辺境遊戯 第二部
砂漠渡り-6
砂漠の中で休んでいるとき、別に夢らしい夢も見ない。悪夢を見なくなったのはよかったが、あれ以来まともに夢らしい夢をみた覚えがなかった。
ただ、時折、マリスの面影が目の前を去ったり、忌々しいダルシュや綺麗だが恐ろしいシェイザス、あの意地悪小娘のロゥレンの姿が瞼の内に垣間見られて、一瞬だけ、あの潤った森を思い出させるだけである。すべてはいまや遠い風景のようで、それなのに、手を伸ばせば届きそうな気がした。それどころか、戻ってこないはずのファルケンさえ、呼べばすぐにひょっこり彼の前に現れそうだった。
ただ、休息して立ち上がり、そうしてまた歩き出そうとしたとき、 振り返って、何か呼ぼうとして、ふと思うのだ。そうして、いつもレックハルドは首を振り、後ろを見なかったことにして歩き出す。前ではイェームが怪訝そうな顔で待っている。
そのときに、レックハルドは、あの時、自分がどんな光景を失ったのかはっきりと思い知らされるのだった。
――振り返っても、笑いながら返事を返す男はもういない。
つかの間の眠りから覚めると、太陽はわずかに傾いていた。どれほど眠ったのかはよくわからないが、一時間前後ぐらいだろうか。
レックハルドはあくびをすると、泉からくんで水入れにいれておいた水を口に入れる。眠っているうちにかわいた喉に、それが染み渡るのがひどく気分がよかった。
イェームはというと、影の移動にあわせて、しつこく場所を変えながら木の影に潜んでいる。それも仕方のない事だ。狼人は大体そうだが、体の大きいイェームはまともに寝転がっていると、ふとどこかが木の影からはみ出てしまい、太陽の直射日光をまともに浴びてしまうのである。
(不器用な奴…。もっと工夫するとか考えねえのか?)
レックハルドはややあきれながらそれを眺めた。布を使ってテントを作るとか、色々方法はあるだろうに、今まで見る限り、イェームはそんな工夫を考え付きもしていないようだ。不親切なレックハルドも、見ていておもしろいのでアドバイスはしない。
「おい、起きろ!」
レックハルドは呼びかけ、立ち上がった。イェームは返事をしないが、目は覚めているようだった。少しだけ顔をあげたのがわかったからである。レックハルドは旅支度を整えると、もう一度言った。まだ、イェームは寝転んでいる。
「さて、そろそろ行くぞ。今日は次のオアシスまで飛ばすっていう話だったよな」
イェームは答えず、いまだにぐったりと地面に伸びたままである。それに目をやったレックハルドは仕方なく彼のほうに歩み寄る。
「きいてんのか? 行くぞ。今日は次のオアシスまで行くって言ったじゃねえか」
答えはない。レックハルドはだんだんいらついて、ついには彼の腰辺りを蹴った。
「こら、何死んでんだ、お前は! 出発だっつってんだろが!」
「そ、そんな…。さっきオアシスについたばかりじゃねえのか?」
彼らしくもない弱弱しい声が、ひょろひょろと聞こえてきた。
「随分昼寝しただろ。さあ、行くぞ!」
「そ、そんな…」
絶望的な声をあげながらも、まだイェームはしぶとく木の陰にしがみついている。
(本気でばててるんじゃねえだろうな、こいつ。)
レックハルドは軽く肩をすくめ、バケツを手に取ると泉に向かってそこで水を汲んだ。そのまま、頭に水をかけてやりながらレックハルドは、ため息をついた。
「狼人のくせに、意外に体力ないのな。 それとも暑いのがダメなのかよ?」
「お、狼人ってのは…、実は暑さにはとことん弱いんだ。もともと北辺に住んでたって話なんだ。…だから、その…暑いと自由行動とかそういう統率がでたらめに…あ、いや、自由に行動ができなくなって……」
暑いので頭が回っていないらしい。何をいっているかわからないイェームを見て、軽く肩をすくめたレックハルドは、その顔に容赦なくもう一度バケツで水をかけてやった。
「ばててる狼人見たのは初めてだぜ」
「皆砂漠は苦手なんだよ」
ため息をつきながらようやく起き上がったイェームは、濡れた前髪を上げた。
