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辺境遊戯 第四部 


邪神の哄笑-6



 遠くから、呪文のようなものが聞こえてくることに、彼もとうに気づいていた。
 森の近くに隠者のごとく居住している彼にとって、それは非常に懐かしいが、忌々しいものでもある。なぜなら、彼は記憶をたどるのも面倒になるほどの昔に、その響きを聞いたことがあったのだから。
 サライ=マキシーンは、暗い空を見上げながら、ふいにため息をつく。
「ああ、やはり動き出していたのだな」
 彼は、遠くない未来にこうなるであろうことを予測していた。だが、それを止めることが難しいことも、大方わかっていたのである。
 あの詞(ことば)を唱える者達。ソレが、かつてレックハルド=ハールシャーといわれていた男を、神とあがめて崇拝していることも。
 サライは、彼が普通の小賢しい人間であったときのことも、その「後」のことも全て知っている。彼が、何故「神」として祭り上げられたのかもしっている。
 だが、ハールシャーを神として、連中が掲げた教義は、こういう不安定な時期には受け入れられやすいものだったのだろう。彼は快楽と破壊を肯定する神であり、彼と彼の勢力には、信者を満足させるだけの能力が実際にあった。彼らの望むものを何でも与えることができたのだ。
 そのときの残党が今も残っているのは、予想できたことだった。気の遠くなるような時間が流れたことによって、彼らの中での、ハールシャーという存在は、とてつもなく大きいものになっているに違いない。
 そして、あの時、飛び出したものが。
 あの封印をとかれたものが、この状況を恐ろしいスピードで拡大させているのだ。
 サライは、眉をひそめた。
「まだ、誰も気づいてはいないかもしれないが」
 おそらく、封印をといた当の本人も知らないだろう。狼人達は、人間世界の変化に気を留めるはずがない。
 「あのもの」は、辺境でなく人間の世界に変化をもたらすものだ。封印をとかれて、邪まなるものたちが飛び散ったときに、彼だけは真っ先に人間たちの社会を目指したに違いない。
(もし、あれが出てきたのなら、ハールシャーを復活させるに違いない。神としてのハールシャーを)
 サライは、我知らず険しい顔つきになった。そうなると少し厄介なことになる。おまけに、ハールシャーを復活させるには、必ずレックハルドが必要になるのだ。
 しかし、手を打つのが遅れた。ここまで勢力を拡大することになるとは思わなかったのだ。実は、サライも、こうなるまでは気づかなかったのだ。
 あの、封印。ファルケンが解いたあの封印に、何が閉じ込められていたのか。あそこには、大量の妖魔が閉じ込められていただけでなく、あのときの、あの大戦の時の、大罪人のひとりが閉じ込められていたという事実を。
 そして、彼こそが、人心を操るのに長けた恐ろしい敵であり、邪神であるハールシャーを復活させる為に必要なものの一人であるということを。
 
 

