辺境遊戯 第二部
グレートマザー−25
ファルケンは、ごまかすように笑ってまたため息をついた。
「馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、……オレにとってはそれが全てだったんだ。オレが、どうしてオレが死ぬ前にいたのか、ずっと不思議だったんじゃないか? だから、グレートマザーにオレが妖魔だって言われたとき、疑ったんだろ」
「ああ、……妖魔は、時間の歪みから別の時間にうつるとか何とか。つまり、あいつらは、時間の流れなんか無視して、好きなとき好きな場所に出られるってことだろ」
「まあ、そんな感じかな。……だから、シールコルスチェーンは、そういった力の強い妖魔を監視する特別な力も備えていなければならない。つまり、時間を飛び越えたり、戻ったりする力だ。…だから、オレは過去に戻ることができたんだ。つまり、オレが死ぬ前に」
ファルケンは笑って付け足した。
「何しろ、司祭はそんなことはできないしな。それにマザーっていうのは、そもそも、宇宙と関係があるんだとか。…幹の中に時間が流れているっていう話があるぐらいだし。でも、そういう特別な力、まあ魔力なんだけど、そういう力を得ようと思ったら、特別な修行をしないとダメだ。……だから、シールコルスチェーンに連れられて、オレは彼らだけが行く場所に行ってたんだよ」
「彼らだけが行く場所?」
レックハルドは首を傾げた。
「ああ、実は聖域とは違うんだが、この世界には、ちょっと時空のねじれた場所があるんだ。妖魔はその歪みに入るって言ったよな? それと同じようなもんで、時間の流れとか空間の組成が狂ってるところがある。そこの歪んだ場所に、シールコルスチェーンだけが入れるという話の広い場所がある。そこは時間の流れが他の場所とは違ってて、百年暮らした気になっても、実際、そこから外に出れば一時間も立ってない。正確には時間の流れの中にある、時間のほとんど流れない場所らしいんだな。……オレ達は離れ島ってよんでるけど」
ファルケンは片膝を立ててそれに寄りかかっていた。
「随分長いあいだ、あそこにいたような気がしたよ。……そこでシールコルスチェーンに必要な技術や知識を蓄えた。…でも、あそこにいると時間の感覚は狂うし、それにオレは元の世界がどうなってるかしらない。…お師匠様はオレにあれが夢だと教えてくれなかったから、オレはあんた達が本当に死んでいるんだと思っていたよ。……あの時まで」
レックハルドはハッとファルケンの方を見た。
「あの時、オレは妖魔を追ってオレが生きてる時間にたまたま出られたんだ。…その時、オレは未来を変えようと思った。だって、このまま進むとオレが死ぬことは分かってたんだから」
「…それで、オレを止めようとしたのか? あの時」
レックハルドは、あの時のイェームの叫びを思い出して少し苦い気持ちになった。それに気づいたのか、ファルケンは慌ててフォローするように言った。
「あ、ああ。…でも、あれでよかったんだ。世の中はオレの考えだけで回ってる訳じゃない。レックが必死なのをみて、オレはどうしても無理を押し通すことができなかった。でも、結果的にそれでよかったんだよな。…もし、あのままオレが司祭と戦っていても、多分、オレは死んでたんだろうし、無駄なあがきに終わってたんだ。…だったら、砂漠に行ったあんたを誰も助けられなかったんだ。それに、お師匠様に止められたし」
ファルケンは目を閉じた。
「その時、止められて、無理矢理連れ戻された。……そして、オレはようやく真実を告げられたんだよ。あれは全部夢で、本当は――、つまり、オレが生きている時間では、みんなまだ生きてるんだって……。だから、すぐに自分の時間に戻った。……オレが百年ぐらい経ったと思った時間は、本当に一時間もなかった。あんたが砂漠にいった次の日だよ、オレがここに戻ってきたのは」
ファルケンは寂しそうに言った。
「色あせてたから気づかなかったが……」
レックハルドは不意に言った。
「お前が今着ているその色あせたコートは、……オレがお前にかぶせた奴だな?」
「あ、ああ……。ごめんよ、色々破いてるんだ。でも、金貨もなくしたし、魔幻灯はレックにあげたから、オレと過去をつなぐのは、本当にこれぐらいしかなくて……」
レックハルドは返事をしなかったが、ファルケンは続けた。
「過去をいじるのが無理で、オレはどうしていいかわからず、とにかくまずはあんたを助けようと思った。……でも聖域にあんたが向かったって訊いて、オレは良くないことを考えてしまったんだ」
ファルケンは少し真剣な顔つきになる。
「マザーの幹には時間が流れているとかいっただろ。マザーの「扉」って言うのは、その時間の流れを制御しているんだとか。それを開けてしまうと、時間がこの世界に流れ込んで暴走して、溶けてしまうっていう話をきいた。…シャザーンが望んだように空間がねじ曲がる可能性があるから、辺境は消えるかも知れない。でも、それはこの世界ごと消えるって事だ。…オレは空間じゃなくて時間がねじ曲がる方に期待しようかと考えていた。そうすれば、こんな風になったオレはなかったことにできるんじゃないかって、…元の時間に戻れるんじゃないかって……。でもな――」
