第十章:風裂きのシャザーン-9
レックハルドが言ったとおり、シャザーンは要求をのんだらしかった。妖魔は、手をゆるりと下げると、ため息をつく。
「これで望みは叶ったか? 狼」
「サービスで他のも叶えてくれるのか?」
イェームは暗く笑うように言った。妖魔は、ふっとせせら笑うとイェームの碧の目を見た。炎の色を映した目は、妙な敵意に彩られているようだった。
「…叶えてやろうか? 人の望みを叶えるのは、われわれの本領だ」
「今のは語弊があるだろう? まあ、いいか。じゃあ、クレーティスを出せ」
イェームは言い捨てるようにいってから、妖魔を見据えた。
「本人と話がしたい」
妖魔は、少しだけにやりとした。
「いいだろう……」
そうしてシャザーンは少しだけうつむく。顔を上げたときは、先ほどの冷たい青年の顔は消え、おっとりとした穏やかそうな青年の少し困惑したような表情になっていた。
「…これは……?」
シャザーンが、少し狼狽しながら周りを見回すのを眺めて、イェームは言った。
「目が覚めたかい? クレーティス…」
冷たい声に、シャザーンは少しびくりとする。だが、イェームの視線も口調も変わらない。そのまま、いてつくような視線を投げたまま、イェームは告げた。
「あんたに悪気のないのは知っている。だが、あんたのせいだってことも知っている。そうだな? クレーティス=ロン=レヒュリーカス…」
いきなり本名で呼ばれ、シャザーンはハッと顔を上げる。
「…あんたの元の名前だろ? 梨輪冠のクレーティス…」
イェームは、剣の柄にもたれかかったまま、シャザーンを睨んでいた。
「き、君は…?」
「…イェーム=ロン=ヨルジュ…」
シャザーンは少し身を引いた。彼の目に、言い知れぬほどの憎悪に近いものが浮かんだのを感じ取ったからである。
「…イェーム…?」
「『あんたと同じく、…ただの自称だ。』」
イェームは突然、
辺境古代語
でつぶやいた。
「『皮肉のきいた名前だと思うかい? それとも、悪ふざけがすぎると思うかい?』」
自嘲的に、彼はもう一度辺境の言葉でつぶやいた。
「『どちらにしても…オレにはぴったりの名前だがな。』」
「『一体……君は誰なんだ?』」
怯えたように尋ねるシャザーンを見ながら、イェームは、もたれかかっていた体を伸ばし、目を少し細めた。
「『当ててみろ……』」
それは挑発的な言葉であったが、ひどく抑えられた言葉でもあった。シャザーンは、完全に困り、視線を宙にさまよわせる。それから、考えついたように顔を上げていった。
「『僕は…確かにとんでもない事をしてしまった……しかし、僕はこれが正しいと思ってきた……』」
イェームは何も答えずに、黙って少しだけ目を閉じる。
「『今、自分が何を望んでいるのかは、わからない。ただ、…』」
「『オレとあんたは違う。』」
イェームは目を開き、シャザーンの言葉をさえぎった。
「『…オレはあんたの考え方に賛同しないぜ…。ただ、いつか、あんたとはけりをつけなければならないだろう…。そして、今は時ではない。』」
シャザーンは口をつぐみ、呆然とイェームを見た。
「君は…? 一体…?」
自然とクーティスから普段の言葉に戻り、シャザーンはつぶやく。
「…行けよ。……今なら追わない」
イェームははっきりといい、それから刀をおさめた。カタン、と柄の音が鳴る。そのままイェームはきびすを返した。
「ああ…」
シャザーンは嘆息をつくと、ふっとあとずさった。そして、そのままさっと風に溶けるように姿を消す。イェームがそれも見ずに帰ってくるのは、レックハルドには少し不満だった。やるならやるで、少しぐらい鉄槌を下して欲しいところである。
「おい、お前、あれで…」
と、戻ってくるイェームに声をかけようとしたレックハルドは、足元でファルケンがかすかに唸ったのを聞き、心配そうにそちらを見る。あまり具合はよさそうではない。
レックハルド自身もあまりなかったが、ファルケンが寝込んだところを見たことがなかったのもあり、レックハルドも正直動揺を隠せないでいた。
「…オレじゃ、わかんねえからな。怪我の具合とか。しかも、オレだけじゃこいつを運ぶのは難しい」
「今はオレも手伝えんからな」
ダルシュはいい、左腕を少しさすった。まだ血が少し滲んでいる。
「しかし、…ここにおいとくわけにもいかねえし…」
レックハルドがぼやくように言うと、ダルシュが隣で憮然とした。
