辺境遊戯 第三部
第一章:闇夜の竜王-20
(あの化け物は当分出てこねえだろう! ヒュートは、のぼるのに必死だ。……だとすれば、あと考えられる敵は……)
走りながらレックハルドは、必死に頭を巡らせて、ふと脂汗を滲ませる。あと残るとしたら、きっと、あの正体不明の、おそらく辺境の住人であるだろう見えない敵……
(どれも厄介だが、一番厄介なのに、見られてるってことか?)
「そういうことだぜ、レック。相変わらず、勘の鋭い奴だ!」
声をかけられて、レックハルドは一瞬体の芯が凍てついたような気がした。
(馬鹿な……そんなことがあるわけがない)
レックハルドは、考えをうち消しながら、しかし、用心深く短剣を握って振り返る。
そこに立っているのは真っ黒な服を着た短髪の男だった。酷薄そうな笑みをうかべ、静かだが燃え上がるような憎悪を瞳に浮かべている。その手には、刃物が握られて、瞳と同じ殺意を表してぎらぎらと薄明かりに光っていた。
「馬鹿な! なんで、てめえがっ!」
「のぼって来るには早すぎるっていいてえんだろう? そうだろうぜ、普通の人間には無理なことだよなあ、レック! わからねえだろうなあ」
ヒュートはにやにやしながらそういったが、不意に顔を引き締めた。その目に、今までになく、殺気と憎悪が灯っているのがわかる。普段から陰気で不気味な奴だと思っていたが、それだけではない感じが、ヒュートの全身を包んでいるようだった。
「昔っからてめえの面は気に入らなかった!」
ヒュートは、どこかこもった笑みを浮かべながらいった。それとは裏腹に、目が殺気にぎらついているのがわかる。
「怯えていつもオレにおもねってくる癖に、てめえは、ずっと嫌な目をしていたよなあ! 他の連中は、オレに服従の色を見せた。だが、てめえだけは、いつまで経っても目だけはオレに反抗的だった! そうだろう! 心の底では、オレを見下しているような、あの目がオレは大嫌いだったんだよ! てめえの目を見るたびに、オレは正直テメエの首をその場でかっきりたかったぐらいだ!」
ヒュートは唇をゆがめた。
「てめえのその年にあわねえ冷めた表情共々な! 全部ぶちこわして、惨めにてめえが俺に命乞いをしながら死んでいくのをどれほど願ったかしれねえぜ!」
背筋に悪寒が走ったが、レックハルドも引くわけには行かない。歯を噛みしめるようにして笑みを浮かべながら、短剣を掴んで後ずさる。指先が小刻みに震えているのがわかる。抜きかけた剣に鞘が当たって、かちゃかちゃと小さな音を立てたが、レックハルドの頭は指とは裏腹にそれほど混乱にも恐慌にも陥っていなかった。
「ヘッ、冗談じゃねえぜ! 見かけだけで恨まれちゃ、オレだって救われねえよ!」
大体、見かけだけで疎まれることが多いのは、事実だけどな、と心の中で付け足す。靴が、屋根のざらざらした埃を噛んで、鳴ったのが妙に耳に響く。
視線の先の建物が崩れ、竜の尻尾が覗く。それをみて、明らかに顔色をかえたレックハルドに気づいたのかヒュートは笑った。
「安心しろ、あの化け物に食われて死ぬようなことはないぜ、レック……。「俺」がそう命令してやった! あいつはあそこで待機しててめえを見ているだけだ」
「な、何だと?」
何をいっているのかわからない。レックハルドは、片眉を上げて怪訝そうにヒュートを見る。だが、ヒュートはその答えを直接答えない。
「さっきもいったろうが! そんな楽な死に方はさせねえ! 徹底的に痛めつけて、それから、死んでわざわざこの世に舞い戻ってきた、あのてめえの大切な相棒の化け物が、もう一度無様に死ぬ様を、虫の息のてめえの目に刻んでやる! 絶望しながら泣きわめいててめえは死んでいくんだ!」
「な!」
思わず、絶句して、レックハルドは、細い目を大きく見開いた。緑色がかった黄土色の瞳がヒュートを驚愕しながら凝視していた。
「何で、アイツのことを知ってる!」
おかしい。レックハルドの頭に、違和感が浮かぶ。ファルケンのことをヒュートが知っていてもおかしくないが、「ファルケンが死んだ」事も「戻ってきた」事もヒュートは知らない筈だ。いいや、ヒュートどころか、あのロゥレンでも知らない。なぜ、それなのに、ヒュートがファルケンの事情を知っているのか。
それに、さっき、確かヒュートは「司祭」のことを口にした。ヒュートが司祭のことなど、知るわけがない。
ではどうして?
