやがるんだろ。早く言っといてくれよ」
「チッ。鈍いオヤジだな。この状況見てのんきな奴だぜ」
レックハルドは肩をすくめた。
日蝕を見てもどうしようもない。レックハルドはマリスに布を選ばせた後、採寸を済ませた。時間はそこそこかかったと思うのだが、その間もずっと日蝕は続いていた。時間があまりにも長すぎる為、不安そうに外で空を見ていたものも、やがて怖くなったのか家の中に引きこもってしまったようだった。レックハルドが店の外を覗いたとき、夜のように暗い道には、ファルケンに一人だけが立ち尽くしていた。
「なにぃ? 二日で仕上げろ?」
ベーゼルは、外の様子など特に気にとめずレックハルドに応えた。いつまでシレッキにいるかという事で、服を作ってもらうにも期限をきめなければならない。それを訊いたとき、レックハルドの返答を聞いてベーゼルは顔をしかめたのだった。
「お前、時々とんでもない事いいやがるな」
「じゃ、どれくらいかかるんだ? 仕事の速さじゃ有名だったのになあ。耄碌
(
したんだろ?」
レックハルドはにんまりと笑った。
「なんだ、その言い方は! 丁寧&スピードが売りのオレへの侮辱か、その言い方は!」
「ははは、じゃ、できるだけ早くってことにしとくぜ」
くそっとばかりにベーゼルは、軽く歯をかんだ。比較的腹の立てないベーゼルだが、仕事を侮辱されると、ひどく怒るらしい。盗賊くずれのベーゼルだったが、職人気質はそこらの職人よりも強かった。
「知り合い全部集めてとっとと作ってやる! 見てろよ! 三日後に取りに来い! 全部作ってやる!」
「わかった。できるもんならやってみな〜」
やたらと燃えるベーゼルを少し冷ややかにみながら、レックハルドは外に出た。どうせ十日はこちらにいるつもりだ。ベーゼルの仕事が遅れても、別に構わなかった。少しからかっただけだ。
それにしても、まだ闇は続いている。ゲンが悪いと店じまいするところも多く、今日は商売にも、ショッピングにも向かないようだった。
「しかたねえなあ。今日はこれで帰りますか?」
マリスに訊くと、彼女は残念そうに答える。
「そうですね。残念ですけど、お店もないみたいですし」
「じゃあ、宿まで送っていきますよ。暗いと不埒な連中も多いですから」
レックハルドがそう申し出、自分のランタンに火を入れた。ほとんど夜と同じだ。空には星らしいものがぼんやりと見えてさえいる。
暗い夜道同然の道を、マリス一人で帰すということにレックハルドは気が引けていた。
「な、そうだな、ファルケン」
ファルケンは返事をしなかった。
「…ファルケン?」
レックハルドが振り返ると、ファルケンは少しはなれた場所でまだ空を見上げている。
「おい! ファルケン!」
大声で呼びかけると、ファルケンはびくりとしてレックハルドのほうを向いた。
「な、なんだ。今呼んだか?」
レックハルドは、マリスにその場で待つようにいい、ファルケンのほうに歩み寄った。
「お前、何だ、ぼーっとしちまって…」
言いながら、レックハルドの顔には少し不安そうな色が浮かんでいる。
「あ、ああ。ちょっと…」
ファルケンは曖昧にごまかしたが、あごに手を当て少し考え直した。レックハルドが、不安に思っていることはよくわかっているからだ。
「いや、別に、辺境に行こうとか考えてるんじゃないんだ。今日はおかしいなと思ってさ。こんなの滅多に見られないだろ。だから…」
「そこまで勘繰ったわけじゃねえよ。…あのな、マリスさんを送っていこうと思うんだが」
ファルケンに気を遣わせたことを気まずく思いながら、レックハルドは話題を変えた。
「暗いと危ないだろ。だから、今から送っていこうってな」
「それはいいな」
「だろ? じゃ、行こうぜ」
レックハルドが方向転換をしようとしたが、ファルケンの手がレックハルドの肩にかかった。
「オレはいいよ。先に宿に帰ってる」
「何だ? いかないのか?」
レックハルドが意外そうな顔をすると、ファルケンはうっすらと微笑んだ。それが、いやに寂しげだったので、レックハルドは少し気になった。
