辺境遊戯 第三部
第二章:竜魔問答−11
「ビュルガー! その斜め上だ!」
「ええっ!」
慌てて身をかがめた彼の上で、影のようなものが引き裂かれて飛び散る。破片はすぐに消えてしまうから、飛んでくることはないのだが、思わず彼は右手で顔をかばう。狼人である彼には、黒い異形のよどんだ色彩が目に見えてしまうのだ。あまり見る機会はないが、見れば見るほど不気味で気が滅入る。
妖魔を切り払ったファルケンの澄んだ瞳が、こちらを一度心配そうに見た。
「ビュルガー! そこにいると危ないぞ」
ファルケンは、そういって注意を促すと、巧妙に森の闇に隠れる影を見いだして、そちらへと足を進める。性格は随分明るく大人しくなったが、その辺は前と変わりない腕前だ。見分けてためらいなく剣を振るうことは、ビュルガーにはできない。
「あーもう! お前がいると邪魔になるだろ!」
いきなり後ろから首根っこを捕まれ、ビュルガーは飛び上がる。見ると、レックハルドとかいう名前の人間が、鬱陶しそうな顔をしながら襟首を掴んでいた。
「ったく、役にたたねえなら、後ろに控える! それがこういう場合の基本だろが!」
「え、おい、ちょっと……!」
やたら手慣れた事を言うレックハルドは、ビュルガーの意見を聞く気はない。口を開きかけた彼をまったく無視して、レックハルドはそのままビュルガーを引きずっていった。ちらりと後ろをむいて、レックハルドはファルケンに呼びかけた。
「おい、ファルケン! さっさと終わらせろ!」
「了解!」
軽い返事は二人にとってはいつものやりとりだが、ビュルガーにとってはそう言われてノンキに返事をするファルケンの様子が少し珍しい。レックハルドに、木の後ろに引きずって行かれている間に、ファルケンは、抜いた剣で妖魔と渡り合っていた。
昔は、もっとこもった笑みを浮かべながら妖魔を斬るような男だった。あの時の様子を見ながら、恐怖を覚えたビュルガーは彼自身が妖魔なのではないかと思ったことがある。今の無心に戦う様子の彼は、その時とは大違いに思えて、ビュルガーは何となく安心してもいた。
「ほら! オレ達はここで観戦するんだよ。大体、役立たずなのに前に出るなっつの!」
よくわからない説教をしながら、レックハルドは木の陰に身を隠すように背を低める。ビュルガーも同じようにしてみるが、見えていないレックハルドと違って、ビュルガーにはファルケンに襲いかかるモノがちらほら見えてしまうので、それを見つつ不気味さに震えてしまう。
時々うわっ、と声をあげるビュルガーに、レックハルドは不機嫌に顔をしかめた。
「ううう、気持ち悪い……。うげっ!」
「ああ、もう、うるせえなあ」
レックハルドは、鬱陶しそうに言いながら騒ぐ狼人の頭を押さえた。
「オレでも驚かないのに、お前が驚いてどうするんだよ!」
「あんたは見えてないからそういう……」
「確かに見えてないけど、見えてても叫ぶほどのもんじゃねえだろ。どうせ、黒くてえぐいのが、ぱーっと散ってるだけだろが。十数えるぐらい見たら慣れたぜ」
何でもないようにいうレックハルドに、ビュルガーはあからさまにひいた。
(おかしい! こいつの美的感覚はおかしい!)
普通、妖魔を見たら、人間は悲鳴を上げておののいてしかるべきである。その異形故に、人間は、妖魔の事を悪霊だとか悪魔だとか魔物だとか、そういう風に伝えてきたのだから。いくら見慣れた者でも、それをみて平然としていられるのはそういない。少なくともビュルガーは、そう聞いてきたし、今まで覗いてきた人間の様子も大体そうだった気がする。特殊な力がある人間ならともかく、この男はファルケンがいなければ、妖魔に抵抗する手段を何も持たないというのに。
(やっぱり、こいつはおかしい! 人としてもどこかおかしい!)
