辺境遊戯 第三部
第二章:竜魔問答−15
ぴん、と岩の上でしずくが弾ける。洞窟の天井から徐々に溜まっては、落ちていくしずくの音が、異様に鮮やかに響く。
まわりは静まりかえっていた。先程は、それでも鳥や獣の鳴き声を聞くことができたのに、今は何の音声もない。葉擦れの音もしないのは、風がやんでしまったのか、それとも音が消えているのか。
「……誰だ?」
静かに訊いてみる。
「あんた、一体何者だ?」
『それは貴様が知っているはずだ……』
「……オレが知ってる?」
ダルシュは、ふと思い当たる節があったのか、背筋を伸ばした。
「待てよ、思い出したぞ! ……今まですっかり忘れてたが、ヒュルカでのあの時、オレは寝てたわけじゃなかった!」
相手は静まっていた。まるで、彼が答えを出すのをゆっくりとまっているようでもある
「あんた、この前、オレの体に入り込んだ操ってたヤツだろ!」
『私は少々体を借りただけだ』
「同じ事だろ! そ、それにしても、オレは、覚えていたはずなのに、どうして忘れていたんだ?」
声を荒げつつも、正直怒りよりは驚きの方が強い。疑問にかられて、ダルシュは首を捻る。
「どういう事なんだ。……それに、ヒュルカに”いた”あんたがどうして辺境の奥に」
『元々私はここにいた。だからこそ、私は本来の力を発揮することができなかった。そうでなければ、あの時、貴様に多少の事情は話してもよかったのだがな』
声は落ち着いた響きを帯びていた。低音で深みのあるそれは、相手の威厳と冷静さを感じさせた。警戒に満ちていたダルシュだが、相手の様子を見て、少しだけそれを解く。
剣の柄を掴んでいた手を一度離し、ダルシュは少し構えを崩して言った。
「こういう事言うのは嫌いなんだがよ」
少々躊躇いつつ、しかし、思い出した
「あんたのお陰で、あの時助かったってのなら、一応礼は言って置くぜ」
『最低限の礼節は心得るか? ……ふん、思ったよりも見所がある』
薄く相手が笑った気がした。得体の知れない存在の相手が、自分を少し認めたらしいことは、ダルシュに好印象を抱かせる。
「ファルケンの言っていた試練が、あんたのことだといったな?」
『そうだ。……私が、あの狼に入れ知恵をした。いいや、正確には、アレの師匠にあたる狼に……といえばいいか』
洞窟の中に潜む者は、そういって静かに笑い声をもらした。
『おそらく、アレは師匠より私が捜し物をしていることをきいて、お前のことを思いだしたのだろう。確かに、貴様は私が出した条件に合致する』
「条件?」
ダルシュが訊いたが、彼はそれには直接答えなかった。ただ、ともあれ、と前置きしてこう切り出す。
『貴様は力が欲しいと言ったな? ……それに偽りはないか?』
「そ、それは、もちろんだ。……正直、世の中には敵わない者だってあるし、あのファルケンと比べるとオレは役立たずの部類に入ってしまう」
ダルシュは、少しだけ眉をひそめた。
「オレは、暴れる事ぐらいしかできない。だから、平和な時代には厄介なだけで役に立たない人間だ。昔からそういうことは痛感してきたぜ! だから、せめて戦いぐらいでは役に立ちたい! 足手まといなだけなら、オレはなんのために生きているのかわからねえ!」
それに答えは返ってこない。
「もし、あんたのいう事で、オレが強くなれるっていうなら、そりゃ願ってもない話だ!」
自分で言いながら、ダルシュは、何となく頭が熱くなっているのを感じた。今まで、劣等感をもったつもりはなかったが、それでも、事あるごとに何の助けにもならない自分にはいらだっていた。
人間だから仕方がない。そういう理由で考えてしまうのは簡単だ。敵は妖魔やら何やらというよくわからない化け物であったり、ヒトとは明らかに違う狼人や妖精達である司祭。そもそも、彼らに勝とうなどと思うこと自体がおこがましいことである。各地に散らばる伝承が、敬うにしろ嫌悪するにしろ、辺境を恐れるのは、あそこが魔に満ちた場所であるからだ。そこに住まうものは、少なからずその影響を受けている。それをたかが人間が一人で飛び掛かっていっても、どうにかなるものでもない。
それでも、ダルシュは悔しかったのである。昔から、事あるごとに喧嘩をするぐらいしか能がなかった。騎士団に入れば、きっとこの力が役に立つと思ったけれど、世の中は平和で、彼の力を発揮する機会はない。戦乱を望みはしないが、自分の居場所がないと思ったのも正直な気持ちである。何かを守るために戦うことこそが、彼の存在意義のはずだ。そう、できれば、世の中を守ることが。いつしか、ダルシュは、そういう風に自分を考えるようになっていた。
