辺境遊戯 第三部
第一章:闇夜の竜王-13
「な、なんだ、これは!」
ヒュルカの街についた途端に、始まった日蝕と、そして、巨大な竜の飛び交う様に、ダルシュは呆然と呟く。妖魔の姿が見える彼は、この前それを目撃したことがあるので、別にこんな異様な光景が初めてというわけではない。
だが、人々がはっきり逃げまどう姿を見ながら、「あれ」が妖魔とは違い、誰の目にも見えるものだと知った。それに、彼が知る限り、妖魔は、もう少し不定形である。こんなにはっきりと蛇の形をしているものではない。
「一体何なんだ!」
馬から下り、ダルシュは上空を見ながらもう一度呟く。側のシェイザスが、胸の辺りを掴みながら、やはり同じように顔を空に向けていた。
「あれは――おそらく、竜だわ」
「りゅう? りゅうってなんだよ?」
「昔、故郷できいたことがあるでしょう。大昔、人間には絶対に敵わない、大きなそして強力なものがいた。かつての地上の支配者、それが、竜」
「かつての……?」
ダルシュは、それでも、故郷での昔話が思い出せないらしく首を傾げている。シェイザスは首を振った。
「でも、おかしいわ……。竜は聡明な動物なのよ。まるで、あれじゃ理性がないみたい……」
「あんな化け物に理性なんか最初からあるのか?」
ダルシュはきょとんとしているが、シェイザスの方は、そんなダルシュにあまり気をとめていないようだった。上空をみながら、彼女は不安そうにしている。
「あの竜達、今からこの街を破壊するつもりよ……」
「な、何! それまじかよ!」
ダルシュは、後頭部をかきやる。竜は馬十頭分はあるかと思われるほど巨大なものだ。あれの半分の大きさでも太刀打ちできるかどうかわからないのに、この様子では彼が飛び掛かってもまるで歯が立たないだろう。
かといって、ダルシュの気性は、これをこのまま見過ごすことはできない。どうしたものかと考えていると、不意に声がふってきた。
「ダルシュみっけ!」
不意に何の悪気もなさそうな声が飛んできて、さすがにダルシュは驚いた。その直後、空からいきなり人が振ってきて、彼ににっこりと微笑んだとき、ダルシュは正直そのまま後ろにひっくり返りそうになったものである。だが、その男は、彼の驚きなど意に介さず、嬉しそうに笑いながら言った。
「よかったあ! 誰かいないかと思ってたところだったんだ!」
「うおおお! おま、お前えぇえ!」
空から降りてきた男が突然そんなことを言いだしたので、ダルシュはひっくり返りそうなほど驚いた。
シェイザスはともかくとして、ダルシュは、その男が息をしなくなった所を目の当たりにしただけに衝撃が大きい。だというのに、無神経に彼は笑いながらダルシュの肩をなれなれしく叩く。
「いや、ダルシュがいてくれてよかった! 知り合いどころか人影もないからどうしようかなって凄く困ってたんだ!」
無邪気にいう男は、常識的に考えてそこにいるはずのない男だった。それどころか、死んでいるはずなのだ。なのに、どうしてこんな風に脳天気に笑いながら話しているのか、ダルシュには全く理解できない。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! お前!! 死んでたんだろ!」
死人にこういう質問をするのもおかしいのだが、ダルシュはとりあえずそう訊いた。だが、ファルケンの方は、思い出したように片手で抱きかかえていた少女をそうっとダルシュの方に押しつける。いきなりぐったりした少女を押しつけられ、困惑するダルシュに構わずファルケンは相変わらずの様子で告げた。
「あ、この子お願いな! 気絶しちゃったから困ってたんだ」
「はぁ? 困ってたんだ、って……お、おい、待て、こら、ちょっと! お前!」
「それじゃ、オレはちょっとレックが心配だから見てくるよ! つもる話はまた後で!」
パーサをダルシュに預けて安心したのか、ファルケンは、だっと走り出す。
「こら待て! お前、色々突っ込みどころがありすぎるんだが、説明はなしなのか! こら!」