「当たり前だ。こんなところにおいておいたら余計ひどくなるかもしれないぜ」
立ち上がりながら、ダルシュは言った。
「どこか静かなところに運んで、安静にしとかないとだな。医者でも呼んでくるか?」
左腕を押さえてはいるものの、案外平気そうなダルシュを見て、レックハルドはあきれる。
「にしても…お前もけが人じゃなかったのか…」
「痛いことは痛いんだ! だが重傷者がいる以上、そっちの心配をだな!」
(それだけってのが、その時点でなんかおかしい気がするんだが…)
最初からシャザーンと戦っていたファルケンの方がこっぴどくやられているのは、当たり前のことであるが、ダルシュもとりあえず一回五メートルぐらい吹っ飛ばされたはずだった。それでも人間のダルシュがここまで丈夫なのは寧ろあきれるほどである。
「さすが、頭まで筋肉が詰まってる奴は違うね」
レックハルドは、軽く肩をすくめた。
「なんだとう! あいて!」
これでもけが人なので、傷に触ったらしくダルシュがうめくのを見て、レックハルドは面白そうに笑った。
「はははは、けが人ならおとなしくしてろ〜〜!」
それを見ていたイェームがふらりとこちらに歩いてきた。
「ダルシュ、大丈夫か?」
「…こ、こんな傷! ただ痛いだけだ!」
ダルシュの返事が少しおかしいものの、思いのほか丈夫そうなのを見て、イェームは少しだけほっとする。腰につけていた道具袋をあさると、彼はそこから小さな袋を取り出した。
「あ、そうだ。これを使ってくれ」
イェームはダルシュに小さい袋を手渡す。細やかに刺繍されたそれに手を出しながら、ダルシュは首をかしげた。
「おい、これなんだ?」
「それは痛みを抑える薬と傷薬が入ってる。葉っぱのほうは鎮痛剤で飲んだら痛くなくなるよ。もう一つの入れ物に入っているのは、膏薬みたいに塗ればいいんだ」
イェームが丁寧に教えると、ダルシュはそれを受け取って礼を述べた。
「すまんな。助かるぜ」
「気にする事ないよ。それより…」
言いながら、イェームは少しだけ神妙な顔をして訊いた。
「そういえば、あんたの連れはあのままで大丈夫だったのか? …怒ってないのか? 置き去りにしちゃったりなんかして……」
「オレの連れって…? ああ! シェイザス!!」
さっとダルシュは青くなった。うっかり置いてきたが、あれは置いてきてよかったのか。今頃無茶苦茶怒ってそうだし、怪我をしていても手当てどころか邪険に扱ってきそうだ。
「…ご愁傷様」
真っ青なまま、自分のやった所業に恐れをなしているダルシュを横目にレックハルドが嫌味たっぷりに笑いながら言った。イェームは、それを苦笑いしながら見送ると、レックハルドのほうにやってきた。
「ちょっとあんたに言っておきたいことがあるんだ」
「ん、何だ?」
訝しげなレックハルドに、彼はそっと小声で言った。
「…レックハルド…。日蝕には気をつけろ」
「…日蝕? さっきファルケンも言ってたな?」
「ああ。多分、からくりはファルケンがあんたに話すよ。だが、オレからも言えることがあるんだ。あれに気をつけてくれ。あんたは蝕が起こっているときは辺境に入っちゃいけない…。そうなったときは、ああいった邪気や妖魔が力を振るう。…あんたの身が危険だから、一人で辺境に入っちゃいけない」
イェームは、言い聞かすというよりは、頼み込むような口調で言った。
「あんたは、日蝕の最中、絶対に辺境に入っちゃいけない…」
「あ、ああ。…わ、わかった」
レックハルドは、その奇妙な迫力に押されて、こくりと頷いた。それを確認すると、イェームは安堵したように彼のほうから離れる。
「それだけは守ってくれ」
レックハルドは立ち上がり、それからイェームに呼びかけた。
「あ、そうだ! イェーム…、あんたには礼をいわな…!」
だが、彼が言葉を言い終わらないうちに、イェームはたっと駆け出して森の中に消えていった。レックハルドは、差し出した手のやり場に困り、仕方なく腰のほうに手を当てる。
「なんだよ…、そんなに急がなくってもいいじゃないか」
気がつけば、蝕は終わっていた。空は明るさを取り戻し、向こうに立つ火柱は先ほどよりも小さく見える。ふと見れば、火柱の周りに、何か蝶のようなものが数十見える。
「妖精?」
目を凝らしてみると、その妖精の周りからきらきらと虹が見えた。そちらから飛んできたらしい水滴が、レックハルドの頬に当たる。
(水を使ってるんだな?)
