辺境遊戯 第三部
第二章:竜魔問答−12
空は曇天だった。吹き付ける風はひどく、冷たい。凍るような空の色は、不安にさざめくように風が吹く度変化していた。今から起こるだろう戦乱を前にして、その天候はあまりにも似合いだった。
赤い衣装の男が、城壁に一人佇んでいた。風が彼の赤いマントを翻し、ばたばたと音を立てていた。黒髪に、何故かそれだけひときわ違和感のある金色の瞳。それが、時折、人の瞳に見えないのは何故だろうか。
どこか宗教的な祭祀の道具を思わせる鎧の意匠をみれば、この地の人間はすぐに彼の正体を知ることができるだろう。この人間が、神聖バイロスカートの竜騎士だということを。 だが、その中でも、その腰に黒い剣は特別なものだった。特別な意匠を凝らした剣は、見た目にも美しく、竜の翼をかたどったような鍔が印象的だった。刀身は、鞘におさまっているので見えないのだが、その中の剣も鉄の通常な色はしておらず、うっすらと紫色を帯びた黒に染まっているという事は、あまり知られていない。それが、何で出来ているのかはよくわからない。この黒髪の男もそれを知らない。
『戦日和だな』
ふと、声が響いた。とはいえ、黒髪の青年の唇は全く動いていない。そばに人影も見えない。だが、彼には誰がしゃべっているのかすぐにわかったらしく、少々眉をひそめて、腰の剣を見やった。
「一人でいるとき以外しゃべってくるなよ……。オレが変な人にみえるだろうが」
黒髪の男は、そういってむっとしたように言った。
「大体、たまに、自分同士で会話しているように、本気で見えるんだからな。あんたは人間じゃねえからいいんだろうが、オレはそうはいかねえんだよ」
同じ人間の唇から、二つの声が出るのはさすがに不気味だろう。彼も見かけるとそう思うのだが、最近はすっかり慣れてしまった。
「それに、戦日和ってこんな曇った空の下でよくも言えるぜ」
『こういう不吉な気候の方が戦には似つかわしい』
「は、すかーっと晴れた日のほうが戦いやすいんじゃねえの? 雨の中とか正直、オレは嫌だね」
『貴様は情緒というものがわかっていない』
剣は不満そうに言った。
竜騎士ギリアバス。その衣装から、「紅のギリアバス」と呼ばれる男は、神聖バイロスカートの竜騎士でも最も強いと言われている。バイロスカートで言われる最強というのは、競技会などで決まるようなものではなく、もっと確定的でわかりやすいものである。特に竜騎士の場合、その「中」に「誰」が憑いているかが重要なのだ。
ギリアバスの中に憑いているのは、かつての最後の竜王である黒竜のギレスであり、そのギレスはこの国で、神と同等の扱いを受けていた。ギリアバスが最強の竜騎士と言われるのは、彼を憑依させるよりしろとしての器として最適であるということでもあり、そうであるということは、彼自身の身体能力が通常の戦士からずば抜けて高いということでもある。よりしろになれるということは、非常に強い竜の血をもった、彼らの末裔でないと行けないのだから。
竜騎士というのは、竜の血を持つ者達である。かつて、竜は人の中に混じって消えていったと言われており、魔力を持つ人間は、遠くに竜か、それか辺境の血を引いていると言われている。たとえば、神聖バイロスカートには、代々、竜の神の預言を伝える巫女が女王になるのであるが、その巫女も竜の血を深くひいたものであることが多く、人には使えぬ不思議な魔力を備えていることが多いという。
竜の王ギレスは、とっくの昔に肉体を失い、それでもこの世を見届けたいという思いから、自分の魂を一本の剣に託した。ギレスに限らず、そうした竜達が、神聖バイロスカートにはまだ多く、そうした竜の魂を戴いた武器が残っていた。竜騎士達は、そうした武器に身を取り憑かせ、竜達はそうして竜の血の濃い者達に憑依して協力することで、彼らの本来の力をお互い引き出すことに成功していた。彼らの関係は協力関係であり、お互いの信頼がなければ成立しない。
「ギルファレスととうとう一戦やらかすことになるとはねえ」
ふと、ギリアバスは、そういった。
『気になるのか?』
その響きに、何となく揶揄のようなものが含まれているのは、声の調子ですぐにわかる。だが、それがわかっていながら、あえてギリアバスはそれを無視した。
「気にならねえけど、この前まで同盟国だったんじゃねえか。多少、注意を払うぐらいあるだろ」
『ヤツが失脚するまでは、同盟国だろう?』
何となく、剣がにやりとしたような気がした。
『さすがに気になるんだろう?』
「ならねえよ! しつけえな!」
しつこいギレスのからかいに、ギリアバスは一喝した。
『お前も素直ではないな……。いいではないか、昔ちょっと見合い話で先を越されただけだろう』
