辺境遊戯 第三部
第二章:竜魔問答−5
狼の遠吠えが森の上を響く。あの声がどの種類の狼の声であるか、彼にはよくわからない。辺境を離れて長いせいだろうか、それとも、単に興味を失ったためだろうか。シャザーンは、あの狼の声の特質がなんであるかがわからなくなっていた。
「ああ、タクシス狼の声や……」
ミメルが、横で声を上げた。
「え? そうなのかい? よくわかったね」
シャザーンがそう聞くと、ミメルはにこりと微笑んだ。
「そりゃ、いつもきいてるとすぐに……。クレイもホントはわかってるんやろ?」
そう訊かれ、シャザーン、いや、クレーティスはドキリとした。
「あ、ああ、そうだね」
そう曖昧に答えてごまかすが、本当はわかっている。自分は、もうあの声がどの狼の声であるかがわからない。下手をすれば狼と名の付く獣の鳴き声ともわからない。
さらさらと近くで泉が流れているのが見えた。そうそう、と明るく声をあげ、ミメルは泉の方に走り寄っていった。
「ちょっと水汲んでくる〜!」
「あ、そんなことは僕が……」
「ええんよ、この辺はうちのほうがくわしいんやから!」
そういって走っていくミメルを止めきれず、シャザーンはうっすらと微笑んだ。そうやって平和に微笑みながら、彼は、何とも言えない不安を感じることがある。
シャザーンは、そもそも、森で生まれた。最初から馴染めなかった、というわけではない。それは、もしかしたら、最初から馴染むことを拒否されていたファルケンからすれば、大変にうらやましかったのかもしれない。彼がシャザーンと相対したときの節々に、何か憤りのようなものがあったのは、それが原因なのだろう。
だが、人の介入を嫌う司祭の動きがあったのも確かだし、人間の文化を嫌う狼人も板。人間界の文化に染まった者は、狼人の中で「俗っぽい」と嫌われることもある。狼人の中でも、考え方の相違は激しく、レナルのように人間との共存を望み、その文化を享受するものもいれば、あくまで辺境での生き方を守ろうとする狼人もいるのである。
だが、その環境がありながら、クレーティスは年頃になるにつれ、人間の世界に憧れて、期待をもって外の世界に出ていってしまった。彼は自分の中に半分流れる人の世界が気になって仕方なかったのだ。辺境での肩身が狭いことも多少あったのかもしれない。
だが、カルヴァネス地方は、狼人を嫌う。けして、外の世界は彼にとって幸せが待つ場所ではなかった。
半分人間であるはずのクレーティスは、どちらの風貌も備えていたが、それがかえって災いになった。外の世界では、狼人だと恐れられ、慌てて戻ってくると、他のチューレーンの仲間達に、人間が来たのと間違われてしまった。それはその筈で、そのころには、彼は形だけはすっかり人の世界に染まっていたから、狼人に見えなかったのだろう。
どちらにもつけなくなり、結局シャザーンは、「クレーティス」の名と辺境自体を捨てた。その方が、まだ、人間の世界で生きていけると思ったからなのかもしれないが、結果は彼の思うとおりにはならなかった。
――今思えば、それが全ての間違いだったのかもしれない。辺境を壊す行動をはじめ、ファルケンという狼人を死に追いやったすべての……
あの時、ミメルに助けられて以来、シャザーンはずっと平穏な日々を送っていた。彼女と辺境のあちこちを渡りながら、ただ平凡に時を過ごした。彼女がいることで、シャザーンは、妖魔の心を抑えることができた。だから、しばらく、彼は日蝕を見ても、何も行動せずにいれた。
ファルケン、妖魔、司祭、そして、人間達……
今は関わりのない遠い出来事のような気すらしていたが、本当はわかっているのだ。あの、ファルケンを、実質上死に追いやった後、決定的に何かが変わったのだ。それは、辺境の変化だけでなく、恐らく自分の中で。それは、もう戻ることができないということと同義でもある。