「オレはいいよ。待ってるから」
「待ってる? 宿でか?」
「ああ」
何となく疲れた様子のファルケンに、先ほど胸を押さえながら脂汗をかいていた彼の姿が重なった。
「少し無理をしたのか? すまねえ。…マリスさんと一緒だから、調子にのって、オレ…。ずいぶん長いこと歩かせちまったな…」
レックハルドは後悔している様子で続ける。
「お前、やっぱり無理してたんだろ? 途中でわかってたんだが、オレ…、つい」
「違うよ。ちょっと疲れただけだよ。それに……」
ファルケンは穏やかに言った。
「オレが先に帰るって言ったのは、ほら、レックもマリスさんと二人だけで話ししたいだろうとおもったから。邪魔者は大人しく帰るって事」
意外な答えに、レックハルドは少し驚いた。
「なんだ、気持ち悪いな。お前、そんな気のつくほうじゃなかったじゃねえか」
ファルケンは、少しだけにやっとした。彼のそういう笑みを見たのは、おそらくこれが初めてだ。軽く片目を閉じて、彼はからかうような口調で言った。
「レックがそういいたいのは、最初からわかってたからな。オレもたまには気を利かさなきゃ…」
「な、何生意気言ってんだ!」
ファルケンにそんな言い方ができると思っていなかったレックハルドは、出し抜かれた形になり、怒ったような口調でいった。
「でも、正直、オレは邪魔だろ?」
「…い、いや、その、邪魔とかそういうんじゃなくだな…」
「お前は邪魔だから、先に帰れ」と、自分から言い出すのは平気だった。だが、本人から申し出られると返答に詰まる。
「そろそろオレもあんたと付き合いが長くなってきたからな。そのくらい、顔見なくてもすぐにわかるよ。ずっと、マリスさんと話したかったんだろ?」
「そ、そりゃそうだが…、何もお前を追い出すみたいなことは…」
戸惑うレックハルドに、ファルケンは優しく言った。
「オレは疲れて帰るんだから、追い出すんじゃないよ。それに、オレはよくマリスさんと二人で話してたけど、レックはあまり話してないもんな」
そういわれればそうかもしれない。レックハルドがマリスと話すときは、必ず邪魔が入るのだ。例えば、ダルシュや、そしてこのファルケン。挙句の果てにはロゥレンまで邪魔に入ってくる始末である。確かに、レックハルドはマリスと二人で話したことはあまりなかった。この前、ファルケンに見苦しく嫉妬したのも、きっと、一番二人っきりでマリスと話をしているのがファルケンだからに違いない。
「だから、オレは先に帰るよ。二人でお話すればいいんじゃないかな」
「そ、そうか。じゃ、ありがたくそうさせてもらうぜ」
レックハルドは、喜び半分、ファルケンに悪い気持ち半分に頭をかきやりながら答えた。
「でも、お前、今日は本当に休めよ。まだ当分シレッキにいるつもりだし、調子悪いんだったら、何も無理しなくてもいいんだからよ。気をつかわなくったっていいんだぜ」
「ああ、そうするよ」
少しだけ心配している様子のレックハルドに、ファルケンはかぶりをふった。
「…でも、今日はありがとうな。オレ、最近家の中ばっかりだったから、外に出られて良かったよ。楽しかった」
「そうか。ま、お前がそういうならいいんだが…。じゃあ、オレは行くぜ」
レックハルドはいい、きびすを返す。
「オレは待ってるよ」
ファルケンの声が背後から聞こえた。
「先に帰ってるから…」
ああ、といいながらレックハルドは振り返ったが、すでにファルケンの姿は闇にまぎれて見えなかった。
前方で待っていたマリスが、レックハルドだけ戻ってきたのを見て駆け寄ってきた。
「ファルケンさんはどうしたんですか?」
マリスが首を傾げて訊いた。
「ちょっと疲れたって…帰りました」
「そうですか。…まだ怪我が悪いのかしら」
マリスが、残念さと心配の入り混じった表情をして眉をひそめる。その表情に、レックハルドは少しだけ複雑な気持ちになる。
「…マリスさんは…」
言いかけてレックハルドは口をつぐんだ。
――マリスさんは、あいつと一緒にいるほうがいいですか?
