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辺境遊戯 第三部 


時空幻想-18


 イェームが、言っていた「あいつ」。その存在を、彼もまた感づいていた。
 レックハルドの体に乗り移った妖魔は、元はといえば、その「彼」に追われて、ここに逃げ込んできたのだ。ここは時間の流れの中にある、どこでもなく何時でもない場所だから、あの時、彼にとって逃げるのは、そこしかなかった。
 しかし、と、妖魔は薄ら笑いを浮かべた。それで正解だったのだ。
 ここに、まだ未熟な時代の「奴」がいて、しかも、奴の親友までいるとは思わなかった。先ほどトドメをさせなかったのは残念だが、それでも、親友の体を手に入れたからには、あいつもそうやすやすと手を出すことはできないだろう。
 人間と違い、狼人の誓いは重いものである。それは、彼らの主観だけでなく、生まれや生活形式がそうさせるものでもあるらしい。
 友情を誓った相手が人間であれば、それは余計に重いものになるだろう。
 それを見越して、彼は、勝利を確信していたのだ。勝てなかったとしても、彼に自分を殺すことは不可能だ。
 生き物の気配がした。
 それに気づいて、妖魔は振り返る。そこにたたずんでいるものは、彼が先ほどまで話していた者によく似ていたが、それでないこともすぐにわかった。
 なぜなら、彼の気配は、「彼ら」のように希薄なものではなかったからだ。
 その生き物は、狼人だった。しかも、普通の狼人でなく、この空間を知り尽くしている狼人である。
 妖魔は、ふと背後を見た。ゆらゆらと黒い影が、あいまいな空間の上に浮かび上がってくる。自分の眷属たちが、十分な数、そこにいるのを確かめて、彼はにやりとした。
「ここまで追ってきたのか!」
 レックハルドの顔をしたまま、彼は薄く笑った。レックハルドの顔が、もとよりそれだったせいなのか、それはひどく冷酷に見えた。
「よほど暇なのだな、こんなところに来るとは」
「ああ。暇なんだよ。暇すぎて、時々、お前みたいな凶悪な奴を逃がしてしまったりしてね。おかげで間抜けだっていって、怒られるんだよ」
 挑発に半分乗って、半分かわすような口調でそんなことをいいながら、狼人は笑った。
「本当は、あんまりこういうところでも手を出しちゃいけないんだけどな。ほうっとくと、先でオレが寂しい目をみるし、それにお前は、オレの獲物だからな」
 のんびりとそう続けながら、彼はにやりとした。
「まあ、オレの言い訳はいいや。……とにかく、オレは、お前達にここで好き勝手されると困るんだってことさ」
「ふん、首輪つきの犬め」
 妖魔は、嘲笑を浮かべた。
「狼人の癖に、人間に尻尾を振ったりするからだ。お前が俺を逃がしたのは、第一それが原因だっただろう。関係のない人間を巻き込みそうになったので、手を止めたはずだ」
「まあ、そういうところだな。そこまでしてトドメささなきゃならんほど、危機感を感じなかったからさあ」
 軽口をたたきながら、彼は、腕を組んだ。そのまま足をゆっくり進めるたびに、上着の長い裾が揺れて、草原のまじない文字が妖しく歪む。
「だが、これ以上遊ばせとくわけにはいかないんだ。いい加減終わりにしようぜ」
 彼は、魔幻灯のファルケンは、そういって腕組みを外し、上着の裾をはらうようなしぐさをした。肩からは剣の柄が覗いている。
「終わりにするだと? お前が?」
 妖魔はさらに嘲った。 
「だが、お前はこれ以上手出しできない! ……ふふ、オレは、お前の友人の体を手に入れたからな!」
 妖魔は、レックハルドのそのままの顔で、彼のように笑みを刻んだ。瞳の光が、どこか危ういだけで、その表情は、まるで彼らしい。今、話しているのが、本当は彼そのものでないかと、錯覚するほどだった。
 ファルケンは、軽く肩をすくめた。
「オレと友達なのは、レックハルドであって、あんたじゃないんだぜ」
「だとしても、どうする? お前の腕なら、こいつを傷つける。下手をしたら死ぬ」
「そんなことはわかってるよ。いくらレックが、案外丈夫でもな」
 彼は、挑発に乗らない。どう出てくるのか、わからないので、妖魔は自然と彼を警戒していた。それがわかるのだろう。ファルケンは、強気だ。
「方法はただひとつ。お前だけを消す」
 ファルケンは、本意の見えない笑みを浮かべた。
「お前だけを切ればいいんだ」
「お前にそんなことができるものか!」
 妖魔がそういうが、ファルケンは冷静だ。いや、冷徹といってもいいほど、その表情には揺るぎがなかった。しかし、彼を追い詰めるように、妖魔は続けた。
「お前には、そんなことはできない! できれば先ほども」
 そして、ふと、妖魔は言葉を止めた。相手の自信の根源に気づいたからだ。
「そうだ。ファルケンにはできなかった。でも、『オレ』にはできる」