「でも、オレはかなり耐性があるほうなんだぜ」
「でも、狼人って一度はここを越えるんだろ? じゃあ…」
「あれは妖精が横についてるから。妖精は色々魔法も使えるからな、その気になればある程度の瞬間移動も…。それから、暑さ避けになる布とかな、そういうのを妖精が作ってきてくれるから平気なんだ。一人じゃ、とてもとても…あんた、やっぱり砂漠の人なんだな……丈夫……」
まだ目が回っているらしく、額を押さえたまま起き上がる気配がない。
「ロゥレンでもつれてくればよかったな」
「ああ、あいつはダメ。まだガキだし、使える能力が限られてるから。砂漠につれてくるのはまだかわいそうだからな」
ふとイェームがそんな事をいった。
「それに、あいつわがままだから、ここにきたら絶対帰るって言うに決まってるからな」
「ちょっと待った」
レックハルドは顎をなでた。詰問する者のようにイェームを見ながら、彼はこうきりだした。
「お前、どうしてロゥレンの事知ってるんだ?」
「え、あ、ああ。それは…」
イェームは、はっとして思わず言いよどんだ。
「い、いや、前に一度助けた事があるからさ」
確かにイェームはロゥレンを一度助けている。それは、レックハルドも知るところだ。しかし、それ以上に…。
「ほう、それにしちゃあまりにもよく知りすぎだな。どうしてわがままとか、能力が限られているからとか知ってるんだ?」
レックハルドは、軽くイェームを睨んだ。
「それに、お前はレナルに言われてオレを助けに来たといったが、レナルはお前の事を知らなかったぜ? だったら、あの時、どうしてオレを助けに来た?」
「そっ、それは……レナルが…オレの事を忘れてるだけで…」
「あいつは少なくともそういうタイプじゃねえと思うけどな。…それに、お前には色々聞きたい事がある。色々隠してるだろ?」
レックハルドは、しどろもどろなイェームを見て少しだけにやりとした。
「そういえば、お前、誰かさんと顔が同じなんだよなァ?」
がばっと起き上がり、イェームは慌ててレックハルドを見た。
「そんな愕然、ッてな顔するなよ。お前、わかりやすい男だな」
「な、何がだ」
今更イェームはごまかそうとする。その様子がおもしろくて、レックハルドは猫のような笑いを浮かべて意地悪く聞いた。
「声だけじゃなく、顔も一緒かってことだよ? なんだ、気づいてねえのか?」
「誰とだ?」
「…誰と? お前、知ってるんじゃないのか? 本人と会ってたじゃねえか」
わざわざ意地悪く首を傾げてやると、イェームは傍目にもはっきりと狼狽し始める。イェームはおそらくファルケンを知っている。それは直感でなんとなくわかった。大体、言われて困っているのが証拠だ。
それに、実際、イェームとファルケンは確かに似ていた。感じだけなら錯覚を起こしそうなほどだったが、両者は似ても似つかない事もレックハルドはわかっていた。
イェームは、敵には容赦をしない。戦い一つにあそこまで心を砕いていたファルケンのようではない。細やかな事をあわせれば、違いはいろいろ見つかるだろう。それは、歩き方一つとっても。
イェームがまだ反論できずにおろおろしているので、レックハルドはにやっと笑った。
「まぁいいや。オレはお前が誰だろうがどうでもいいし、顔を隠すのは、色々理由があるんだろ。傷があるとか言う場合もあるし、もし、同じ顔の奴だったら間違われるのがいやだってこともあるだろうし、それに…」
レックハルドはちらりと慌てるイェームを横目で見た。
「まさかとは思うが双子ってこともあるだろうしな」
ありえないことではない。マザーが、双子を生まないとは聞いていないし、狼人は皆が兄弟みたいなものだとも言っていた。それに、もし、ファルケンが人間との混血だとしたら、という可能性もある。サライは違うといっていたが、それを否定するだけの根拠はない。
イェームがファルケンの血縁者という可能性は捨てきれなかった。というよりは、レックハルドは、今、その可能性が一番高いのではないかと踏んでいる。
(こいつが、あいつの兄貴ってことも有り得ないとは言えないわけだ。)