「どうしたんですか?」
マリスが言いかけてやめたレックハルドの顔を覗き込んだままきょとんとしていた。慌てて首を振る。
「な、なんでもないんです。…そうですね、オレがちょっと無理させちまったみたいで」
この前浮かんだ疑念が持ち上がるのを感じ、レックハルドは少しだけ自己嫌悪に陥った。
「そんなことないですよ。あたしがあちらこちらの店を覗いたりしたのがいけなかったんです」
マリスは、レックハルドの思いには気づいていないらしく、無邪気にそんなことを言う。
「レックハルドさんのせいじゃないと思います」
「そうだといいんですが…」
レックハルドは曖昧に笑いながら、自分のような盗賊崩れの商人とマリスの組み合わせは、世間的につりあいが取れていないのかもしれないと思った。
深くため息をつく。そんなことは最初から百も承知だったはずだ。
「ちょっと安心しました」
不意にレックハルドは言った。
「あいつ、マリスさんと一緒だと、少し安心するみたいですから。最近、何か元気ないし、心配してたんです。でも、マリスさんといるとちょっと元気みたいで…。…なんだか、あいつ、この前のことを気にしてるみたいで、オレにも遠慮したりして……」
レックハルドは少しだけうつむく。
「オレは気にしないでいいって言っているのに…」
少しだけマリスのほうを見る。闇夜のせいか、人の姿はまばらだった。通りをゆっくりと歩いていると、何となく寂れた空気がした。
「あいつ、変なところだけ繊細なんですよ。普段は、かなり鈍感なんですが」
「きっと、ファルケンさんは責任感が強いんだと思います」
マリスは微笑んで返した。
「レックハルドさんに迷惑をかけたくないって言ってました」
「…迷惑が嫌なら、とっくにあいつとつるむのをやめてますよ」
レックハルドは、少しだけ諦めたような笑みを見せた。
「でも、本当に助かりました。オレは、あまり人を気遣うって事ができないですから、何かあいつが傷つくようなことをわざと言ったりしたかもしれません。だから、マリスさんがいてくれて……」
マリスが首を横に振った。
「そんなことないと思いますよ。レックハルドさんはとても優しいと思います」
「しかし、マリスさん、…オレは…」
レックハルドは、ファルケンを引っ張りまわした後悔からか、少しだけ自信なさげである。マリスは大きな目でまっすぐにレックハルドを見ながら、首を横に振った。
「いいえ。そんなことないですよ。だって、ファルケンさんが言ってました。オレが一番辛い時に助けてくれたって」
「え?」
不意を突かれ、レックハルドはきょとんとした。
「一番辛いとき?」
思い当たることがなく、訊き返す。マリスは、微笑みながら言った。
「ええ。一番辛いときに…って。だからオレは、ずっとこの世の中が好きでいられるんだって言ってました」
「あいつが、そんなことを?」
レックハルドの細めの目が少し大きくなった。マリスは大きく頷いた。赤い髪が揺れるのが、綺麗に見えた。
「はい。だから、そんなレックハルドさんが悪い人なわけがないですよ。あたしもそう思います」
一番辛いとき、一番辛いとき。
レックハルドは、マリスの綺麗な横顔を見ながら考えた。そういえば、旅をしてきたのに、あれが一番辛いときがどれだったか、レックハルドには見当もつかない。それに、辛い顔をするのを見た時があっても、レックハルドはそれを助けた記憶もなかった。
(一体、いつの話をしてるんだ。)
やがて、たわいのない話をしている間に、マリスの宿についた。その扉の前にたたずみ、レックハルドに軽くマリスは会釈する。
「今日はとても楽しかったです。でも、お金をたくさん使わせてしまって…。あたしの分なら払いますのに」
マリスが申し訳なさそうな顔をする。レックハルドは手を振った。
「いや、いいんです。今日は、あいつについていてくれたお礼なんですから!」
「そうですか? じゃあ、次に会った時に、今度はあたしがお二人に何かおいしいものでもごちそうしますわ」
少し首をかしげるようにして、ゆっくりと微笑むのは多分マリスの癖である。
「それは、オレとしては楽しみなんですが…しかし、マリスさん…ファルケンはともかく、オレみたいな素行の悪そうな奴とこんなに親しく話していていいんですか?」
レックハルドは、先ほど考えたつりあいの話を思い出しながらふと言った。
「あなたみたいな良家のお嬢さんが…」
「そんな! レックハルドさんは立派だと思います! 素行が悪いなんて、そんなことないですよ!」
マリスは強い口調できっぱりといった。そして、レックハルドの手を取る。
「それに、レックハルドさんも、ファルケンさんも大切なあたしのお友達ですもの! 一緒にいても、誰も文句をいう権利なんかないと思います」
