辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2005
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辺境遊戯 第二部 

グレートマザー−19


 この森を走るのも久しぶりだった。だが、彼には感傷に浸る暇など与えられていない。
「妖魔が連れて行くとしたらどこだ?」
息を切らしながら、緑の中をほとんど飛ぶように走り込む。いくら彼が狼人でも、いくら体力があっても、深い森の中、障害物を一目で分けながら全速力で走り去るのは、なかなか辛いことである。
 日蝕は終わりかけているとはいえ、世の中はまだ暗い中である。と、彼は一瞬スピードを緩めた。目の前の大地から黒い影が盛り上がっていくのがみえたからだ。そのまま、それは彼を取り込もうとするかのように、流動体になって飛びかかってくる。
「チィッ!」
 舌打ちをして、枝を蹴り、身を反転させ、肩に背負っていた剣を抜いた。
「くそっ! 急いでるのに!」
 よく見ると相手は一体だけではない。下にも上の方にも、相当数いるのである。
「今日はお前らの相手してる暇はないんだよっ!」
 彼はそう言い捨てると、そのまま枝を蹴って、目の前の一体をすれ違いざま叩ききる。二つに切れた黒い切れ端は、そのまま下に落ちていってどろりと地面の上でうごめいている。一撃でとどめが刺せていないが、今回はそれでもいい。とにかく、今は走らなければならないのだから。
 彼は、そのまま襲ってくる彼らを払いのけながら、走る。
(妖魔が連れて行くとしたら――自分の力の範囲内だ…。一体どこだ?)
 そして、レックハルドに関わる場所の筈だ。彼がその場所を見るだけでも、心を痛めるようなそんな場所である。
「…もしかして……」
 ふと思い立ち、彼は、はっと目を開く。
「…あの時……の…か?」
 果たして、あの場所自体がレックハルドをそこまで苦しめるかどうか、彼には判断し難い。あの時は、それほどレックハルドが、気に病むとは思っていなかった。それは、レックハルドが、彼があの時、レックハルドを助けるために火を放ったことを知らないと思いこんでいたからもあるかもしれない。
 ただ、砂漠をわたりながら横で見ていて、あの時のことをレックハルドが、ひどく後悔しているのはよくわかった。妖魔がそれにつけ込むのはたやすいのかもしれない。
 賭けるほかはなかった。彼は、そちらの方向に進行方向を変える。あれは、辺境の入り口の方にあるはずだった。妖魔の魔の手をかいくぐり、彼はとにかく走る。足下に茨がからんでも、止まることは許されない。
 顔向けなどどうせできないが、せめて謝るぐらいはしたかった。これがきっと最後のチャンスに違いない。


 そうだ。一体何を忘れていたのだろう。ここは、あいつの墓所じゃないか。
 レックハルドは、目の前を見ながらそうおもった。大きな洞のある木、まわりに柔らかいこけが生えている。
 ああ、そうか。サライか何かが、きっと何とかしてくれたのだろう。それとも、司祭が彼を許したのか。誰かが涙の器という花を取ってきてくれたのかもしれない。
「ファルケン! よかった!」
 レックハルドは彼の方に駆け寄って、その肩に手を置いた。前と同じ服を着ているファルケンを見ながら、レックハルドはただ懐かしさを覚えていた。彼がそこにいる事に対しての疑念は、何故か頭の片隅に追いやられた。そんなことはどうでもいいほど、レックハルドはうれしかったし、安堵していた。
 二度と会えない筈の友人が帰ってきただけで、彼にはよかった。笑い声をたてながら、レックハルドはファルケンに話しかける。
「もうダメかと思ってたぜ! 戻ってきてくれたんだな、ファルケン!」
 だが、ファルケンの方は何も反応を返さない。あまりに彼が静かなので、レックハルドはだんだん不安になってきた。