そう思えば、自分を助けたわけも、ファルケンについて話すわけも、何となく納得できた。レナルが知っているようで知らない理由も、ロゥレンを知っている理由もわかる。ただ、ファルケンがその話を自分にしなかったのが不思議だと思ったが、彼自身知らなかったのかもしれない。
とにかく、可能性は捨て切れなかった。
「お前の理由はどうこうきかねえつもりだがな、オレは詮索されるのが嫌えだから、他人も詮索しねぇようにしてるのさ。お前が面を隠す理由もきかねえことにしよう」
レックハルドは笑いかけながら、しかし、ふいにわざとらしく声を高めた。
「それに、もし、お前の顔がホントにあいつと同じなら、多分、お前の顔を直視はできねえからな。そうやってくれてたほうが、オレはいいぜ。別に気にしてねえよ」
レックハルドが少し明るく笑い飛ばすように言ったのは、もしかしたらごまかすためだったのかもしれない。
「そ、そうか…」
イェームが、曖昧な言い方をした。慰めるべきか、話に乗るべきか、迷ったようである。レックハルドはハッと笑い声を立てた。
「そんな面するなよ。…別にオレは真剣な話をしてるわけじゃねえんだからさ。狼人ってのは皆そうだな。真剣なときにふざけてるくせに、どうでもいいときにまじめになりやがる……。ほら、ぼやっとしてねぇで行くぜ!」
そういいながら、レックハルドは茶化すように鼻で笑う。それからふと足を進めた。砂漠の太陽が強い日差しを投げかけてくる。それにため息をつきながら、足を出しかけてレックハルドはふと振り返った。
「そういえば、だが…」
後ろでようやく立ち上がりかけていたイェームが、怪訝な顔をした。
「なんだ?」
「後々で少し聞いたんだがな、ファルケンはあん時、シャザーンって奴と戦ってたんだろ?」
「ああ、そうだな」
レックハルドは顎に手をあて、ふと空のほうを仰ぐ。
「じゃあよお、そのシャザーンってのはどうなったんだ? まさか、ファルケンの奴がやっちまったってことはないだろうし」
イェームがぱちりと瞬きした。
「ファルケンが、最後に相手を道連れにしようとしたってのは聞いたんだろ? 何でそう思うんだ?」
「ああ、でも、いや、なんていうかだが、あいつ、そこまで冷酷になれるかなと思ってさ。戦えないからって、わざわざ自分を凶暴にしてたぐらいの奴だろ。あいつ、意外にどこかに抜け道を作ってやった可能性があるんじゃねえかって」
「抜け道…」
イェームは首をかしげ、腕を組む。
「もちろん、無意識だと思うけどさ。自分と同じような境遇の奴だろ、あいつはそこまで割り切れる奴じゃねえと思うんだよな。どっかでちょっとだけ肩入れしてたんじゃないかってさ」
そういい、イェームのほうを見る。彼の釈然としない顔を見ながら、イェームは言った。
「ファルケンが加減したかどうかはわからないが、…多分、シャザーン自身は生きてると思うぜ」
「やっぱりか」
ああ、といい、イェームは立ち上がった。
「司祭の動きが慌しかったのは、シャザーンが死んでないからだ。そうじゃなきゃ、さっさとファルケンを始末したりしなかっただろうからな。ファルケンを始末したのは、ファルケンが、シャザーンと手を組んで、もう一度裏切るかもしれないからだ」
レックハルドの表情が少しかたくなったのをみて、イェームは短くわびの言葉を入れる。
「思い出させちまったかな…すまねえ」
「いいや、かまわねえよ」
レックハルドはため息をついた。イェームもため息を一度ついた。
「シャザーンはそもそも妖魔が憑いてるから、たとえ炎に囲まれていても、抜け出す方法はいくらでもあると思う。それを司祭たちが予想してたんだろ。オレも、だから生きてると思うんだ」
「妖魔がとりついてるってのは、感覚としては何となくわかるんだが…、あいつ操られてんのか? もしかして。前に話したときは、そんなに悪い奴でもなかったし…」
怪訝そうなレックハルドに、イェームは答えた。
