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辺境遊戯 第四部 


邪神の哄笑-5


寒い。なんだろう、この感覚は。
 レックハルドは、余り感じたことのないあせりのようなものを背筋に走らせながら、辺りを見回した。いつの間にこんな路地に入ったのだろう。どの道、表通りでも、今日は人が少ないのだが、横道となるとほとんど人はいない。
 ただ、道の真ん中でたたずむ、五人ほどの黒服の人間たちが異様に目を引いた。
(何だ)
 取り囲まれたのだろうか、それとも、ただ彼らが通りすがっているところに、自分が紛れ込んだのだろうか。
 ふと、一人の人物が彼の方に歩み寄ってきた。警戒心から、思わず手が護身用の短剣を握る。ヒュルカにおいて、裏社会の裏切り者であるレックハルドだ。いつ何が襲ってきても不思議ではなかった。
「そう、警戒しないでもいいのですよ」
 不意に、物腰の柔らかな若い男の声が聞こえた。みれば、内一人がそろそろと歩き出して、レックハルドのほうに近づいてきた。警戒しないでよいといわれても、警戒せずにいられるような状況ではない。
 レックハルドは、まだ短剣から手を離さない。
 男は、それをあざ笑う様にかすかに唇に笑みを刻んだ。
「相変わらず、猜疑心の強い方ですね。あなたは」
「相変わらず? お前のような知り合いはいないぜ」
「覚えていらっしゃらないだけですよ」
 男はくすりと笑い、頭から被っていたフードをはずした。思いのほか若い男だった。綺麗に肩の上で切りそろえた髪の毛が、どこか異国の雰囲気を感じさせる。狼人ほどではないが、髪の色素が薄く、暗いところでみる限りだが、とび色に見えた。すらりとした鼻筋に穏やかな瞳。上品な顔立ちで、いかにもいい家柄の青年といった風である。
 やはり知らない顔だ。ヒュルカで会った連中には、こんな生まれもっての貴人といった雰囲気の人間はいない。
「ようやく会えましたね?」
 見知らぬ青年が、そういって微笑するのをみながら、レックハルドは思わず後ずさりした。なぜかわからないが、背筋に冷たいものが流れ落ちるようで仕方がなかったのだ。目の前の青年は、何か危険だ。
「外に出てきてからずいぶん探しました。こんなところで出会うとは思いませんでしたが」
「だから、何なんだ、お前は」
 レックハルドは、いくらか虚勢を張りつつ相手をにらみつけた。
 青年は、ゆったりと口角をゆがめた。
「僕はマリオーンといいます。いつかのあなたは、よく知っているはずですよ。レックハルド様」
 思わずどきりとして、レックハルドは警戒心を強める。
「なんで、オレの名前を知ってるんだ」
「知っていますよ、もちろん。……私は、貴方の僕ですからね」
「しもべ?」
 不穏な空気に気おされつつ、目の前の青年をにらむ。彼は、にこにこしながら続けた。
「そうですよ。貴方の。レックハルド=ハールシャー様の」
「ハールシャー?」
 思わず声をあげたレックハルドに、マリオーンと名乗る青年は、丁寧な言葉とは裏腹にあざ笑うように視線を動かした。
「そうです。……あなたは、かの方の転生した姿。ご存知ですか? かつて、ハールシャーという男が何をしたのかを。彼が何者であったのかを」
「何を言い出すんだ。あんなのは伝説にすぎねえんだぞ」
レックハルドの声は我知らず高くなっていた。彼も少し恐かったのである。まさか、ここであのハールシャーの名前が出るなどとは。
レックハルドにとって、ハールシャーという人物の名前は、ある意味もっとも聞きたくない名前だった。古代の奸臣であり、おそらく彼の名前の元となった人物。後世までとどろく悪評は、同じ名を持つレックハルドの人生にまで影響を及ぼしていたほどだ。レックハルドも、彼を引き合いに出されて、ののしられたことが何度もある。
 それだけではない。何度か、レックハルド自身も、夢の中で彼の名前を聞いている。それこそ、最近見る夢の中でもだ。
 だから、思わずどきりとしたのだった。目の前の美青年が、まさかこの事情を知っているはずがないのに。
「どうしたのですか?」
 マリオーンという青年は、柔らかに、しかし冷徹に微笑んだ。まるで彼の不安を見透かしているような冷たさを持った笑みだ。
「まさか、ハールシャーが恐いのですか?」
「……恐い、だと」
「ええ。しかし、無理もありません。貴方はすべてを忘れているようですし、そうすれば、貴方の恐怖心もわかります。あの方も恐ろしい方でしたから、ね」
 レックハルドの表情をあざ笑うように、あくまで慇懃に彼は続けた。
「けれど、そう恐れることもありません。……元の姿に戻れば、すぐにでも恐怖は消えますよ」
 マリオーンは、優雅に微笑み手を差し出した。
「僕が元のあなたに戻して差し上げます。ご安心ください」
「な、何がだ!」
 レックハルドは、きっと姿勢を正した。
「いきなり昼間から何の寝言を言ってやがる。そうか、このところ、怪しい連中が、変な呪文みたいなのを唱えながらうろついてると聞いたが、お前らだな」
「失礼なことをおっしゃいますね。真実を教えてあげただけですのに」
 マリオーンは、心外そうに眉をひそめて首を振る。