水の魔法をつかっているらしい妖精の前で、火柱は徐々にその勢いをなくしていた。やがて、森に広がった火も消えてしまう事だろう。
辺境の森の中の花の群生地は妖精の居住地と深いかかわりがあるという。妖精は狼人と違い、単独行動が多い。しかも、彼女達は狼人よりも魔力の点では優れているし、勘もいいといわれる。彼女達には、それぞれうまれついての特殊能力があり、時にそれが特定の植物を活性化させたり、泉を潤したりするといわれている。
事実、水仙の花の
辺境古代語
(
名である「シューシャス」を名前にもつミメルのすむまわりは、水仙の花が咲き乱れていたりするのだった。湖のほとりの木の枝に座ったまま、ミメルは今日ものんびりとした日をすごしていた。
少し離れた彼女は、辺境の異変には気づいていなかったようだった。あくびをしながら、ミメルは、湖に映る太陽を見る。先ほどは、不気味な皆既食が起こって不安だったが、もう大丈夫のようだ。
「最近、どしたんやろね。…なんか不安になるわぁ」
ミメルは、隣に泊まっていた緑色の羽の小鳥に話しかけるように言った。
「…ファルケンちゃんもあれから遊びに
来
(
おへんし…どしたんやろ」
不安そうにいう彼女の傍から、小鳥がぱっと飛び立つ。何者かの気配を察したのだろう。
「あれ?」
ミメルは、木の枝から下を見下ろして驚いた。そこにいる緑混じりの薄い金髪は、おそらく彼女の知っている人物に他ならなかったからである。
(あれはやりすぎだ…)
シャザーンは心のうちに潜むものに向けて言った。
(もう少しで殺してしまうところだったじゃないか…。しかも、あんなにひどいやり方で。僕は、もともと辺境と人間の間にある確執をなくそうとしただけなんだ。辺境の森の秘密さえ解ければ、辺境さえなくなれば、平和になるといったのは、お前じゃないか…)
黒い闇のようなものがふわりと頭をもたげる。
(『だから、そうした…。そのための犠牲はやむを得ない。…いいじゃないか、あの男はお前と同じように間に挟まって苦労しているかわいそうな子供。…呪縛から解き放ってやったほうが幸せというものよ。』)
(それは…違う……。それは…ただの…)
シャザーンが答え返そうとしたとき、不意に甲高い声が割って入った。
「クレイ! クレイやんか!」
シャザーンが我に返って上を見上げるとミメルが枝の上でにこりと微笑んでいた。ミメルは、足を枝にかけるとそのまま虹色の羽をひろげてさっと降り立つ。
「ミメル…」
その人物は、目の前に現れた妖精をみてつぶやいた。
「どうしたん? クレイ…。元気ないんやないの?」
ミメルはクレーティス…シャザーンの顔を見ながら言った。シャザーンのどちらかというと繊細そうな顔は、少し沈んで疲れているように見えた。
「…あ、ああ。僕は…」
ミメルは、ちょんと彼の横側に並んで笑う。
「ちょっと…よくないことがあったものだから…」
シャザーンは言いよどんだ。先ほどのことを思い出すと、つい暗い気持ちになる。ミメルが来たせいか、あの闇のようなものはどこかに沈んでいってしまって、呼びかけてはこなかった。
「なんやクレイはちょっと神経質やから。気にせえへんでええんやで。そんな細かいこと」
シャザーンは少し困ったように眉をひそめる。
