辺境遊戯 第三部
第一章:闇夜の竜王-18
鈍色の空を眺めやる。緑濃い森の中、一人たたずむ青年は、独特の存在感を帯びながらその空の向こうで行われているだろう事を感じていた。
「ギレスめ……、とうとう見過ごせずに出て行ったな……」
辺境の苔に覆われた古木の生い茂る奥に、ぽっかりと人知れずに口をあけた蛇の穴を振り返る。かつて、そこを訪れる狼人も、人もいたといわれている。彼らは、それぞれ知恵と人柄を試され、そしてそれが認められれば、その主に会うことができた。今となっては昔の話である。
今は、ただ、一つの魂と一つの「もの」が眠っているだけにすぎない洞穴だ。
「だが、私も反省せねばならんな……。正直見くびっていたぞ、ギレス。まさか、あれほど遠方まで意識をとばし、対象を操ることが出来るとはな。かつての力はまだ健在だということか」
サライは、自嘲の笑みを浮かべながらそう呟く。微かに、不自然な日蝕の続く薄闇の世界は、夕暮れ時ともまた違う不気味さを帯びていた。
「だが、遠くからよりしろの体を支配するだけでは、完全な力を出し切ることはできない。そう、アレがなければ、その力は出すことが出来ない」
サライは、洞穴のほうをみやる。
だとすれば、とサライは、再びヒュルカのある方角に顔を向けた。
「あの躾のなっていない眷属達を、完全に調伏することはできないだろう」
いいながら、サライはわかっている。おそらく、洞穴に魂をすみつかせているあの蛇の王は、言葉を返してこないだろう。彼の魂は一時的に、今は、ここにはいないのだから。
竜の形状はかつて様々であった。空を飛ぶものもいれば、陸にしか住まわないものもいる。水辺を好む者もいれば、深い海へ住処を移した者もいた。トカゲのような姿をしたものもいれば、蛇のような姿をした者もいる。
この地方には、確かその両方を折衷したような姿の竜が多かった、と、彼は記憶していた。そして、その通りの姿の竜が彼に襲いかかっている。
鈍色の空に、魔力で作った黒い翼を思い切り広げ、漆黒のマントをはためかせながらダルシュは、牙をむいた竜の鼻先にいた。
金色に光る目に、かつてのダルシュの面影はない。冷たい冷血動物の瞳をした彼は、ダルシュではなく、最後の竜王であるギレスだ。
黄色くにごった牙をむきだしにして、彼を引きちぎろうとする竜の瞳をみながら、彼は冷たく笑った。
『ふっ、愚かな!』
ダルシュの右手に変化が起こる。ぐっと開かれた右手のツメは鋭くなり、黒い鱗が指先にいくつか表れている。ダルシュの髪の毛すれすれに開かれた口許に、彼は躊躇なく手を入れる。そして、そのまま殺意にぎらつく牙を、右手でつかみ、同時に開かれていた下あごを足で踏みつけた。その力は、竜の予想外のものだったのか、口をとじることもできず、竜はあえぐように身をよじる。
仲間の窮地をかぎつけたのか、後ろから、ほとんど蛇のような姿をした長い体の竜がスピードをあげてこちらに迫ってくる。
『私に貴様らが勝てるものか!』
ギレスは、軽く笑い声をあげ、力を込めてつかんでいる竜を力づくでむりやり体ごと引き寄せた。そのまま、体を斜めにふり、下あごにかけていた足を抜く。後ろから近づいてきていた竜はすぐそこまで来ている。
ギレスは、笑みを口にそのまま掴んでいた竜を、背後から迫ってきていたものに投げつけた。小さな人間の形をしたものにそれほどの力があるとは思わなかったのか、それとも、ギレスの力がそれほどすごかったのか、抵抗するべくもなく投げられた竜は、仲間と衝突して、絡み合いながら地面に落ちていく。廃屋にまともに衝突した二頭は、土埃と建材を巻き上げながら、その場に沈む。
『あと飛んでいるのは、もう一頭だな……!』
ギレスは、ふと顔を上げる。仲間がやられたのを見ていた残りの竜が、上空から彼を見ていた。さすがに瞳には警戒の色が現れている。理性は失われているとはいえ、かつて持っていた知恵の欠片は残っている。特に戦闘や狩りに関しての知識や狡猾さは、なかなか失われないものだ。
『どうも……一筋縄ではいかんようだな』