「カンケーねえって言ってるだろ!」
途端機嫌を悪くする竜騎士に、そろそろからかわない方がいいかとギレスは口を止めた。あまり刺激すると、この男は、剣を谷底に投げ込みかねない。他の竜騎士は、ギレスと彼の剣に対して畏敬を寄せるが、この青年は違う。正直、あまり尊敬されている感じもしないし、大体感情的になるとやや暴走しがちだ。
そして、特に、あのレックハルド=ハールシャーとの相性が悪すぎた。時々ちょっとからかって遊ぶのであるが、あまりからかいすぎると逆上することがあることもギレスは知っていた。
見合い話で先を越された、というのは確かにある。メアリーズシェイルとの結婚の時、このギリアバスも一時候補だったことがあるのである。あの時、ハールシャーは、あの手この手を使って、各国のライバル達を蹴落としていき、最終的にメアリーズシェイルとの政略結婚を成立させた。その時の、色々な卑怯でせこい手の数々をまっすぐな人格の彼が許せる筈もない。
そして、彼は、大体あのハールシャーという男自体と馬が合わないのだった。それは、どうもハールシャーの方も同じだったようで、二人が顔を合わすと毎回険悪な雰囲気が流れる。まわりのものは怯えながら気を遣い、お互い話にださないようにしている。だが、そばで見ているギレスには、それはどちらかというと滑稽な風景でもあるのだった。彼らの争いが、まわりを怯えさせるのは、どちらも身分が高く、権力があるからである。
だが、そういった人間の都合で出来た権威など考えない竜の彼にとっては、それはある意味では似たところのある人間同士が、お互い精一杯意地を張り合っているだけの馬鹿馬鹿しく、ちょっぴり微笑ましい光景に思えるのである。
もっとも、そんなことを言えば、ギリアバスにも、ハールシャーにも、報復されそうなので言わないのだが。特にハールシャーだ。彼は、ギリアバスとは違う意味で、神も悪魔も恐れない。それはどちらも信じていないからに他ならない不遜な態度で、それがいっそう彼を彼たらしめている要因かもしれない。とにかく、ハールシャーに訊かれたら、にやりと笑ってそのまま鉄屑の山にでも埋められかねない。策士な分、やり方が陰湿なのが恐いのだった。
『しかし、相手が相手だけにきついな……。あの王には、何かがついているぞ。でなければ、こんな事はできない』
「自分で神だって名乗っているらしいっていうアレか。なんだかしらねえが、あの軍隊は異様に士気が高いんだってな……。何故か」
『そうだ。……明らかに普通ではない。あの兵達の熱狂がどこから引き起こされているモノか、知る必要がある』
「そんなカリスマがあったっけねえ、あの王様」
ギリアバスは呆れたように言い、金色の目を細めた。ギレスが、彼に取り憑いているときは、目の色が竜の瞳の色である金色に変わる。もし着衣までが真っ黒に染まって表情が変わっているならば、その時はギレスが前面に出ている時であり、ただ目が金色になっているときは、ギレスが背後で彼の支援をしている時だと言えるだろう。竜は気高い生き物でもある。色んな意味で相性が良くなければ、こうした協力はできない。
ギリアバスが、ギレスの力を借りる事ができたのは、その強い竜の血が、ギレスほどの力を使うのに適していたからでもある。そうでもなければ、ギレスは最大限の力を発揮することが出来ない。衝撃に耐えかねた場合、取り憑いた者の体や精神がどうなるかわからないのである。
「まあいいさ、オレは誰が敵でも戦ってやるぜ。例え相手が神でも悪魔でもだ」
『貴様も神などどうせ信じておらぬくせに』
ギレスが呆れた声で言ったとき、ギリアバスはケッと吐き捨てた。
「仕方ねえだろ。うちの国の神ってのは、あんたなんだろうが。じゃあ、何信じていいかわかんねえなあ」
『無礼なヤツめ。私の力を借りることができることを光栄に思え』
さすがに、ギレスは声をやや荒げた。こんな風になった今でも、ギレスには、かつても今も人から崇められてきた王としての自覚がある。そんな風に言われるのは、ひどい侮辱だ。
だが、すっかりこのかつての王様の扱いになれたギリアバスは、頭をかきやりながら、呆れたようにいうばかりである。
「あーうるせーなあ。つったく、ゴミ箱ん中突っ込むぞ。長い年月刀の中にいたせいで、アタマさびてんじゃねえのか?」
『なんだと!』
「あ、間違えたわ。あんたの場合、頭もないので魂ごと錆びるんだっけ……」
剣の鍔が軽く震えているような気がして、余計おもしろくなった彼は、相棒を軽く笑い飛ばした。
ギレスが、我慢できず何か言おうとしたとき、ふと、ギリアバスは目を城壁に昇ってくる階段の方に向けた。元より、彼は普通の人間より視覚や聴覚が優れている。特に、ギレスが中にいるとき、その能力は格段にあがる。だから、彼は、聞こえた音で、部下が階段をあがってきていることを大体予測していた。