「ミメル、そうじゃないんだ」
「じゃあ、どういうこと? なんか悩みあるんやろ? うち、そういうのすぐにわかるねん。うちでよかったら、助けになるけど…」
ミメルは、狼人としては小柄な方のシャザーンを見上げた。狼人としては小柄といっても、百九十センチ近い彼はミメルからはかなり上に顔がある。
「……ちょっと、…ある人に嫌われてしまったみたいだ」
なんとかそれだけ言って苦笑いするシャザーンにミメルはきょとんと首をかしげた。
「嫌われる? めずらしいんやね。クレーティスが嫌われるやなんて、滅多にあらへんことやないのん?」
「そうかな…」
ミメルはシャザーンの目の前にまわって純粋な笑いをその顔に浮かべる。
「大丈夫やって。…きっと、いつかは嫌いやなんてその人いわへんとおもうわ。だって、クレイはええ人なんやから」
ミメルの優しい表情でそういわれると、何だかそうかもしれないと思ってしまう。これは、ミメルのもつ人徳なのかもしれない。
シャザーンは先ほどのイェームとのやり取りで、疲れ果てた心がほっと癒されるような気がした。
(確かに、「あれ」はやりすぎだし、あのファルケンという人にはすまないことをした。…でも……「あれ」のやりすぎをとめることさえできれば、きっと…)
もしかしたら、いい方向に導けるかもしれない…。
シャザーンは微笑み返した。
「そうだといいんだけどね」
「絶対大丈夫。うちが保証するから!」
軽く背伸びをしたミメルに言われ、シャザーンはまた困ったような顔で微笑んだ。
ひとまず火は消えた。
戦いの間消えていたソルは、どうやらレナルを呼びにいっていたらしい。駆けつけたレナルは、そのまま彼らを一旦、安全な彼のテリトリー内に案内してくれた。
マリスと別れ、どうやらレナルの使いに案内されてきたらしいシェイザスも合流し、今はにこにこしながらダルシュの手当てをしていた。シェイザスが手当てをするたび、ダルシュの顔が蒼白に引きつる。ずいぶんとシェイザスが手荒なのだ。
「い、い、いてええ! て、てめえ! わざとか!」
ダルシュは、きっとシェイザスを睨んだが、彼女は更に手荒に包帯を巻きながら、にっこり笑う。
「あら、ダルシュ〜。…このくらいで痛いだなんて、王国騎士の名前が泣きそうね〜!」
(やっぱり怒ってやがったな…。ああ、いい気味だが、恐い恐い。)
外野でそれを盗み見ながらレックハルドは思う。本当に恐い女には逆らうものではない。ダルシュに同情したくはなかったが、これは少しかわいそうかもしれない。
「すまねぇ、あんたをこんな目に遭わせちまうとは…」
ファルケンの手当てをしながら、レナルは申し訳なさそうな顔をした。もともと顔を見れば、善人そうなレナルが、そんな顔をすると、こちらが悪いような気分がする。
「客人に危害が及ぶなんて、…ホント、すまねえことをした」
レックハルドは手を振り、気にしていないことを示す。
「いいや、オレは怪我もしてねえから構わねえよ。…ファルケンがちょっと、な」
まだ気づかないファルケンを、レックハルドは少し心配そうに見た。レナルはため息をつく。
「そうだな、随分ひどくやられたもんだ。…司祭
(
に操られたって?」
「…あ、ああ」
