辺境遊戯 第二部
砂漠渡り-5
翳る空に思い出す事がある。
木の下で本を読んでいたサライは、ふと顔を上げた。日蝕ではない。ただ、雲が太陽を隠しただけだった。
ふと砂漠を歩くレックハルドの事を思い出す。ここで日が翳っていても、あの場所では灼熱地獄にさらされ続けているだろう。
(日が翳る…)
あの日の空も翳っていた。と、サライは思い出す。廊下がひどく寒くて、窓から入ってくる光が薄かった。
彼は廊下を歩いていた。その前にはカルナマクという青年が進んでいた。
サライはカルナマクの事は嫌いではない。ハールシャーのような自分の才能にすべてを託す野心家でもなく、ザナファルのように群を抜いて強い戦士でもない。
彼はあの二人ほど派手な才能も強固な精神力も持ち合わせていなかった。
だが、それでもサライは、彼の事を気に入っていたのかもしれない。時に弱弱しく見えながら、努力をかさねる青年は、どちらかというと彼の弟子のような存在でもあった。少なくとも、いつも王でいようと努力している青年だった。
長い廊下を歩きながら、カルナマクはサライのほうを向いた。カルナマクは、かなり端正な顔をした若者である。少女のような顔をしていたが、少し大人びてきた最近は、随分と立派な青年になったと思う。
「ハールシャーの目と表情にご注意を」
と、サライは主君に言った。
「あの男が笑うのは、必ず何かたくらみをもっているときでございますれば」
「わかりました。ありがとう」
カルナマクはそういい、サライに向かって少しだけ頭を下げる。それから少し不安そうな顔をした。
「しかし、あなたが同席してくださらないというと、私は少し不安です」
「あなたは国王です。このくらいの試練は越えていかねばなりませぬ」
サライは思いのほかそっけない。カルナマクは少し不安そうに顔をゆがめるが、だが、気丈な王として振舞おうと、その表情をすぐに消した。
「では、もし、彼の舌にだまされそうになったらどうすればよろしいのですか?」
カルナマクは厳しい意見を望んでいる。サライは少し考えた末に、ふうとため息をつく。この優しい青年にそれをやらせるのは酷だった。が、王としてそれを望むなら、臣下として止めるわけにもいかない。
「騙される前に、彼を殺す事です。もし、あなたのお心がぐらつくようでしたら、ハールシャーを誅殺しなさい」
「そうですか」
カルナマクが少しだけ青くなっているのがわかった。サライは少しだけ心を痛める。だが、それも仕方がない。
カルナマクは軽く礼をすると、そのままきびすを返した。
(確かに)
サライは声には出さずにいう。
(あなたにはハールシャーは手ごわすぎるかもしれませんが。)
カルナマクは廊下を進む。サライはその背を見送ると、すっときびすを返した。向こうから、髪の毛の少し赤い男が歩いてきていた。その体格や顔つきから判断しなくても、それが狼人であることは一目瞭然だった。
それが、このメルシャアド王国に住み着く狼人たちの頭領、つまりリャンティールであることが、遠くからでもわかったからだった。
カルナマクの前に引き出されていたレックハルド=ハールシャーの態度は相変わらずだった。会見したのは、これで二度目である。一度目は、彼がこの国に入ってきたときだった。あの時、ハールシャーは一介の商人に身をやつしていたのである。商人としてカルナマクと会談していたハールシャーは、それとなくカルナマクに降伏をすすめてきた。
サライが途中で入ってくれなければ、おそらくカルナマクはそのすすめにしたがっていただろう。それで彼の正体がばれ、結果的に彼を捕らえられたが、それにしても、その後の態度がよくない。牢に近づいてくる大臣から番人までを、金品を約束して寝返らないかと誘惑しているようだった。
そのあまりにもふてぶてしい態度に、カルナマクをはじめ、大臣クラスの者達は不安を覚えていた。そのうちに、彼の口車に乗せられる連中が出てくるかもしれなかったからだ。
――特に、純粋な狼人たちに、その兆候があらわれてきていたのである。
それに、そろそろ期限も迫っていた。これ以上ほうっておくと、ギルファレスの本国がハールシャーが捕らえられている事に気づくかもしれない。そうなれば、戦争になるかもしれなかった。
今日は、それで、ハールシャーの本心を探る事にしたのだった。カルナマク自身が……。