「ギリアバス様!」
予想通りあがってきたのは、竜騎士の部下だ。戦闘前なのもあって、武装に身を包んでいるが、兜から覗く顔が、少々焦っているように見えた。
「どうした?」
「ギルファレスのレックハルド=ハールシャーが、護送途中自尽したそうです」
「何!」
さすがに、ギリアバスは、顔色を変えた。
「ど、どういうことだ? メルシャアド征伐の時に、何か余計な事をしたってきいてたが」
「噂に寄りますと、王都での処遇が決まり、悲観のあまり常軌を逸したという話です」
「で、でも、それで……」
ギリアバスは、言いかけて首を振った。
「いや、報告ご苦労。後は、持ち場に返って時に備えろ」
「はい!」
そう命令すると、部下は敬礼した後、再び持ち場へと駆け戻っていく。それから目を外し、ギリアバスは、ふらりとまた城壁から向こうを見た。曇天の下広がるのは、ごろごろした石の荒れ地がほのかに赤い色をたたえて、無造作に広がっているばかりである。
『アレが死んだのなら、これで、あの王を止める者はいなくなった』
「ああ。気にくわねえことだが、今までアイツがどうにか押さえてたところがあるからな」
そこまでいって、ギリアバスは顎に手を当てた。自然と首を斜めに傾がせ、彼はいぶかしげに呟く。
「しかし、アレが、正気を失う? そんな繊細な神経の持ち主には見えなかったがな」
ギレスはそれには直接答えない。ギリアバスは、ふうとため息をつくと、軽く剣の柄を叩いた。かしゃり、と金属の音が響く。
「よし、気持ちを切り替えて、きっちり相手してやろうぜ。あの、ふざけた若造に」
『弔い合戦というわけか?』
ギリアバスは、ふんと鼻先で笑った。
「まさか。そもそも、死んだかどうかもわからねえのに。不確定な情報に踊らされるのはこりごりだ。大体、野郎の得意技の一つだろ、情報操作は」
『それは言えるな……』
「大体、もし、本当に死んでたらだな……」
そういいかけてギリアバスは、最後まで言わなかった。その先が、彼がかつてハールシャーと争った女性の名前であることを大体予測しながら、竜王は、あえてそれには触れない。
『まあいい。真相はすぐにわかるだろう』
ギレスは、厳かな声で言った。
『さあ、我らは我らのつとめを果たそう』
「言われなくても……」
彼はそういってニヤリとした。赤い衣装がわずかに黒く染まり、金色の目が輝きを増したような気がした。
ざくざくと歩きながら、ダルシュは、ふと、何か幻を見たような気分になった。具体的な内容は、まるで思い出せないのだが、ぼんやりと不意に何かがわき上がって、夢のように消えていったようだ。真昼に見る夢のような、そんな不思議な感覚が、ろくに感傷的になることのないダルシュを、妙な気分にさせた。
「森のせいか?」
目をこすりながら、ダルシュは珍しい自分の様子に少々笑った。深い緑の森の色は、どんどん強くなっていくような気がする。だというのに、彼は迷う気がしなかった。どこかで狼の声がしたが、恐怖心もない。
ただ、誰かに呼ばれているような、そういう気もしていた。そして、それが、自分に対して別に悪い感情を抱いていないらしいことを、彼はどことなく感じ取っていたのかもしれない。
と、不意に黒い森の奥で、しろい人影が踊って消えていった。急いで走るかのようなその動きに、ダルシュは一瞬警戒したが、その気配はすぐになくなった。ダルシュは警戒するのをやめ、また何事もなかったかのように歩き出す。獣かなにかだろうし、いちいち警戒している場合でもない。
「さて、とりあえず進んでみるか」
そういって歩き始めたダルシュは、特に気にせずに歩き出した。もし、少しでも彼が気に留めていたら、先程のしろい人影が、彼とすれ違っていた事に気づいたかもしれない。 迷いなく歩き始めたダルシュは、それにも気づかずにいってしまったが、そのしろい人影も、また彼の存在には気を留めていない。
ふらふらと憑かれたように歩く、彼の足下に妖気のような黒いものがいくつも飛び回っていた。
「『どこに行くつもりだ?』」
ぽつりと、声が響く。それが、しろい人影自身の唇から出た声だというのは、本人も意識していないのかもしれない。諦めたように微笑んで、彼は答えた。
「いかなければならないところへ……。もう、コトは次の段階にすすんでいるはずだろう?」
シャザーンは、薄い色の金髪を揺らしながらそう呟く。直後、同じ顔が悪意に歪み、彼の顔の造形には似合わない笑みを浮かべさせた。
遠く空からは、何者かの咆哮が聞こえるようだった。そして、足下からは、彼を不吉な予感に誘う嗚咽のような声がひびいていた。
そして、そのまま、人影は、また森の闇に消えていった。