「多分、それのダメージも残ってるんだよ。意識が無いわけじゃないらしいから、大事にはいたらないだろう。しばらくはいつものように動けないかもしれないが…」
そういって、レナルはファルケンの口に、お椀にいれた薬草を水で溶いたものをそっとふくませた。
それから、ふと、思い出したようにダルシュを振り返る。
「そういや、そこの戦士さんは大丈夫だったんだっけ?」
「思い出したように言うなよ!」
ダルシュは怒鳴ったあと、自分の声が傷に響いたらしく、ぎゃあ!と声を上げた。
「大丈夫。こういう野蛮な職種の人間は多少怪我したところで、鈍いから大丈夫だよ」
レックハルドがこれ見よがしに吹き込むと、レナルは、そうか! とばかりに、にこりとした。
「そうか、そうだよな! 俺の友達もそうだった! うん!」
「な、納得するなよ!」
ダルシュは、また怒鳴り、ようやく手当てが済んだらしい左腕を引いた。そしてむっとした顔をしたまま、悔しそうにつぶやく。
「畜生! オレが負けるなんて!」
「血の気が多すぎたんじゃないの? もうちょっと減らしたら?」
「なんだよ! うるせえな!」
あら、とばかりにシェイザスは目を細め、ダルシュの左腕を乱暴に引き寄せた。顔を固まらせるダルシュに、彼女はにやりとしてつぶやく。
「…あたしにそんな口きいて言いわけ?」
「こ、この女ぁ!」
レナルは、きょとんとしてそれを見ている。本当に女は恐いなどと思っているレックハルドは、不意に思い出してレナルを呼びつけた。
「あ、それより」
レナルは怪訝そうに顔を上げる。レックハルドは、少し微笑んでいった。
「あんたに礼を言わなくちゃな。あんたの友達のイェームって奴だが、今回、オレはあいつに何度も助けてもらったんだよ。あんたが頼んでくれたんだってな、感謝するぜ」
「イェーム?」
レナルは首をかしげる。それから彼はゆっくり首を振り、あごに手をあてて考え込む。
「…誰だ、それは? オレにはイェームなんて友達はいねえぜ。それに、よりにもよってイェームだなんて名前を狼人が使うわけがないんだがなあ」
「え?」
レックハルドは、一瞬きょとんとした。
「イェームってのは、伝説の時代に、辺境を焼いた大火の名前で、「大いなる火の飛沫」という意味だ。いくら何でもそんな不吉な名前つけるような狼人は…」
レナルは、そこまで言ってふとあごから手をあげた。
「…フルネームはなんていうんだ? シェンタール名は」
「…た、確か、「ヨルジュ」…。イェーム=ロン=ヨルジュ…」
「…ヨルジュ? そりゃあ
辺境古代語
(
じゃねえな、少なくとも辺境の言葉で「ヨルジュ」ってのはないぜ。シェンタールでもそんなんは聞いた事ないな。自称じゃねえか?」
「辺境の言葉じゃないのか?」
レックハルドは驚き、それから不意に思い当たって絶句した。
思い出した。
ヨルジュ…というのは、辺境古代語どころか、レックハルドにもっとも親しみのある言葉だった。というのも、彼が昔過ごした故郷の言葉だったからである。
「『旅人のイェーム』だ…」
レックハルドは、ほとんど無意識につぶやいた。
(だが、どうして、旅人なんて名前を自分から…)
旅人には違いないだろうが、それにしても、それを自称するには何かの意図があるはずだ。何のために? そして、どうして?