慌てて止めようとするダルシュに構わず、ファルケンはひたすら向こうに走っていく。たっと大きく飛んで屋根にのぼったファルケンは、やがて見えなくなってしまった。
ダルシュは、パーサを抱えながらきょとんとした。肩を叩かれたと言うことは、恐らく実体があるのだろうし、と考え込む。
「ど、どうなってるんだ…。幽霊にはみえねえしなあ」
「やっぱり、戻ってきていたのね……」
「はっ?」
シェイザスが呟いた言葉を聞きとがめて、ダルシュは美しい幼なじみを見上げた。
「なんだそりゃ……」
「つもる話は後でっていっていたでしょう。その内話してくれるわよ」
シェイザスは、そういって少しだけ安堵したようにため息をついた。何がなんだかさっぱり理解できていないダルシュは、状況をはかり損ねて考え込んでは唸るばかりである。
屋根づたいに走りながら、ファルケンは素早くレックハルドがいるだろう場所を予測する。竜が一匹、旧市街を壊しながら飛んでいるのを見ると、恐らくそこにいるのだろう。高い建物の屋根から屋根へと飛び移り、ファルケンはそのまま彼のいる場所へと急いだ。
新品のコートが翻り、首からさげた首飾りの金貨が揺れる。腰と背中にある剣のうち、ファルケンは、腰の剣の柄に手を掛けたまま走っていた。咄嗟の時は、腰に吊した剣の方が抜きやすいのだ。
だが、その剣を使う瞬間がそうはやく来ようとは、さすがの彼も思っていなかった。
目の前に何か黒い小さなものが見える。咄嗟にファルケンは、顔を大きくのけぞらす。わずかに髪の毛とま新しいコートの襟あたりを切り裂いて、なにか鋭いものが向こう側に突き抜けていく。
金属の音を立て、ファルケンは素早く腰の剣に手をかけた。誰だと問いただすまでもない。呪いの欠片も、今は体に残ってはいないが、かつて「操られた」事があるせいで、ファルケンは相手の魔力の感覚を掴んでいた。
「十一番目の司祭だな!」
ぶわりと空間が揺れ、わずかな光と共に、人の形が姿を現す。ローブを被ったような男の姿は、彼がよく覚えている、いや、かつて忘れられなかった姿だ。それに復讐心に火をつけられ、自分から地獄の業火に飛び込むような真似をしたファルケンにとっては、それは苦い思い出を瞬時に思い起こさせるものでもある。
『魔幻灯……、この場から逃れられると思うな…』
十一番目の司祭であるアヴィトは、あえて空気をふるわせて話しながら、嘲笑するように笑った。
『貴様の呪いが解けようとも、貴様の罪は許されてはいない。』
ファルケンは、腰の剣から手を離し、肩の剣を掴んだ。鞘ごと左手にとると、それの柄を右手で掴む。宝石などの装飾の多いそれは、知る人知る魔剣の一種で、鞘にも少しだけ引き抜いた刀身からも飾りが見えていた。
「心配なんかしなくても、オレはここから逃げ出したりしないぜ」
ファルケンはそういって、鞘を払った。暗い空に白銀の刃がぎらりと鈍く光る。コートの裾を翻し、彼は目の前の男を見据えた。
ひどく落ち着いた気分だ。戦いの前にこんな静かな気分になったのは初めてである。抜いた剣を右手に持ったままわずかに背を伸ばす。
「正直言うと、あんたには晴らしても晴らしきれない恨みも辛みもあったよ。でも、今、オレはあんたと遊んでいる場合じゃないんだ。そんなことは今はどうでもいいんだよ」
「何だと……」
ファルケンの落ち着いた様子に、アヴィトは少し動揺する。挑発に乗ってくるどころか、静かな目で見返してくるなど、以前のファルケンにも、そしてイェームにもなかったことだ。
気圧され気味のアヴィトを威圧するように、ファルケンは鞘を戻しながら、右手をゆっくりと前に出した。その瞳は曇りがない。
「オレは急いでるんだ。……今はあんたを傷つけるつもりはない!」
ファルケンはそうして、その瞳で静かにアヴィトを睨み付けていった。
「だから、……退けよ!」
低く沈んだ声で言い、ファルケンは切っ先を鋭く司祭に向けた。鈍い太陽の光に照らされて、不穏な光を湛える刃物の光は、この場にふさわしい狂気を映しているようだった。