「お久しぶりです。ギルファレスの宰相殿」
カルナマクは狭い部屋の中のテーブルに座っている黒衣の男を見た。憔悴していると思ったのだが、そうでもないらしい。彼はここに来たときと同じ不敵な男のままである。ただ、そろえていた口ひげを剃り落としていた。それがどういう心境からのものか、カルナマクにはわからない。そうすれば、二十台後半ぐらいにしか見えない若い宰相だったが、相変わらず、不気味な何かが彼の周りにはあった。
「宰相殿とは、これは皮肉がおきつい。わたくしはいまや、あなたさまの籠の鳥でございます」
ぬけぬけとそんな事を言う。カルナマクは首を振った。
「皮肉で言ったわけではありません。しかし、気分を害されたのなら謝罪します」
ハールシャーはふと微笑み、ちょっとだけ癖のある笑みを浮かべた。この男がこういう笑みを浮かべる時は、大体何か方策があるときである。そうサライから聞いている青年は少しだけ顔をこわばらせた。
「気になどする身分ではございません。それにしても、とらわれのわたくしにこのような機会を与えてくださるとは、まことにありがたき幸せでございます。さて、わたくしにお話をしたいとのことでございますが、何のご用件でしょう?」
ハールシャーは、異様に柔らかに微笑んだ。夜会で貴婦人でもたらしこんでいるような言い方だったが、明らかに中に何かが隠されている。この男の笑みはうわべだけもはなはだしい。だが、そのうわべだけの丁寧さは、彼に妙な迫力を与えていた。同じ美辞麗句を唱えるおべっか使いの連中たちとは明らかに違う、妙な何かが彼にはある。
「あなたが、あなたの国の陛下に申し上げたという策についてお聞きしたいのです」
カルナマクは、圧倒されながらもしっかりとした口調で言った。
「ほう」
と、わざとらしく相槌をうち、ハールシャーは姿勢を少し崩した。
「で、どのような策でございましょう? 何しろ、わたくしは策を我が君に申し上げるのが職業でございますから、具体的にどのような策かわたくしに示してくださいませ」
言い方は丁寧だが、すでに態度はいつものハールシャーである。この雰囲気に飲まれたら、おそらくカルナマクは何も喋れなくなるだろう。
「あなたが、国王に、辺境の開拓を、奨励したというお話です」
カルナマクは意気込みすぎたせいで、かなりとぎれとぎれに話してしまった。その緊張をみて、くすりとハールシャーは笑った。
「ふふふ、何を警戒しておいでで? さては、サライ様に何か吹き込まれましたかな?」
「ち、違います」
カルナマクは首を振った。
「どうなのですか? あなたが提案したというあの策を取り消していただくことはできませんか? ならば、われわれも和睦してもいいのです。ただ……」
「おっとそれを私にいうのはお門違いというものですよ」
ふっと危険な色を見え隠れさせながら、ハールシャーは彼の言葉をさえぎり、敏感に周りの連中の様子を見る。
剣をもった武官が二人、文官らしいものが一人。サライはいない。三人ともそこそこ分別はありそうだった。カルナマクは大人しいが、どこが我慢のラインか知っておく必要もある。それがわかれば、引いたり押したりして少しは活路も見出せるはずだ。
(少々、カマをかけてみるか。この坊ちゃんがどこまでお優しいのかどうか。)
ハールシャーは、心中舌なめずりをする。
そして、周りを取り囲む男たちがどういった連中か、それを見極めないで下手をしゃべるわけにもいかない。言葉を選んで話さなければ、頭に血が上りやすい奴はカッとしてすぐに武器に手を出す。そうなれば、あっさりと斬り殺されてしまう。
「少なくとも、陛下が辺境の開拓に興味を持たれたのは私の入れ知恵ではございませんよ。私はそのようなことを奏上なんぞしておりませんとも」
大分言葉を乱しながら、レックハルド=ハールシャーは試すように相手の目を見る。
「しかし、あなたが彼にすすめたと私の部下は申しております」
若いカルナマクはそう彼に言った。ハールシャーはふんと鼻先で笑う。所詮相手は若造で箱入り息子のカルナマク。修羅場を身一つで渡ってきた自分とは格が違う。
あのサライさえいなければ、彼の計画はすべて事どおり運んだはずなのだが。