 再び、呪文のような声が渦巻いていた。


 すべてが寝静まったはずの真夜中。ファルケンは、とっくにそばで安らかな寝息を立てている。
「う、うう……」
 レックハルドは、うなりながら体をよじらせた。
 宿に逃げ戻ってきてから、彼は結局一睡も出来ずにすごしていた。外を見ても、あの黒服たちが追いかけてきた形跡はない。そのうちに、商売に飽きたファルケンが、のんびり帰ってきたが、なんとなくレックハルドは、あの一件を話す気になれなかった。話すのがおぞましかったのかもしれない。しばらく引きこもって、ヒュルカを出てしまえば、かかわりにならなくてもいい連中のはずだ。悪いことは忘れてしまおうと思っていたのだった。
 しかし――。
(一体なんだ、この声は……)
 何を言っているのかは聞き取れない言葉が、頭の中に、波のようにうねりながら響く。このところ、聞こえてきていたあの声に違いないが、それにしても、今日はいつもより激しく強かった。何度も何度も繰り返し、強弱をつけながら頭の中に無理やり入り込んでくる。耳をふさいでも、まるで効果がない。直接、頭の中にねじ込まれているようだった。
 隣のファルケンには聞こえていないのだろうか。彼は苦しむ様子もなく、いつもどおり平和そうに寝ているのだ。思わず彼に助けを求めようとしたが、うまく声が出ない。体をよじることが出来る程度で、ろくに寝返りをうつこともできない。
(まさか、この音に縛られているのか?)
 レックハルドは、冷や汗を流しながらそう思った。昨日までは、ここまではひどくなかったはずだ。眠れないのは眠れなかったが、こんな風に声が出なくなったり、体が動かなくなったりすることはなかった。
(昼間のあいつら……)
 不意にレックハルドは、あの黒服の連中を思い出した。思い出すのも、身の毛がよだつことだったが、この頭に響く音と同じ呪文を、彼らは唱えていなかっただろうか。
 マリオーンの、整っていて残酷な笑顔がレックハルドの脳裏をよぎる。
 もしかして、彼らと昼間であったことで、何か術のようなものをかけられたのだろうか。それで、この症状がひどくなったのか?
(そんな馬鹿な……。奴らは人間じゃあないのか?)
 それを考えてもわからなかった。レックハルドには、妖魔と人間を見分けるすべはないのだ。彼らが妖魔に取りつかれた人間だったとしても、レックハルドは単身ではそれを見分けられない。
 だが、彼らが異常だったのはわかる。
 呼吸が荒くなり、やけに胸が苦しくなってきた。
(畜生、なんだってこんな目に……)
 レックハルドは、ようやく動いた右手で胸元を押さえた。
「畜生、なんだってこんな目に」
 ふと、声が聞こえた気がして、レックハルドは思わずはっとわれに返った。天井を見上げても、くもの巣がかすかにかかっていることしかわからない。だが声はもう一度響いた。
「お前には、俺みてえな中間管理職の苦労なんてわかりゃあしねえんだろうけどさあ」
 やけに軽い声だ。レックハルドは、思わず目を見開いた。天井が溶け合うようにして、目の前に別の光景が広がっていった。