だから、ダルシュには、強くならねばならい理由があったのだ。
『……なるほどな』
声がしばしの沈黙の後に響いた。
『なら、よかろう。……洞窟の中に入るがよい。ただし――』
わずかに笑うような声が混じる。
『入ったら、目的を達成するまで出ることは叶わぬ。……後悔するでないぞ』
「の、望むところだ!」
ダルシュは反射的に答えた。
「やってやるぜ!」
何となく嫌な予感はした。だが、ダルシュは、恐れる心を鼓舞してそれを振り切ると、ざっと足を進める。まだ、しずくの音だけが響く。いやに静まりかえった森の中、暗い洞窟は、魔物の口のような印象がした。
ダルシュは思い切って洞窟の中に足を踏み入れた。入り口の方は苔が生えて緑になっていたが、中に入るにつれ、岩の地が目立つようだった。
そうっと中に入る。真っ暗な洞窟の中は全く何も見えない。目を慣らしながら、ダルシュはしずくの音が響く、洞窟を進んだ。意外に天井は高い。というより、奥にはいるに従って、かなり大きな空間ができているようだった。
「……しかし、オレは何をすればいい?」
ふと、そう思い当たってダルシュは呟く。今度は、比較的近くから声が聞こえた。それだけ相手に近寄ったということなのだろう。
『簡単な事だ……。剣を抜けばいい』
「剣?」
『そうだ。狼はそういっていたはずだが?』
「確かに、それはそうだが……」
簡単なことだ。と、声は続けた。本当か、と疑いにかかったところで、ダルシュは、ああと呟く。目の前に、一本の剣が岩に刺さっているのが見えていた。
暗い中なので、それほど細やかには見えないのだが、闇の中にしてはその剣の形は見えすぎていた。暗い闇の中、まるでぼんやりと薄暗い光を発しているようなそれは、非常に細やかな細工をされたものだった。細部はわからないにしろ、その黒みがかった刀身の美しさは、ダルシュのような芸術のわからない無骨者にもわかるほどである。
思わず息をのんで、ダルシュはそれを見ていた。こんな剣は見たことがない。さすがに、職業柄剣には良く触れていたし、名剣にもであったことはあるが、こんな綺麗で、しかも、人に思わず手を伸ばさせてしまうような力をもったものは初めてだった。
『それを抜けばいいのだ』
声が静かに降ってきて、ダルシュははっと我に返る。もう一度暗がりの剣を見る。そこに鎮座している剣は、すぐに抜けそうな感じがした。
「よし、わかった」
そういって、ダルシュは、更に奥へと足を進めようとした。が、半歩出した足は、そのままの場所で止まった。
「な、なんだ」
咄嗟にダルシュは、身をひいた。思わず上を仰いだのは、視線を上から感じたからである。暗がりの中に、ひとつの姿が浮かび上がったとき、ダルシュは思わずうわっと声を上げた。反射的に腰の剣に手を伸ばし、そこを飛び退く。
軽い笑い声が響いてきた。
『何を驚いている? ……すでにわかっていると思っていたのだが』
「て、てめえが……! まさか!」
洞窟の高い天井に金色の目が輝いていた。目が慣れても姿をほとんどつかめないのは、それ自身が闇夜のように黒い体をもっているからである。わずかにわかる全体のシルエットは、ダルシュが予想していたよりもあまりにも巨大だった。
金色の瞳を閃かせ、笑い声と共に、黒い影は咆哮した。洞窟の中の空気が一緒に震え、天井のしずくが激しくダルシュの上にも降りかかる。
『よくぞ来た! 私は、貴様のような者がくるのを、ずっとずっと待ち続けていたのだ!』
洞窟一杯に広がる黒い影は、その空間一杯に翼を広げた。
(竜だ!)
ダルシュは、ヒュルカで見た巨大な動物を思い出した。金色の目をしたどう猛で醜い動物。しかし、目の前に立ちふさがるのは、それに似ているようで全く違った。はっきり見えなくてもわかる。これはアレと違い、美しい生き物だ。そして、聡明でありながらどう猛な、恐ろしく、畏敬するべき動物。
黒い竜は、ダルシュの目の前にまさに立ちふさがっていた。もはや、自分を惹きつける美しい剣など見ている場合ではなく、ダルシュはその前にいる偉大な存在を見つめるばかりだった。
『簡単なことだ。私から剣を奪えばよい。それだけのことだ』
「な、何が簡単だ!」
こんなのは予定にない。ダルシュは、思わず混乱してしまった。そもそも、ファルケンは、もっと楽そうなことを言ってなかっただろうか。なにかあるとは思ったが、こんな予想だにしなかった、恐ろしいものが待ちかまえているとは。
『私は、最後の黒き竜王ギレス! 私から剣を奪えば貴様の勝ちだ!』
竜はそう名乗り、金色の瞳をダルシュに向ける。その瞳は、理知に彩られていたが、凶暴でもあった。
(ちょ、ちょっと待て!)
