辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2004
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辺境遊戯 第二部 

鏡の向こうのファルケン-1

「なんだありゃ…」
 大きな砂丘を一つ越えたとき、目の前がいっそう開けた。今まで必死で灼熱の砂の山を越えていただけに、砂丘一つ越えた後の景色は壮大で、おまけに地平線しか見えなかったときの絶望感といったらひどいものである。だが、今までずっとそうだっただけに、レックハルドはその光景に慣れすぎてしまっていた。
 だから、今、目の前に現れた景色が信じられなかったのである。幻か蜃気楼だとレックハルドが思ったとき、ちょうど横で声が聞こえた。
「…ああ、やっと見えた」
 イェームがそれを見ながらため息をつく。
 彼らの視線の先、要するに砂漠の尽きるところに、一本の木が立っているのが見えるのである。それはこんな遠くからでもはっきりと大きく見えていた。聳え立つ、といったほうがむしろふさわしいようなその大木には、ぼんやりとはしているが緑の葉がしげっているのもわかる。ここから見る限りでもそうなのだから、実物はとんでもなく大きいに違いない。
「あれが聖グランカラン、マザーだよ」
「何! あんなにでかいのか!」
「まぁな。…だから、あのグランカランは特別なんだ」
 レックハルドは驚いたまま、しばらくそれを眺めていた。手前の森がようやく見えるほどなのに、それよりもはっきりと見えている高層建築のような大木は、何か不思議な世界にでも迷い込んだような、奇妙な感覚を与えた。同時になんとなく聖なる印象もある。
「あそこまで行けばいいんだが…」
「まだまだ遠いな」
 レックハルドは軽くため息をつく。いくら見えているとはいえ、それが巨大だから見えているのと、近いから見えているのでは意味が違う。それには少しうんざりするものの、結局うなだれても仕方がないので、レックハルドは前向きに考える事にした。
「まあ、見えないよりマシだが……」
「そうだな」
 イェームが喜び三分、疲労七分のため息をついた。
 レックハルドは次に目を砂丘のすぐ下にやった。低くなったところに、大きな水溜りが見える。ちょっとした湖といったところだろうか。
 だが、その湖は少し変わっていた。いつもは、水があるところはたいていオアシスになっているのである。だから、緑の集まった場所がつまり水のある場所、なのであるが、ここの湖にはそうした緑がまわりにひとつもないのだった。言ってみれば、砂の中に突然水溜りが広がっているといった感じなのである。
「いきなり水があるとは変わってるな」
 レックハルドはイェームに言った。湖は、空の色を映して青く輝いている。何となく宝石を思わせる、深い青の奇妙な湖だった。イェームは、例の地図を広げながら場所を確かめる。
「ああ、地図にも一応載ってるけど…、ええと、鏡の泉…か」
「鏡?」
 レックハルドは訊きかえす。そういわれてみれば、なるほど、澄み切った水が空の雲まで映してまるで鏡のように見える。近づいてもそうなのかもしれない。
「ちょっとよって休んでいくか」
「そうだな、疲れたし…」
 イェームは地図をしまいこみ、そのまま歩き出す。レックハルドも、その後をついていきながら、ふとマザーのほうを見た。
 目指すマザーは、砂漠の尽きるところで、天に向かって聳え立っている。その巨大さと荘厳さは、見るものを威圧していたが、それと同時に枝についた葉の色は、レックハルドの荒れた心を静めるように優しかった。こんなに遠くでもそう思うぐらいだ。近くにいって見上げるとどうなのだろう。
 不思議なものだ。と、レックハルドは思う。あのグランカランといえば、ファルケンを捨てたような冷たいイメージしかなかったのに、こうして見るとそんなイメージは掻き消えてしまう。それが不思議だとレックハルドは、不意に思った。