(そうか、お友達か。)
レックハルドは、微かに笑いながら思った。
「ありがとうございます。マリスさん」
「そんな。当然のことですもの」
マリスは笑いながら答えたが、何となく不安に思ったらしく、レックハルドを覗き込むようにして訊いた。
「…ねえ、レックハルドさん。また、会ってもらえますよね?」
ええ、といいながらレックハルドは頷く。
「当たり前ですよ。また、どこか遊びに行きましょう。今度は、ロゥレンも探し出して…」
「まあ! ロゥレンちゃんも一緒ならいいですね!」
(あのくそ生意気な妖精小娘の引きつる顔が見ものだがな。)
レックハルドは意地の悪い方の心でそう思う。
「それじゃあ、送っていただいてありがとうございました!」
マリスが元気よく挨拶をする。レックハルドも手を振った。
「ええ。それじゃあまた。お気をつけて」
「はい。レックハルドさんも…」
そういうと、マリスは宿の中に入っていった。彼女の赤っぽい巻き毛が、暗くても跳ねたらしいのがわかった。
一人になって、レックハルドはかえって安堵したようにふうっと大きく息をつく。そして、自分に言い聞かせるよう、心の中で呟いた。
(そうだよ。あぁいうほやーっとした子にはだな、根気が必要なんだ。あせったってどうしようもねえことだ。)
レックハルドはふと、ポケットの中の袋を取り出した。中には二枚に減った金貨が入っている。その中の、女神の描かれた金貨を選り抜いて、レックハルドは目の前にかざした。
「オレがこれを渡す日はいつになるんだか…」
レックハルドは自嘲的に笑った。
彼の部族の風習によれば、コレを渡した時点で、相手にプロポーズした、ということになる。他の金貨とは訳が違い、一度失敗すると取り返しがつかない。
(お友達か。ファルケンと同等の扱いじゃ、嫉妬もへったくれもあったもんじゃねえなあ。)
ぽつりと心の中でつぶやき、レックハルドはひそかに苦笑する。現実はまだまだ遠い。それは、がっかりするのと同時に、何となく落ち着く言葉だった。レックハルドは、やれやれとばかりに、しかし少し安堵したようにつぶやいた。
「…道のりは遠いぜ」
レックハルドは、宿に帰ってくる前に、まだ閉まる前だった店で食べ物を買った。その包みを抱えながら戻ったが、まだ日蝕は続きいているらしく、帰り道はひどく暗く、灯りをつけたままでなければならなかった。
宿のがらんとした殺風景な廊下からどこかの部屋で話している連中の声が聞こえてきた。空の異変について話しているらしい。こういう話をファルケンが聞いていないといいのだが、とレックハルドは思いながら自分の部屋に入った。
「おい、ちょっとは休んで…」
少し明るい口調で言いかけて、レックハルドは思わず包みを落とした。包みの中の果物が、床に転げ落ちる。
がらんとした部屋には、誰がいる気配もなかった。ファルケンの姿もなく、彼の所持品もそこから消え去っていた。レックハルドは、慌てて部屋中を見回った。
「ファルケン!」
呼んでみるが返事をするものはいない。用があってどこかにいっているのだろうか、と見当をつける。だが、妙な胸騒ぎがして、レックハルドは果物を拾うこともなく、部屋をうろうろと歩き回る。
ふと、テーブルの上におかれた紙切れに目がとまる。それは、綺麗な細工のされたマント止めで重しがされていた。おそらく、ファルケンが暇つぶしに作ったものだろう。
「何だ…」
レックハルドはそれを手にとった。そこには文字が書かれていた。悪筆ながら、何とか読める文字だった。辺境の古代語らしい難しい絵文字の下に、かなり癖字で書かれたこの地域の文字でその文は綴られていた。
「…まず、あんたを騙したことを謝らなくちゃな。それから、あの契約を果たせなかったことも…」
レックハルドは、そこまで読み上げて食い入るように紙切れを近づけた。署名はないが、一目でファルケンのものとわかる文字は、淡々と次のようにつづられていた。普段彼が喋る言葉より、ややかたい言葉でそれは書かれていた。
『ここのところ、ずっと考えていたんだ。それで、今日、決心したよ。オレは辺境に行くことにした。辺境の異変にあって戦うのが、狼人の使命だし、オレは辺境が好きだから…。
あんたを騙すようなことをしてすまなかった。でも、オレはあんたを巻き込みたくなかったんだ。オレは司祭に操られて、一度あんたを殺そうとした。きっと、これからも有り得るし、今の辺境にくればあんたは人間だからってことできっとこれから辛い思いをする。オレが、人間の街で辛い思いをしたのと同じに。だから、これ以上、あんたは辺境に関わっちゃいけない。でも、オレが行くと言ったら、あんたはいい奴だから、きっと自分も協力するって言うだろう。だから、騙したんだ。