『そろそろ不安になってきたのだろう? 最初から私の言うことをきいていればよかったのに』
ふと、心の中で何者かが嘲笑ったような気がした。
『司祭ではお前を止めきれないかもしれないが、その代わり、今度は別の者達がお前をつけ狙うはずだ……。そう、シールコルスチェーンが』
「シールコルスチェーン?」
妖魔の囁きに彼は、反応した。
『そう、もはやお前はしらないだろうが、あれは遠き昔から、我々と対立してきた……。奴等は時間の流れの異常を利用して、時を超えて存在する。そうして、我々と辺境を監視しているのだ』
「それが、どうして……」
シャザーンは、そう問いかけながら何となくわかってきていた。あの時現れた覆面をした男、あれは司祭とも普通の狼人とも違う不思議な力を持っていた。
『あれが魔幻灯かどうかはわからない。ただ、一つ言えるのは、アレが間違いなくシールコルスチェーンと関わりをもっているということだ』
「なぜわかる?」
くすりと、妖魔がわらったような気がした。
『お前も何となく感づかなかったか。奴等は特別なのだ。狼人の癖に全員が人間の作った剣を用いる。しかも、その剣は、大昔、人が素晴らしい技術を持っていたときに狂気と供に鍛え上げたもの。特別な魔力を帯びているため、普通の狼人どころか、人間さえ手にすることはない。その剣の力をお前も感じたはずだ』
シャザーン、というよりは、青年クレーティスは、顔をわずかにゆがめた。それを見越してか、妖魔の囁きが強くなる。
『アレは死霊かもしれないし、実は生きていたのかもしれない。蘇ったとなれば、もっとも恐ろしいことになるのかも……』
「何が、言いたいんだ……」
『訊かなくてもわかるだろう? お前には』
わかっているから、逆に訊いたのだ。そう、彼には、妖魔が何をいいたいのかがわかっていた。そうだ。きっと、その状態を乗り越えたなら、ファルケンは以前とは比べ者にならない強さを持っているのだろう。そして、逆に全てを妖魔に変えたなら、自分を破壊する一方で果てない憎しみをシャザーンに向けてくるに違いない。
確実なことは、一つ。どちらであれ、今のシャザーンに活路はないことだ。
身を破滅に追い込むことには、ファルケンもシャザーンも大差はないのだろう。
ファルケンは、自分と妖魔への憎悪と怒りにより狂気に陥り、シャザーンは、拒絶される事への恐怖と哀しみにより凶行に及んだ。どちらもやろうとしたことに大差はない。ただ、ファルケンはそれでもまだ無視できないしがらみが多すぎて、すんでのところで思いとどまっただけだ。
シャザーンのしがらみといえるものは、おそらく、今は一つだけ。それが、かろうじて妖魔の誘惑を少し押さえつけているだけにすぎない。だが、それはおそろしく不安定な者でもある。
ちらりと、シャザーンはミメルの方を見た。泉の側で遊んでいるミメルの姿を眺めやりながら、彼は不安になったのだ。もし、このままファルケンに出会ったらどうなるだろう。その時は、きっと負けてしまうだろうし、彼は自分を生かして帰すわけがない。だとしたら、もうミメルに会えなくなってしまう。
じわりと浮かび上がる焦燥と恐怖は、彼の心を黒に染める。
『力を貸してやろうか』
そう囁く誘惑の声をはね除けることはできない。なぜなら、助けの手は、彼にはそれ以外伸びてこないだろうから。
そろそろ、時が来たのかもしれない。もう、押さえつけるのには限界がある。
もう一度狼の声が聞こえた。狼の声の判別ができなくなったシャザーンは、辺境から遠い存在になってしまったのかもしれない。だから、もう、わからなくなったのかもしれない。あれが、狼の声を刻銘に真似た同族のものであるということすら。