 彼はにやりとした。
「お前たちとオレたちが違うのはな、生きてる間は多少なりとも、成長するってことだ。少なくとも、どこかはな。いつまでも、同じまんまでふらふらしてるから、そんな時差ぼけを起こすんだぜ」
 妖魔は、思わず歯噛みをした。人間の体に憑いているせいなのか、それとも、かつて人間だった心でも混じっていたのか。やけに人間らしいそぶりを見せる。
「く、首輪つきの犬め!」
 妖魔は、苛立ち紛れにはき捨てた。
「相変わらず、そんな首飾りなどぶらさげて、結構なことだな!」
 一瞬、ファルケンは、眉をひそめたが、妖魔はそれには気づかない。
「後生大事にそんなものをぶら下げて喜んでいるとは、かわいそうな奴だな! この男は、そんな金貨一枚など、単に金目のものぐらいにしか思っていなかった。軽い気持ちで、一枚投げやっただけだ!」
 ファルケンの表情が、ほんのわずかに曇ったのに気づいたのか、妖魔は急に得意げになった。
「犬め! お前が、思っているほど、この男はいい人間ではない。ほうっておけば、われわれの同属になるだろう、そういう醜い心を持つ男だ!」
 ファルケンは何もいわずに黙っている。妖魔はさらに饒舌になった。この不利な状況下で、相手をやり込められるのは、そのことしかないのに気づいたのだろうか。妖魔の言葉は、レックハルドのよく回る舌を借りて、次第に早口になっていた。
「言ってやろうか! コイツが、お前に対して、時には劣等感を抱いて、嫉妬までしていたことを! 好きな女をとられるんじゃないかとか、そんなくだらないことを考えて、ひどい自己嫌悪に陥ったりな。前なんか、お前を見殺しにしたのは、もしかして、そのせいじゃあないかって……」
 妖魔が、さらに声を高めて言葉を続けようとしたとき、ふと、彼の頬を何かがかすめていった。
 取りついている人間の体の神経のせいだろうか。反射的に身をすくめた妖魔は、ふと、背後に視線を向ける。そこには、ファルケンが腰にさしていた短剣が鞘ごと落ちていた。
 今、彼はそれを投げつけてきたのだ。ひとつ間違えば、命にかかわるかもしれないものを、もろい人間の体に。しかも、これは、奴の友人の体だというのに。
「……な、何を……」
 そこまでいって、妖魔は言葉を飲み込んだ。狼人の目が彼を見ていたからだ。まるで金色に輝くように見えるそれは、飛び掛る前の獣の目そのものだ。
 ファルケンは、指をビーズで飾り立てた首飾りにかけると、それを揺らした。金属や宝石がぶらさがったそれが、激しい音を立てる。
「……てめえ……」
 押し殺したような低い声が、唸りのように唇から漏れた。彼の瞳は、怒りに揺れ、すでに焦点が定まらなくなっている。
「てめえ、『これ』を首輪だといったのか!!」
「死ね!」
 ファルケンの咆哮と妖魔の攻撃命令は同時だった。周りに立ち上がっていた黒い影が、いっせいにファルケンめがけて飛び掛っていく。だが、その瞬間、当のファルケン自身は、よけるそぶりも見せず、一歩目をけりだしていた。
 まだファルケンは剣を抜いていない。それをみて、好機ととったのか、影がすかさず彼に襲い掛かった。実体をもたない半透明の黒いものが、急に不透明なものに変わり、無数の棘が、不定形の体に現れる。そのまま、巻きついて苦しめてやろうと、彼に体を伸ばす。
 と、レックハルドめがけて走っていたファルケンの目がが、ちらりと襲い掛かってきた妖魔に向いた。その瞬間、彼は右手を伸ばすと、棘だらけの妖魔に素手のままでつかみかかった。
 これは予想外の行動だ。影は、少し慌てたようなそぶりを見せたが、ファルケンはそれを力任せに握り締める。右手の指からは、細やかにつけられた傷口から血がふきだしたが、彼は妖魔を離さない。狼人特有の、人間ではありえない握力と魔力を込めて、力任せに荒々しく握りつぶす。
 一瞬悲鳴のようなものが、空間を裂いた。影はぼんやりと伸びると、そのまま、さーっと砂になって消えた。
 ファルケンは、血だらけの手を荒々しく振り払い、それをちろりと舐めると、のぼせ上がったような目を妖魔たちのほうに向けた。
「これぐらいで、……これぐらいで済むと思うな!」
 ファルケンは、掠れた声でそう吼えた。
「馬鹿な……」
 レックハルドに取り憑いているものは、ぞっとして首を振った。妖魔を素手で握りつぶすなど、まるで後先を考えていないかのような行動だ。本人も相当痛かったはずだし、普通、あそこまでしないはずだ。なぜ、剣で斬らなかったのか。
 彼をそのような不条理な行動に走らせた理由。それはただひとつ。
 あの狼人が、そんな計算ひとつできないほど、痛みも何も感じないほど、逆上しているということだ。金色に輝く瞳には、獰猛さしかない。
「ば、化け物め!」
