辺境遊戯 第三部
第一章:闇夜の竜王-21
黒い人影は、竜の頭を掴んで激しくその顎を蹴り上げる。衝撃で上をむきながらも、竜はまだ闘志をなくさず、彼に向かってくる。
ダルシュ、いや、ギレスは、相手が口を開く前に竜の喉に手を置いた。そしてそのまま思い切り、力を強める。竜は、口を開くどころか、下を向くことすらできず、身をよじらせて暴れるが、ギレスの力は緩まらない。
『貴様にはもう、私の言葉もわからぬだろう』
ギレスは、口を開いた。竜の肌のざらざらした感触が、ダルシュの体を支配している今は、直に感じられる。それが、よりによって数千年ぶりの感覚であり、自分が倒さねばならない同胞であることを思うとギレスの心に苛立ちのようなものがよぎる。
『かつてもそうだった……』
竜の喉を押さえつけながら、ギレスは心とは裏腹になぜか冷静に呟いた
『妖魔、つまり邪気と辺境の者達の戦いは今に始まったことでない。私が見てきただけで、すでに三度目……。一時は平和時に、一時は乱世に、そして………』
ガッ、と力をこめ、さらに竜を押さえつける。竜は、余計に身じろぎしたが、ギレスは冷たいは虫類の黄金の瞳をただ虚ろにゆがめるだけだ。
『妖魔は辺境の重職につくものの心の隙を狙い、まず司祭達があれらと取って代わり、そして、じわじわと平和は乱れ始める。狼は、それらが世界にあふれ出さぬように見張る、いわば歩哨のようなもの……その守りが解かれれば、人間の世界にそれはあふれ出し……』
わずかに太陽の光を感じた。そろそろ日蝕があけてきていることを、ギレスは勘のようなもので感じ取る。
『そうすれば、妖魔は憎悪や絶望に取り憑かれた人の心に住み着き、そして、人間は同士討ちをして滅びの道を歩む……』
ふと、風の音が強くなり、空中で膠着状態に陥ったギレスと竜を激しく吹き付けた。ダルシュの黒く染まったマントが、薄闇の中でばたばたと音を立てる。
『そう、……それが、かつては人の子だけだったのに!』
ギレスは、声を高めた。同時に掴んでいた手がさらに力を増し、竜は喉をのけぞらせ、ぴぎゃあという独特の悲鳴を上げる。
『よもや、我らの眷属までもが、その勢力下に置かれるとは! 一体、私がいない間に、貴様らはどこまで堕落したのだ!』
ギレスの声は、憤慨と哀しみに満ちていた。
『情けない! 私は、それが哀しくてならんのだ!』
力任せに、喉をつかんだまま、ギレスは竜を地面に叩きつけた。竜は、無人の建物にぶつかり、煙を上げながら倒れ込んだ。がれきが次々に巨体にのしかかるが、それぐらいでは、竜の鱗はほとんど傷つかない。
ギレスは、大きく肩で息をしながら、そのまま降下した。地面に着く寸前に、魔力でつくった翼を消し、土の上に足をのせる。
が、着地した瞬間、ギレスは違和感を感じた。体の平衡感覚が著しく狂った気がして、足下から崩れたのだ。後退してどうにかバランスを保とうとするが、どうしても体がふらつき、ギレスは前のめりになって顔をおさえた。
『……い、いかん……そろそろ限界だ……。時間だな……』
借りている青年の体から、自分の魂が離脱しようとしているのがわかる。遠くから操るには、時間が経ちすぎた。さすがにそこまでの力を、ギレスは持っていない。
だが、周りの様子を探って、ギレスは少しだけ安堵もしていた。日蝕がそろそろ開ける。ということは、そろそろ妖魔の活動時間を過ぎるということであり、マザー・グランカランが力を復活するという意味でもある。それを感じ取り、おまけにこっぴどくやられた竜達は、すでに闘志を失っているようだった。
目には見えないが、彼が地面に叩きつけた竜の二匹ほどは起きあがりながらも、それ以上行動しようともせず、どこか怯えたような様子を見せている。おそらく、ほどなくここを飛び立ち、また元から住んでいた場所に帰るだろう。
だが、それは一時的なものにすぎない。
『完全にけりをつけるには、やはり、『本体』を……』
ぽつりとギレスがつぶやくころに、空を大きな影がよぎる。竜が翼を広げて飛び上がったのだろう。
ギレスは膝を突き、瞼を閉じながら、体をゆっくりと傾けた。
『……他にいるのは、妖魔と司祭……だな。だが、私の役目はここまで。あとは、狼、貴様がどうにかせよ』
ばたん、と、地面に倒れた青年の顔は、先程まであった威厳と冷たさが消える。閉じかけの瞳の色はすでに金色ではなくなり、やがてそのまま閉じられた。黒いマントも、みるみるうちに染め直されるように、以前の鮮やかなまでの赤い色に戻った。
ふっと、一筋の光のようなものがダルシュの体を離れた気がしたが、それは一瞬の事で、すぐに空にとけ込んでしまった。その空を竜がほうほうの体で飛び去っていく。すでに日蝕はほとんどあけてしまい、太陽の眩しい輝きが戻って来つつあった。
廃墟の中で倒れている青年は、上をどんなに巨大なものが飛んでいこうが、安らかそうな寝息を立てて、無神経に眠りに落ちていた。
短剣をとおして、金属的な響きが指先に伝わる。手に痺れが走るほどの衝撃を受け流して、慌てて身を沈めて逃げる。ビィッと布を裂くような音がしたのは、ヒュートの振った短刀がレックハルドのコートを横に裂いたからである。そのまま勢いで横に逃げながら、レックハルドは自分の体勢を立て直す。
(ちきしょう! だから、新品なんだつってんだろ、この服!)
