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辺境遊戯 第三部
目を開けると、一面真っ暗な天井が見えた。いや、天井ではない。屋根などない。突き抜けるような闇が遠くまで広がっている。目が慣れると、星のような光がいくつも輝いているのがわかるが、遠くて不安な光だった。 ぼんやりとそれを見上げたレックハルドは、ふと我に返って上体を起こす。 「うわっ!」 思わず声を上げたのは、起き上がった途端、体の上を覆っていたらしい黒い砂が体から一斉に払い落とされたからだ。まさか、そんなことになっていると思わず、レックハルドはあわてて上半身の砂を払った。 「な、なんだ、こりゃ……」 闇に目が慣れると、それなりにものが見えた。足も黒い砂に埋まりかけている。あわてて立ち上がり、彼は、気持ちの悪い砂を忌々しげに払いのけた。 「な、なんだよ、これは!」 そうして、周りを見る。満月の夜ほどの明るさのある薄闇に、周りが一面の黒い砂で覆われた砂漠のような荒地であることに気づいた。その異様さに、レックハルドは、思わず息をのむ。 死の砂漠でも、ここまで不気味な場所ではなかった。アレは、死への憧れを誘うほどに、美しい絶望的な砂漠だ。だが、ここには、美しさのようなものはない。ただ、絶望的な暗さと静謐が支配していた。 「……ファルケン……は……」 来ているはずがない。あの時、彼は、レックハルドのそばにはいなかったし、あのときの呼び声に気づいたかどうかはわからない。大体、それに、先ほどの声は――。 まずいことになった。背筋の方が寒くなるが、それと同時にレックハルドの胸中は複雑なものがあった。あの時、声の正体に気づきさえしなければ、もしかしたら、今頃、もっと恐怖におののいていたかもしれない。だが、正体に気づいてしまった今、レックハルドは、ただ恐れているわけにはいかなかった。 そもそも、あのとき聞こえた声は……。 「仕方ない。入ってきたということは、どこかに出口があるはずだ」 レックハルドは、冷や汗を拭うと、わざと明るい口調でつぶやいた。 「それを探せば出られるに違いねえ」 足を進めると、黒い砂が荒んだ音を立てる。レックハルドは、そのまま砂の上を歩いた。妙にふわふわしていて、落ち着かない砂だった。目標物もなにもなく、ただ砂丘もなく、ひらべったく砂が敷き詰められた場所で、レックハルドはしばらく歩いていた。空気が冷たい。砂漠の上でも苦労しないように作られた、草原の民の衣装でも、その独特の寒さは防ぎがたかった。 いいや、体感する寒さではないのかもしれない。この寒さは、心の寒さなのかもしれなかった。 「は!」 レックハルドは、ふと目を見開き、体を斜めに倒した。鋭い風が空気を割って、耳に鋭く残る。いつも垂らしているターバンの残り布が、半分切り裂かれたまま空を舞う。レックハルドは、目の端でそのとき自分の横を通り過ぎていったものが、何であるのか、一瞬だけ見てしまっていた。 黒い怪物だ。その赤い瞳が、黒い世界で唯一の色であるように魅力的な色をたたえながら、危険にゆがんだ。刹那、それはこちらに飛び掛ってくる。 「うわああっ!」 ざっと砂の上を転がりながら、黒いものを避ける。 (妖魔だ!!) 直感でそうわかった。刃物のように鋭い爪が、どこから生えているのか判明しない腕から伸ばされる。レックハルドは、投擲用の短剣を三本掴みながら、悪態をついた。今までの経験で、それがどれほどの威力を持っているのかは知りすぎている。当たったとしても、それで、とどめをさせるどころか、自分が逃げ切るだけのダメージを相手に与えられるものなのかどうか。 「くそっ! どうせ、こんなもんきかねえだろうし!」 そういいながらレックハルドは、タイミングを計る。ファルケンの助けは期待できない。慎重に、しかし、大胆にやらなければならなかった。 追いかけてくる相手の足の方がはやい。レックハルドは、砂をけりつけて走りながら、相手がこちらに追いつく瞬間を狙った。爪が届きそうになり、妖魔が大きく叫びながら爪を振り上げたとき、レックハルドは、思い切り右側に飛び込んで、受身をとりざまに、短剣を投げつけた。