「どうした?」
レナルに訊かれて、レックハルドは我にかえった。
「…い、いや、別になんでもない」
レックハルドは首を振る。何か、彼の勘にひっかかるものがある。今はもやがかかっていて見えないが、いつか、それが分かるような気がした。
近くにシレッキという町がある。ダルシュとシェイザスは、馬で先に行き、レックハルドは、ファルケンを背負ったレナルと一緒にシレッキに向かった。ダルシュが馬をかしてやってもいいといったのであるが、ダルシュ本人が怪我をしているし、辺境を抜けるときにダルシュとシェイザスは、馬でも使ったほうが安全だろうということで、レナルがレックハルドに同行して運ぶ事になったのだった。
「俺が診た感じじゃ、たいしたことはないと思う。だが、色々あって疲れてるし、ちょっと熱が上がるかもしれないから、しばらく静かに寝かせてやってくれ。あとで薬草を調合したの置いてくし、もし心配だったら人間の医者に診せてやってくれな」
「あ、ああ」
少々、医学的な知識があるらしいレナルにいわれ、レックハルドはほっとした。それから、急に力なく頭を垂れる。
「ちょっとオレが無理させちまったのかもしれないな…。最近、こいつ、疲れてたんじゃないかって思うんだよ」
レックハルドはため息をつき、下から少し見上げるようにファルケンを見た。
「あんまり人馴れしてないのに、オレが商売なんかに無理やりつきあわせちまったから…」
少し落ち込んだ様子のレックハルドをはげますようにレナルは微笑みながら答えた。
「そんなに柔な奴じゃないよ。ファルケンは。あんたが気にするほどのことはないはずだ。それに、こいつも好きでやってるんだろうから、あんたの手伝い」
レックハルドは無言で少し先の地面を見ていた。
「あんたのこと褒めてたぜ〜。ファルケンの奴。あいつは、ああみえてそれなりに見るとこはみてるんだ。…あんたはいい奴だって。オレもそう思うよ。そうじゃなきゃ、ファルケンの奴があんたと一緒に旅なんかしないって」
「オレは…そんなにいい奴じゃねえよ。…この馬鹿がそう思ってるだけだ」
レックハルドはため息をつきながらつぶやく。
「…オレの知り合いもおんなじこと言ってたな」
レナルはにっと笑いながら言った。そのまま、空の方を向いて話し始める。
「オレがさ、人間界を旅してた時も、色々あったってわけよ。もちろん、いやなこともあったし、いいこともあった」
レックハルドはレナルを少し見上げた。やはりレナルも大男の部類で、ファルケンより少し高い程度である。
「オレが、ファルケンぐらいのときだったかな。一人、ある奴がいたんだ。すごいあまのじゃくなやつで…全然素直になりやがらねえ奴だった。オレもどっちかってえと騙されやすいほうだったけど、オレがだまされそうになるとそいつ毎回助けに来たぜ。『お前は馬鹿だから!』とかいってさ。…オレが折角、礼を言ったのに、素直に首をふらねえ男だった。でも、オレは嫌いじゃなかったなあ」
レナルはにやりとした。
「騙されやすいオレも馬鹿だったけど、一生自分のことを素直に『いい奴』だって認めなかったあいつも馬鹿だと思った。あいつ、自分の長所に気づいてなかったんだ。すぐ何か言うたびに、自分は悪党だなんて言ってさ。おかげで思いっきりつかみ合いの喧嘩までしたぜ。…でも、そりゃそれでいいんだろうな。今思えば、俺たちはどっちもどっちで馬鹿同士だったわけだ。それで気が合ったのかもしれないよな?」
レックハルドは黙ってきいていた。レナルは、懐かしそうに目を細めた。
「いいや、実際ホントは悪党だったのかもしれねえなぁ。初めて会ったのは賭場だったし。…でも、オレにとっちゃ、あいつは永遠にいい奴だよ」
「その人は人間だったのかい?」
レックハルドが、視線を伏せながら訊くと彼は鈴を右手にとりながら笑った。
「ああ。元はといえば、これをくれたのもそいつだよ。オレは、辺境に帰ってからシェンタールを変えたんだ。多分、あいつ、ここん中に魂でも残しててさ、オレが馬鹿なことしたら、げらげら笑ってやがるんだろうなあ。仕返しできなくて残念だよな」
そういって、レナルは鈴を鳴らし、レックハルドを慰めるように笑いながらいった。
「あんた、そいつに似てるかもな。…ちょっとだけだけど」
レックハルドは、少し顔をそむけるようにしながら言った。
「…あんたもちょっと変わってるよな。狼人の中でも変わり者の部類なんだろ?」
「それもそいつに言われた」
レナルはけたけたっと明るく笑った。