息を短く切りながら、レックハルドは相手を睨み付ける。それなりに持久力には自信があるが、元から小手先の器用さで仕事をする盗賊のレックハルドと、荒っぽいもめ事を力で解消するために組織にいたヒュートとでは戦闘能力も、その経験も、まるで違う。同じ短剣を持って斬り合いになったところで、接近戦では正直なところレックハルドに勝ち目はない。
ヒュートは薄く笑いながら、ゆらりと身を起こした。黒い服には、微かに破れた部分があるが、それはレックハルドがどうにかこうにか掠らせた一撃の成果だ。相手に少なくとも、掠らせることができるようになっただけ、レックハルドは成長したといえるのかもしれない。
「生意気やるようになったじゃねえか……」
ヒュートは笑いながら、手の先で短剣を弄んでいた。ヒュートはそれほど息を乱していない上に、やはりかなり落ち着いている様子だった。
「以前のてめえからは考えられないぜ」
「へえ、あんたに褒められるとはねえ。なんか、悪いことが起きそうだ!」
レックハルドは、そう挑発的に返したが、内心ではどうするか考えあぐねていた。このまま、持久戦に持ち込まれたら勝ち目はない。
(なぁにが生意気やるだよ……! 遊んでるじゃねえか!)
逃げ回っても勝ち目はないし、まっとうに突っかかるのもだめだ。ここはよほど頭を使って戦うほかはない。レックハルドは口許を袖でぬぐいながら、一歩足を後退させる。
(なんか火薬とか、そういったもんでも持ってればまだどうにかなったのに、こういうときに備えなんて全然ねえんだよなあ……!)
あるものは、今握っている腰帯に普段からさしている短剣が一本。そして、コートに隠れた背中側の腰に投げナイフが何本かある。昔から、飛び道具関係はそこそこ強かったレックハルドは、、盗賊時代から、投げナイフを忍ばせておくのが習慣になっている。
あとは、商売道具のはかりや帳簿やそろばんぐらいで、ろくなものを持っていない。ここは、小荷物が妙に多いファルケンのように、あれこれ普段から持ち歩いていた方がよいのかもしれない。
(使えるのはそれぐらいか……)
どうする? と、レックハルドは、前を見ながら考える。方法はないこともないが、あまり使いたくない。一歩間違えると、自分がやられる。
(ああ、もう、ファルケンの奴! 何してんだよ!)
思わず、いつまでたっても姿をあらわさない相方を思いだして、レックハルドはムッとした。どこかで騒ぎに巻き込まれて、何となくでてこられないなどという、くだらない理由で遅れていそうな気がしなくもない。まさかとは思うが、パーサとやけ酒飲みながら博打でも打っていたらどうしよう。
(元はと言えばオレのせいだが! それにしても、あいつ〜、事と次第によっちゃただじゃおかねえからなあ!)
そう思うことで、少しだけ余裕ができた気がした。
『与えられたカードで切り抜けるしかないといったのは、あなたなんでしょう?』
ふと、幻の中の女の言葉が蘇る。
(そういえば、そんなことをどこかで言ったような気がするな……)
レックハルドは、ひそかに苦笑いをして足を少しだけ後退させる。
「もう、十分だろう? お前にしちゃよく頑張ったじゃねえか……」
ヒュートは、にやりとした。
「オレのあきらめが悪いのは昔からだってこと、あんただって知ってるんじゃねえのか!」
「強情な奴だ! ……時間が長引けば、それだけてめえが苦しくなるだけだっていってやってるのに!」
「ありがた迷惑だよ!」
レックハルドが言ったとき、ふと、ヒュートの足がすべるように動いた。レックハルドは、反射的に斜め後ろに走り出す。
(……チャンスは一度だけだ!)
走りながらレックハルドは、黒衣の追跡者を見る。狩る者の喜びに満ちた目は、冷徹だが同時に血走ってもいる。戦いの高揚感に支配されている今なら、ヒュートを罠にかけることができるかもしれない。
「逃げる気か!」
横様に走っていたレックハルドが、徐々に速度をあげたのをみて、ヒュートは叫んだ。
「逃げられないといったはずだ!」
狭い屋上だ。あっという間に屋根のはしがみえてくる。進む先の足が宙でなにかの衝撃を受けたように跳ね返される。目には見えないが、この建物の周りには壁のようなものがあるのだろう。
(やっぱりか!)