黒い世界の、それだけが赤い魔の瞳は、かっこうの的だったはずだ。 だが、それでも甘い。妖魔は、爪をふるい、その二本までを落とす。一本だけが、妖魔の瞳ではなく体に刺さったが、効果のほどはわからない。 (次がくる!) レックハルドは、身を起こし、短剣をあと三本掴む。武器がなくなるまで、この方法でどうにかするしかない。そのまま飛び上がって再び駆け出そうとするレックハルドは、妖魔の凶悪な瞳の光をにらみつけた。 だが、一瞬、レックハルドの起き上がる動作が遅れた。それは、妖魔の目の光が、突然、緩まったからだ。 妖魔は、そのまま、ゆっくりと斜めに倒れる。直後、その体が崩れ、黒い塊が、ばらばらになっていく。黒い塊がレックハルドの上に壊れながら降りかかってきた。彼の体に触れるころに、それは跡形もなくなって消える。 「なんだ?」 レックハルドは、先ほど妖魔がいたはずの場所に目を凝らす。薄明かりの中、ひときわ清冽に輝く、銀色の剣が砂に刺さっていた。先ほどの妖魔は、この剣でやられたのだろうか。 その剣の柄に人の手が伸びた。今度は間違いない。妖魔の黒い手ではなく、華奢にも見える人間の手のようだった。そして、レックハルドは、その背後の人影に気づいた。 「大丈夫ですか?」 人影は、そう言葉を発した。。一瞬警戒したが、今助けてくれたのはおそらくその人物なのだろう。レックハルドは、少しだけ警戒を解いた。 「あ、ああ……」 男にしては背が低いし、華奢だから少年だろうか。声変わりをしていないぐらいだ。きっとそうなのだろう。 軽い軍装に身を包んだ人物は、レックハルドにさらに近づいてきた。右手に細い剣を持っているのがわかる。 「あんたが、助けてくれたのか……?」 礼を言おうとして、レックハルドは口を閉ざした。近づいてきた人物の顔立ちがわかってしまったので、思わず息をのんだ。 「よかった。妖魔というのは、恐ろしいもの。普通の人は、あれを殺すことができないのです。あなたにお怪我がないようでなによりですわ」 目の前にいるのは、少年ではなかった。大人の女だ。女性にしては背が高い方ではあるが、近づいてみるとすぐに少年でないことは明白だった。しかし、レックハルドは、近づいてきたのが女性だったことに驚いたのではない。大きな目を細めて、優しく微笑するその女の顔に驚いたのだ。 「マ、マリスさ……」 レックハルドは、思わずこぼれる言葉を飲み込んだ。 馬鹿な、こんなところにいるはずがない! それに、第一――……。 女戦士は、レックハルドの驚きに気づいたのかどうなのかわからない。ただ、彼の無事を確かめると、彼女のようにうれしそうに笑うので、レックハルドは、彼女に警戒することができなくなった。 「ここは、闇の巣窟なのです。何も武器を持たずにやってくるのは、危険です」 くるくるした大きな瞳に赤っぽい巻き毛の髪の毛。どこかかわいらしい印象はあるが、それでも、レックハルドよりも年齢は上だろう。薄いシースルーのマントを妖精の羽みたいにひらめかせ、軽装の武具を身に着けた凛々しい姿は、どこかの女神のように不思議な魅力に満ちていた。 けれども、レックハルドには、そんなことはどうでもいい。その顔立ちは、間違いなくマリスのものなのだ。多少、大人になって凛とした美しさが出てきていたが、それでも、見間違うわけがない。その目の前の女戦士は、どこからどうみても、マリスと同じ顔をしていたのだ。 だが、そんなはずはない。マリスがここにいるはずがないのだ。 「あなたは知らず、導かれてしまったようですね」 「……あ、あの……」 レックハルドは思わず口ごもり、じっとその顔を見つめてしまった。注がれる眼差しと心地よい声をつむぐ唇に、レックハルドは、思わずどきりとしてしまう。 「何か?」 「あ、いえいえ、あ、ありがとうございます」 怪訝そうに首をかしげる彼女の声に、レックハルドは我に返り、あわてて苦笑を浮かべた。 「あのう、ここは、一体……」 「ここは、境目の島ですよ」 「さ、境目の……島?」 呆然と聞き返すレックハルドに、彼女はうなずく。 「ええ、狼人の古い伝説にいう、時の流れの中にある場所です。