「な、何だ、その目は」
レックハルドは、明らかな視線に気づいて、むっとした。
「言っておくが、まともなのはオレであって、おかしいのはお前なんだぞ! オレは、常識人なんだからな。そういう目で見られる所以なんて……」
「あ、そっち行った!」
ふいにファルケンの悪気はないのだろうが、あまり屈託のない声が飛ぶ。その一瞬だけ、レックハルドにもかろうじて見える半透明の灰色のものが飛んでくる。
「うおおお! 危ないっ!」
叫びながらレックハルドは、前方にいたビュルガーを前面に押し出して、自分はその影に隠れた。慌てたのはビュルガーである。ビュルガーにしてみれば、真っ黒い異形の化け物が、自分に突然牙をむいたのまで見えているのだ。耐え難い恐怖が、走る。
「あ、ちょっと! ぎゃああっ!」
危ないところで、ばっと目の前を紺色の影が踊った。近づいてきていた妖魔は、二つに切れて飛んだ。
「一匹のがしてた! ごめんー!」
本人は明るく言っているという自覚があるのだろうか。ファルケンは、相変わらず気楽にそういうと、次の相手を求めてそこから前に出た。
放心状態のビュルガーを押しのけて、レックハルドは叫ぶ。
「てめー! わざとじゃねえだろうなっ!」
「そ、そんな事してる暇ないよ」
助けて貰っているだけの立場を無視して怒るレックハルドをかわしつつ、ファルケンは目の前の妖魔を切り払った。
「わかった! じゃあ、オレにひきつける!」
このままそばにいると返ってやりにくいと思ったのか、ファルケンは、たっと身を翻した。
「気をつけろよ!」
「おう!」
ファルケンは、軽く剣を握った右手を振ると、木の枝に飛び移りながら、森野闇に消えていった。
「ふー、やれやれ、これで静かになるかな」
レックハルドはため息をつきつつ、ビュルガーの方を見た。
「ほら、お前もいつまでも、ボーっとしてんじゃねえよっ!」
「あ、ああ……」
反射的にそう答えつつ、ビュルガーはそれどころでない。先程、明らかに、目の前の目の細い人間は、自分を盾にしたのだ。それに対して、考えていると改めて憤りが増す。
「ああ? なんだ、その文句ありそうな顔は?」
そりゃ文句もあるだろう、とは思うのだが、レックハルドは、そんなことは気にせずに、さらに非道な事を言い出す。
「今度ああいうことになったらお前がどうにかしろよ!」
「しろよ、って……オ、オレは……」
ビュルガーは、目をぱちぱちとさせてやや青ざめた。レックハルドは、む、と唸る。
「待てよ、待てよ。ちょっと、お前、ふと思ったんだけど……」
レックハルドは、元から細い目を細めてじっと睨んだ。
「お前さあ、本気で実戦経験ねえんじゃねえだろうなあ?」
図星をさされて、うっとビュルガーは詰まる。それをみて、レックハルドは、にやりとした。
「なーるほどねえ。そうでなければ、あんな小物っぽい植物に捕まってないよな〜」
「う、うるさいなっ! オレは、結界とかそういう仕掛け専門なんだよっ!」
「はは〜、その辺は何とでもいえるよなっ。兄弟子の割に尊敬されてないと思ったらそういう……」
「ううう、うるさいっ!」
途端楽しそうになるレックハルドを見やりつつ、ビュルガーは、悪魔とはこんな感じなのかもしれないと思った。
「狼人としてはおもしろいな〜、あんた」
上機嫌でにやにやしながら、笑うレックハルドに何か言い返そうとしたものの、特段言い返すこともなく、ビュルガーは悔しさに耐えていた。と、レックハルドがやや上体を起こした。
「……ああ? 終わったか?」
話している内に、急に森が静まりかえった。レックハルドとビュルガーは、静かな森の方に自然と目をやった。金属が風を切る音と共に、薄暗い闇から明るい色の髪の毛が見えた。
「終わったか」
戻ってきたファルケンに訊くと、ファルケンは赤い宝玉のついた、装飾の多い刀をもう一度振り払ってから肩の鞘におさめた。
「とりあえず、一通りは。コレで大丈夫だと思うけど」
「ほう、じゃあ、よかったじゃねえか。お疲れさん」
レックハルドは立ち上がり、ファルケンの方に歩いていった。
「やっぱり、あれ以降妖魔が増えてるんだな。ここまでいるとは思わなかったよ」
あれ以降、というのは、ファルケンが七つ目の封印を解いた時の話だろう。あの責任を取る形で、ファルケンは一度死ぬ羽目になったのだから、罰はすでに与えられているはずではあるが、彼の顔は少々曇りがちだ。
「そ、それは、まあ、仕方ないじゃねえか」
レックハルドは、慌てていった。あのことでファルケンが心を痛めるのは、レックハルドにも苦痛である。何せ、大本の原因が自分にもあるのは、レックハルドもよく自覚しているのだから。
「すぎたことはもういいんだろ?」