この手の不思議なことには、ここのところあいすぎた。ヒュートが、なぜそうした魔法じみたことをできたのかはわからないが、少なくとも現実は受け止めねばならない。そのまま、横に避けて逃げる。
「逃げられないといっただろう!」
(そんなこと、期待しちゃいねえよ!)
レックハルドは、心の中で吐き捨てると、身を素早く翻し、見えない壁に背を向けてヒュートに向かった。
「覚悟を決めたか!」
「……かもなあ!」
そのまま、レックハルドは短剣をきつく握りながら、レックハルドはヒュートに斬りかかる。まっすぐに突いた短剣は、ヒュートに難なく弾かれた。笑みを浮かべながらのヒュートの反撃を避けて、レックハルドは素早く、た、と姿勢を低めながらかわす。が、ヒュートの足が、レックハルドの足の前に出てきた。
「うっ!」
レックハルドは、バランスをくずし、左手をつきながら肩から屋根に倒れ込む。その際に短剣から手が離れ、近くに転がった。転んで、どうにか体勢を立て直そうと転がるレックハルドを追いつめ、ヒュートは笑い声をあげた。
「終わりだ! レック!!」
ヒュートは口をゆがめながら、右手の短剣をそのままレックハルドに振り下ろす。が、レックハルドは、上手く身を寄せて喉を狙ってきた一撃をかわす。
「馬鹿が!」
倒れ込んだ時、レックハルドはコートの裏に手を隠しながら、で腰帯にかけた短剣を抜き取った。そのまま、回転しながら起きあがる。
「狙いはこっちだ!」
レックハルドは、おきざまにコートから掴みだした短剣を全てヒュートに投げつけた。至近距離から短剣を投げられ、ヒュートにはそれを避ける暇はなかった。鋭く風を裂きながら、正確にまっすぐに飛んでくる五本の短剣は、ヒュートの黒い服をきた胸当たりに吸い込まれていった。
獣のような声をあげながら、ヒュートは後ろ向きに傾いた。どこか痩せた彼の姿は、まるで朽ち木が倒れる様子に少し似ていた。どさりという音をきき、レックハルドはようやくため息をついて、体を起こす。
「は、……はあ……。ど、どうだ?」
レックハルドは、立ち上がりながら息をつく。激しく肩を上下させながら、冷や汗をかいた額を袖でぬぐい、レックハルドは倒れたヒュートの様子を見る。
そして、一瞬息をのんだ。
「嘘だろ!」
レックハルドは、思わず素っ頓狂な声をあげた。
「なんで、そんなことができるんだ!」
倒れていたヒュートは、すでに平気そうに立ち上がっていた。信じられないといいたげなレックハルドの顔を見ながら、ヒュートはにやりとした。
足下には、レックハルドの短剣が数本落ちていたが、血がついている様子もなく、おまけにヒュート自身に傷ついた気配がない。
「てめえにしちゃよくやったぜ、本当に!」
ヒュートは憎悪のこもった嘲笑を浮かべ、声を立てて笑い出した。
「……だが、それでも、タイミングが悪かったんだよ、レック! あと、二ヶ月ほど早かったら、てめえはオレを殺せたかも知れないが! どうした?」
不気味そうにヒュートを見るレックハルドを見て唇を歪め、ヒュートは続ける。
「だが、これで、てめえはもう打つ手がねえだろう? 短剣から手を離したのは、間違いだったな!」
「うっ!」
レックハルドは、短剣が少し離れた場所に転がっているのを見て、顔色を変えた。これで、もう持っている武器は使い果たしてしまった。
「賭けにでたのに、残念だったな、レック!」
ヒュートは、短剣をもう一度弄びながら笑った。
「さあ、今度の今度こそ、終わりだぞ!」
レックハルドは後ずさるが、すぐに見えない壁に阻まれて進めなくなる。前には、ヒュートが、もう獲物をしとめたような勝利に酔いしれた顔をしていた。
と、ふと、レックハルドは、見えない壁の向こう側を見た。屋根の上でロゥレンを呼んでいたマリスの前に誰かいる。背が高く、髪の色素が薄いのをみて、ファルケンかと思ったが、体格がちがう。だとしたら、もしかして――
「マリスさん!」
レックハルドは、小声で呟き、すぐに大声で叫んだ。
「マリスさーん!」
「叫んだって無駄だ!」
近くからヒュートの声が響いた。
「安心しろ、あの女も、すぐに後を追ってくるさ!」
はっと顔を返すと、ヒュートが短剣を振り下ろそうとしているところだった。レックハルドは、思わず身をすくめ、逃げる道をさぐったが一瞬では思いつかない。
(畜生! マリスさん!)
ふいに影がよぎった。日蝕のせいなのか、それとも竜か何かが空をとんでいるからか、それはレックハルドにはわからない。