 自分がいったい何ものなのかを忘れてか、妖魔はそうつぶやいた。もしかしたら、かつて人間だった部分が、そう妖魔につぶやかせたのかもしれない。
 ファルケンは、咆哮をあげながら、荒々しく影たちに飛び掛り、力ずくでねじ伏せて切り伏せていく。その強引な行動で、彼自身もかすり傷を負っていたが、そんなことなど、どうでもいいことのようだった。
 いつの間にか、影はずいぶんと数を減らしていた。
「貴様、あいつを、レックを侮辱したな!」
 ギッと視線を向けられて、思わず人間の体が鳥肌を立てた。妖魔は、いつか忘れていた恐怖を思い出したらしい。それは、レックハルドの顔を借りて、表情という形で露出していた。
「……オレを人間の犬だといおうが、そんなことはどうでもいい! だが、お前は、よりにもよって、オレの……」
 ファルケンは、飛び交う妖魔を叩き潰しながら、ひとつずつ、声を高めながら叫んだ。
「オレの親友を侮辱し、これをただの首輪だとぬかしたのか!」
 抜いた剣が、ふと妖魔のほうを向いた。彼は一瞬我に返る。
「やる気か! そんな状態で、俺だけ切れるものか!」
 妖魔はそう叫び、ファルケンの心を揺さぶろうとしたが、無駄だ。彼の瞳は、たけり狂った獣と同じだ。ここまで逆上すれば、たとえ、レックハルドを殺すことになるとしても、とまらないかもしれない。その脅し文句すら、彼には通用しないのだ。
 ファルケンが大きく跳躍しながら、妖魔に飛びかかる。妖魔は、覚悟を決め、黒い邪気を実体化させて形作った刃物を向けて飛び込む。
 このままうまくいけば相打ちになるだろう。どちらにしろ、宿主であるレックハルドは死ぬ。こんな逆上した状態で、中に憑いている妖魔だけを斬るなど、細やかな魔力の操作と技術のいるわざができるはずもない。
(死ね! そして、我に返って嘆け!)
 妖魔は、最終的な自分の勝利を確信した。
 ――自分の殺した親友のなきがらを抱えて、泣いて死ね! 
 そんな呪詛を吐きすてて、彼は笑みを浮かべた。が、飛び込んできたファルケンが、ふと、一瞬だけ獣の目を捨てて、にやりと笑ったのがわかった。
 妖魔は、自分の誤算に気づいた。逆上しているのは確かだが、それでも、目の前の狼人には、絶対的な自信があるのだ。彼が体を引こうとしたときは、すでに遅かった。
 容赦なく剣を振るったファルケンは、一瞬のうちにレックハルドの体を斜めに切りさいた。だが、彼の持っている剣の刀身は、瞬間、実体をなくし、彼の体をすり抜けるようだった。だが、妖魔の表情は歪んでいた。よろめきながら、片ひざをついた彼は、上から冷徹に自分を見下ろす狼人を見た。
「き、貴様……」
「いったはずだ! あいつにはできなくても、オレにはできるとな!」
 ファルケンは、まだ収まらないらしい怒りを垣間見せながら、そう吐き捨てた。
「少々頭に血が上って失敗するようなことなら、最初から正面から勝負なんてしない! ……いっただろう。オレだって多少は成長するんだよ!」
 黒いものがレックハルドの体から立ち上り始めていた。徐々に彼の上に乗せられていた、妖魔の表情が溶けるように薄くなっていく。
「……は、ははははは」
 最後に、半ば自棄になったのか、妖魔はレックハルドの口をかりながら高笑いした。
「ははは、ははははははは」
 まだ怒りの形相がとけていないファルケンに、彼はひたすら笑い声を投げる。
「わ、われわれは、すべて消えることなどない! ……ふふ、そ、それに、今回は、どうにかできたらしいが、そもそも、この男がわれわれの影響を受けやすいことを忘れるな。そ、それに、こいつの残留思念が、これから先立ちはだかってこないと限らないからなあ!」
 徐々に、それはレックハルドの声でなく、妖魔の声になってきていた。レックハルドの口が、徐々に動きを緩め、瞳がさらにうつろなものになる。
「そ、それに、貴様も知っているだろう! 俺は偽者だったが、偽者でないものもいる!」
 彼はいっそう笑い声を立てた。だが、それは、もうレックハルドの口を借りたものでなくなっている。
「お前でもあれを殺すことなんてできやしない! 奴は、我々とは違って……!」
 ファルケンは、その瞬間、肩から斬るように剣を一閃した。レックハルドの体が倒れ、妖魔の声がぱたりと止んだ。空中に黒いものと、そして光が散る。妖魔が浄化されたという証拠だった。
「しゃべりすぎだ。そんなことはわかってるさ」
 ファルケンは、いらだったようにそうはき捨てた。
「お前みたいな奴が、あいつの顔して得意になっているのが、許せなかっただけだ!」
 ファルケンは、気分を抑えるように歯をかみ締めると、剣を振るって、それを鞘にしまった。
「……なんだろうと、オレの親友を侮辱する奴は許さない」





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