「ああ、でも、お前も中間管理職だったけな」
 彼は、笑いながらそういってサイコロを手のひらで転がした。
「あんたは、宰相さまじゃないか。俺とは違うよ」
「そんないいものかよ。俺は、別にそんな地位につきたかったわけじゃねえぞ。他に適任がいないからとか、若い人間じゃないとだめだとかで、無理やりつけられたんだ。まあ、前の王には世話になったからな。俺も頼まれても引き下がれなかったんだよ」
「へえ、案外にいいところがあるんだな」
 相手の男はにやりと笑った。相手の男? いや、人間ではない。大柄な体に淡い色の髪の毛。炎のように赤い毛がまだらに混ざっている。頬には、魔術めいた紋様が描かれている。
 狼人だ。
 ここは、牢だった。粗末な独房の中で、彼は狼人と向き合って話をしているのだ。木でできた盤と駒がおいてあり、どうやらサイコロを転がしながら、陣地を取る遊戯のようだった。
「俺もたまには計算外で動くさ。俺はああいう年寄りには弱いんだ」 
 彼はそういって笑った。目の前の狼人もそれにつられて笑う。
 彼としては、存外に落ち着いた気分だった。独房の中でとらわれたまま話をしているにしては安心しきっていた。
 そう、彼は、説得に失敗して囚われの身となった。その説得には、彼のすべての人生がかかったものだった。
 ギルファレスの宮廷を追われるようにして、彼は、ここへ停戦を工作する使者として派遣されてきた。だが、王を説得しようとしたところで、あのサライという男に邪魔をされたのだ。正体を見破られ、論破された彼は、牢獄に放り込まれたのだ。
 すぐに殺されなかったのは、あの王の同情もあったのかもしれないが、おそらく、彼が何かの時に役に立つという考えがあったからに違いない。
 そこに面会にきたのが、ここで狼人の長をしているザナファルという男だった。ザナファルの噂はきいている。狼人の多くがそうであるように、普段は温厚だが、一度怒ると手がつけられないのだ。彼もそういう人柄で知られ、恐れられていた。
 しかし、ザナファルは、少なからず、目の前の人間に好意的だったようである。ハールシャーが、からかい混じりにあれこれ要求したが、ザナファルは、苦笑しながら大概のことを叶えてくれた。おまけに、彼も時々暇なときに彼のところに会いに来るようになる。
 彼は、元々狼人が嫌いでない。メソリアの狼人軍人たちと、政治的だけでなく個人的なつながりもある彼は、狼人に振り回されながらも、どこかで彼らの無邪気さを愛していた。そもそも、メルシャアド市を攻めるのに反対したのも、そういう心があるからでもあったのだ。
 ここにきて、狼人の話し相手を持ったことは、彼の心に大きな落ち着きを与えた。いやに冷静になった彼は、外のことを障りのない程度に彼から聞き出して、状況の把握にも努めていた。ここで生きるにしろ、死ぬにしろ、周りで起こっていることを知らないままでいるのはつまらない。
 もとより彼には、それほど忠誠心はない。別にこの国に寝返ってもよいのだが、勝ち目のない戦いをうけなければならないし、その前に第一サライが納得しないだろう。だが、国に、というより、あの王に忠義を尽くして死ぬなど、彼にとってこれ以上つまらなく、耐えられぬことはなかった。
 死ぬことになったら、最後にひとあがきしてやろう。
 それによって、故国の主君も、この国の若い王も、きりきり舞いすることになるに違いない。最終的にどちらの得になることになろうが、そんな遠い結末などどうでもよいが、一瞬でも、彼らに一泡吹かせてやることができれば、それはそれで面白い。彼としては死ぬ前に、一瞬でも胸がすけばよいのだ。自分が面白ければ、そのほかはどうでもよいのである。
 そんなろくでもないことを考える彼でも、目の前の狼人には、多少情がわいてきていた。何かことを起こすにしても、彼を巻き込むのには躊躇われるし、彼の立場も気になった。おまけに、生来の勘の鋭さが、彼に不吉な警告を与えていた。
 目の前の、心優しき狼人は、きっとそのうちに自分を殺しに来るだろう。なんとなくそう予想がついていた。メルシャアドの文官たちも、武官たちも、けして自分を快く思ってはおるまい。戦局が荒れはじめたときに、恐らく自分は殺されることだろう。自分が、何か手をつかって狼人を丸め込んだり、煽動したりしないように。それか、狼人が彼と通じていると非難し、その証拠に自分を殺させるかもしれない。
 そうなった時、自分はどうするべきだろうか。ここで本当に相手を丸め込むのは、彼の良心が珍しく痛んだ。
 ……もし、彼が本当に困っているのなら、ここで殺されてやるのも悪くはないのかもしれない。今まで散々悪いことをしてきたが、死ぬ前にひとつぐらいいいことをするのもよいかもしれない。
 珍しく、彼はそんな殊勝なことを考えた。
「どうしたんだ? 札を配ってくれないとこまるじゃないか」
「あ、ああ」
 手が止まっていたのだろう。そんなことを狼人に指摘されて、彼はわれに返って、いつもどおりにやりとわらった。
「いいのか、勝負を急いでも。十中八九お前の負けだぞ」
「勝負はやってみないとわからないじゃないか」
「ソレはそうだな。むしろ、そりゃあ俺の信条だぜ」
 狼人は人間よりも嫌いではない。なぜなら、手ひどく裏切ったりはしないから。
 目の前の狼人を裏切ってまで、最後の悪ふざけを行うべきか。それとも、目の前の狼人に世話になった礼として、おとなしく斬られてやろうか。
 同じ死ぬならどちらがよいのだろう。
 いつものようにカードゲームを繰り返し、札を切りながら彼はそんなことを考えている。


 気がつけば、煤けた天井が回っていた。
 レックハルド=ハールシャー
 彼はそう名乗りはしないが、しかし、その名が彼の名であることに、レックハルドはすでに気づいている。認めるのがいやなだけだ。
「少しずつ思い出してきましたか?」
 不意に昼間の青年の声が、頭に響いた。
 ――マリオーン!
「でも、まだまだ思い出せていないようですね」
 青年の姿は見えない。気配も感じない。しかし、彼の声がどこからか響く。祝詞の声が強くなる。黒い渦に飲まれるような感覚が、どんどんひどくなっていく。
 マリオーンは、笑ったようだった。
「いいえ、すべて思い出す必要はありません。その頃の記憶は、寧ろ貴方にとっては邪魔な記憶でしかないのです」
 再び視界が暗くなって澱んでいく。
 遠くでざわめきが聞こえるようだった。

 




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