辺境遊戯 第二部
グレートマザー−21
「ああ、そうだ」
森の中を歩きながら、レックハルドは振り返った。無表情のファルケンは、ずっとついてきてはいる。その姿を確認して、少し安堵したレックハルドは少し笑いながら言った。
「とりあえず、マリスさんに会いに行くか? 会えば何か思い出すかも知れないし。ああ、そうか…お前はでもミメルとの方が会いたいか? そうかもしれねえよなあ」
言っても相手の表情は変わるはずもないのに、レックハルドはただ一人楽しげに言った。
「でも、ミメルの居場所はオレにはわからねえんだ。もう少し待ってくれよ」
彼がそう呼びかけても、やはり同じだ。聞いていないような冷たい顔をしたまま、相手は何も喋らない。レックハルドは、少しだけため息をつく。
「……返事ぐらいしてくれよ…」
そういいながらも、別に相手の反応を期待したわけではない。相手が返事を返さないのは仕方のないことだ。
「そうだよな、無理か」
ため息をつき、レックハルドはそこで立ち止まった。後ろについてきていたファルケンもまた立ち止まる。レックハルドは魔幻灯を握っていたことを思い出した。今まで持っていたことすら忘れていたのに、そのまま提げてきていたのだ。
『それは特別なもんだ。火に透かせば、あんたみたいな普通の人間でも妖魔の姿がぼんやり見えるようになる。覚えときな、必ずこれからの旅で役に立つぜ。』
ふいにある声を思い出した。それは、ファルケンの声ではあったが、いつもと違う感じの声色でもあった。
『……妖魔は人の心につけ込むが、あんたなら多分大丈夫だよ。でも、油断は禁物だ。』
ああそうだ、とレックハルドは思い出す。この声は、泉の向こうで出会ったファルケンが言った言葉だ。確か、彼はこの魔幻灯がこの先役に立つと言った。だが、実際には、あの時ガラス越しにイェームの姿を確認しただけで、あの時は役に立つどころか、レックハルドにさらなるとまどいを与えただけだった。
しかし、あの自信過剰気味のファルケンは、そんなとまどいを与えるためだけに『役に立つ』といったのだろうか。全てを見通すような碧の瞳は、もっと違うものを見ていたのではないだろうか。
『――サライには気をつけろ。』
もう一度、声が蘇る。思わず魔幻灯を握る手に力がこもる。後ろを向くと、虚ろな瞳のファルケンが立っている。
全てを失ったファルケンと、あの自信にあふれた目をした夢を見ているようなファルケンは、どちらがより彼の知るファルケンに近かっただろうか。
――オレはどっちのファルケンを信用するつもりなんだ?
そうっと魔幻灯をもたげる。その視線の先には、何も言わないファルケンがいる。
(疑わないんじゃなかったのか!)