「まあ、そんな感じだな。時々、不安定になってる。妖魔のほうが強くなったり、アイツのほうが強くなったりはしているが、ほとんど妖魔があいつの行動を制限できているところを見ると、完璧に支配下に置かれてるな。まあ、あれだけ完璧に操作されてるんだから、よほどの事がない限り、妖魔は宿主を見捨てたりしねえだろう。それに、シャザーン自身も、まだ目標も達成できていないから、しつこく生き残ってるはずだ」
「目標? それ、なんだよ?」
尋ねるレックハルドに、まだこっそり木の蔭にいるイェームは少しまわりくどい言い方をした。
「たとえばさ、どうせ、手に入らないなら壊してしまえっていう、そういう感情ってあるよな。そういうのが満たされなかったとき、ふと、なら全部壊してしまえばいいって思ったりすることもあるだろ」
「まぁ、自棄になったらそう思うわな。で、なんだって?」
レックハルドが先を促そうとする。レックハルドはすでに日の下に身をさらしているのでかなり暑いのだった。
「そういう気持ちが重なって重なって増幅したら、えらいことになるよな。もし、その手に入らないとか、思い通りにならないのが、この世の中だとして考えてみれば…、この世界をぐちゃぐちゃにして、シアワセな奴をみんな不幸にしてしまえとか逆恨みする奴もいると思うだろ」
「早く本題に入れって。妖魔はつまり、世の中で自分よりシアワセな奴がいるのが気にくわねえ、だから、みっともなく逆恨みしやがって、世界を乱したいと思ってるってことだな。わかったから、次だ次」
レックハルドは少しいらだって来た。イェームは、すまねえと小声で苦笑しながら言った。
「まあ、でも、妖魔はそれ自体だと世の中を動かすほどの力はないからな。だから、人間や狼人なんかの力を借りないといけない。つまり、目標を達成してくれそうな奴を常々探してたわけだ。そこに、ちょうどシャザーンがいた。あいつは人間界にも辺境にも溶け込めずに、色々辛がって、常々、この世界をどうにかしたいと思ってる。ある日、そんな奴に目をつけた妖魔が、こう、あいつに吹き込んだ」
イェームは、はっきりといった。その声は、彼のものとは思えないほど冷たく朗々と響いた。
「『どちらにも入れないなら、その境界をなくしてしまえばいい。皆を共生させるように、どちらかを壊して混ぜてしまったら、お前の望む世界がやってくる。』」
レックハルドは、ふと息を呑んだ。
「そ、そんな単純で乱暴な……どっちかを滅ぼすって事じゃねえか…、そりゃ…」
「でも、道は二つに一つになるよな。お互い協力し合って生きるか、それとも…」
「お互いつぶしあうか…か。協力し合えなければ、水の泡だな、その方法」
「そう。それで、あいつの望みは、『辺境の消滅』なんだ。多分、そんなことをしたら、バランスが崩れて、妖魔の望むままに世の中ぐちゃぐちゃになるだろう」
イェームは補足するように言った。
「あいつは辺境と人間の狭間で苦しんできただろ、それで、思いつめちまったんだなあ。辺境さえなくなれば、狼人と人間を隔てる壁がなくなるとかねがね思ってたんだな。でも、実行はしなかった。でも、それをかぎつけた妖魔がそういった。それで、あいつが、その言葉を信じたとしたら?」
「封印を解いて、辺境がぐちゃぐちゃになっちまえば、人と辺境を分ける境界がなくなっちまって、万事うまくいくってか?」
イェームは頷く。
「実際、辺境がなくなって済む問題じゃねえとは思う。辺境がなくなるってことは、多分マザーが枯れるってことだから、そんなことになったら正直何が起こるか、オレにも見当がつかねえよ。だけど、シャザーンは、ずっと妖魔にそれが正しいと吹き込まれてるはずだ。だから、疑わない」
レックハルドは、深くため息をついた。何となくやりきれない気分になる。
「しっかし、そう考えるとちょっとあいつも哀れだな。許せねえやつだが、ちょっとは同情はするぜ」
イェームは急にトーンを落とした。
「でも、…ファルケンも、そう、思ってたのかもしれないんだぜ? こんな世の中なんか、全部消えちまえばいいって……。あいつだって、一歩間違えば……」
「そういうってことは、お前もそう思った事があんだな?」
