第九章:謎の訪問者−2
やってくるはずの衝撃はいつまでたってもやってこなかった。代わりに、声が聞こえた。聞き慣れた声によく似た、どことなく穏やかな声だった。
「大丈夫か?」
最初、レックハルドはその声がファルケンだと思ったが、続いた言葉はそれを否定していた。
「チッ、思ったより力が強いじゃないか!」
レックハルドはハッと顔をあげた。ファルケンの手はそこで止まっている。ファルケンの手首を力任せに掴んでいる男がそこにいた。
顔から頭にかけ、布でまいているので顔つきは分からない。背はファルケンと大体同じぐらいで、肩には刀の鞘だけが覗いていた。
中身は?と、レックハルドが、うかがうと中身の方は、すでに彼の右手にあった。男は、左手でファルケンの右手首を押さえているのである。
身動きのとれないファルケンは、かすかに狼のような唸り声をあげ、凶暴な目を男の方にうつす。ファルケンのつま先が、ふいに宙に浮いた。
「ととっ!」
慌てて、男はファルケンの手を離して飛び下がった。避けなければ、ファルケンのひざ蹴りが、ちょうど鳩尾に入るところであった。
「あ!あんたも、後ろに下がっててくれよ!危ないぜ!」
思いだしたように男は、後ろに叫ぶ。まだ呆然としていたレックハルドは、反射的に言われたとおり後ずさった。それを目の端で確認し、男は満足そうにうなずく。
「さて」
大きな三日月刀の切っ先に地面を指させたまま、男は挑発するように左手を腰にあてる。
「これで、心おきなく相手ができるぜ」
「ううっ……」
ファルケンの口から、うめきとも唸りともとれる声が漏れた。一瞬、ためらうような怯えるような気配を見せたが、ファルケンは突然奇声をあげて地面を蹴った。
「仕方ないな」
イェームは、静かにいい、右手の刀をわずかに引きつける。その動きでレックハルドは我に返った。
「おい!やめろ!そいつを殺すな!」
レックハルドは血相を変えて叫んだが、イェームはためらわなかった。彼は、右手に下げていた刀をそのまま左上まで斜めに切り上げる。
血の予感に、レックハルドは息をのんだが、ファルケンの胸から血が噴き出すようなことはなかった。代わりに飛んだのは、ファルケンの手に握られていた剣である。それが、飛ばされて、近くの木の根本に突き刺さる。
武器を飛ばされた、ファルケンは、キッと相手を睨むとそのまま男に飛びかかってきた。だが、それも、あっさりと男に止められる。同じように右手首をつかまれファルケンはまたしても押さえ込まれた。
レックハルドの目に、男の右手の刀がギラリと危なげな光を放ったのが見えた。
「ま、待ってくれ!そいつを殺さないでくれ!こいつは悪くないんだよ!」
レックハルドは、さすがに間に入るわけにも行かないので、その場でだったが、慌てて叫んだ。
「ただ、操られてるだけなんだ!なぁ、助けてやってくれよぉ!」
「わかってるよ」
男の答えは、簡潔だった。その声がひどく穏やかなのは、あまりにも意外だった。
「別に、俺はこいつを殺しに来た訳じゃない。安心してくれ」
男はそう言うと、暴れるファルケンの目の前に軽く右手をつきだして開いた。
「『
眠れ
!』」
男の言葉が
辺境古代語
(
であることはすぐに知れた。
その言葉を聞いた途端、糸がふっつり切れた操り人形のようにファルケンは足から崩れて、膝をついた。男がファルケンの胸ぐらを軽く掴んでいるので、いきなり倒れることはない。男は、ファルケンをそのまま地面にふわりと倒れさせた。
「ファルケン!」
レックハルドが駆け寄り、心配そうな顔をしているのを見て、男はいった。
「大丈夫だ。ただ、寝ているだけだから」
「本当か!」
レックハルドは、疑いと期待の入り交じった目を男に向けた。男は、軽くうなずいた。それで、ようやくレックハルドは胸をなで下ろした。
「そうか。どうにかなっちまったのかと心配したぜ」