「あ、ああ、そ、そうだなっ!」
さすがにレックハルドの様子に気づいたのか、ファルケンが急に慌てながら明るくいった。
「たまたま、妖魔の溜まりやすい場所に入っちゃったのかもしれないし!」
「そうかもな」
で、と、レックハルドは、一度今までの話題を振り払うと、まだ木の影にいるビュルガーに目をやった。表情が少し変わったレックハルドに、ファルケンはきょとんとする。
「どうしたんだ?」
「あいつ……どうにかならねえのか」
「どうにかって……」
苦笑するファルケンに、レックハルドはひきつった顔をしながらいう。
「正直、あんなびくついてる狼人みたの初めてだぞ。あれで、本当にシールなんとかっていう奴になろうとしてたのかよ」
「う、うーん……。確かに、ビュルガーは実戦訓練より、料理作ったり、結界はったりしかしてなかった気がするけど……」
ファルケンは、苦笑いしながら言った。
「で、でも、ビュルガーは魔法がちゃんと使えるし、その点じゃオレより上だよ」
慌てて兄弟子を一応かばってみるファルケンだが、それがちょっと苦しいかばい方なのは、すぐにわかる。相変わらずそういう所には不器用な男だ。レックハルドは、やれやれとため息をつきながらファルケンを見た。
「なんだ? シールコルスチェーンってのは、そういうもんなのか? もっと戦いに向いている奴ばかりがなるもんだと……」
「素質としては、魔力が高い方がいいんだよ。あと、確か、『普通の狼人妖精としてやっていけないぐらいのコセイ』がある方がいいとかなんとか、サライさんあたりが言っていたような……」
「あ、なるほど」
レックハルドは、全てを理解したような気がした。自分で言っているファルケンが気づいているかどうかもわからないが、確かに彼もビュルガーも、普通の狼人からは逸脱しているとは思う。
「そういう意味では、お前は適職だよなあ。狼人の癖に、光り物がカラス並みに好きだし、そもそも派手な色好きだし……」
「えっ、それどういう……」
さりげなく失礼なことをいわれたような気がする。ファルケンは、思わず聞き返したが、レックハルドは返事を返さず、ふと眉をひそめた。同時にファルケンが、目を瞬かせて上を見る。
思わず、今度は背中ではなく、すぐに抜ける腰の剣を握ったファルケンの視線は頭上にあった。レックハルドも、反射的に帯にかけてある短剣に手を触れる。
頭上の辺境の高い木々の上、葉の茂る中にたくさんの気配があった。座っているもの、立っているもの、明らかに敵意を向けているもの、静観しているもの。様々な気配が、枝の上にいる。
「狼人だ……」
ビュルガーが声をひそめながら言った。
「まずい! 縄張り内で争っているのがばれたんだ! いくら妖魔相手とはいえ、こんなところで無闇に派手にやらかしたんだから、怒ってるんだよ、きっと!」
それは正論である。狼人は縄張りを荒らされるのを嫌う。やむを得ない理由ならちゃんと後で釈明しないとならない。
「早く謝った方がいいんじゃないか!」
「ええ? で、でも、この辺は……」
ファルケンは、場所を思い出しながら首を捻った。あらかじめ、誰の縄張りであるかは知っている。ファルケンは、微妙な立場ではあるので、通る道は、彼に協力的なあの狼人の縄張りを意図的に選んだはずだが。
「止まれ! ここに何をしにきた!」
ふと、聞き覚えのある声が響き渡った。同時に、玄妙な音をたてて鈴が鳴り響いた。
「ここはオレの縄張りだ! 暗黒に染まったお前達の好き勝手にはさせねえぞ!」
「おい……」
レックハルドがその声の主に気づいて、ファルケンを見やる。ざっと、葉擦れの音と共に、前方から長身の人が下りてくる。地面に足が着くと、もう一度鈴の音が鳴った。狼の毛皮を肩に巻いた男が目の前に佇んでいた。剣を腰に下げている彼は、狼人の長としての威厳にも満ちていた。
「ここは……!」
いいかけて、狼人の長は、口をつぐんだ。彼の顔には驚きの表情が浮かんでいた。目の前にいる二人を見て、彼は、明らかに動揺した。それは当たり前のことである。彼らの内、一人の死を彼は確認していた。もう一人の方が、行方不明になったことも承知していた。その二人が並んで立っているなど、本来あり得ないはずの光景だったのだから。
「ファ、ファルケン……か?」
信じたい気持ちと疑いの気持ちが交錯しているのか、首を振った彼の声は震えていた。ファルケンは、どうしたものか迷いながら、結局笑顔をうかべた。それが、素直な気持ちの表現でもあったからである。そうして、ファルケンは親しげに声をかけた。
「随分、久しぶりになっちゃったな、レナル」
狼人のリャンティールは、思わず笑顔をうかべながら、その様子にまだ信じられない様子だった。