イェームは黙ったままである。レックハルドは、ふんと鼻先で笑った。
「そんな事、思うのは仕方ねえんじゃねえのか? ついでにオレはマリスさんに会うまでは、この世のオレ以外のもんは全部なくなってもいいと思ってたぜ。オレ達みたいな半端な野郎が、世の中にちょっと恨みを抱いたぐらい、どうしようもねえことだろ。オレが、あいつに同情したっていうのは、オレもそうなる可能性があったからだ。ファルケンやお前が、そう考えていたって、もともと、自分以外はどうでもよかったオレには責める権利はないぜ」
レックハルドは思い出したように付け加える。
「まぁ、さ。ホントになくなっちまったら困るんだがな。恨み言を言うぐらい、許してくれてもいいじゃねえか。な。ちょっとぐらい、許容範囲ってもんじゃねえの? もしかして、お前、そういうこと気にするタイプなのか? 意外に小心者だな」
「そ、そうか」
イェームは少しだけ安堵したように頷いた。
「そうか、許容範囲か」
ふと、イェームはレックハルドをしげしげと見た。なにか、おもしろいものを眺めているような、何か言いたそうなその視線に、レックハルドは気持ち悪そうに言う。
「な、なんだよ? 言いたい事があったらはっきりいえよ」
イェームは、ふっと感慨深げに言った。
「やっぱり、前々から思ってたんだけど…、人間の中でも、あんたちょっと変わってるよな」
「な、なんだあ! その言い方は! オレを変わりもの呼ばわりするな! オレは普通なんだよ!」
すさまじい剣幕で、そう怒鳴ったレックハルドに少し恐れおののきながら、イェームは首を振った。
「い、いやその悪気は…これは褒め言葉で……!」
「全然褒めてねえ! お前ら狼人に変わり者認定されたら、立ち直れねえってんだ! 撤回しろ!」
「えっ、撤回って…ちょっと…!」
詰め寄られて、イェームは慌てて木陰から飛び出した。
「そ、そろそろ、時間だよな。出発しよう、出発!」
「体よくごまかすな! すっとぼけやがって!」
レックハルドは、砂を蹴り上げながら相変わらず不機嫌にぶつぶつと続ける。イェームは、どうしたものかと思いながら、砂がかからない距離をとりながらそうっと先を進み始めた。
今、後ろを振り返っても、もうファルケンはそこにはいない。ただ、砂がさらさらと流れるだけだ。彼が「行こうぜ」と呼びかける相手は、そこにはもういない。
過ぎ去ってしまった事がどうにもならないように、彼の姿はそこにない。最初からいなかったかのように、ただ砂が流れるばかり。
でも、とレックハルドは思うのだ。
逃げる事のできない砂漠に来て一つだけわかった事がある。
自分には、前に進むしか道がないという事だ。過去を振り返っても、後ろを見てもファルケンはいないし、自分のやってしまった事は変わらない。元はといえば、それを変えるためにここに来たはずなのに、最初は後ろしか見ていなかった。
前を見ようとレックハルドは思った。ファルケンは後ろにいるとは限らない。前にすすめば、もしかしたらファルケンともう一度話が出来るかもしれないと、ふと思った。
成功しなくても、命をかけて聖域まで行き着くことができれば、ファルケンがあの時何を思っていたのか、少しはわかるような気がした。
それが、自分に決着をつけ、ファルケンに対してしてやれる唯一のことかもしれないと、砂の大地を見ながら、レックハルドは何となく思った。
「どうしたんだ?」
ずっと佇んでいたせいか、いつの間にやら近くにやってきていたイェームが少しだけ心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「なんでもねえ」
砂丘の向こう側の空は青かった。黄色い砂の表面を風がなでて風紋を作っていく。それを踏みしめながら、レックハルドは言った。
「さあ、行こうぜ」
レックハルドが呼びかけると、イェームは、にっと笑ったようだった。レックハルドの機嫌がそこそこ直っていたので安心したのかもしれない。イェームは、力強く答えた。
「ああ。そうだな」