第九章:危機感:謎の訪問者−4
――一体アレは誰だ?
アヴィトは焦りを感じていた。
そこには、容器に水を入れて鏡代わりにしたものと、何かの魔術に使うらしい赤い染料があった。水鏡には何も映らず、波紋が立ち続けてぼやけている。
「一体、どうしたというのだ…」
ターゲットにファルケンを選んだのまでは、よかった。彼ならば、簡単に操る事が出来るし、おまけに辺境の中を単独行動していても不審がられない。あの入り込みすぎた人間を始末するにも、近づきやすくて一番手っ取り早い。
しかも、他の狼人には甘く見られがちだが…、ファルケンは非常に強い力を持っている。ただ、彼自身が力の使い方を知らないだけで、戦い方さえわかっていればその辺りの狼人よりも、物理的な力では相当な潜在能力がある。
読みは当たっていたはずだ。万一、ファルケンを止めようとしたところで、レナルクラスの狼人でも、本気でかかって彼を止められるかどうかである。なのに、あの男はあっさりと彼を眠らせた。
(何だ…。司祭
には、あんなやつはいなかった。)
アヴィトは考える。彼らはこちらに向かっているだろう。アヴィトの感じた感覚では、あの男に彼が敵う可能性は低い。
(くっ!こうなったら、別の方法を…!人間達を駆逐しなければ…)
アヴィトは、ファルケンを利用するのを諦め、立ち上がった。
「そこまでだ」
殺気を押し殺すだけ押し殺したような低い声が、アヴィトの耳を打つ。全身の毛が逆立つような寒気がアヴィトを襲うと同時に、頸動脈すれすれに、冷たい刃物が突きつけられた。
「な、何者だ!」
「余計なことを一言でも言うな。俺はあんたに積もるほど恨みがあるんでね」
男の声は憎悪を押さえ込んでいるようだった。
「ふとした拍子に何をしでかすかわからねえ。お互いのためだ。俺の神経を逆なでするような事はやめるんだな」
声を張り上げることはなかったが、かすかに男が歯がみしたのがわかった。その言葉は、アヴィトにいい知れない恐怖を与えた。男の言うことは嘘ではない。後ろにいる男は、自制心で刃が走るのを抑えているだけである。もし、妙なことをすれば、男は自制心を大手をふって取り払い、もろとも彼を斬り捨てるだろう。
「それでいい」
男の声は静かだったが威圧的だった。アヴィトは、しばらくためらったが、男の目は相変わらず、殺気を中に閉じこめている。一触即発。その目は、余計な事をすれば、爆発しそうなほどの危険さをはらんでいた。
「き、貴様も人間に肩入れしているのか?」
アヴィトが尋ねると、男は初めてにやりとしたらしかった。
「さぁ。どうだろうな」
「何?」
「肩入れ、というより、俺には、そうしなきゃいけない義務があるんでね。本当は、ここであんたを殺した方がいいんだが…」
びく、とアヴィトは、震える。男が鼻で笑うのがわかった。
「だが、それでも俺は血を見るのは好きじゃねえ。今回は見逃してやるさ、あんたの行動次第でだがな」
どちらかというと司祭
(
の中でもプライドの高い、アヴィトにとって、その言葉はひどい侮辱だった。憎悪を込めて相手を睨んだが、男の目は変わらず鋭かった。
「何をしろというのだ?」
「なぁに。簡単な事だ」
男は、途端声の調子を変えた。
「一つは、ファルケンの術を解くこと。それから二つ目は、もう二度と辺境から人間を排斥しようなんて馬鹿な了見を起こさないことだ」
「馬鹿な了見だと!貴様も狼人の端くれだろう!何を考えている!」
アヴィトは声を荒げた。
「人間の手により、全ては解き放たれるのだぞ!それを事前に防いで何が悪い!」
「…さぁ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
男は、なぞなぞでも吹っかけるようにゆったりといった。
「何でも人間のせいにしないことだ。それに、人間の協力があって解き放たれるのだとしても、…それは人間全てのせいじゃあない。辺境に入る人間全てを殺していいわけがないだろう?だから、やめろといっているんだ」
「だが、人間が辺境に入ることによって可能性が!」
「可能性は可能性の問題だ」
男は静かに言う。
「俺は別に人間の味方をしているわけじゃない。…あんたらの味方をする気もない。俺は俺のやり方に従うのみだ」
アヴィトは黙り込む。
「さて、返答を聞こう」
男は、静かな目を彼に向けた。
「…いいだろう」
アヴィトは答えた。すぐに振り返り、怒ったように叫ぶ。
「だが、これで完全に手を引くと思うな!人間が入り込むことにより、どんな危険があるか、お前はわかっていないのだ!」
「そういうだろうと思った。まあいいだろう。なら、俺はあんたの邪魔をすることになるだろう。…今日のところは、これでヤメにしよう」
男は言うと、首に突きつけていた刃を引き、素早く背を向けた。
「…一つだけいえるのは…、あんたのそういう考え方が、時に守るべき辺境を傷つけることになるかもしれないということだ」
「何…?」
アヴィトは、少々感情的になり、去っていく男に、ようやく自由になった体を向けた。 男は答えない。
アヴィトはその存在に、底知れぬ危険さと不安さを感じた。すっと、背にある石を削りだして作ったナイフの柄に手をかける。
男は、無言で去っていく。その向こう側に、彼が先程ファルケンを使って殺し損ねた人間の青年が立っていた。アヴィトは、その無防備なレックハルドを見て、密かににやりとする。人間は大体にしてそうだ。…脆弱すぎる。
ふ、と、アヴィトは抜いたナイフを、青年めがけて投げつけた。
一瞬光が走る。高い、何かが弾ける音がし、地面に破片がばらばらと飛ぶ。そして、そこに、刀を抜いた男が立ちはだかっていた。
「…もう一度忠告してやる」
男に睨まれ、アヴィトはすくみ上がる。その目は、先程とは比べ物にならないような怒りをふくんでいた。相手をそのまま、刀で斬りそうな目をして、男は低い声で言った。
「……レックハルドに手を出すな…。今度やったら、俺はあんたを地獄の底に叩き落す!…いいな!」
そういうと、男はもう一度背を向けた。
アヴィトは、もう何もしようとしなかった。それどころか、あまりの恐怖にしばらく口を開く事も忘れていた。