男がファルケンに危害を加えないのを確認し、そうっとレックハルドは尋ねる。
「それより、あんた、一体誰だ?助けてくれたのには、礼をいうが」
男の目の下に、赤い染料で線がかかれていた。メルヤーと言われる模様に違いない。背も高いし、この男は狼人なのだろう。レックハルドは、そう目星をつけた。
「俺はレナルの知り合いで、名前は…イェームだ。辺境の人間達が、襲われているって話をきいて、頼まれて助けに来たんだ」
男は、そう言った。レックハルドは、レナルに心底感謝しながら頭を下げる。
「そうか、じゃあ、安心だな。ありがとうよ」
「実は、でも、まだ、安心はできないんだ。ファルケンは強制的に眠らせているが、術が解けた訳じゃない。司祭
(
が魔術を解いたら、また同じようにあんたを襲うかも知れない」
「そ、そんな!」
レックハルドは、安堵から一転、わずかに青ざめた。
「あいつ、一生、あのままなのか!?」
「い、いや、そうじゃない。司祭
(
がどこにいるか突き止めて、術を解かせるのが一番手っ取り早い。俺が無理矢理解くってのもあるんだが、それをやっても下手すると魔力が残ってしまうかも知れないし」
イェームが慌てていった言葉に、レックハルドはほっと一息つく。
「よかった。ずっと、あのままかと思ったぜ」
「あんた、結構優しいんだな」
イェームが不意に言った言葉で、レックハルドはハッと我に返り、照れ隠しのようにふっとそっぽを向いた。
「べ、別に!オ、オレは!」
それをみて、イェームは軽く覆面の中で笑ったらしかった。その眼差しは、どこか懐かしいものでも見るような視線であったが、レックハルドはその事には気づかない。笑われているのに腹をたて、キッとにらみつけると、慌ててイェームは視線を外す。
「ソル」
イェームは、誤魔化す為か、咳払い混じりにいった。だが、ソルの方は呼ばれて少なからず、驚いたようである。
「ど、どうして、俺の名前を?」
「あぁ、レナルからきいていたんだ。俺は、スーシャーを追いかけて行くんだが、その間に二人を……」
「おい、ちょっと待て!」
イェームが言い出したとき、いきなり、レックハルドが割り込んできた。
「オレも行くぜ!あんなにやられっぱなしで、引き下がれるか!相手の顔ぐらい見てやる!」
イェームが覆面の奥で困った顔をしたのは分かっていた。だが、彼は思いの外あっさりとレックハルドの主張を聞き届けたようである。
「そうだな、あんた、言い出すときかなさそうだし。それに、あんたとファルケンを一緒にしておくのは、今は危険だな」
イェームはそう言うと、布をまいた頭をばりばりとかきながらソルに言った。
「……ソル、そういうわけで、しばらくファルケンの様子を見てやってくれないか?」
「あ、ああ、それは、もちろん」
ソルは答えながら、妙な感覚に襲われていた。初対面の筈なのだが、このイェームという狼人。なにか、どこかで会ったような気がする。どこかがわからないのだが。
「じゃ、任せたぜ」
イェームはそういい、マントを翻して歩き出した。レックハルドの方に顔を向ける。
「こっちだ。俺が誘導するから、後をついてくるといい」
「ああ、わかった!」
レックハルドは後を追いかけながら、ふとソルと倒れているファルケンの方をちらりと見た。
「ソル。頼んだぜ」
「ええ、お任せ下さい」
ソルは応え、再び背を向けるレックハルドとイェームを見た。不意に、ソルには彼が誰だかわかったような気がした。何か言いかけた時、イェームがこちらを向いた。その目は、何も言うなといっているようであった。
(あなたは……)
ソルは、口を閉ざした。それから、地面で眠ったままのファルケンをちらりと見やる。
意味は分からない。だが、先ほどの男に任せておけば大丈夫だろう。
ソルは、静かにそこに座った。すでに、二人の姿は緑の葉の向こう側に消え去りつつあった。