「だから、あんたもファルケンと仲良くしてやってくれよ」
「…それって、オレもこいつと同レベルって事じゃねえのか?」
レックハルドが、むっとしたような顔でファルケンを指差しながら睨むと、レナルは、またにやりとした。
「いいじゃねーか。オレから見たら、あんたも馬鹿だもんな!」
「…ちっ!」
レックハルドは舌打ちをした。
どうも狼人は苦手だ。人の心にずかずかあがりこんで、それでもって反論をできなくさせてしまう。ファルケンといい、レナルといい、どうしてこんな奴が多いのか。
レナルの背では、ファルケンがまだ気を失ったままでいるが、日光のせいか、少しだけ顔色がいいような気がした。
「…あんた達と付き合ってると、正直疲れるぜ…」
レックハルドはため息をついた。レナルは静かに微笑むだけだった。やがて、向こうのほうにシレッキの町並みが見えてくる。あそこまでいけば、少し休めることだろう。
イェームは、木の下に佇んだまま、酒をあおっているようだった。果実を発酵させて作った酒を入れた瓶をあおり、それからふと空に目をやる。先ほどの日蝕はどこへやら、今は青い空が顔をのぞかせていた。
「…変わらないな…。ここは……」
アルコールの苦味が、やるせない気持ちをどこかに追いやってくれるような気がした。幹に背をもたせかけ、まるでこの世界を懐かしむように、彼は目を細める。
ざっ、と何かの足音がし、イェームはふと幹から背を離し、そのままで少し構えた。
「…これは驚いたな」
やってきた男は、にやりと笑った。どちらかというと頼りなげな、家の中で本ばかり読んでいそうな感じの優男が立っている。だが、それを見たとき、イェームは明らかに少し狼狽した。
「あんた…サライ爺さん?」
ふっとサライは、微笑んだ。見かけは二十歳そこそこの彼だったが、爺さんと呼ばれるのが明らかにふさわしいような、独特の雰囲気がそこに漂っている。
「おぬしにしては、無理をしすぎだな…。精神的に辛いんじゃないのか?」
イェームは、酒を飲む手を少し休める。碧の目がきらりと光った。野生の獣の目に、サライは苦笑する。
「…どういう意味だい…爺さん」
サライはにやりとする。
「気に障ったなら謝ろう。…名は?」
「…イェーム=ロン=ヨルジュ……」
「…ヨルジュ?…それは、
辺境古代語
(
ではないな」
サライは笑った。
「一つだけ忠告しよう。いらいらしているからといって、酒で気持ちをごまかすのはよしたほうがいいのではないか」
イェームははっと飲み物の瓶をみてから、それから警戒しながら相手を伺う。
「…爺さん、あんた、俺が誰だか知ってるのか?」
イェームの声は低い。サライは、その警戒を解くようににっと笑う。
「…さぁ、どうだろうな」
サライは謎をかけるような口調で続けた。
「時と試練は人を変える。たとえ、はぐれていても、いつかまた環に戻る」
イェームは、黙って睨みつけるようにサライを見ている。
サライはうっすらと目を開けた。
「……なぜ戻った? …憎悪からか? 怒りからか? 悲しみからか」
イェームはすぐには答えず、木の幹からゆったりと背を離した。
「そんなものは関係ない。ただ、俺は俺の義務を果たすために戻ってきた」
「義務…」
サライは、反芻してにやりとした。
「そうか…。よかろう…。おぬしの好きなようにやるがよい」
さっと、サライはローブの裾を翻して、そのまま方向を変えた。歩いていきながら、彼は付け加えるように言った。
「久しぶりの会話は楽しかったかね…。忘れるなかれ。お前はいつか戻ってくる事になる。お前が、望むと望まぬと…きっと。…それが自然の摂理というものだ…」
「自然の摂理…」
言葉を今度はイェームが反芻した。
「そうだ。だから、無駄な事はやめた方が、おぬしのためだ」
サライは警告するようにいい、一旦足を止める。その背を見つめながら、イェームは口を開いた。サライが、彼の答えを待っているのがわかったからだ。
「オレは…」
酔ってはいないしっかりとした口調で、イェームはつぶやく。
「…オレはそれを望んでいないんだぜ。爺さん…」
「だったら、やりたいようにやればよい…ただ…」
サライは、からかうような笑みを見せて振り返った。
「……あまり命を粗末にせん方が、お互いのためだろう? おぬしにとっても、彼の口の立つ商人にとっても…」
「………」
イェームは押し黙ったまま、再び背を向けたサライの背を目で追っていた。やがて彼が立ち去って見えなくなるまで、イェームは佇んだまま動かなかった。