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辺境遊戯 第四部 


邪神の哄笑-7



 

 金属が大地を撃つ音で彼はわれに返った。
 その音は、本来、もっと鈍い音でなければならなかったはずだ。その音は、彼の聞く最期の音になるはずであり、そして、彼の首を切り落とすはずのものであったから。
 目の前の杯の水面の光がきらりと舞ったのを知っていた。だから、背後の男が剣を振りかぶったのは知っていたのだ。
「お前」
 彼は振り返った。硬い石造りの床が削れている。先ほどの音は、床を鋼鉄の刃物が抉った音だったらしい。
 しかし、それはとある状況を指し示していた。今の一振りは彼を殺す為のものだったはずだ。
 背後の狼人は、だまってうつむいていた。
「おい、お前、どういうことだ?」
 彼はぶっきらぼうに聞いた。
「失敗したとかいうのならゆるさねえぞ」
「そうだ、失敗した」
 狼人ははっきりとした口調でそう答え、目を開いて彼を見た。森の緑の深い色の瞳が、にごりなく彼を見つめていた。狼人は、あいている手で、後ろにある牢の扉を開け放った。
「俺は捕虜の処刑に失敗し、そして、逃げられた。職務の怠慢だ」
 彼は、黙って狼人を見上げた。狼人も瞬きもせずに彼を見ていた。
 しばらく沈黙が流れた。
「ふっ」
 沈黙を破ったのは彼のほうだった。彼はふきだすとそのまま笑い出す。
「はっははははは、この俺を逃がすというのか? ……お前の上官が情けもかけずに殺すと決めたこの俺を!」
 大方サライの入れ知恵だろう? とハールシャーは、暗に含んでいった。実際そうなのだろう。よほど戦況が逼迫しているのかもしれない。それなりにカリスマ性のあるハールシャーを殺して、士気をそいでおこうという魂胆なのだろう。
「ああ」
 まじめな狼人の返答を受けて、ますます彼はおかしそうに笑い出した。
「ははははは。どうかしているぜ。俺はな、ギルファレスに戻っても大した居場所がねえんだよ。情けをかけたところで、この戦争をやめさせるような力もない。うまく立ち回ってお前らを売れば、命だけは助かるかな。しかし、まともに帰っても裏切り者扱いされて首を飛ばされるのが関の山さ!」
「わかっているさ」
「それでもいいというのかい」
「そうだ。全ては俺の職務怠慢だよ」
 彼は笑いを止めて顎をなでやった。元々細い目をさらに細めるのは、何事か考えているときの癖のようだった。彼は、首をふり、狼人に再び視線をくれた。
「いいのか。俺は信用ならんぞ」
 彼は、試すように聞いた。狼人は何もいわない。長い沈黙の後、彼は苦笑した。
「……お前も、つくづく損な性分だな。俺は、逃げるぞ。お前がこのあとどうなろうとしったことじゃない」
「わかっている」
「そうか」
 彼はゆっくりと立ち上がる。少し汚れた黒い衣服をはたき、彼は狼人に目もくれず歩き出し、開かれた扉をくぐる。そのまま、振り返らずにいってしまうような足取りだったが、彼は不意に思い出したように振り返った。
「そうだ。一つ思い出したことがあったぜ」
 狼人が首をかしげたのを見て、彼はにやりとした。
「いい儲け話さ」
 そういって狼人に近づくと、彼は小声でなにごとかすばやくささやいた。驚く狼人の肩をたたいて無責任に笑う。
「ふふふふふ、まあ、どう解釈するかはテメエの勝手なんだがな」
 彼が何をいったのかはわからない。ただ、その言葉をきいた狼人は、きょとんとしていたようだった。彼は、そのまま牢屋を出て、そこからは早足で立ち去る。牢には一人きり、狼人だけが残されていた。