「信用なさらないのでしたら構いませんよ。どうせ、貴方には、元の姿に戻ってもらわなくては困るのですから。その方法が穏便かそうでないかだけの違いなのです」
 マリオーンは、そういってふっと笑った。突然、彼の後ろに控えていた黒服たちがマリオーンの前に進みだした。長い袖口から、きらりと鋭い光が目に入った。刃物を持っているのだろうか。
「何をする気だ」
「貴方が嫌だというのなら仕方がありません。無理にでも、一緒にいってもらいます」
「無理にでもだと」
 レックハルドは、思わず身構える。額に冷たいものが走った。マリオーンは、いやに平和そうに微笑みながら、少し首をかしげるようにした。
「ええ。そんなに、貴方が心配する必要などありません。最終的に、貴方の体さえ手に入れば、我々はよいのですよ。穏便に済ませようと思いましたが、貴方がそういう態度では仕方がありません」
 マリオーンは、淡い色の目を開き、レックハルドを冷たく見据えた。この青年は危険だ。レックハルドは、本能的にそう悟った。
「安心してください。我々もなるべく無傷のほうがよいのですよ。顔や体に傷が入ってしまうと、せっかくの我々の神が美しくなくなってしまう」
 目の前の若造は何を言っているのだろう。レックハルドの理解などどうでもよさげに、彼はつらつらと続ける。
「傷だらけでは、価値も半減してしまうのです。祭壇にいただく我々の神なのですから」
 マリオーンは、愉悦に浸ったような笑みを浮かべて、レックハルドのほうを見た。
「きれいに心臓だけを抉り取ってあげますから、安心してください」
「何……」
 思わず絶句したレックハルドに、マリオーンは無邪気に笑いかけている。ひどく気味が悪くて仕方なかった。
「な、何を言ってるんだ! お前……」
 レックハルドは、首を振った。
「オレを殺す気なのか?」
「恐がることはありません。貴方は死にはしない。いいえ、寧ろそうして初めて、生を受けるといってもよいのです。それが元の貴方の姿なのですから」
 レックハルドは、もはや返答もしない。なにかあればすぐさま逃げ出してしまいそうな雰囲気だった。マリオーンは、小首をかしげた。
「やはり、貴方は協力してくださらないのですね? 仕方がありません。さあ、一緒にきてください!」
 その言葉尻を合図に、後ろにいた黒服たちが駆け出す。レックハルドは思わず悲鳴を上げて逃げ出した。後ろから足音がばたばたと聞こえる。
 空は、いまだに暗い。慣れた街出なければ、自由には走れなかったかもしれない。だが、ここで後ろ暗い生活を送っていた彼は、夜にここ周辺を走り回っていたのだ。
 必死でレックハルドは、闇の街を走りぬけた。追いかけてくるものたちの気配は、遠ざかっていたが、レックハルドは、結局背後を振り向くことはなかった。
 ようやく、宿に着いた。慌てて中に入って、扉を閉めた。自分のばたばたする足音が、ひときわ耳に響いた。入り口には、ちょうど誰もいないようだった。宿の主人は、自分の部屋にでも入っているのだろうか。レックハルドは、そのまま自分の泊まっている部屋に上がりこみ、扉を勢いよく閉めた。
 静かだった。人の気配はない。
 レックハルドは、扉にもたれかかったまま、天井を仰ぐ。まだ息はかなりあがっていた。
 外はようやく明るくなりかけている。追いかけてくるものが、いないことをようやく悟って、レックハルドはため息をついて座り込んだ。
「な、なんだよ、アレは」
 息はかなり収まってきていたが、胸の鼓動がいまだに落ち着かない。いや、これは、走ってきたからだけではない。なぜなら、あのマリオーンとかいう青年と話をしているときから、ずっとこうだったのだから。
 もともと、自分も詐欺師のようなレックハルドだ。変な話を振られて、動揺するような繊細さは持ち合わせていない。怪しい新興宗教の教義や、破滅的な予言をきかされても、それほど心を動かされることはなかった。
 だが、今回だけは特別だった。あの青年は、本当に自分を知っているかのような口をきいていた。そして、そこに出た男の名前がよりによって『ハールシャー』だったのだ。
「何なんだよ、あいつ」
 レックハルドは、首を振った。いや、こんなことは忘れてしまおう。
 なぜか、あの青年の、愉悦に浸ったような表情を思い出すと、全身に寒気が走るようだった。


「やれやれ」
 駆け出していったレックハルドと同志たちを見送り、マリオーンはため息をつく。
「相変わらず、逃げ足の速いお方だ」
 同志たちは、レックハルドを捕まえることはできないだろう。あの足の速さでは到底かなうはずもない。だが、そんなことはすでに予想済みだった。いや、最初から、今日この場で、彼をつれていくつもりはなかった。もう少し時間が必要なのだ。
「ですが。もう、貴方は逃げられません。おとなしく、我々に協力するほか、貴方の生きる道はないのですよ」
 マリオーンは、魔の宿ったような瞳をちらりと黒い闇の空に投げかけながら薄ら笑いを浮かべた。
「今から、貴方が苦痛に喘ぐ姿が思い浮かぶようですよ、ハールシャー様」
 その彼の背の辺りから、黒い霧のようなものが空に向かって立ち上っていた。
 
 



 




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