あんたはいい奴で、オレはあんたと一緒にいる間は、結構楽しかったよ。マリスさんやダルシュ、それからシェイザスも…みんないい人だったけど、あんたと一緒に旅をしてなきゃ、たぶん会えなかった。感謝してるよ。本当は…オレは一時期、この世界に嫌気がさしてたけれど、あんたのお陰で嫌いにならずに済んだんだ。…ありがとうな。
あんたがオレに契約を持ちかけてくれたときも、とてもうれしかった。オレをああいう風に対等に扱ってくれたのは、多分あんただけだったから。でも、ごめんよ。あんたはいつもオレを助けてくれたけど、オレは結局、レックを助けてやれないな。あの約束を果たす事でオレはあんたを助けたことにしようと思ってたんだ。でも、もう無理だよな。
多分戻ってこれないだろうと思う。でも、もし、万一戻ってこられたら、またレックと旅をしたいし、あの契約を果たしたいと思う。ああ、でも、あんたに嘘をついたようなオレだから、レックはもう信用してくれないよな。レックのほうが願い下げだよな…。ごめんよ、謝っても許してくれないだろうけど…本当にごめんよ。
そうだ。レックにはもらった物がたくさんあるけど、もらった物を返すのと失礼だから、このマント留めを代わりに。売れば少しは足しになるはずだから。どうかマリスさんとお幸せに。
それから、『大地の女神と黄金の祝福があなたにありますように』…さようなら。』
ぐしゃり、と音を立ててレックハルドはそれを握りつぶした。かすかに震える紙が音を立てる。真っ青になったレックハルドは、呆然とその紙を眺めていた。
「ば、馬鹿…! な、何考えてんだ!」
レックハルドは声を詰まらせた。
「いかねえっていったじゃないか! 待ってるって!」
理由はわかっている。レックハルドもかつて同じようなことをしようとした。あのヒュルカで、レックハルドはファルケンをわざと突き放して、巻き込まないように消えようとした。それと同じ事を、ファルケンがやっただけのことだ。
あの嘘の下手なファルケンが――
「…オレがもう信用しないだと! 馬鹿言うなよ! だったら、オレはどれだけお前に嘘をついたと思ってるんだ! …大体、お前を信用しようって決めたからオレはあの金貨を…!」
言いかけて、レックハルドは、歯をかみしめた。うつむいた顔には、涙などはなかった。もしかしたら、ただ我慢しただけなのかもしれない。
(あの馬鹿…。死ぬ気だ…。)
なぜ気づかなかったのだろう。あの時のファルケンの様子で。嘘をつくことになれていないファルケンの、あんなに不自然な様子を見て。どうして、あの時、無理にでも一緒にマリスを送らなかったのか…。
その理由も、痛いほどわかっていた。それは、マリスと二人で話したかったからだ。その心があったから、きっとレックハルドはファルケンの異変を甘く見てしまったのである。あるいは、心の中で黙殺したのかもしれない。それで、ファルケンに騙されるなどというレックハルドらしくもない失態を演じたのだ。
(そうだよ、馬鹿なのはオレだ! あいつに気を遣わせたオレなんだよ!)
ふつふつと自分に対する怒りが込み上げてきて、レックハルドは叫んだ。
「畜生! とんだ馬鹿野郎だ!」
レックハルドは部屋を出て、そのまま宿を飛び出した。闇に暮れる街は、ずっと日蝕が続いたままで、夜なのか昼なのかもわからない。その中をレックハルドは、駆け抜けた。遠い辺境での赤い光が、不気味に光っていた。
「…あの馬鹿やろう…」
いつのまにか涙が滲んでいたのか、それを見せないようにレックハルドは袖口でそれをぬぐった。
(なんで、お前が死ぬような目にあわなきゃならねえんだ! 辺境なんて、お前を不幸にしただけじゃねえか! 今更何の義理があるんだよ!)
心の中で繰り返しながら、レックハルドは、歯をかみ締めた。
(オレみたいな悪党が死ぬなら自業自得だ。なのに、お前みたいな奴が死ぬなんて言うなよ!)
走る先の赤い光は、空に絶望的な色を染めていた。まるで血の色みたいだ。全力で走りながら、レックハルドは、ふと呟いた。
「…オレがお前を助けたことなんてないじゃないか。…オレが借りを返すのはこれからなのに…」
ファルケンらしい姿は見当たらない。闇の中に浮かび上がる人影を判別しながら、レックハルドはひたすら走った。だが、その中にファルケンがいるはずもないことも百も承知だった。ファルケンが本気で走ったならば、レックハルドが追いつくはずもない。もうすでに、追いつくことなど不可能だと言う事も、無駄なことをしているのだということも、わかっていた。それでも、止まることはできなかったのだ。
――死ぬなよ…ファルケン…
レックハルドは、走りながら思った。足がそろそろ限界を叫んでいた。だが、スピードは緩めなかった。
――オレは……まだ一人でやってけるほど強かねえんだ…