「どうした? 何で返事をしないんだ?」
 だが、彼の表情は変わらない。感情も見えなければ、知らない人間を見るかのような眼差しをしている。
「どうした? オレのことを覚えていないのか?」
 レックハルドは怪訝そうにファルケンの瞳をのぞき込むが、それはレックハルドの方すら見ていない。
「なんで返事をしないんだ? レックハルドだ、覚えているんだろ?」
「何をいっても無駄だ」
 冷たいサライの声が後ろの方から聞こえた。
「忘却の河を渡って帰ってきた者は、全てを忘れてしまう。時に、感情を失う者もいる。遅かったのだ。…お前のせいではない」
 サライがどんな表情をしているのかは見えなかった。もしかしたら笑っているのかも知れない。
「そんな…」
レックハルドは、少し青ざめた顔でファルケンのマントを掴んだ。
「お前は、全部忘れちまったのか? なあ?」
 訊いても、その虚ろは表情は変わりもしない。言葉を返すはずもなく、ただ黙ってまっすぐ向こうを向いている。レックハルドは、手を放した。
「でも、仕方がないよな。……そうだよな、戻ってきてくれただけでもありがたいんだからさ」
 レックハルドはため息混じりにいった。
「……いつか、元に戻るかも知れないんだよな?」
 サライの声と気配は消えていた。レックハルドは、目の前に立つ友人にそういって、彼の肩を叩いた。
「行こうぜ。みんなに会いに行こう。そうすれば、何か思い出すかも知れないしさ」
 ――だめだ…。そんなに簡単に信用していいわけがない。
 頭の片隅で、冷静な自分が疑ったが、レックハルドはそれを振り切った。
(前にいるのはファルケンだ。…なんで疑う必要があるんだ?)
 ――思い出せよ。…あの時……
(やめてくれ)
 レックハルドは、その声を無視した。
(もう、これ以上疑うのはイヤなんだよ! 何もかも!)
頭の片隅にいた疑い深くて冷酷ないつもの自分は、嘆きのため息をつきながらどこかに消えていく。完全に消える前に、一言だけぽつりといった。
 ――『あいつ』がいったじゃないか。確か……
(うるさい! さっさと消えてくれ!)
 レックハルドは、それを完全に消してしまってから満足した。後ろを向いて、友人についてくるようにいうと、彼はレックハルドの後ろに従って歩き始めた。レックハルドには見えない彼の影は、彼の影とは思えぬ形をしていた。

 レックハルドは覚えているはずだった。今は思い出すことを拒否しているだけである。そう、前にあの「ファルケン」がいった言葉を。
 ――『サライには気をつけろ』



 マリスは剣を抜いていた。
「そこに誰かいるの!」
 彼女は森の奥の闇にそう呼びかけていた。目にはただの闇しか映らないが、「何か」がいる気配がした。勘かもしれないし、ただの杞憂かも知れない。しかし、何か敵意を感じるのも確かだ。
 辺境には狼人や妖精がいる。しかし、「それ」とは違う感じだった。かといって、人がこんなところにいるはずもない。いや、人ではないのだろう。
 ふらりと闇が揺らいだ気がした。何かがさーっとマリスのそばを通り抜けていく。
「そこ!」
マリスは正確に空気の揺らぎを薙いだ。手応えはないが、何かを切った音がして、ひらりと黒い紙のようなものが飛んで消えていくのが見えたような気がした。
 が、ふと足下をしゅっと黒い闇が走っていくのが見えた。マリスは反射的に足を引く。ずざざ、と音がして、何かが藪に入っていった。
「今の…なに?」
 マリスは、見たこともない蛇のような動きをする闇に少しだけ怯える。
「……もしかして、前にファルケンさんやダルシュさんが言ってたもの?」
 何も能力のないマリスに「見えている」ということは、それだけ妖魔の力が強いからだ。だが、マリスはそんなこと知るよしもない。
 だが、マリスは何となく命の危険を感じていた。それもそうかもしれない。今のマリスには、精神的に妖魔が付け入る隙がほとんどないのである。取り憑くつもりがないのに襲ってくると言うことは、殺意があるということだ。