 そして、どうなったんだ。
 
 レックハルドは不意に現実に引き戻された。天井がぐるぐると回っている。
 ぷっつりと記憶と映像はそこで途絶えていた。不安に思いながらレックハルドは、今までのことを整理する。
 あの男、ハールシャー。彼は、さる大国の宰相をしていた。しかし、新しい王と折り合いが悪く、そのうちに戦争中のメルシャアド市国に使いにいかされる。戦争回避が彼の目的だったが、彼がうまく王を言いくるめようとしたときに、あの「サライ」が現れて、彼の邪魔をした。
 サライ。
 レックハルドは、経文の声の渦に飲まれそうになりながら、自分の意識を必死で保って考える。
(サライとは、あのサライなのか?)
 そうかもしれない。あの男は、どこか人間ではないようなところがあったから。
 しかし、問題はその後だ。
 レックハルド=ハールシャーは、捕虜として牢に入れられた。しかし、彼は口先のうまい男であるから、早速、牢にきたメルシャアドの狼人と親しくなる。彼と始終遊んでいたようだが、ハールシャーにも、彼に対する親しみはあったようで、裏切るかどうか迷っていたようだった。
 そして、そうしているうち、カルナマク王から彼を始末せよとの命令が下った。
(それからどうなったんだ。ハールシャーは死ななかったが、あの狼人は、一体……)
 ふと、マリオーンの声が響いた。
 ――思い出せませんか? ハールシャー様
 笑いを含んだ冷たい声だ。
 ――頑張れば、断片的なものは思い出せるかもしれませんよ。
(うるさい。テメエの声が、邪魔なんだ!)
 レックハルドは、心でそう叫んだ。相手に届いたかどうかはわからない。マリオーンの嘲笑が響いている。
 急に目の前が赤くなった。

 ひどく熱かった。彼は手で顔をあおぎながら、それを見上げていた。
「ちょっと景気よすぎじゃあねえか」
 彼は、熱と光にさらされながら、そう毒づいていた。目の前では、街が赤く燃え盛っていた。
 ――メルシャアドの街が!
 ”レックハルド”は、そう思ったが、彼は大した感傷を抱いていないようだった。
「あ〜あ、全部燃やしちまいやがってよう。黙ってしのびこみゃあ、金銀財宝のひとつやふたつあったかもしれねえのに」
 そんなことをいいながら、彼は馬の鐙から片足をはずして、鞍の上にのせながらそこにひじをついていた。
「まだそのようなことをいっていられるとは、余裕だな」
 ふと声をかけられ、彼は苦笑しながら振り返る。そこには、数人の武官達が立っている。皆、ギルファレスの王室の紋章を身に着けている。いってみれば、国王直属の親衛隊のようなものたちだ。
 彼は、余裕を持って彼らを見やると、まだ姿勢を改めることもない。
「それはどうも。なにぶん、繊細とは縁遠い性格なものでね」
「事情はあとからきこう」
「絞ったって何もでやしねえよ」
 乱暴な言葉遣いになると、彼はにやりと笑った。
「カルナマクもザナファルとかいう奴も死んだっていう話だろ。戦の長引いた分の損害を、俺に責任を押し付けるような話かい? まあ、死体を見つけようにも、こんなに派手に燃えちゃあどうにもならんがね」
 どきりとして”レックハルド”は、動揺したが、彼はさして顔色も変えない。
「まーいいさ。俺としても、どっちを裏切った角で捕まるのか意味がわからない。その辺は、そちらの言い分をきいてみたいところだからな」
「減らず口を」
 忌々しげな親衛隊の男たちをみやりながら、彼、ハールシャーは偉そうにふんぞりかえっていった。
「ふふふ、どうせ何をいったところで、まだお前らは俺には指一本触れられねえんだろう。いまだ、俺は宰相の地位を解任はされていないからな」
「そのうち解任される」
「そうだろう。だが、俺も黙ってやられてやるほど、お人よしじゃあない」
 彼は、ゆったりと笑い、顎に手をやった。
「まあ、その時をお楽しみに、な」
 彼の手の間で、きらりと赤く何かが光った。彼の指の指輪が反射したのだろうか。炎の色にあてられてか、真っ赤な光がちらりと目を掠めたようだった。


