辺境遊戯 第三部
第一章:闇夜の竜王-14
空が暗黒に満ちている。薄暗い日蝕の空の元、マリスとロゥレンは、買い物を楽しんでいた街が、一瞬で逃げまどう人であふれる場所に変わったのを知る。
比較的安全な場所にいたせいもあって、ロゥレンはともかく、比較的マリスは落ち着いていた。巨大な何かが空を飛び回るせいで、街には強い風が、あちこちの方向から回るように吹いていた。赤茶けた巻き毛のマリスの髪の毛が、不穏な風に揺れる。ロゥレンは緑色の鮮やかな布を頭からかぶせられ、その髪の毛と耳を隠していたが、それも吹き飛ばされそうなほどの風に必死でそれを押さえている。
「あれ……何かしら、大きな鳥?」
マリスは、空を見上げながら少しだけ眉をひそめる。マリスは竜の伝説を知らぬわけではない。カルヴァネスも竜の伝説はあるし、かつてでなく、今でも竜を神と崇めてもいる。特に大きな河川のある周辺、南の海の孤島などにおいては、それは顕著に見られることだ。だが、逆に別の場所において、それが河川を氾濫させ、人を食う邪悪なる者として崇められていることも知っている。
だが、空を見たマリスは、それを竜でなく、砂漠の方に住まう大きな鳥だと思った。伝説では、砂漠には大きな鳥が住むとも伝えられていたからだ。そちらのほうが、竜よりもよほど現実的であるし、彼らの想像している竜とその動物の姿が違ったということもある。
「鳥じゃないわ……。あれ……」
隣でロゥレンが不安そうにいった。
「え? じゃあ、何かしら」
「鳥じゃないけれど、……何となくわかる」
ロゥレンは、ふとぽつりといった。きょとんとしたマリスの大きな目を見上げる。
「アレには、何か黒い力を感じるの。おそらく、何かに触発されて暴れているんだと思うわ」
「何に?」
「そ、それはあたしにもわかんないわよ。そこまで詳しくないもん」
ロゥレンは、わからないことを聞かれたので、困惑を隠すようにそう言った。マリスは、そうねえ、と同意する。
「ここにいると今のところ大丈夫みたいだけど……」
その巨大なものが暴れているのは、マリスの視線の方向で、そちらからは巨大な土埃が巻き起こっている。もしかしたら、あのいくらかは本当に煙なのかもしれない。ロゥレンには言わなかったが、マリスは少しだけ赤い炎がちらつくのを見た。おそらく、あそこで建物などが壊されている。その破壊に眉をひそめながら、マリスはロゥレンの方を向いた。
「ねえ、ロゥレンちゃん、危なさそうだったら、あたしの家のある郊外の方に逃げましょう? だったらきっと安全だわ」
「い、家って……人間の家?」
ロゥレンは、びくりとした。今まで辺境でいたロゥレンは、人の家がどういうものか外観しかしらない。せいぜい店の軒先を覗くぐらいが彼女にとっては精一杯で、ヒトの家がどうなっているかなど考えたことがない。狼人は小屋ぐらいしか作らない上に、妖精は基本的に屋根の下にいることがないからだ。あんな光の遮断されたような場所なんてと思うと、何となく不審な気がして、少しだけ気になるのだった。
期待と警戒を滲ませてマリスを見上げているロゥレンは、何となくまだ決心が付かないようだった。
と、向こうの通りで何かが壊れる音がした。耳のいいロゥレンは、ぴくっと顔を上げる。それに気づいてマリスが視線を辿ったとき、通りの向こうを大きな影が通り過ぎるのが見えた。そして、その前方に何か小さな影が見えた。
「あれ……!」
目のいいマリスは、薄暗い中を遠くにひた走る人物がいるらしいことを、どうにかこうにか見分けることができた。馬に乗っている人物がだれであるかはよくわからない。ただ、その背後を追う暗い大きな影だけがはっきりと見えていた。
薄暗い空の下、馬に乗って、背後から来る黒いモノから逃げようとしているのは、頭にまいた白い布をなびかせて走る若い痩せた体の男だということは、ここからは確認できなかった。
「あの人危ないわ!」
そういうと、マリスは、思いついたようにロゥレンの手を取っていった。
「たいへん、助けに行かなくちゃ!」
「た、助けって!?」
いきなりそんなことをいうマリスに、ロゥレンはきょとんとした。先程、相手が何か得体の知れない力で動いている化け物だと教えたばかりなのに、この娘は何を言い出すのだろうと思った。人間の力どころか、こんな小娘一人の力でどうになるわけでもないはずなのに。
「やめときなさいよ。巻き込まれたらたいへんじゃない!」
ロゥレンはきつくいったが、いても立ってもいられない様子のマリスは、首を振る。
「駄目よ、あの人、きっと助けてあげないとたいへんなことになってしまうわ」
「でも、あんたにアテがあるの!」
「ないけど、……いって助けにならないはずがないわ! だったら行かなきゃ!」
そういって、マリスは、いつも腰にある護身用の剣を握る。ロゥレンは、何となくあきれてしまってため息をついた。
「なんであんたそんなに楽天的なのよ!」
「そう? あたしは普通だともうけど」
マリスはぱちりと大きな目を瞬かせる。ロゥレンは首を振った。そろそろ、この妙な縁も随分長くなってきたのだが、それにしてもこの娘は変だ。人間にしても変だし、妖精でもここまでのはいないと思う。