マリスは自然と剣を低く構えていた。静まりかえった森の中、木の葉が落ちる音すら妙な響きを立てる。ぱき、と近くで音がする。マリスは相手を探りながら、あちらこちらに目を向けるが姿は見えない。
 と、ふと大きな音がした。マリスはそちらを振り返ったが、逆の方から黒い影が迫ってきた。
「えっ!」
 今の音はフェイントだったらしい。黒い、よくわからない醜悪な形のものは、彼女に覆い被さるように飛びかかってくる。マリスが叫びかけたとき、突然、上の方から大きな影が飛びこんできた。
「危ない!」
 飛び込んできた男、慌ててマリスを左手でつかみあげて抱き上げると、彼は右手につかんでいた剣を一閃した。近寄ってきていた妖魔は、一瞬で黒い砂に変わって消える。彼は、着地すると、彼女をおろして訊いた。 
「大丈夫か!」
「あ、ありがとうございます」
 マリスはそういい、彼の方を見た。そして、驚いて目を丸くした。そこにいたのは、緑混じりの金髪に、碧の色の透明な瞳をした男だった。今日はメルヤーもしていないし、記憶の中の彼とは違い、例のあごひげも無かった。ただ、もともと大きい目をさらに大きく見開いていた。
「マ、マリスさん…!」
 思わず名前を呼んでしまい、彼は慌てた。
「やっぱり、ファルケンさんね!」
 マリスはその顔を見て、何のためらいもなくそう呼んだ。そして、安堵と懐かしさからほっとして、優しく微笑んだ。
「ファルケンさん、お久しぶりですね。助けてくださってありがとうございます!」 
「オ、オレはファルケンじゃ…」
 彼は慌てて否定しようとしたが、マリスは微笑んだまま続けた。マリスは何も知らないらしく、彼がかつて「死んだ」事も知らないようだった。無邪気に質問を連続でしてくる。
「しばらく見ませんでしたが、どこかにお出かけだったんですか? 心配してたんですよ。レックハルドさんは何となく様子がおかしかったし、もしかして喧嘩なさったんじゃないかって…」
「い、いや、その、オレは…」
 彼はしどろもどろになり、視線をあちらこちらに泳がせた。
「でも、よかったわ。近くにレックハルドさんもいらっしゃるんでしょう?」
「あ、レック? ああ、そうだ!」
 名前を言われて、ようやく思い出したように彼は言った。
「そ、そうだった! 今、大変なんだ。お願いだからマリスさん、オレと一緒に来てくれ!」
「え? ええ、いいですよ」
 焦った様子の彼を怪訝そうに見ながら、マリスは言った。彼は少し迷ってから、ごめんよ、と一言断ってマリスを左手で抱き上げた。
「ちょっと急ぐんだ!」
 そういって、彼はすでに走り出している。
「ええ、なんだか大変な事がおこっているみたいですね」
 マリスは、軽く首を傾げながら言った。そして、にこっと笑った。
「でも、…ファルケンさんがいらっしゃったら大丈夫ですよね」
「え? …何で?」
 そんなことをいわれ、彼は一瞬マリスの顔を見た。マリスは微笑んだまま、自信ありげにいった。
「だって、ファルケンさんは強いでしょう? あたしは信じてますもの。だから、大丈夫ですよ」
「……そう、かな……」
 彼は、戸惑ったように呟く。マリスは大きくうなずいた。
「そうですよ。レックハルドさんもファルケンさんも、一緒にいると危ない目にあっても大丈夫って、そう言う気がします」
 つまりは、信頼してくれていると言うことなのだろう。マリスの顔を見ながら、彼は自信なさげに言った。
「……オレ、でも、なんかおかしいんじゃないかな?」
「何がですか?」
「前と、ちょっと違わなくないかな」
 寂しげな様子に、マリスは少し怪訝そうな顔をした。
「違うって?」
 マリスは、きょとんとして彼の顔を確かめるようにまじまじと見つめた。そして、首を傾げるようにして微笑む。
「何が違うんですか? ファルケンさんはファルケンさんでしょう? どこが違うと思うんですか?」