「あなた様はお若いから、わからないのですよ。あることないこを吹き込むやからがあなた様の周りにいないとは限りませんからなあ」
「貴様!」
ふと横の武官の手が柄に伸びたが、カルナマクの制止が早かった。今のはぎりぎりのラインである。レックハルド=ハールシャーは、内心ふと息をついた。あともう少し言い方がまずければ、笑い事ではすまなかった。刃傷沙汰になっていたかもしれない。
だが、これでいい。ここが引き際だとわかれば、後はその加減を調節しながらそっと自分の思惑に導いていけばいい。
「いえ、今のはすこし口が過ぎたようです。ご無礼をお許しください」
「いいえ、かまいません」
カルナマクは答えて、ハールシャーに向き直る。
「ザナファルや他の狼人は、辺境をひらかれると困るのです。彼らにとってはあそこは住処であり、おまけに聖域でもあるのです。私は陛下にそこをご理解いただきたいだけなのです」
「それは重々にわかっております」
ハールシャーの表情が一瞬鬱陶しそうに見えた。そんな事はわかっているといいたげな目をしたのである。というよりは、うるさいと一蹴しようと思っていたようだ。さすがにこの場でそれはできないだろうが。
「しかし、陛下は陛下のお考えがあるのでしょうな」
どこか他人事のような冷たい言い方で彼はそういい、ふと笑った。
「あなたはわたしに嘘をついてはおりませんか?」
「さあ、捕らわれのわたくしにそんな余裕がございますかどうか…。ですが、今ははっきりと一つだけ言う事が出来ますよ。…私は、少なからず、あなた方に敵対する気はございません」
果たして彼の言っている事が本当なのかどうか、カルナマクには図るすべはない。レックハルド=ハールシャーの演技はほとんど完璧で、付け入る隙もないからだ。
もし、ハールシャーが辺境の開拓を推進しているのなら、あのギルファレスの王の所業の責任は彼にあるし、していないのならばともすれば味方になってくれるかもしれない。
部下達が彼の口車に乗っているらしいという話がある以上、彼の始末も早くつけなければならなかった。殺せばギルファレスの国はこちらを襲ってくるだろうが、しかし殺さなければ、この男の策に誰かがいつか乗ってしまうかもしれない。本心を見抜く事さえ出来れば、無用な戦いは回避できるはずなのだが。
――果たして、ハールシャーという男、一体何を考えているのか?
カルナマクははっきりと迷っているようだった。ハールシャーは、足を組みじっと彼を試すように見る。その瞳は底知れぬ野心に満ち、そして相変わらず、真意など覗かせなかった。
サライは今更になって思い出すのである。あの時、自分がカルナマクについていっていればどうなっただろうか。カルナマクにハールシャーを殺させたかどうか。思えば、あの男はやはり早々に始末しなければならなかったのかもしれない。
カルナマクの臣下だった自分としては――。
「しかし、ハールシャーのことも気に入っていたからな…。仕方が無いといえば仕方が無いのだが…私らしくはなかった」
サライは独り言を言った。
あのときの事件は辺境の開拓が発端だった。それをハールシャーが言い出したのかどうかは、今となってはわかりようもない。彼は思いのほか口が堅く、宰相としてしか話さなかった。自分の意見をはっきりと口にはしなかった。
おそらく、はっきりとハールシャーが自分の心のうちを打ち明けたのは、彼の世話をしていたあのときのあの狼人だけだろう。
(だが、もうすべて過ぎた事だ。古代の出来事に過ぎない。)
今は砂漠を歩いているかもしれないレックハルドを思い浮かべながら、サライは、ふと意味深につぶやいた。
「レックハルド…荒れた大地。砂漠…」
名前にこめられた意味を繰り返し、サライはふと笑う。
「お前がその為にひたすら歩いている友の名は、『ファルケン』。古代語で『大空を統べるもの』という。それの由来もなにもかも、お前はもう覚えてはいないはずなのに」
ふと太陽が雲の割れ目から現れた。その光を眩しそうに目を細めて見上げながら、サライはつぶやいた。
「砂の大地と青い空…」
サライは立ち上がり、本をしまう。そろそろ昼がすぎていく。中に入ってリレシアの様子でもうかがってこようと思った。空をみあげたまま、彼はぽつりと最後にレックハルドに語りかけるように言った。
「皮肉な事に、まるでお前が今あるく世界そのものだな」