 森の奥は静まり返っている。ゆっくりと歩いていくと、少し湿った落ち葉が音もなくしなるのがわかる。
 歩きながら、彼は傍にいる妖精を見た。まだ少女の顔つきだが、この妖精はすでに二百年ほどの歳月を過ごしている。狼人と妖精の成長具合が違うので、見た目では年齢がわかることはない。
 青年、シャザーンは、端正な顔を少し心配そうにゆがめた。
 あれから、あの時、ミメルに助けられてからは、随分と安定していた。前のように妖魔が強く出てくることは少ない。少なくとも、ミメルといる間は、シャザーンはクレーティスとしての自分を保っている事が出来たのである。
「ミメル…、僕を助けたりして大丈夫だったのかい?」
「なんでや? なんで、クレイを助けたらあかんの?」
 ミメルは、にっこりと微笑んだ。
「あの時、辺境で火事があったんやろ。うち、恐かったけど、でも気になってたから…。湖の傍やろ。あそこはいったことなかったけど、うち、湖っていうのが好きやし、それで気になって…」
 そしたら、と、ミメルは相変わらずのシェレスタ訛りで天真爛漫な様子で微笑む。
「クレーティスが、火の中で困ってて、そやから、うち慌ててクレイの手ぇつかんで逃げたんや。ホント、火事に巻き込まれるやなんて、ついてないねんなあ」
 元気出しや、と付け加え、ミメルはにこりとする。シャザーンはそれに曖昧に微笑み返したが、そこには本当の笑顔はなかった。
「そうそう、前にゆうてた、うちの友達のファルケンちゃんやけど、最近、会われへんねん。どうしたんやろか。…あの火事があって、辺境に入りにくうなったんかいなあ」
 ミメルが不安そうにうつむいた。
「ミメル…」
 ミメルは何も知らないのだ。あの火をつけたのが、ファルケンであるということも、そして、その後、ファルケンが禁忌をおかしたせいでどんな目に遭って死んだのかも――。ミメルは、あそこにファルケンがいた事すら知らない。
 そういうシャザーンも、ミメルがファルケンの幼い頃の世話係だったことを知ったのも最近だった。そして、ファルケンがどうなったかということを知ったのも……。

 
 昨日、シャザーンは何かに呼ばれるように、辺境の奥のある場所にきていた。
 そこに来るまで、シャザーンは、あの後、ファルケンが自分を追いかけてきていると思っていたのだった。責任感の強い彼は、自分の失態を絶対に挽回しに来ると思ったからである。
 そこは、大きな木の前だった。何かを封じた場所であるのは、魔力の強い彼なら一目瞭然にわかる場所でもある。だが、そこに来て同時に、その力がシャザーンを、これがなんであるのか悟らせた。
 この中に封印されているのが、他ならぬファルケンだということを――。
 入り口はすでにふさがれているが、彼の持っている力はこの中で眠っているものの存在を当ててしまっていた。そして、その死の匂いも。
「そんな――」
 シャザーンは首を振った。ファルケンは怪我をしていたが、あれは致命傷ではなかった。火に巻き込まれたという話も聞かない。
(どうして……まさか、そんなはずは――)
 頼んだのは辺境に火をつける事だけだ。それは許されざる大罪だが、あれぐらい燃やしただけで殺されるという話はきいていない。せいぜい辺境を追放され、力を封じられるぐらいのはずである。
(…でも、ファルケンは…)
 シャザーンには、ファルケンがなぜ死んだか、わけがわからなかった。
「ああ、もう花も枯れてしまったでしょうね。あの人が砂漠に行ってしまって、もう随分たつわ」
 急にガラスのような声が聞こえた。シャザーンは慌てて、振り返った。そこには美しい妖精が一人、佇んでいた。まるで触れると壊れてしまいそうな、そんな繊細なつくりの妖精である。幻のようだ。
 シャザーンの警戒を見て取って、妖精は首を振った。
「待って。わたしは、あなたと戦う気はありません」
 妖精はそういって、大木の傍に近づき、手に持っていた花束をそっとそこに立てかけた。
「来て下さってありがとう…。あなたを呼んだのはわたしです」
「あなたは…司祭…? 二番目の?」
 シャザーンは、記憶の底をさらいながら訊いた。妖精は、彼のほうを見ながらうなずく。
「ええ。エアギアといいます。クレーティス」
 哀しげに微笑み、エアギアは言った。
「ファルケンの事、気づいてしまったようね…」
 シャザーンは黙って地面のほうを見ている。エアギアは、慰めるような口調になった。
「あの子は、幸せそうだったわ…。本当は、…誠意の水を飲んで死んだものは、苦しい最期を迎えるといいます。ひどい形相のまま、永遠に氷の世界で眠り続けるというわ。…でも、そうだとしたら、ファルケンは幸せだったのね。きっと、いい夢を見てくれていると、わたしは思います」
「誠意の水…」
 はっとシャザーンは息を呑む。ようやくそこで、ファルケンがあの時に言った台詞の意味がわかった。あの時、ファルケンははっきりと「オレは多分死ぬ」と口にしていた。あれは、炎に巻き込まれるかもしれないという意味ではなく、自分の死を確信していての言葉だったのだろう。
 あの時、ファルケンは、辺境を裏切る事など出来ない状態だったのである。
 青ざめたシャザーンに気づいたのか、エアギアはため息をついた。
「誠意の水を飲んだのは、ファルケンの意思…。あなたは知らなかったのね。やはり」
「あなたは…」
 シャザーンはようやく口を開いた。今は妖魔をほぼ完全に押さえ込んでいるためか、元々の繊細さと少し憂い気味の顔からは、あの時ファルケンを追い詰めた男の影は見られなかった。
「あなたは…ファルケンの知り合いだったのですか?」
 くす、とエアギアは笑った。だが、繊細な憂い顔のこの妖精がそんな顔をすると、なんだか泣き出しそうに見えた。
「ファルケンは――まだ言葉も話せない幼子のときに、私が世話をしたの。ファルケンはわたしのことを覚えていないでしょうけれど…、とても優しい子だったわ。それから、ミメルに…。狼人の赤子は、辺境の深い場所にいる妖精たちが育てるのよ…。知っていたかしら?」
 エアギアは寂しそうに笑った。
「私、を憎んでいるのですか?」
 シャザーンが訊くと、エアギアはそっと首を振った。
「いいえ、…司祭の立場で、わたしはこの子を裁く側に回りました…。直接手を下したのは、一番目のギルベイス…、でも、わたしも力を貸しました。この子を殺して、苦しめ続けているのは、わたしの力なのです。だから、あなたを憎む権利など、わたしにはありません」
 エアギアという司祭は、悲しげにシャザーンを見た。
「今日、あなたを呼んだのは、あなたに一つだけお願いがあったからです」
 エアギアは、彼のほうに向き直る。
「あの時、ファルケンは、おそらく無意識でしょうが、あなたをわざと逃がしました。わざわざ、炎の壁に一つだけ隙間を作っていたのです…」
 シャザーンは、はっと顔を上げる。
「ええ、…おそらく、あの子はあなたに心の底では同情していました。自分と似た境遇のあなたに、どこか共感するところがあったのでしょう…だから、殺す気にはならなかったのです」
 エアギアは、そっとシャザーンに言った。
「あなたにも迷いがあるはずです。ここに来たのが、その証拠でしょう」
「………」
 シャザーンは無言になった。エアギアは目を伏せる。
「わたしにあなたを止める力はありません。ですから、わたしはお願いするだけです。自分の闇に、立ち向かいなさい…。もう一度考えて、あなたのやっている事が正しいかどうか…」
「わ、私は――!」
 シャザーンは言いかけて、しかし、言葉が続かなかった。妖魔の影響力の弱い今、辺境を消滅させてしまいさえすれば、すべてがうまくいくという妖魔の言葉を信じきる事が出来なくなっている。エアギアは、そっとシャザーンの手をとった。哀しげな瞳に、シャザーンの戸惑う表情がはっきりと映っていた。
「もう一度…、よく考えて…。自分の中の闇に立ち向かいなさい」
エアギアはそして、そっと彼から離れた。そろそろ、時間なのかもしれない。シャザーンとそっと会っていた事が他の司祭に知れると、おそらくよくないのだろう。
 エアギアが虹色の羽を広げて、そっと空気の中に溶け込んでいく。消えていく瞬間に、もう一度、彼女のガラスを鳴らすような、壊れそうに震えている声がそっと聞こえてきた。
「――ファルケンが、あなたを殺さなかった理由を、もう一度よく考えて――」