「…言葉遣いとか、後、それから……」
 ――あの頃とは多分心が違う。
 だが、それは結局言い出せなかった。彼は目を伏せるが、マリスは微笑んでいった。
「そんな。仮にどんなになってても、ファルケンさんはファルケンさんに変わりないんでしょう? たとえば、あたしがロゥレンちゃんみたいなしゃべり方してたらマリスじゃないですか?」
「え。そ、そんなことは……マリスさんは、マリスさんだよ。誰の格好しても、どんな言葉遣いでも、たぶん、きっと」
「だったら、同じですよ」
 マリスがあまりにも普通に言うので、彼は困惑したように、続けた。
「でも、オレは、違うんだよ。色々、とんでもないことを考えてたし…、マリスさんにはとてもいえないような無茶をしようとしたんだ…。みんな、消えちまえなんて思って……だから、オレは前みたいな、いい奴のファルケンじゃないんだよ。だから、オレは……」
「考えただけなんですよね」
「えっ?」
不意にマリスに声をかけられ、驚いて彼は彼女を見た。マリスは少し微笑むようにして笑っていた。
「ねえ、ファルケンさん。まだ、なにもやっていないんでしょう? だったら大丈夫ですよ。取り返しがつかないっていうのは、本当にしてしまってからいうことなんだもの。今なら大丈夫ですよ」
 黙り込んだイェームに向けて、マリスは首を傾げるようにして笑った。
「普通、何もしていないのに、悪いことをしたなんてことにはなりませんよ」
「あ、ああ…」
 彼は思わず相づちのように呟いた。マリスは力強く励ますようにいった。
「ね。…だから大丈夫です。そんな心配なんていらないんですよ。ファルケンさん。あたしが見る限り、昔と同じいい人ですよ。変わってなんかいません」
 そういって笑っていたマリスに、彼は目を向けた。泣き笑いのような顔をしながら、彼は強いて笑ってうなずいた。その顔を見ていたマリスは突然あっと声を上げる。
「あれっ! もしかして……」
「え? 何?」
 彼はきょとんとして、慌てたようにマリスに訊いた。マリスは少し申し訳なさそうな顔をしながら、ばつの悪そうな顔をした。
「そういわれるとおひげがないですよね。ごめんなさい。見落としてました」
 純粋にそんなことをいうマリスを見ながら、彼はふっと笑いがこみ上げるのを覚えていた。こんな気分になったのは、あれから初めてだ。
「あはは、そっか。そうだよな。前と違うのは、ひげがないぐらいだよな」
 笑いながら、彼はつくづく思った。 
 マリスという女性は不思議な人だ。今なら、レックハルドの気持ちが分かる。レックハルドが、あれほどマリスに入れ込んでいる理由がはっきりとわかる。
 マリスといると、なんだか安心するのだ。何があっても、マリスだけは敵に回ることがない。そんな気がする。今まで悩んでいたことが、彼女の前では無意味に思える。
 だから、きっと、レックハルドもロゥレンも、マリスの前では変われるのだろう。そして、多分、知らず知らずのうちに自分も――
「ファルケンさん?」
 訊かれてようやく気づいたように、彼はふとマリスの方を見た。以前と同じように、穏やかな表情に戻っている彼は、初めて昔のように少し照れたような、あの控えめな笑みをうかべた。
「ありがとう、マリスさん。…オレはやっぱり……」
 彼は軽く微笑んだ。そして意を決したように口を開いた。
「オレ、どんなになってても、結局魔幻灯のファルケンだ。それだけは変えようがないよ」
 マリスは優しい笑みを浮かべる。ファルケンは軽くうなずくと、少しだけスピードをあげた。
「じゃあ急ごう」
「ええ!」
 目の前は緑の深い世界が広がっている。先ほどと同じ暗い森でも、今の彼には何となく明るく前が開けたような気がしたのだった。 





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©akihiko wataragi