向こうにちらりと目をやる。ロゥレンはまだこちらに気がついていないようだ。不意にマリスがこちらを向いたが、不安そうな顔をしてまた顔をロゥレンの方にもどした。そのあまりの無関心にレックハルドは違和感を覚える。
「無駄だぜ、レック! あの女からは、ここは見えちゃいねえ!」
ヒュートの嘲笑が耳につく。
「「俺」が見えなくしてやったんだよ! それに、仮にあの女に知らせれば、あの女が死ぬだけのこと……。そうはしたくねえんだろう?」
「るせえ!」
ぐっとレックハルドは、短剣を握る手に力を込めた。手の内にじっとりとかいた汗で、妙に感覚が冷えていた。小刻みに震えていた指先は、いつの間にか震えるのをやめていた。それが、驚きによるものなのか、決意の現れなのか、レックハルド自身もわからない。
「誰もてめえを助けに来られねえんだ!」
ヒュートは声を高めた。
「たまには一人で戦え! レックハルド!」
「言われなくても!」
挑発的に笑ったヒュートの言葉に誘われて、レックハルドは吼えた。
「やるしかねえんだろうが!」
短剣を引き抜き、しろい刃の光が鈍い太陽にてらされる。それを合図にするように、ヒュートは残酷に笑いながら飛び掛かってきた。
建物の間を必死で走り抜けて、ようやく壊れて煙を吐いていた区画の近くまで来たファルケンは、一旦その場で倒れ込む。
「かかか、駆け抜けたーー!」
ぜえぜえと肩で息をしながら、建物にへばりつき、どうにか息を整えようとした。酸欠でぐらぐらする頭を押さえながら、ファルケンはため息をついた。
「う、うう、戦う前からこんなところでめちゃくちゃ全力疾走して……。空気足りなくて死にそうだ……」
急いでいるときはそれは速度を大概上げるのだが、それでも、状況を見て余裕を残して走ってくるつもりだった。そうでなければ、着いた途端に襲われたら勝ち目がないからだ。離れ島で、ファルケンが先輩達から学んだのは、そうした戦いの知識と経験だ。だが、そんな知識があっても、苦手なものは苦手だし、恐いものは恐いのである。あの世界で、先輩達は戦いの方法は教えてくれたが、女の子への言い訳はおしえてくれなかった。
「あんた! 馬鹿でしょ! そんなことで逃げられるとでも思っているの!」
「ひいいっ!」
ふと当のロゥレンの声が響いてきて、ファルケンは飛び上がって硬直した。
「まだ聞こえてないわけ! あたし、そこまで行けないのよ!」
(ば、ば、ばれたーーー!)
ファルケンは、瞬時に真っ青になった。
「ばっ、ばれた! とうとうばれた! ど、どうしよう! どうしよう、どこにも逃げ場がないよ! な、泣かれる! 怒られる! どうしよう!」
ファルケンは、髪の毛が逆立つほどに怯えて、あたふたと辺りを見回したが、生憎と隠れる場所はない。
(こっ、これは、いよいよ腹をくくるしか……ないのか……)
絶望的な面もちでそんなことを考えた時、ふとロゥレンの注視がこちらにきていないのに気づく。ロゥレンは、明らかにある一点を見ていた。自分の近くだが、こちらではない。
「あんた、馬鹿でしょ! そこにいると危ないのよ! そこには、何かがいるんだって!」
ロゥレンの視線の向きをたどる。さすがに建物のそばでは見えない。ロゥレンに見つかるのは恐いが、知りたいという思いの方が強かった。ファルケンは、だっと飛び出していって、少し離れた場所からロゥレンの視線の先を探る。
ふと、屋根の上に立ってなにかを叫んでいる娘の姿が見えた。明るい色の布を体に巻き付けたひらひらした衣装に、赤い髪の毛が印象的だ。
「マリスさん!?」
ファルケンは、外に足を踏み出しながらいぶかしげに上を凝視した。
「そこには、『司祭』がいるのよ! 危ないから下がってっていってるでしょ!」
再びロゥレンの声が聞こえ、ファルケンは、反射的に体を起こした。
「司祭……? それじゃ……」