ロゥレンもそうだが、単独行動の多い妖精は狼人ほど集団を大切にしない。辺境のためといわれると力を貸すが、狼人のように仲間のために命をかけるという感じでもなく、自分の居場所を守るための行動が多いのだ。 その為に気まぐれな者が多く、森で人間がからかわれて帰るときは、大体狼人の仕業でなく、妖精の仕業であることが多い。ただ、妖精は辺境外郭にいること自体が珍しく、姿を見せないので、狼人に罪をなすりつける形になっているだけともいえるだろう。だから、マリスのこの行動は正直よくわからないのだった。
マリスは、ロゥレンの肩を叩くと、にっこりと笑った。
「ね、ロゥレンちゃんはここで待っていて。変な人に声を掛けられても返事をしちゃだめよ」
「変な人って……」
今一番変なのは、多分目の前にいるマリスだ。ロゥレンは正直そういいたかったのだが、マリスは彼女の意見などもう聞かずに走り出している。
「ちょっと!」
「この子、お借りします!」
無人の街に一応そう声を掛けて、マリスは比較的近くで人々が逃げてしまってぽつりと残された馬の手綱を引いた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
ロゥレンが声を掛けるが、マリスは、もう馬にむち打って走り出している。
「ロゥレンちゃん! 気をつけてね!」
もう一度そういって、マリスは、スピードを上げていく。
「待ちなさいって言ってるでしょーがっ!」
砂煙を少しあげていってしまうマリスを見ながら、ロゥレンは腕を組んだ。
「……全く、全然わかんないわ。危ないって事、見ればわかるでしょ!」
むっとしたまま文句を言って、ロゥレンはため息をつく。
「どういう動物なのよ、あの子!!」
そんなことを言って、ロゥレンは厳密に言うと五十才ほど年下の娘の背を見ていた。しばらくソレを睨み付けるようにしていたロゥレンは、やがてそっと背に手をやった。
「ホント、仕方ないんだからね!」
そういうと、ロゥレンは手を広げる。同時に髪の毛を隠していた黄緑の布が風に飛んだ。広がったトンボのように薄くて虹色の羽がばっと広がった。そうした羽は、魔法でつくって背中に付与しているもので、それ自体をつかってというよりは、その魔法の羽の力をかりて空中移動を簡単にしているものである。
ふわりと上空に浮かび上がりながら、ロゥレンは仕方ないという風にため息をついた。
「別にあたしは、あんたが心配な訳じゃないんだから!」
立て続けに飛んでくる石の刃の軌道が、今のファルケンには何となく見えていた。薄明かりの太陽に照らされて、それでも黒曜石のような光を放つそれを視覚でとらえてあとは反射的に動く方に体を委ねればよい。
微かに身をひいて刃を立てれば、チッ、と掠れた音をたて、反りのある片刃の大刀を掠めて飛んでいく。刀身から鞘まで宝石と象眼細工でかためられた装飾品の多いこの刀の由来を、実はあまりファルケンは知らない。「離れ島」で一応シールコルスチェーンとしての能力が認められたときにもらったもので、邪気を払って浄化させるには適しているらしいが、名前すらわからない。
ただ、腰の剣でなくこちらを抜いたのは、間違いなくアヴィトに「影」を感じるからである。
「同じ手だけじゃどうにもならないぜ!」
「気配」はあるものの、まだ辺境のものとしての特性が残っているのか、アヴィトは金属製の武器を嫌う。だから、自分は石造りの武器を振るう。石の短剣が五本、髪の毛を掠めながら飛んでくる。それをたたき落とし、または避けてファルケンは、相手の方に飛び込んだ。屋根を蹴り、空に浮かんでいるアヴィトに向かって飛び上がる。
まごついていたアヴィトに向けて、振りかぶった刀を大振りに振る。辛くも相手はよけたが、顔を覆っていたローブが刀の切っ先に引っかかってそのまま引き裂かれた。アヴィトが身を翻したときには、ファルケンは切っ先を思いっきり払って、ひっかかった分の布をふりはらった。
「お、おのれ……貴様……!」
思わず肉声になったアヴィトは、顔をかばうようにしながらファルケンを睨み付ける。狼人らしく、年齢と顔つきが比例されない若者の顔の奥で、憎悪に近い色をした瞳が揺れていた。
ファルケンは、そのまま構えもせずに静かに立っている。背後では、先程は徐々に勢いを増しだした炎がちらちらと赤い色を覗かせていた。それを逆光に静かに立っているファルケンは、異様でもあるし、彼の名と、そして、腰に下げたシェンタールにふさわしいものだった。
だが、その目は静かで澄んでいた。破壊を好むわけでもなく、さっきを滲ませているわけでもない。静かすぎる瞳に、アヴィトは萎縮した。その彼の影がわずかに震えていることを、彼自身は知らない。ただ、目を向けなくても、ファルケンはその気配を感じ取っていた。
「何度も言うけど、オレはあんたを殺す気も傷つける気ももうない! ……昔なら少しはあったかもしれないけど、もう、オレはそういうのはやめたんだ!」
嘲られたと思ったのか、アヴィトの顔に苦渋が走る。が、ファルケンの表情に嘲笑めいたものは見受けられなかった。