レックハルドは考えながら、のぞき込むのを逡巡した。
(でも、もし、「本物」なら、…妖魔であるはずがない)
だとしたら問題は無いはずだ。どうして見るのを恐がっているのか、と彼は自分に問いかける。
(……怪しんでいるんだろう。…こいつが本物かどうかわからねえから)
妙に胸騒ぎがした。レックハルドの頭の中で彼の勘というべきものが、警鐘を鳴らしながら騒いでいる。しかし、それに従うことは、目の前にいる者を敵に回すことになる。
あの時、グレートマザーの言うことに逆らった。あの時はあれでいいと信じたが、心のどこかでもう無理だとあきらめていたのも事実だ。それなのに、目の前には蘇らせたかった人物が立っている。記憶も感情もないかも知れないが、それでも、生きているには違いない。
今まで彼が抱いてきた罪悪感のひとかけらが、ファルケンが生きていることを知ることではがれ落ちて消えていくのだ。いつもならまだしも、夢うつつのレックハルドには、その魅力に抵抗する力がない。
(夢から覚めるのは嫌だろう? レックハルド)
どこからかそうささやかれたような気がした。
「ああ……そうかも、しれないな」
レックハルドは思わず魔幻灯を地面に置いた。からん、と音が鳴ったが、それはレックハルドの耳には届かなかった。
そして、その立ち止まった場所がどこであるか、レックハルドは知っていたのかもしれない。
草木の生い茂る森の中の一角、近くに湖がある。そこは血塗られた忌々しい大地だった。
マリスを抱えながら森の中を疾走していたファルケンは、ふいに頭上を影がよぎったのに気づいた。黒い人影は、人ならざる速さでそのまま森を駆け抜けていく。一瞬妖魔かと思ったが、一瞬見えた影の正体にファルケンは思わずあっと声を上げた。
「あっ! あいつ!」
ファルケンは走り去っていく何者かの影を目で追った。短髪の銀色だけが目に入った。
「ツァイザー? あいつ、こんなところで何やってるんだ?」
ぽつりと呟く。おそらくそうだ。狼人の短髪も銀髪も珍しい。それに、彼の持っている剣がそれを示していた。普通の狼人は金属の武器を持ち歩かないものである。
「どうしたんですか?」
それを怪訝に思ったのか、マリスが尋ねてきて、ようやくファルケンははっと我に返った。
「あ、ああ、何でもないんだ」
(なんでツァイザーがここにいるんだ?)
疑問は消えないが、それを追求する暇はない。ツァイザーがいるということは、もしかしたら後で招集があるかもしれない。最低でもその時に事情が分かることだろう。
「もうすぐだ」
走りながら、ファルケンは精一杯あの時の記憶を辿る。あの時は這いずり回るだけで精一杯だった。だから、正確な記憶など呼び起こせそうもない。おまけにあの時のショックからか、ファルケンはあの時のことを半分以上覚えていなかった。だから、後は、彼の勘とはっきり覚えているあの封印のグランカランの位置から導き出した計算だけが頼りだ。
(早く、早く行かないと!)
すでにかなり息は上がっている。足も限界を叫びだしているが、ここでとまれば全て終わりだった。
行くのは「あの場所」だ。――彼自身が命を落としたあの忌々しい場所。
枝を蹴り、土を蹴り、蔓草をさけながら走る。高速で迫ってくる目の前の深緑の世界が、幻のように揺れて見える。辺境の森はそもそもが惑いと迷いの為の森である。幻惑されそうになりながら、使命感と抱えたマリスの存在で何とか自分を律していた。
「ファルケンさん!」
マリスが声を上げた。深緑だけの世界に、一人の青年が立っているのがわかる。そして、マリスには見えていないだろう男が側にいるのが見える。ファルケンは枝に手をかけ、それを伝ってスピードを殺しながら、地面に着地した。少し離れたそこにマリスをおろす。ファルケンは息を整えながら、肩の刀に手をかけた。
「マリスさん、危ないからまずオレだけ見てくるよ。オレがさっさと正気に返らせられればいいんだが、…でも、どうしようもなかったら、その時はレックを止めてくれ」
「え? ええ」
真剣なファルケンの顔に、マリスは戸惑ったように返事をする。
「…多分、今のあいつにはマリスさんの言葉しか通じないよ」
じゃあ、と一息ついて言うと、ファルケンはたっと地面を蹴った。
「あ、ファルケンさん!」
マリスは声をかけようとしたが、既にその時、ファルケンは茂みに姿を消していた。
(遅かった!)