それならロゥレンの言っていることはわかる。ロゥレンのような、元々の自分もそうだったが、兵隊階級の魔力の低い狼人や妖精は、司祭などの上級階級がいるときは、近づかないものだ。それが礼儀でもある一方で、ただ単に彼らの魔力の影響下で、好き勝手振る舞えないからもある。だから、ロゥレンがたとえマリスを助けたくても、司祭のいる側では何も出来ない。下手すれば、以前のファルケンのように操られることもあるのだ。
「もしかして、レックもあそこに?」
ファルケンは顔をあげて、屋根の方を見る。向こうの一角に、なにかよどみのようなものを感じる。目を細め、ファルケンは、顔色をわずかにかえた。
なにか、よどみのようなもので囲まれて視界が遮られていたが、ファルケンにはわかる。レックハルドが黒い服の男と対峙しているのが、よどんだ空気の向こうに見えた。
「レック!」
ファルケンは慌てて走り出した。
屋根の上のマリスは、ひたすらにロゥレンに呼びかけていたのだが、ロゥレンの方はいっこうに下りてくる気配がない。心配なことにレックハルドも、こちらに上がってきていないように見える。かといって、様子を見に行く前に、ロゥレンと合流した方がいいと思い、マリスは必死でロゥレンに呼びかけていた。なにやらロゥレンも口をぱくぱくしているので、なにか話しているらしいのだが、空からでは声が聞こえない。
狼人のファルケンならいざ知らず、普通の人間のマリスはそこまで聴力がよくない。
「ロゥレンちゃん! 早く下りてきて!」
マリスは必死にそう叫ぶが、ロゥレンはなにやら難しい顔をして口を動かしている。なにか怒っているような気もするのだが、マリスには怒られる理由が思い当たらない。
「とにかく、下りてきてくれないと! 声が聞こえないのよ、ロゥレンちゃん!」
そう大声で叫ぶのだが、ロゥレンには聞こえていないのか、それともなにか事情があるのか。
「困ったわ。どうしましょう、レックハルドさんの様子を先に見に行こうかしら……」
マリスは、腰につるしてあった剣を思い出したように握り、そのまま、レックハルドがいるだろう方向に目を向けようとした。
なにか、妙な感覚がした。以前辺境の森に入ったときと同じような感覚だ。あの、まだファルケンが、ファルケンに戻り切れていなかったあの時に、森でなにか黒いものに襲われたときに感じた、あのねっとりとしたものの敵意。
「誰!」
振り返り、マリスは、その気配を目で探る。すぐにはわからなかったが、目を凝らす内に、マリスにもそこに立っている男の姿が見えた。というよりは、いきなり空間から溶け出すように現れたように見えた。
短髪の男の髪の色は、金色をしていた。金髪の男の頬には、赤い顔料で紋様が描かれている。ファルケンのものとは違った印象があるが、間違いなくそれは狼人の習俗である。
『気づかなければ良かったのにな……』
司祭の言葉は、あいにくとカルヴァネス語ではない。マリスには何を言っているかが理解できない。
ただ、鋭い目をこちらに向けてきた司祭の敵意を感じ取り、マリスは身を固くした。
「あなた、誰! 今までどこにいたの!」
『気づかなければ見逃そうと思ったが、こうなれば仕方がない。……あの男と一緒に死ぬがいい!』
司祭の瞳に殺意のようなものが光るが、相変わらず語られる内容はマリスには理解できない。
「誰……何を言っているの?」
警戒したマリスは、ざっと足をひいて、素早く腰にかけてあった剣に手を伸ばす。その仕草で、不意にアヴィト、いや、アヴィトの姿を借りた妖魔は、何かを思いだしたようだった。
『き、貴様か!!』
なびく赤い髪に、そのおびえのない大きな瞳は、澄んだままでこちらをみている。剣を握り、そして、彼と対峙した娘。その背後に荒涼とした砂漠が見えたようで、アヴィトは急に目を見開いた。
『ま、まさか……』
彼の態度にはっきりとしたおびえが入り交じる。マリスは意味がわからず、きょとんとした。司祭はしばらく、冷や汗を流しながら彼女から視線をそらせないでいた。
『貴様……貴様は……』
動揺しながら、その時、司祭が呟いた言葉を、マリスは聞き取ることができなかった。