ファルケンは長いため息をついた。
「やっぱり、オレには無理だった。―…オレも消えるけど、だけど、そんなことしたらあんただって消えてしまうし、マリスさんも――。元の時間のオレ達が無事でも、今ここにいるオレ達は消えてしまうんだ。…それで、砂漠を歩いて聖域に向かいながら迷った。…でも、オレ、あんな辛い旅でも楽しんでたのかな――だんだん自分がどうして聖域に向かっているか忘れてたよ。何を迷っていたのかも」
わずかに嘲笑を浮かべて、ファルケンは星を見ていた。
「ああ。…思えばあれからずっとあんたには、本当のことを言っていなかったんだな。ごめんよ、レック。…オレは……」
ファルケンは、そこで一旦言葉を詰まらせ、指を軽く組んだ。レックハルドは横目でちらりとファルケンの様子を見る。
「恐くて、言い出せなかったんだ」
ファルケンは、ため息混じりに言った。
「……あんた、最初、オレにあったとき、わからなかったよな? そのぐらい、オレは前と変わってたからさ…、言い出せなかった」
「本人目の前にいるのに、もう一人同じような奴が出てきても気づくわけねえだろが」
「それはそうだけどさ」
ファルケンは、苦笑いのような表情を浮かべた。
「オレ、あの時、一番やさぐれてたからさ、…あんまりあんた達に会いたくなかったんだ。本当は――。軽蔑されるんじゃないかと思った。…だって、そうだろ。あの頃、今だってそうかもしれないけど、オレは自分の恨み辛みをその辺の妖魔を倒すことで解消してるだけの屑だったんだ。心が晴れるのは、あいつらを狩るときだけだった。オレをこんな風にした元凶を全滅させてやろうって思っていたんだよ」
レックハルドは、横目で黙ってファルケンを見ている。
「だけど、あの時、前の自分を見ていてはっきりとわかった。あの時のオレは弱かったけど、力に酔ったりはしてなかったよ。それに気づいたとき、オレは自分がどれだけ惨めだったかはっきりと分かった」
ファルケンは自嘲的に笑った。そして、少しあきらめたようにはっきりといった。
「長かった。オレには永遠のように長かったよ。…でも、もう、これで多分終わりだ」
彼は少し神妙な顔で言って、片膝を立てた。
「さっき、あんたが言ったとおり、オレはあんたが苦しんでるのを知っていながら、本当のことを言わなかった…。おまけに、もしかしたら死なせるつもりで、聖域まで案内しようとしていたのかも…。自分の気持ちなんてよくわからねえけど…、ただ、オレがあんたを騙していたことは間違いないんだ。――あれから何度目の裏切りかな……、あの置き手紙をした時からずっとオレはあんたを騙してばかりなんだな――」
ファルケンは寂しそうに自嘲の笑みを浮かべた。
「司祭の仕打ちをうけて、オレはようやくあんたの気持ちが分かったよ。…そうだよな、こんな風に裏切られ続けたら、いつか他人なんて信じたくなくなるよな――。ましてや、オレはあんたに迷惑しかかけてないんだから」
レックハルドは応えない。ファルケンは、ため息をついていった。強いて平気そうな声で話していると言った感じだった。
「色々悪かった。でも、もう迷惑はかけないよ。明日の朝までにオレは消えるからさ。…もう、あんたの旅の邪魔は二度としない。さっき、消えろって言っただろ。その言葉通り、オレはもうあんたの前には姿を現さない。マリスさんにはその辺をうまくいって……」
「…お前は変わってねえよ」
ファルケンの声を遮って、レックハルドは頭上の枝を見ながらぽつりといった。ファルケンは、はっとしたようにレックハルドの方を見た。
「オレの言葉を額面通り受け取りやがって。本当に嫌になるぐらい変わってねえよ。ったく、あーいかわらず、むかつく奴だな」
軽く笑いながら、レックハルドは続けた。
「心配すんなよ。…別人みたいに自信過剰になってても、多分お前はお前だよ。オレはお前を軽蔑したりなんかしねえよ。むしろ、オレの方がお前に軽蔑されそうだもんな。安心しろ。…お前がオレより悪役になることなんざ、未来永劫ねえからさ」
驚いている顔のファルケンに、レックハルドはため息をつくと、ふっと笑った。
「そうだ、酒でも飲みにいくか?」
レックハルドは振り返って言った。
「とはいえ、オレは金持ってないんだ。明日、お前がおごれよな」
ファルケンは思わず立ち上がった。
「なんだ? 嫌なのか?」
レックハルドはにやりと笑いながら言った。
「だったらいいんだぜ。オレはマリスさんと二人きりで飯が食えるんだし。でも、そうするとお前を無視してるみたいで可哀想だから誘ってやってるんだぜ。……オレの温情に深く感謝して……」
そう言いかけたレックハルドは不意に口をつぐんだ。ファルケンがその場に倒れ込むように膝をついたのがわかったからだ。そのまま地面に顔を伏せているファルケンをみて、レックハルドは少し慌てて立ち上がった。