 すうっと赤い色が引いていき、再び天井が目に入った。徐々に天井が回るスピードは遅くなってきていた。
(あれは、メルシャアドの街だといっていた。……結局滅びたのか)
 伝説でもそういえばそうだっただろうか。伝説で、確かハールシャーを倒したのは、ザナファルとカルナマク。おそらく、メルシャアドの統治者である、あの若い王と、そうしてもう一人。
(でも、二人は死んでいるとハールシャーはいっていた)
 胸の鼓動が大きく響いた。喉がからからに渇いて、呼吸まで荒くなりそうだ。レックハルドは、ベッドに縛り付けられたようになりながら、経文の流れる中、回る天井を見ていた。
 ――思い出しましたか。
 マリオーンの声が聞こえてきた。
 ――街は燃えていましたね。きっとたくさんの人が死んだことでしょう
 彼は歌うようにそう続けた。
 ――貴方の予想通り、カルナマクというのは、あの若い王ですよ
(そうだろうな。そのくらいわかっている)
 ハールシャーは、結局彼を見殺しにしたのだろうか。そう思うと、少し不安になったが、それでもそれはまだ理解できた。
 ――では、もう一人の英雄はどこにいたのでしょう
(何が言いたい! マリオーン!)
 マリオーンは、笑いを含む声で囁いた。
 ――貴方が気にかかっているザナファルのことですよ。……彼は狼人です。あなたも、うすうす気づいているのではないのですか?
 レックハルドの呼吸は、いよいよ荒くなってきていた。うまく息が出来ない。
 ――貴方と一緒にいた狼人ですよ。王の命令で貴方を殺せと命じられたにも関わらず、情がわいてしまって殺せなかった。彼のことではないかと、貴方も気づいているのでしょう。
(奴は、下っ端の狼人だ。最初、ハールシャーがそういっていた)
 レックハルドは、必死になってそう否定した。マリオーンがあざ笑う。
 ――ご自分に嘘をつかれるのはよくないですよ、ハールシャーさま。貴方は、彼のことを三下だといい、そう接していましたが、本当は知っていたのでしょう? 彼が、そこの狼人たちの長であることを。
(……)
 自分の呼吸する音が、ぜえぜえとうるさかった。マリオーンの声は、それでも涼やかに、異常な透明さをもって彼の耳に入ってくる。ふさぎようもなかった。
 ――逃がしてもらった貴方が、どうしてあそこにいたんですか? ひょっとしたら、貴方があの城攻めの作戦を立てたのかもしれません。貴方は、あの時参謀の立場にもいました。内部事情を持ち帰った貴方がどうしたか、想像にかたくない。彼らを殺したのは、貴方かもしれません
(黙れ!)
 思わず、ぞっと寒気が走った。恐れていたことを、直接的にいわれて、レックハルドは少なからず動揺した。
(し、仕方が、なかったんだ)
 事情はわからない。それでも、きっとそういうことだったに違いない。そうでなければ、自分がそんなことを。
 たとえ、敵だとしても、味方にそれほど思い入れのなかった自分が、それを盾に裏切るようなことをするはずが。
(オレが裏切ったわけじゃない)
 ――さあ、裏切ったとまではいっていません。けれど、あなたは彼らの内部事情をしっていましたからね。それだけは確かです。……また何か思い出すのではないでしょうか。その時に色々わかるかもしれませんね。
 マリオーンは、ひどく冷たく、楽しそうにそういった。しかし、徐々に声が遠のいていく。
 ――もう夜明けのようです。今日はこれまでにしましょう。それでは、いい眠りを。
 一方的に彼は別れを告げる。ようやく、天井は止まっていた。続いていた祝詞の詠唱も、ゆっくりと遠のいていく。
 レックハルドは、ベッドの上で動けないまま、しかし、彼らからの解放をしってひそやかに安堵した。
 ――ああ、でも、ハールシャーさま。
 マリオーンの声が追ってきた。
 ――彼の顔ぐらいは思い出したほうが良いですよ。貴方と仲良くしていた狼人の顔ぐらいは。
 不安は、まだ心の奥に沈んでいた。しかし、マリオーンの声も、祝詞の声も、ようやく遠くに消えていく。レックハルドは、安心してこわばった体をベッドに沈めた。
 ――それでは、また会いましょう。我らが主。