ここだけ、時間の流れが停滞しているのだとかいいますが、詳しいことは私にもわかりません」 「で、でも、オレは、確か辺境の中に……」 「辺境には、時間と空間の裂け目のような場所があるのです。妖魔の中にはそれを自由に行き来するものもいるそうですわ。あなたは、妖魔によってその中に引きずり込まれたのだと思います」 「あ、あなたは……?」 女戦士はうなずいた。 「多少ですが、私には、そういう裂け目が見えるのです。ここにただならぬ魔気を感じましたから、様子を見に来たのですが……どうやら、私もまきこまれてしまったのかも」 「え、それは……」 レックハルドが言うと、女戦士はうなずいた。 「そうです。私にもここから出る方法はわかりません」 「そ、それじゃあ……。あなたも、ここから……」 「でも、きっと何とかなりますわ」 けろりと彼女は笑って見せた。出られることを確信している笑みだ。 「だって、入ってこられたのだから、出る場所があるはずですよ」 「そ、それはそうですね」 先ほど自分で言った言葉だが、なにやら彼女に言われると変な説得力があった。根拠などどこにもないのだが。 「あなたが迷い込んできた理由はわかりましたが、じゃ、じゃあ、オレはどうして……。先ほど、導かれた、とおっしゃいましたね」 「ええ。それは……誰か、あなたを知る人が呼び寄せてしまったというのが正しいかもしれません」 女戦士は、ほんの少しだけいいにくそうに言った。 「あなたを知る妖魔になってしまった人の心がです。……その人があなたをここに呼び寄せてしまったのではないかと思いますわ。……私のように、何かを探るつもりで迷い込むことはあるけれど、見えない人が紛れ込むというのは珍しいと、妖精に聞いたことがあります。……人間が迷い込むのは、妖魔が誘うからだ、と、彼女は……」 レックハルドは、顔を俯かせた。彼には、とある確信があったのだ。 「……それは……つまり「あいつ」が……」 レックハルドは、視線を地面にさまよわせる。 「……誰か、気がかりな方がいらっしゃるのね?」 女戦士は、優しく微笑んだ。 「きっと、その方が助けてほしくて、あなたを呼んだんですよ。……本当は、呼んではいけないことに気づいていたけれど」 「呼んではいけない? なぜ?」 「ここが危険だからです。それに、妖魔になってしまった心は、とても不安定なもの。いつ、自我を失くすかもわからないそうです。……だから、その人は、とても苦しんでいるかもしれません」 「それじゃ、出てくればいいのに……」 「助けてほしくて、あなたを呼んでしまったことに、自責の念を感じているのかも。だから、自分からは出てこられないのかもしれませんね」 マリスによく似た娘は、そう優しい声で言って、レックハルドを慰めるようなそぶりを見せた。 (……やっぱり、そうなのか……) レックハルドは、あの時聞いた声の主のことを思った。 (やっぱり、ここにいるのは「お前」なのか) 「大切な方なのね……」 女戦士は、そうつぶやいてレックハルドの肩をたたいた。 「じゃあ、一緒に探しにいきましょう」 唐突に言われ、レックハルドはきょとんとした。 「探しに?」 「ええ。私とあなた、どちらも抜け出し方がわからないのですから、一緒に行動したほうがいいわ」 「そ、それはそうですが……。あいつを探すのは、オレの事情で……」 レックハルドがそういうと、彼女は明るく笑った。 「まあ、お気遣いなさらないで。どうせ、すぐには出る方法が思いつかないのですもの。だったらその方も探しながらいったほうがいいですよ。手がかりが多い方から先に……」 「そ、それはそうですね」 思わず微笑みかえしながら、レックハルドは、あわてて相手の名前を聞いていないことに気づいた。マリスと呼ぶわけにもいかないだろうし、下手をすると多少長旅になるのかもしれないのだから、名前ぐらいは聞いておきたい。 「あの、オ、オレは、レックハルドといいます。あ、あなたは……」 彼女は、まあ、と小さく驚くようにいってから、にっこりと微笑んだ。 「私はメソリアのメアリーズシェイル=エレス・ル・フェイ=ラグリナ。メアリズとお呼びください」 その流れるような響きに、ふらりと何か、懐かしさを感じた。 一覧 戻る 次へ このページにしおりを挟む 背景:NOION様からお借りしました。 |