ダルシュは、金色の瞳を見やりながら思わず頭の中で叫んだ。
(ファルケンのヤツは、確か、ただ剣を取ってきたらいいって……)
にっこりと悪気なく微笑む狼人の青年の、どこまでも晴れやかな笑顔が絶望的に頭をよぎる。
「ちょ、ちょっと待て! おい! 話がちが……!」
ダルシュは、そう言いかけて閉口した。突然、竜の口の黒い影から赤い光が見えたのだ。ちろちろと揺れているのは、紛れもなく炎だ。身をひいたダルシュに向けて、竜王ギレスは、容赦なく燃えさかる炎を吐き出した。
見上げた空を走る竜の影は、すぐに木々の上を通り過ぎていった。どこに向かっているかはわからない。
「レック、もう、大丈夫だよ」
木の間から見えていた空が、元の明るさを取り戻しても、まだファルケンの背の後ろに隠れているレックハルドを見やり、彼は苦笑気味にそういった。
「あ、あいつら、また来たのか!」
レックハルドが怯え気味に言って、身を起こす。ファルケンは、何もそこまで怯えなくても、と言いたげなのだが、レックハルドはこの前追われて命からがら逃げた記憶がまだ残っているのだった。
「……オ、オレのこと、まあだ覚えてるんじゃねえだろうなあ……」
この前、集中的に狙われたのには、何か裏がある。そう思っているだけに、かなり不安そうにぽつりといったレックハルドに、ファルケンが、ああ、と軽く答えた。
「覚えてると思うよ。竜はそれぐらいの記憶力があると思うし」
さらりとファルケンはそう答える。そのあまりの態度に、レックハルドは思わず怒鳴った。
「慰めろよ! オレをますます不安のどん底に突き落としてどうする!」
「いや、ほら、……で、でも……」
レックハルドがあまり必死なので、さすがに気圧されてファルケンは苦笑した。
「で、でも、ほら、見つからなければ大丈夫だから」
「何の解決にもなってねえじゃねえか!」
「いや、だからさあ……」
必死のレックハルドを、どうかわせばいいものか、少々ファルケンは困り気味である。
「アレは、竜だろう。ファルケン」
レナルが、驚いた顔でそう訊いた。
「まさか、竜は大昔にいなくなったと聞いていたがな」
「ああ。生き残りってやつみたいだ」
ファルケンは、まだ睨んでいるレックハルドに気を遣いつつも、レナルに答えた。
「でも、退化しちゃって、もう、以前ほどの力や理性が残ってないんだって」
「お師匠様がいっていたな、そういえば」
今まで、木の後ろに完全に隠れていたビュルガーが、いつの間にかそうっと外に出てきて話に入ってきた。それでもまだ不安なのか、何となく挙動が不審である。
「昔、竜はこの大地を支配していたが、やがて滅びの道を辿った。いくらかの竜は、退化することによって、または人と交わることによって、生き延びた。とか」
「うん。多分それの、退化することで生き延びた方なんだと思う」
ファルケンは、それに同意し、それから少々顔を曇らせる。
「ただ、アレには、何か悪い力を感じる。多分、味方ってことはない……」
「ああ。そうだろうな」
レナルが静かに頷いた。
「俺の勘でもそうだと思う。なんだろうな、嫌な力が働いてる。……外周部の狼人を狂わせた力と同じものに違いないんだろうが」
「でも、どうするんだ?」
レックハルドは、彼の方を横目で見る。
「もし、ヤツらが司祭や妖魔の手先として動いているとしたら、オレ達はまず狙われると考えてもいいんだよな」
「ああ、レックはだから、特に気をつけた方が……」
「言われなくてもわかってるわ!」
声を一度荒げ、ややため息混じりにレックハルドはファルケンの方を見る。
「お前、どうにかできるのか?」
「えーと、それは……」
ファルケンは、ふと、顎髭をなでやりつつ答えた。
「あの、この前ので大体予想ついてると思うけど、竜に関しては雑魚に至るまで、オレ、相手するの無理だと思うんだよなあ
ややばつが悪そうには言うものの、どこかのんきな口調である。
「……うーん、オレの力じゃどうにもならないなあ」
「ノンキに言ってる場合か!」
レックハルドは、思わずファルケンの胸ぐらを掴んだ。
「どうにかしろよ! お前、オレは直接的に命がかかってるんだぞ! こら!」