「どうしたん?」
「な、なんでもないよ」
 ミメルの目とあい、シャザーンは首を振って我に返った。ミメルにはとてもいえない。ファルケンが誠意の水を飲んで裁かれて死んだのなら、どんな最期を迎えたのかは想像に難くない。そして、それがまさか自分のせいだなどと。
 ミメルはそんな彼の思惑も知らないのか、小首を傾げた。晴れないシャザーンの顔を見ながら、ミメルは彼女なりに考えたのか、言葉を選びながらこうきいた。
「クレイが気にしてんのは、もしかして、クレイが司祭から嫌われてると思ってるからちゃうの? 確かに、クレイの悪い噂も聞く。でも、うちは信じへんで。だって、クレイはいい人やし」
「そ、そうかな…」
 ミメルはシャザーンの肩を叩いた。
「うん、うちはずっとクレイの味方やで」
 笑いながらミメルは言う。そして、かわいらしい瞳に、強い意志を滲ませながら言うのだった。
「司祭がクレイのこと悪うゆうても、うちは…クレイの味方やから!」
 もしかしたら、と、そのときシャザーンは思った。ミメルは、ファルケンの事は知らないかもしれないが、自分が司祭から敵視されていることは知っているのかもしれない。それを承知で、助けてくれたのかもしれない。
 そう思うと、なおさら、知らなかったとはいえ、ファルケンを死に追いやった自分が、恐ろしくて許せないような気がした。
(『あれは、仕方のない事だった…。』)
 心の中でどろりとしたものがささやく。
(『…ああやって死ねただけ幸せじゃないのか?』)
 違う! と、シャザーンは強く妖魔に言った。首を振り、彼は拳をわずかに握る。その拳がわずかに震えていることを、ミメルは気づいていないようだった。





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©akihiko wataragi