ギレスは、一度ため息をついて呟いた。この青年といくら相性がいいからといっても、遠くから動かすのはなかなか負担が大きいのだ。こうやって戦えるのには、時間が限られている。
『早々に決着をつけようぞ!』
ギレスは、自分を鼓舞するようにそう叫ぶと、再び黒い翼を広げて飛び上がる。
『……数千年か、さすがに、穴の中で寝過ぎたか……。久しぶりの外界は、厳しいものがあるな』
苦笑を浮かべて、ギレスは言った。警戒を覚えた竜は、慎重に彼の出方を探りながら、攻撃しようと隙をうかがう。
風を切る音が耳に入る。遠くから操っている状態では、視覚はほとんどきかないが、聴覚はそれに比べては随分といいほうだ。数千年ぶりにきく戦場の風の音は、昔と変わらず冷たく鋭い。懐かしさも覚えながら、彼は、迫ってくる竜の行動を読みながら飛翔した。
とりあえず、後をあの何かが入ったダルシュに任せて、ファルケンは屋根を飛びながら走っていた。斜めに走りながら見る向こう側で、黒い影が広がっているのが見えた。それは竜の頭を掴んで、そのまま押さえ込んでいる。ダルシュは人間にしては、力のある方だったが、それにしても竜の頭を素手で押さえつける事など無理だ。やはり、あれは、何かが彼に力をかしているからこそできることなのだろう。
「やっぱり、そうだ。……えっと、確か名前は……ギレ……なんとかだったっけ」
ファルケンは、背後を見やりながら呟く。
「ダルシュに取り憑いている、ってことは、やっぱりダルシュって……何かが……」
ファルケンはぽつりといって、顔を前に戻した。ひとまず、彼がついているのなら、あそこは大丈夫だろう。倒し方もわからないし、竜のことは竜に任せておいたほうがいい。
いつの間にか、竜の相手をしている間に彼の前から姿を消していた司祭、あの十一番目の司祭のアヴィトの姿は見えない。ただ、竜の一匹が暴れているのがみえるので、レックハルドの居場所だけはかろうじて把握できる。
斜めに傾斜のついた屋根の上をすべり、次の屋根に飛び移る。司祭のことを考えている内に、ファルケンはあることが腑に落ちなくなった。
「しかし、あの司祭がどうしてあんなにレックにこだわるんだ?」
ファルケンは、何となく首を傾げながら走っていた。
「オレは思いっきりやっちゃったけど、レックってそんなに何もしてないのになあ」
司祭だけではない。竜にしても、理性はないとかいいながらも、確実に「目的」の為に動いているようにも見える。特にレックハルドを襲っているだろう竜については――。彼らは、別に人間を食うためにここに来ているわけでもないし、もし食料だといっても、痩せて背ばかりが高いようなレックハルドなど、別にうまそうにも見えないだろう。なのに、確実にレックハルドを狙っている理由は何だろう。
「うら、恨まれてるのかな……?」
結局よくわからなかったファルケンは、そう呟いてみて、妙にそれがしっくりくるのに驚いた。
「そういえば、なんか、レックって、何もなくてもすごく恨まれやすそうな感じがするからな……」
妙に一人で納得して、それならまあ仕方がないか、と思ったファルケンは、顔を上げて相手の位置を確認する。思いの外近くに竜の翼らしき影がみえる。抜いた剣を握り直して、ファルケンは足を速めようとした。
が、空に目をやったファルケンは一瞬固まった。宙に小さな人影が見えたのだ。
「えあいうえあおあ!」
動揺のあまり飲み込み損ねた意味不明の叫び声はすでに響き渡ってしまった。自分の声に驚きつつ、ファルケンは、慌てて口を押さえると、相手が気づかない内に慌てて屋根を下りて、建物の影に倒れ込んだ。何かの気配に、そこにいた者はハッと警戒の目をこちらにむけたが、声がきこえた割には、何もいないのを確かめて、やがてまた竜の方に目を向けた。
「……全く! 危ないことはよしなさいっていってるのに! ホント、あの娘の頭の中どうなってるのよ!」
腹立たしげにそういって彼女は、空からまだ疾走する二人組と竜をみている。彼女が、建物の影に注意を払っていないことを確かめて、隠れたファルケンはそろっと上をみた。