「レック、レック!」
 体をゆすられて、レックハルドは思わず唸った。目を開けると、窓から入る朝日がまぶしく、頭が痛くなるほどだった。太陽は随分高くなっているようだ。
「レック、いつまで寝てるんだ」
 目の前に、ファルケンの顔があった。相変わらず、のんびりした様子だったが、すでに身支度は整えているようだった。
「あ、ああ? 朝か」
「そうだよ。珍しくレックがいつまでたっても起きてこないから、どうしたのかなと思って」
 ファルケンは、レックハルドから手を離して、窓のほうを見やった。
「ほら、もうお日様があんなに高いじゃないか。今朝は日蝕もおきてないいい朝だよ」
「あ、ああ」
 レックハルドは、曖昧に答えた。昨日の夜のことがまだ頭の中にこびりついているようだった。
(あれは、夢か?)
 しかし、夢にしては、少しリアルすぎるように思う。マリオーンの言った言葉も、ハールシャーの夢も、全て頭の中にはっきりと残っているのだ。寝不足からか、頭が痛い。レックハルドは、軽くこめかみを押さえながらため息をついた。
 ファルケンは、そんな彼とは裏腹に、すっきりと目が覚めたらしく、伸びをしながら上機嫌だ。
「このところ、日蝕のない朝って珍しいから、今日はすかっとするなあ! 今日は活動的にいこう!」
 な、とレックハルドに同意を求めるが、彼のほうは、まだ何か考え込んでいるようだった。ファルケンは、大きな目をぱちくりさせると肩をすくめた。
「レック」
 呼びかけてみるが、レックハルドは返事をしない。彼は再び瞬きすると、怪訝そうな顔でレックハルドを覗き込む。
「レック、今日は様子が変だな。何かあったのかい?」
「え? ああ? い、いや」
 ようやく覗き込んでくるファルケンに気づいて、レックハルドは慌てて否定した。ファルケンは、不思議そうだったが、やがてにっと微笑んだ。
「昨日の売り上げがいまいちだから考え込んでるんだろ? うん、でも、そういうこともあるよな。仕方がないよ」
「ファ、ファルケン、あのな」
 てんで方向違いなことをいうファルケンに、思わずレックハルドは声をかけた。どこか焦った彼の様子に、再びファルケンは小首をかしげる。それに思わずレックハルド自身が面食らいながら、それでもようやくこう訊いた。
「あ、あのな。お前、昨日はちゃんと眠れたか?」
「え? 眠れたよ。レックは眠れなかったのかい?」
「い、いや、まあ。……夜中に、変な声が聞こえたとか、そういうことって……」
「変な声?」
 ファルケンは、首をかしげてしばらく考え込む。
「うーん、別に何もなかったけどなあ」
「そ、そっか。それならいいんだ」
 レックハルドは、落胆したようにため息をついた。これで彼があの祝詞やマリオーンの声に気づいていれば、相談もできた。しかし、自分にしか聞こえないのなら、本当はただの悪夢か思い込みなのかもしれない。
「変なレックだなあ。最近寝不足だっていってたから、変な夢でもみるんじゃないかな」
「あ、ああ、そうかもしれない」
 ファルケンののんきな声をききながら、レックハルドは額の汗をぬぐった。何となく腑に落ちない気分だ。胸の奥で気持ちの悪い不安が渦巻いていた。
「あ! そうそう、オレ、今日ちょっと辺境に回ってくるよ。話を聞きたい人もいるし。一人じゃ危ないかもしれないから、マリスさんたちと一緒にいてな」
「あ、ああ」
 陽気にそう呼びかけるファルケンに返事をして、顔をあげ、レックハルドは思わずどきりとした。驚きの余りのけぞってしまいそうだった。
「あれ? どうしたんだ、レック」
「い、いや」
 首をふるが、思わず否定の言葉がでなかった。
 ファルケンの顔を正面から見たとき、レックハルドは思い出してしまったのだ。あの時、ハールシャーと相対していた狼人の顔を。
 あの、赤いまだらの髪を持つ狼人は、ファルケンと非常によく似た顔をしていたのではなかったか。確か髭は生えていなかったし、目つきも彼ほど陽気ではなかったけれど、しかし、あの男の顔は、ファルケンと……。
「いや、なんでもないんだ。すまん、先に飯でもくっててくれ」
「そうか〜。それじゃあ、そうするよ。余り寝ぼけてると、道歩くの危ないぞ、レック」
 ファルケンは、のんきにそう答えて先に部屋を出て行った。
  ――彼の顔ぐらいは思い出したほうが良いですよ。貴方と仲良くしていた狼人の顔ぐらいは。
 マリオーンの声を思い出すと、全身に悪寒が走った。レックハルドは、まだ高鳴る鼓動を抑えられないでいた。
(あのときの狼人は、まさか――)
 そんなはずはない。しかし、全くないとはいいきれなかった。
(ハールシャー、オレは、お前を裏切ったのか?)
 絶望的な不安が、腹のそこからこみ上げてきた。まだ鼓動は収まりそうにない。

 




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