「おい、どうした? 何か気分でも悪いのか?」
「ち、違うんだよ……。オレは……」
ファルケンの声は少し震えていた。
「……やっぱり、グレートマザーの言うとおりだ。…オレはまるであんたのことを信じてなかった」
「何だ?」
レックハルドは、意味が分からないといいたげに彼の方をのぞき込む。
「最初から本当のことを言えば良かった。…でも、オレは恐かったんだ。昔と違う自分が、あんた達にファルケンとして受け入れてもらえるかどうか…。それで嘘をついたんだ。でも、一度ついた嘘はもう取り返しがつかなかった。ばれてしまえば、ただでさえオレはこんな風なのに、今度こそもうダメだと思ったんだ。……だから、オレは嘘の上塗りをするしかなかったんだ――! 言い出せなかったんだよ!」
ファルケンが、一体どんな表情をしているかはよくわからなかった。ただ、その声は涙声になっていた。
「ごめんよ……、オレ、あんたのこと疑ったりなんかして…! ごめんよ…! 最初からオレが本当のことを言えば良かったんだ…! 本当のことを言えば、もう、二度と口すら聞いてもらえないんだと思った! もう許してもらえないと思ってたんだ――! あんたのことを信用してなかったのはオレなんだよ! ごめんよ、レック!」
叫ぶような声は震えていた。微かに嗚咽が混じっているその声には、後悔の念がまざっていた。
「オレが全部悪かったんだ! くだらない体裁ばかり執着してて、オレはあんたやマリスさんまで殺すところだった! あんたもマリスさんも、オレは元のままだっていってくれたのに、オレはそれが信じられなかった! 最初に言えば、あんな辛い思いして砂漠を渡ることも、二人が妖魔に殺されそうになることもなかったんだ…。……オレが全部悪いんだよ!」
「馬鹿いってんじゃねえよ。まったく、自分の都合で話進めるなよな」
レックハルドは軽く鼻で笑いながら、しゃがみこんだ。
「オレだってあの時真剣だったんだ。砂漠を渡れないでそのまま帰ったら、オレは一生後悔してたぜ。オレにだって、意地の一つや二つあるんだ。思い出せよ、お前をそもそも死地においやったのは誰だったんだ? お前はお前がオレを騙したって言うけど、…オレは余計なことをして、お前の足を引っ張った。おまけに、オレは苦しんでいるお前を見て、逃げようだなんて考えそうになったんだぜ? お前があんな最悪の死に方したのは、元はといえばオレのせいなのを忘れたのか?」
レックハルドは軽くため息をついた。
「本当は、相当色々我慢してたんだろ。…いいんだぜ、辛いときは恨み言言ってもさ。それに、疑ったのはオレも同じだ。オレはお前に会うのが、本当は恐かったんだよ。泉の向こうでお前に諭されるまでは、お前はオレのことを恨んでいると思っていたぐらいだからさ」
そういって、レックハルドは、穏やかに笑った。
「オレはお前を疑ったし、お前もオレを疑った。ちょうどいいじゃねえか。これで貸し借りなしだぜ」
レックハルドは軽くファルケンの肩をたたいた。ファルケンは顔をあげた。涙でにじんだ目は昔のままのファルケンで、おそらくそれはイェームのものとも違った。イェームにあった倹のようなものが消えて、相変わらず、昔と同じ目だった。
「レック!」
ファルケンは突然レックハルドに抱きついた。後ろに二三歩よろけながら、レックハルドは一瞬驚いたが、彼が泣いているのを見てため息をついた。
「おいおい、みっともねえな。…ミメルに笑われるぜ?」
レックハルドはからかうようにいって、その肩を軽く抱いた。
「ごめんよ……! ……レック! …ありがとう! ありがとう……!」
声を押し殺しながら泣いているファルケンはそれだけいうばかりだ。
「…やめろよ、オレは謝られるのと礼を言われるのは嫌いだっていってるだろう」
レックハルドは涙声になるのを必死でおさえながらいった。
「よく戻ってきてくれたな、ファルケン」
あの時濃紺に染まっていたコートの、あせた紫色を見ながら、レックハルドは彼がどれだけの時間彷徨っていたのかを理解した。だから、慰めるようにレックハルドはいった。
「…また一緒に旅をしようぜ」
「あ、ああ……。そうだな…」
ファルケンは、涙をぬぐいながら何度もうなずいて応えた。
「わかったよ……。わかった……そうだよな。……オレはちゃんと義務を果たさなきゃ…」
「わかればそれでいいんだ。…もう、昔のことはいいっこなしだぜ」
「ああ……」
ファルケンは顔をあげて笑った。レックハルドはようやく前のように笑ったファルケンを見たような気がした。
そして、同時に悟ったのだ。
自分もファルケンも、もう二度とあの悪夢に苛まれることはないだろうと。お互い地獄のような辛い時間はきっともう終わりを告げたのだ。
ふと枝の上に気配を感じた気がした。見覚えのある眼差しが一瞬注がれたような気がしたのだ。だが、レックハルドが暗い空を見たとき、そこに動物の気配はもうなかった。ただ、何かが飛び去った後のように、上から木の葉がはらはらと落ちてきた。