先ほど垣間見ただけだが、ファルケンには見えていたのだ。レックハルドの背後に黒いものが立ち上っているのを。
(もう少し早ければどうにか…! もし、オレの言葉が通じないようなら、直接妖魔を斬るしか方法がない…)
元々レックハルドには、妖魔に好かれやすい「素養」がある。レックハルドのように、憎悪だけを糧に生きてきたような人間は、妖魔に取り憑かれやすい体質をしている。それだけでなく、レックハルドはおそらくグレートマザーの試練において相当神経をすり減らしているはずだった。その状態で、妖魔に抗することはできない。
しばらくぶりに見る忌々しい森は、まるで変わっていないのに、ファルケンの記憶の中のものとはかなり違うように見えた。だが、レックハルドにとっては同じ森に見えているのかもしれない。
茂みから彼が飛び出したとき、レックハルドは、ただその森の開けた中央で中空を見つめていた。目の前には、ファルケンの姿をした者が立っている。が、ただ立っているだけではない。いつの間にか、彼の手には背にあった剣がしっかりと握られていた。
殺されるかもしれないのにレックハルドはそれに気づいてもいない。
「レックハルド! いますぐそいつから離れろ!」
慌ててファルケンは声をかけた。
「そいつはファルケンじゃない!」
声をかけられて、たたずんでいたレックハルドは無気力に彼の方を向いた。そして、彼の姿を認めるとふっと笑った。
「何言ってるんだ?」
レックハルドは彼の方を見ながら陰気な笑みを浮かべる。
「…ファルケンはここにいるんだぜ。…誰だお前は…。オレに指図するんじゃねえ…」
レックハルドは、肩をすくめた。まるで彼自身が霧の中にいるような、そんな印象がした。彼の顔もちゃんと判別できていないのか、レックハルドはそんな事をいいながら暗い笑みを浮かべた。
「…そうか、お前はオレを殺しに来た妖魔なのか?」
「レック! しっかりしてくれよ! ファルケンは…―」
いいかけて、ファルケンは不意に口をつぐんだ。自分がファルケンだと言おうとして一瞬ためらいが出た。その間にレックハルドは、乾いた笑い声を立てた。すでに肩のあたりに黒い影がちらちらしている。あれが全身を覆うようになれば、もう手の施しようがない。さすがのファルケンでも、彼ごと妖魔を切り捨てる他は方法がなくなる。
だが、こんな不安定な状況のレックハルドから、妖魔だけを分離して叩き斬る自信はファルケンにはない。もし失敗すれば、彼も一緒に殺してしまう。
「…レック、あんたはこんな風に弱い男じゃなかったじゃないか!」
ファルケンはそう言った。
「……正気に戻ってくれよ! そいつはファルケンじゃないんだ!」
「はっ。なんだよ、それは!」
レックハルドはクスリと笑った。
「なんで、てめえの言うことなんざ信用しなきゃならねえ…!」
「言うこと聞いてくれよ! このままだと、あんたは――」
「オレはいいんだ! もういいんだよ!」
さとそうとしたファルケンに、投げやりにレックハルドは言って笑った。それはなんだか泣き笑いのようで、思わずファルケンはびくりとする。
「オレは、もう疲れたんだ…! あいつがオレを殺さなければ気が済まないというなら、そうしてくれればいいんだよ! もう、オレはこれ以上何も背負いたくねえんだよ! 何もかもから解放されたいんだよ!」
そう言いきっているレックハルドの背後では黒い影がちらちらと炎のように揺らいでいるのがわかる。やはりそうだ。ほとんど精神を支配されている。
「レック……」
「大体、お前は誰だ? 人の名前をなれなれしく呼びやがって!」
「ダメだ! 正気に戻ってくれよ、レック! …そのままじゃ…!」
もう一度説得しようとしたファルケンは、はっと顔をあげた。別の妖魔が上の方から降ってきていたのだ。人の形を模した身体の手に当たる部分が鎌のようになっていた。反射的に身を反らしたファルケンの襟が掠って破れる。身を反らしたまま、そのまま反動で後ろに飛んで、相手の追撃をさける。
「くそっ!」
そのまま後退しながらファルケンは身を翻す。すぐに次の一撃がやってきて、どうしようもなく彼は後ずさる。これ以上下がれば、レックハルドを見失ってしまう。もしかしたら、妖魔の目的はそれにあるのかもしれない。
「レック! 頼む! 正気に戻ってくれよ!」
ファルケンは祈るようにそう呟いた。レックハルドは、もうこちらを見向きもしない。そのまま妖魔に押されて、ファルケンの姿は木々の葉の中に埋もれていった。