金色の髪の毛に、妖精の特徴である長い耳。小柄な体に虹色の羽が見えた。顔は一瞬しか見なかったが、それでもすぐにわかる。それほどに、ファルケンは相手の顔を見すぎていたのだ。
ファルケンは、建物の影に隠れながら、震えた小声で絶望的に呟いた。
「ロロロロロ、ロゥレンだよおおおお……」
ファルケンは完全に狼狽して、壁にがたがたと寄りかかりながら、こっそりと影から上をみあげた。瞬きしても、目をこすっても、ロゥレンはロゥレンだ。
「な、なんで、あいつがこんな所に……しかもなんでこんな時に!!」
自分でも混乱しすぎだとは思うが、ロゥレンは本当に苦手だ。おまけに、ロゥレンには本当のことをあれこれ話していない。ここのところ、一通り過去を精算したような気になっていたファルケンにとっては、実は最大の難関なのだった。その難関が向こうから突然目の前に現れたのだから、ファルケンには心の準備というものが全く出来ていない。
「ど、どうしよう。あいつには、ちゃんとレックかマリスさんから事情話してもらってから、オレが事情はなそうと思ったのに……。い、いきなり、鉢合わせしそうだ。……ど、ど、どうしよう!」
ファルケンは、だらだら冷や汗をかきながら前を伺うばかりである。幸か不幸か、ロゥレンはまだ自分には気づいてはいないようだが、レックハルドがいる場所にいくには、彼女を避けていくことは出来ない。
「……お、怒ってるよな……きっと……。そういうつもりはなかったけど、ばっちり騙してる状況になってるし、怒るよな……フツー……。だ、だったら、オレ、この場を切り抜ける自信ない」
多分、ロゥレンはまだ自分が死んでいると思っているに違いない。それに関してあれこれ事情を話すのも大変だが、まあ、それだけならいいだろう。レックハルドは、結局許してくれたし、マリスは気にしていなかったし、ダルシュも、驚いていたような気はするが、別に怒っている様子ではなかった。だが、ロゥレンは、どうだろうか。昔から、ロゥレンにはいじめられたせいもあって、ファルケンは彼女が純粋に苦手だ。それも、飛び出していくのに戸惑う要因である。
質問ぜめにされるかもしれないし、最悪、泣いてわめかれたりして修羅場になったら、どうやって対処したものかわからない。今回は、自分に非があるとわかっているファルケンは、泣きわめく彼女をほうっておくわけにもいかない。だが、そうやって慰めたり、事情を話したり、謝ったりしている内に、向こうにいるはずのレックハルドが危なくなる。その事情を話したら、ロゥレンは、すんなりと通してくれるだろうか。
答えは、きっと神とロゥレンのみぞしる。
「……まずいよ……。ああ、レックが……でも、ロゥレンが……」
焦りと恐怖の板挟みに苦しみつつ、ファルケンはどうしたものかとその場をうろちょろと細やかにうろつく。そうして、すぐに上の方を見る。まだロゥレンは動く気配もない。もう少し移動してくれたら、少なくとも死角からささっと走っていけばいいのだが、などと考える。
と、ファルケンは、ふと、目をすがめた。ロゥレンの斜め前方、おそらく彼女も気づいていないだろうが、そこに確かに人影めいたものが一瞬うつってほのかにひかるようにして消えた。
「司祭(スーシャー)!」
一瞬しか見えなかったが、それで十分だ。あんな真似ができるのは、司祭以外ない。ロゥレンに視線がむいていたようなことはないし、おそらくロゥレンには気づいていない。そして、恐らくファルケン自身に気づいたわけでもないだろう。
彼が消えた場所は、竜が暴れて、煙が立ち上っているところに程近い。つまり、やはり司祭の狙いはレックハルドなのだ。
「くそっ!」
ファルケンは、軽く唇を噛むと、意を決して壁の影から飛び出した。もはや、本当に迷っている暇などない。
「み、見つかったら見つかったらで仕方がない!」
煙を吐きながら壊れていく建物を睨みながら、彼は懸命に走る。上からロゥレンに見つけられたらと思うと、少し不安だが、今だけはロゥレンに泣かれても無視して走るしかないと、ファルケンは、どこか怯えながらそう決意した。