「ど、どうにかしろといわれても、どうにもならないものはどうも……」
しどろもどろのファルケンである。本当にこの男だけは、あてにならない。レックハルドは、呆れ気味に手を離した。
「じゃあ、どうするんだよ」
「ええと、それで、ダルシュにどうにかしてもらえないかな、と思ったんだけど……」
「いないヤツの話するなよ! 畜生、ダルシュのヤツ! 肝心な時にいなくなりやがって!」
よく考えれば、全部ダルシュのせいだ。辺境に来たのもダルシュのためだし、それでヤツが迷ったから余計用事に時間がかかってしまった。竜にあったのも、こじつけて考えれば全部ダルシュの……。
そう、ふつふつと考えて、レックハルドはむっとした。
「ああの、ヤロウ! 竜にでも食われちまえー!」
感情にまかせてレックハルドが、そんな不穏な発言をしたとき、いつもそこに入るはずのファルケンの宥める声は入らなかった。かわりに、不安げな声がきこえたのである。
「そういえば……」
レックハルドはファルケンの方に視線をやる。
「……食われる、ことは、……ある、かも……」
ぼそっと、ファルケンが何か呟いた。意味がわからず、一瞬きょとんとするレナルやビュルガーに対し、レックハルドの方は反応が早い。無表情に、ファルケンに近づいた彼は、うつむいているファルケンの肩に手を置いた。びくりとして、ファルケンは顔を上げる。
「お前、今、何て言った……」
「あ、あああ、あの、いや、その……」
ファルケンは苦笑いして、首を振る。
「大したことないんだよ。ただ、ちょっとあの……」
「もう一回反芻してみろ!」
「大したことないんだってば……」
レックハルドはファルケンを睨んだ。相変わらず、嘘をつくのが下手な男である。コレは絶対に、なにかある。
「お前、さっき、アイツが食われるっていったな?」
「言ってないよ!」
「本当か? 何を言ってないんだ?」
レックハルドが、目を細めてやや質問を変える。ファルケンはつられて口走った。
「い、言ってないよ! オレは! あいつがもしかしたら、ダルシュ食っちゃうかもしれないなーとか、もしそうなったらシェイザスに何ていえばいいのかなあとか!」
はっ、とファルケンは口を押さえて青くなった。レックハルドは、肩から手を離す。
「よ、よーく、わかった……」
食われるかもしれない。ということは、それだけ危険だと言うこと。ということは、真実をもしシェイザスが知ったら、ファルケンの言うとおり、かなりとんでもないことになるだろう。レックハルドは、ファルケンから手を離して、歩き回りながら言った。
「よし! ここはさくっと方針切り替えて、シェイザス対策を練ろう!」
正直、竜も恐いが、違う意味でシェイザスも恐い。レックハルドは、ああいうタイプの女性が本当に苦手なのだ。
「え、そんな……。ダルシュ見捨てるの?」
今頃になって困惑気味にそんなことをいうファルケンに、レックハルドは思わず振り返ってファルケンの服を掴んだ。
「お前が言ったんだろうが! 畜生! やっぱり、アブナイ船だったーッ!」
「いや、その、まさか、そんなことはしないと思うんだけど。あいつも、一応竜だから、今考えてちょっと心配になってきて……」
「うるさい! あの冷血女には、お前が呪われろよ! オレは、嫌だぞ!」
「ええっ!」
ファルケンは、青くなる。
「そんな、……オレ、そういう呪ったり関係のには、まだ心の傷が……」
「あー! 心の傷のあるヤツがよくも言うぜ!」
とはいえ、それを言われると、少しは可愛そうな気がする。レックハルドは、手を離して、やや唸った。見捨てる、というのが、一時の感情にまかせた悪い嘘だとしても、正直、どうしたらいいものか。竜も恐いし、シェイザスも恐い。行くも戻るもどちらも地獄ではあるのだ。さすがのレックハルドも、どうしたらよいものか思わず迷ってしまったのだった。
彼らが、そんな大変なことであるにもかかわらず、どこか、おかしな事に、揉めたり、考え込んだりしている間、いつの間にか戻ってきていたソルが、草むらから眺めていることに気づいているものはいない。そして、彼らが気づくまで、ソルは、意地悪に、人間と狼人の悩む様子を、興味深く観察してやるのだった。